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しおりを挟む社会人たるもの、私生活で打ちのめされたとて仕事は疎かに出来ない。
毎日、乃蒼の施術を楽しみにしてくれている予約客が笑顔で来店し、悲しみを表に出さない乃蒼へ世間話を持ち掛けてくる。
小さな悩み相談を受けている間も、「大変ですね」と言いながら、自分が今一番大変だけどと笑顔の裏ではそんな事を思っていた。
あれから五日が経つ。
乃蒼は退職届を書いた。
この街に居ると、良い思い出を留めておくことさえ出来ない。
吹っ切れない。
五日が経ってもまだ、あの違和感しかなかった明るい月光の部屋での光景が鮮明だ。
目を閉じると月光の苦しげな表情が目に浮かんで、その後、「話、終わったの~?」という早紀の甲高い声が記憶に飛び込んでくる。
忘れたい。
早く。 一刻も早く。
しかしこの見慣れた部屋と知った町並みに住んでいる以上は、月光の面影をどうしても探してしまう。
それは本当に無意識で、月光手作りのサングリアを飲み、不覚にもこのベッドでセックスした事を未練がましく覚えていようと勝手に脳が判断し、記憶を呼び起こそうとする。
このままでは一生、月光の呪縛からは逃れられない。
就業規定にのっとり、二ヶ月後に現在勤めている美容室を退職する旨をたった今書き上げたばかりだ。
転居先はこれからだが、誰にも伝えずに出ていこうと思っている。
一人っ子の乃蒼が遠くに行くと両親が寂しがるので、隣町で妥協するしか無いものの、少し離れるだけで周りに知り合いの居ない環境にはなるだろう。
早々と自身の道筋を決めた乃蒼は、夜勤明けに必ず電話を掛けてくる海翔にも、何も話さないつもりだ。
告白の返事はしたはずなのだが、海翔はその返事を覆させようとしたり、乃蒼の弱みに付け込んだりといった気配がまるで無い。
乃蒼と海翔は失恋した者同士だと割り切って、お互い接している部分がある。
海翔は優しい。
乃蒼が振り向けば、きっと誰にも目もくれず一生乃蒼だけを愛し、幸せにしてくれる。
それが分かっていながら、月光に囚われていた乃蒼の心には海翔を受け入れる隙間は皆無だった。
友達、でいるには、海翔にとっては酷だろうと思う。
だから何も話さない。 ……話せないのだ。
「あ、……海翔だ」
書き上げたばかりの退職届を眺めていると、スマホがテーブルの上で震えた。
見なくても分かったが画面を確認すると、今日はここ三日より早めの海翔からの着信だった。
「……おはよ」
『おはよう、乃蒼。 もう出る?』
「うん、あと……十分後くらいには」
『外に居るから支度出来たら下りておいで。 コーヒー買ってあるよ』
「えっ? いま? もう居るの?」
『うん』
「わ、分かった。 すぐ下りる」
切る間際、「急がなくていいよー」と海翔ののんびりとした声が聞こえたが、慌ててコートを羽織って支度をした。
夜勤明けにしてはここへの到着が早いため、どうしたのだろうかと急いで家を飛び出す。
内装は綺麗だが、外観は若者が住むにはボロ過ぎるアパートの前に、真っ白でピカピカの海翔のワンボックスカーが本当に停まっていた。
「ビックリした。 今日早くない?」
「そうでしょ。 夜勤を定時で上がれたの久々なんだ」
「そっか……」
「はい、コーヒー。 まだ熱いから気を付けてね」
乗り込んで早々、朝から爽やかな海翔がホットコーヒーを手渡してくれた。
乃蒼の首には、あの日海翔が寄越してくれたマフラーがしっかりと巻かれている。
いいものだからあげる、と例の有無を言わさない口調と微笑みに、拒否するのもどうかと思いありがたく頂戴した。
「今日も予約いっぱいなの?」
走り始めた海翔が、信号待ちでコーヒーを啜って話し掛けてくる。
「うん。 朝からラストまでみっちり」
「体は大丈夫? ちゃんと眠れてる?」
「なんとかね。 海翔に言われて、部屋温めてから寝るようにしたらかなり熟睡出来てる」
「乃蒼のお家はいい部屋だと思うけど、寒過ぎるんだよ。 隙間風がね、ほら……」
「ズバッと言っちゃっていいよ、俺ん家ボロいって」
「思ってても言わないよ。 ……言わない」
「それ言ってんのと一緒だから」
ふっと笑った乃蒼の口角は、相変わらず上がらない。
仕事中は作り笑顔で乗り切れるのに、あの日以来、私生活に戻るとまったく笑えなくなっていた。
どうにか考え事をしないようにテレビをつけて気を紛らわせようとしても、何も頭に入ってこないので一時間も観ないで消す毎日だ。
食欲は落ちたけれど、仕事と気疲れで体はヘトヘトらしく睡眠はきちんと取れている。
「だって……乃蒼の部屋ほんとに寒かったんだもん……」
「あれからちゃんと暖房入れてるよ」
海翔が泊まった失意の夜、おやすみと言った後も眠れなかったのか、彼はしきりに「乃蒼、寒いんだけど」と言ってきた。
もっと密着しろという意味の下心かと思ったのだが、彼は本気で寒がっていたと知って可笑しかった。
「今日、明けの休みだから泊まっていい?」
「うち寒いけど」
「暖房入れてくれてるんでしょ」
「まぁ……」
「仕事終わる頃迎えに行くから。 ご飯食べて、暖かい部屋に帰ろう」
「よっぽど寒かったんだな……」
泊まると言われても、何の後ろめたさも抵抗も感じない。
海翔がそれだけ、乃蒼に気を使ってくれていると分かるからだ。
本当に、海翔は優しい。
海翔を好きになれたらどんなにいいかと思うけれど、……今の乃蒼に新しい恋は、必要ない。
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