永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✧*。 82─海翔─

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「ご、ごめん、立ち聞きするつもりは……」


 倒された椅子を元の位置へ戻し、月光が置き忘れていたタバコとライターを持って、焦る乃蒼の元へ向かう。


 ───乃蒼……。


「海翔、ごめん。 俺まだ呼ばれてないのに出て来ちゃったんだけど……」
「分かった。 受付にうまい事言って、すぐに診てくれるよう言ってあげる」
「ありがと、……助かる」


 視線が定まらない乃蒼は、月光ではなく海翔の事しか見なかった。
 あの別れの日以来、二人は連絡すらも一切交わしていないと知っている海翔は、乃蒼の狼狽が手に取るように伝わる。


 本当は会いたかったけれど、……会いたくなかった。
 目なんて合わせられない。
 どんな顔をして会えばいいんだ。


 海翔には、乃蒼の心の声が聞こえてくるようだった。
 そんな乃蒼の心中などお構いなしに、不意に現れた乃蒼に興奮し始めた月光は見境なく抱きつこうと近寄っていく。


「乃蒼! ……会いたかった、乃蒼……!」
「なっ……ちょっ! やめろ!」


 抱き締められそうになっていた乃蒼の腕を、海翔が思いっきり引いて自身の背中に隠した。


 ───乃蒼に触れるな。 心ごと壊したお前なんかに、乃蒼に触る資格はない。


 そう言ってやりたかった。
 だがしかし、乃蒼と付き合っているわけではない海翔には、言える台詞は限られていた。


「……月光さん、公衆の面前です。 奥様に見られでもしたら大変ですし、抑えてください」
「なんで! なぁ乃蒼、顔見せろよ、会いたかったんだってば! 俺話したいことたくさんある! ほんとはまだたくさんある!」
「月光さんっ」
「っるせぇな! 俺は乃蒼と話したいんだ!」


 海翔の背中にいる乃蒼を、好機は逃せないとばかりにしつこく左右から覗こうとしている月光は、鬱陶しい事この上ない。
 頑なに月光の顔を見ようとしない、この乃蒼の態度がすべてを物語っている。
 月光と会うのが気まずい、会いたくない、と心から拒絶しているのが分からないのだろうか。

 それでも尚うるさく距離を詰めてくる月光に、乃蒼が「いい加減にしろよ」と海翔にだけ聞こえるような小声で呟く。
 チラと海翔の背後から少しだけ顔を出した乃蒼から、ドクターコートの背の部分をギュッと握られた感触がした。
 背中に感じた掌の熱と、微かに感じた息づかい。
 海翔はその感触の真意を悟った。
 ついに乃蒼が、自らの口で月光と決別するための言葉を告げるのではと、乃蒼への積年の想いを宿した海翔の胸がザワつく。


「俺は話したくない。 ……じゃあな」
「おい乃蒼! こんな事になって悪かった! 俺お前にまだ謝り足りねぇん……」
「謝る必要なんかないだろ。 今の全部聞いちゃってたし……月光はいつかこうなるだろうなって分かってた。 覚悟はしてた。 俺、ずっと前から言ってたじゃん」
「……覚、悟って……」
「いい事じゃん。 絶対可愛いよ、月光と早紀ちゃんの子ども」
「…………乃蒼……」
「めでたい事なのに、なんで俺に謝るんだよ? 意味分かんない。 こないだ俺が「おめでとう」って言ったの聞いてなかった?」
「乃蒼……お前……っ」


 乃蒼はまくし立てるように早口だった。


 憔悴などしていない。
 怒っても、悲しんでもいない。
 好きだった事なんか一度もない。
 情けなく縋ったりするものか。


   強がりたい心の声が、そうさせているかのようだ。
 海翔の背中にしがみつく乃蒼の力が、さらに強まる。
 絶句する月光を黙って見ていた海翔は、背後で精一杯の虚勢を張る乃蒼へと視線を移した。


「俺も月光と遊べて楽しかったよ。 月光を独り占めしてみたいっていう夢が叶った。 ありがとう」
「…………ッッ!」


 それは、乃蒼の最後の、なけなしのプライドだった。
 絶対に月光の前でなど泣くもんかと、唇を震わせているその口角が上がる。
 真実を知って以来、プライベートでは一度も見せなかった痛々しいほどに切ない微笑みを浮かべた乃蒼が、ふと海翔を見上げてきた。


「海翔、ごめん。 俺先に中戻ってる」
「あ、あぁ、……うん。 俺もすぐに行く」
「……ゆっくりでいいよ」


 つい引き止めてしまいそうになった頼りない背中が、院内へと駆けて行った。


 ───終わった。


 月光と乃蒼は、これで本当に、……終わった。
 乃蒼は最後まで、月光を恨みきれなかった。

 好きになってしまった自分が悪いのだと、こうなる事ははじめから分かっていたのだと、それなのに夢を見させてくれて「ありがとう」、と──。


「月光さん、タバコ忘れてましたよ」


 足早に行ってしまった乃蒼の行き先の見当は付いている。
 海翔は手に握ったままだったタバコとライターを月光に手渡した。


「…………乃蒼のあんな顔初めて見た」
「……そうですか。 あなたがさせたんですよ、あの嘘の笑顔は」
「…………ッッ」


 海翔の余計な一言に、ようやく乃蒼の本気を感じ取ったらしい月光が怒りと失望の形相で病院の柱をダンッ───と殴った。

 今頃後悔しても、遅い。 遅過ぎる。
 乃蒼との何もかもは終わり、月光は新しい家族との生活をスタートさせなければならないのだ。
 強がりな乃蒼が最後に見せた、月光への優しさ。
 好きだった男へ、重たい感謝の言葉と、───はなむけの言葉。
 学生時代から続く月光の呪縛は、そう簡単には解かれないだろう。 けれど乃蒼は、自分でその呪縛から解放されるべく虚勢を張った。
 泣かずに、心底惚れていたであろう月光を見詰めて、「ありがとう」と言った。


「物にあたらないでください。 ……お話ありがとうございました。 月光さん、……お幸せに」


 今だけは、海翔も微笑む事が出来なかった。 ドクターコートを羽織っていても、無意味だった。

 これまでと同じく、きっと月光は乃蒼との繋がりは永遠だと信じていたに違いない。

 あの偽りの微笑を見るまでは───。




 院内に戻ろうとした海翔の瞳に飛び込んできたのは、いくつも並ぶプランターのうちの一つ。

 それは、どこか物悲しい紫色のクロッカスの花だった。




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