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しおりを挟む帰っていいと言ったのに、海翔は下で待っていると言い張って聞かなかった。
絶対に悪い話だと分かっていながら、この期に及んでもまだ「月光とセックスする流れになったら…」と薄っすら期待をしていた乃蒼には、海翔が待つと言った意味を理解出来るはずもない。
『近藤』と書かれた表札を見詰め、少し前まで妙案契約に乗じて乃蒼も住んでいたマンション前で立ち竦む。
エントランス、エレベーター、廊下に至るまで、あらゆる場所が高級感漂うこのマンションは、やはり自分には不相応だったなと自嘲気味に笑った。
意を決してインターホンを押す。
……指が震えた。
「は~い」
扉の向こうから聞こえてきたのは、まさかの女性の声だった。
───嘘だろ、マジかよ。
乃蒼の背筋に冷や汗が流れる。
よくない話を聞かされる、それは分かっていた。
あの日、太客ばかりを相手にしていた月光が拒みきれずに一夜を過ごしたという、彼らしい不貞行為の謝罪を受ける覚悟なら付き合うと決めた日からついていた。
だが、この家に女性が居るという事だけで、ハッキリしない重たいものが乃蒼の心を埋め尽くす。
ガチャ、と扉が開かれるその数秒の間に、逃げ出したいとさえ思った。
「あ、乃蒼くんだ。 久しぶりだねー」
柔らかな笑みを見せ、昔馴染みのように親しげに名を呼んできた女の顔を、乃蒼は驚きを持って凝視した。
「早紀、ちゃん……」
「入って入って。 月光と話、あるんでしょ」
「………………」
足の裏が地に貼り付いてしまったかのように佇んでいると、コートの袖を引っ張られて中へと招かれてしまう。
───なんで……なんで、早紀ちゃんが……?
早紀は、専門学校時代に同じクラスだった女子生徒だ。
月光の彼女の一人だと風の噂で聞いた事もある。
その時の乃蒼は意図的に月光と距離を置いていて、ひたすら無視を決め込み、月光を視界にすら入れないようにしていた。
なので、深い事は知らない。
男女問わず月光の周りにはたくさんの人間が居て、早紀もその一人だったように記憶している。
狼狽を隠せないままリビングへ辿り着くと、月光はソファの定位置で缶ビールを飲んでいた。
玄関に入った時から思っていたが、部屋が異常に明るい。
乃蒼が知っている暗闇の部屋はすっかりなくなってしまい、愛着のあったブルーライトスタンドは切なげにオブジェと化している。
「早紀、ちょっと外して」
「はいはい~。 私寝室で横になってるね」
「ん」
早紀と月光の会話のやり取りを、乃蒼は促されたソファの位置に腰掛けながら見ていた。
月光の隣だ。
───何だ。 何が起こってんだ。
隣から痛いほど視線が刺さってくる。
この状況を飲み込もうと必死な乃蒼は、喉がカラカラだったので早紀が用意してくれた麦茶を一口飲んだ。
「乃蒼」
唐突に月光が口を開き、乃蒼はビクッと肩を揺らす。
おかげで、テーブルに置こうとしていたコップを危うく倒し掛けた。
「………………」
「ごめん」
「…………何のごめん……?」
「……ごめん」
「だから何の……っ」
謝罪の意味を教えてくれよと月光を見ると、その途端勢いよく抱き締められた。
月光の香水の匂いがする。
お気に入りらしい濃いブルーのカッターシャツと、部屋着愛用している黒のスラックス姿は乃蒼もよく知っている月光だ。
それなのに、何かが違う。
ここへ来た時から感じていた違和感。
───月光、笑ってない……。
いつもだらしなく目尻を下げているタラシ顔を、今日は見せていない。
間の抜けた話し方も違う。
早紀に聞かれないようになのか、月光はキツく抱いた乃蒼の耳元で小さく思いを吐露してきた。
「俺、乃蒼の事好きだ。 好きなんだよ……っ」
「………………」
「……乃蒼……っ」
ぎゅっ、と腕にさらに力が込められる。
ただでさえ骨格が一回り大きい月光なので、乃蒼は息苦しさを覚えた。
こんなに苦しいほど抱き締められた事はない。
分かったから、と言って月光の腕を解かせると、明らかに乃蒼よりも狼狽えている瞳を覗き込んだ。
「あのさ……話しようよ。 あったんだろ、俺に話が」
「…………俺、俺さ……」
「うん」
「…………結婚、した」
「うん。 ん───っっ!?」
月光の瞳が乃蒼から宙へと移り、乃蒼はこれでもかと目を見開いてその虚ろな月光の表情を凝望した。
意味が分からなかった。
一昨日まで、つい二日前まで、月光には何の変化も無かった。
乃蒼の事を「愛している」瞳をしていた。
何がどうなって、そんな事になっているのか。
たった二日で、何が変わったというのか───。
「俺な、……パパになる」
「……なっ……っ!?」
「………………」
「パ、パパって……!」
「……ごめん、乃蒼……ごめん……」
俯いた月光が乃蒼の手のひらを握り、何度も何度も謝ってくる。
結婚したというのも、パパになるというのも、勝手知ったるで寝室へと入って行ったあの早紀と、という事だろう。
説明されなくても理解した。
乃蒼はそんなに鈍くない。
ふと見ると、謝り続ける月光の瞳は微かに潤んでいた。
呆然と、憔悴しきった月光を眺めていた乃蒼はどこか他人事だった。
気持ちがついてこないだけ、とも言える。
心の片隅で月光を想い続けたこの八年が、派手な音を立てて崩れていった。
───そうか、……結婚して、パパになるのか……。
ゆっくり瞳を閉じた乃蒼の左目から、涙が一筋こぼれ落ちる。
ここへ来るまでに固めたはずの覚悟が、足りなかった。
握られた手のひらから月光の温度を感じると、とてつもない空しさに涙が止まらなかった。
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