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しおりを挟む帰らせろ、としつこく言うまでもなく、VIPルームから「早く月光を戻せ」と要請があった。
黒服の者に耳打ちされた月光が、彼には珍しく唇を尖らせた不機嫌な様子で渋々立ち上がる。
「乃蒼~もう少し待っててー? そうだなぁ、あと……二時間くらい」
「えっ!? 二時間もここで待つわけないだろ」
値段の計り知れないピカピカな腕時計を見て簡単に言い放つ月光に、乃蒼は盛大に眉を顰めて見せた。
ただでさえこの一時間は退屈でたまらなかったのだ。
せめて月光がここに居て話し相手になってくれるのなら時間を忘れて楽しめるが、要請がきた以上それは明らかに無理である。
乃蒼は、この店の三軒先の馴染みの店を思い出し立ち上がった。
「じゃあ俺ん家帰ってシャワー浴びててよ。 鍵渡しとくから~」
「何かあったら責任取れないし、やめとく。 俺ゆるぎで待ってるよ。 久しぶりにビンちゃんと話したいし」
「それだけはダメ~。 乃蒼すぐお持ち帰りされちゃうじゃんー」
「うっ、……」
月光との約束を反故にしてお持ち帰りされた前科のある乃蒼には、耳の痛い事を言われてしまった。
大して強くもないのに飲むのは危険だと、あの件でよくよく分かっている。
初キスの相手である海翔と再会し、まったく思い出せないが体を重ねていた事実は月光の眉間に濃い皺を浮かび上がらせた。
「今日は飲まない! あ……待った、サングリア一杯だけ飲みたい。 久しぶりだから飲ませてよ? 一杯だけだったら絶対酔わないから」
「一杯だけ? ほんとに~? それ以上飲んだらガチのお仕置きすっからな~」
「分かった分かった。 ほら、早く戻んないと。 あっちからすごい視線感じるよ」
ビンちゃんの店に赴いて一杯も飲まないでいられる自信は無く、それなら前もって言っておけば後で叱られる事もないだろう。
なかなか仕事に戻らない月光の背後から、強く刺さり続ける痛い視線からも乃蒼は早急に逃れたかった。
背中を押すと、月光が不満気に乃蒼を見下ろす。
「…………一杯だけな、マジで」
「分かってる。 一杯だけ」
「……じゃ、後でな~」
ゆらりと去って行くホストを視線だけで見送っていると、通り過ぎる幾多のテーブル席から月光は次々に話し掛けられている。
足止めをいくつも食らいなかなかVIPルームに辿り着けない月光へ、少々の怒り混じりの視線が向けられた。
「早く来てよ」という無言のメッセージを送る女性が、乃蒼には恐怖でしかない。
苦笑した乃蒼は黒服に軽く会釈し、出入り口まで進むと、またもそこに待機していた複数のホスト達から仰々しく送られて苦笑を濃くした。
キラキラした廊下を進むと、香水と煙草の匂いが徐々に薄れてくる。
店外へ出てみれば、まるで竜宮城から現実世界に戻ってきた浦島太郎状態だった。
これは乃蒼のよく知る、夜の匂い。
行き交うサラリーマンと夜のお姉様方、そのほとんどが酔っ払っている異様な光景。
深夜だというのにこの通りはいつも明々としていて活気があるが、昼間はこの様相が嘘のように静まり返る。
「……やっぱ好きだな、夜の街は」
賑やかとは少し違う、華々しくも妖しい空気が好きだ。
何もかもを忘れられるから、と以前は思っていたけれど、根底にあったわだかまりが今はフラットになっている事で見方も少しだけ変わった。
ゆるぎの前にやって来て、扉に手を掛ける。
この三ヶ月ほどで乃蒼の青春が色付いた。
よく分からないが、ここのママであるビンちゃんがそのキューピッドらしいので、いくら月光に止められても乃蒼はこの店から離れる事など出来ない。
何故なら、色々な思い出をここでサングリアと共に流してきたからだ。
毎回酔い潰れる度に颯爽と現れ、何も聞かずに乃蒼を慰めてくれた男にもいつかお礼を言わなければと思う。
月光を忘れたいと願う乃蒼の心を悲しみで溢れさせないように、優しく抱き締めてくれていた腕に何度も救われた。
あなたが居たから、夜の街が好きになれたのだ、と。
「あら、乃蒼くんじゃない! ちょっとちょっと~! ご無沙汰過ぎよ~!」
扉を開けて乃蒼を視界に入れるや、ビンちゃんがパタパタと傍へ駆け寄ってきた。
カウンターの向こうから、口調のやわらかい髭面のがっしり体型の男がにこやかに微笑んでくる。
「ビンちゃん久しぶり。 ごめんね、色々あって。 俺ツケあったっけ? もし払い忘れあるなら今日払うよ」
「ないわよ、そんなもの。 いつだったかしら……月光が先払いで十万置いて行ったから、乃蒼くんしばらくタダ飲み出来るわよ~!」
「え!? 月光が十万も!?」
───驚いた。 月光が前払いしてくれてたなんて、知らなかったんだけど。
夜の世界に溶け込むとそこまで気が回るようになるのだろうか。
乃蒼をゆるぎに行かせたくないと渋っていた月光がと思うと、つい口元が緩んでしまう。
「そうよ。 あなた達あれからどうなったの? しばらく来なかったところを見ると、もしかしてイイ感じになってたりして……!」
「…………うん、まぁ」
「キャーッ! ほんとなの!? おめでとう、乃蒼くん! ……あ、でもそうなると海ちゃんはどうなるのかしら……」
「かいちゃん?」
「あっ! いえ、こっちの話よ♡」
うっかり口を滑らせてしまったビンちゃんを、乃蒼はキョトンとして見た。
月光と付き合っていると言った乃蒼に、「海ちゃん」の話題はご法度だろう。
ビンちゃんは、注文される前からサングリアを作って差し出すと、「かいちゃんって?」ともう一度呟いた乃蒼を見詰めて笑い、「最近仕事はどう?」とあからさまに話題を変えた。
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