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しおりを挟む乃蒼の頬に伝う涙を、月光の指先が優しく拭う。
まったく事態を飲み込めないけれど、現実味のない言葉の意味だけは分かる。
非情にも最悪の形で別れを切り出されているというのに、嗚咽を漏らすほど泣けないのは、悲痛な面持ちの月光が絞り出すような声で「ごめん」と言い続けているからだ。
「おめでとう」と、とてもじゃないが即座には言えなかった。
この指先は、昨日までは乃蒼のものだった。
乃蒼だけの、月光だった。
やっと手に入ったと、乃蒼に向けられる月光の笑顔を見る度に、幸福を噛み締めていた。
抱き締めてくるその力強かった腕が、今はひどく心許ない。
これは夢ではないという事を、月光の動揺心を、伝えてくるようだった。
いけないと分かっていたが、乃蒼も頼りない背中を抱き締め返した。
あと数分だけ、数分だけでいい。
馴染みのないこの明るい部屋で、月光を感じていたかった。
「…………っ……」
乃蒼の腕を背中に感じた月光が、さらに力を込めてきた。
そして、今までで見た事のないほどの焦りを持って乃蒼の耳元に口付ける。
「俺……乃蒼と生きていきたいと思ってた……! ほんとなんだ! 俺には乃蒼が必要だから……乃蒼が居ないと俺、生きていけないって気付いた、のに……っ」
「………………」
「乃蒼……っ」
───じゃあ、なんで結婚なんてするんだよ。 パパになる、なんて残酷な事を言うんだよ。
……祝福なんて出来るわけないだろ。
昨日までの幸せだった気持ちを返せよ。
俺の青春を、───返せよ。
心がずしりと重たい。
乃蒼への確かな愛を聞かせてくれたのに、離れなくてはならない現実を突き付けられた後にこれでは、喜ぶ事など出来るはずもない。
何をどうしたら、傷付かずに済んだのだろうか。
後悔と幸福を代わる代わる味わってきた、灰色だった学生時代がキラキラと色付いたと思っていたけれど、それこそがまさしく勘違いだったのか。
再会しても、決してなびいたりしないと固かった決意が崩れたのはいつからだろう。
大事にしまったままの、思い出のコツメカワウソのキーホルダーはどうしたらいいのか。
月光の腕に抱かれた乃蒼の瞳からは、涙が少しずつ流れてゆく。
また傷付けやがるのかと罵倒してやりたいのに、不思議と楽しかった思い出しか脳裏にはよぎってくれない。
バカで、天真爛漫で、節操が無くて、幾多の女性を泣かせてきた考えナシでも、明るく社交性に溢れた月光。
決して人の悪口は言わないため、自然と周囲に人が集まる協調性と統率力、持ち前の強運、最強のルックスで何不自由なく生きてきたであろう月光。
そんな月光が傍に置きたがったのが乃蒼だという優越感は、当時から微かにあった。
空き教室の隅で横たわった月光が、いつだったかこんな事を言っていた。
『誰でもいいわけじゃない、乃蒼だからいいんだ』
乃蒼の葛藤など知らず、あっけらかんと笑う月光に呆れながらも、「そうなんだ…」と内心は喜びに溢れた。
彼は乃蒼にとって、ただただ眩しい存在だった。
───終わったんだ、ほんとに。 何もかも……。
月光と知り合った事すべてが乃蒼の過ちだとするならば、その楽しい思い出だけを胸に留めておくしかない。
結婚し、パパになると言うのだから、月光がいくら切なげに想いを伝えてきても乃蒼は身を引かなければならない。
幸せが無になる瞬間をいつでも覚悟していたつもりでいたけれど、実際こうなるとなかなか難しかった。
「…………月光」
「………………っ」
覚悟の決まらない乃蒼は、言いたい事もまとめないまま月光を抱き締めていた腕を静かに下ろした。
乃蒼の呼び掛けに肩を揺らした月光からのさらなる抱擁も無下にし、顔を覗き込む。
精一杯の虚勢を張って、「覚悟」を自ら作り出し、青春の後悔を引き摺る胸中を必死で押し殺した。
「いつ産まれんの?」
「…………え、……?」
「赤ちゃんだよ」
「…………六月」
「そっか。 …………」
「……乃蒼……?」
頷いた乃蒼は、半年先の未来の自分を想像した。
月光の事は八年引き摺ったのだ。
たった半年では月光を忘れる事など出来ないだろう。
傷が癒え、その時、彼らの小さな命の誕生を喜び、心から笑えている自信は無かった。
だから、今、笑おう。
ただでさえ、予想もしていなかった事が起きて頭が真っ白なのだ。
寝室には月光の妻が、月光の子を宿して眠っている。
どこまで月光と乃蒼の "関係" を知っているのかは分からないが、とにかく、乃蒼はここに居ては駄目だと立ち上がった。
「乃蒼……っ」
月光の悲しげな視線が乃蒼を射抜く。
───そんな目で見るなよ。 決意が……揺らぎそうになる。
乃蒼は少しだけ息を吸い、目元を細めて笑顔を作ってから、月光に向けて穏やかに言い放った。
「おめでとう」
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