永遠のクロッカス

須藤慎弥

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 男が予約した席は、夜の幻想的な海を目の前に拝めるカウンターで、並んで腰掛けるスタイルだった。
 外観通りあまり店内は広くはなく、カウンターの他に二人掛けのテーブル席が六つあるだけだが、隠れた名店のようで全ての席が埋まっている。
 他の客との隔たりもしっかりあって、確かに存在は感じるのだが少しばかり明かりが落とされているのも相まって若干の閉塞感がある。
 しかしそれは悪い意味でなく、密室ではないのに個室を思わせる、優雅かつ独特な店内設計であった。


「乃蒼」


 コートを店員に預けた男が、乃蒼の上着を脱がせてくれながらあの微笑みをもう一度くれる。


「あ……ありがと」
「ここね、シェフおまかせのフルコース一本でやってるんだよ」
「へぇ……! メニューがないって事?」
「そう。 だから俺も、今日何が出てくるのか知らないの。 味は確かだから、楽しみにしてて」
「うん、めちゃくちゃ楽しみ。 それにしても、こんな隠れ家的なお店よく知ってるな~」
「調べ尽くしたもん。 あんなとこ、こんなとこ、連れてってあげたいって思ってたから。 喜ぶ顔思い浮かべて、こういうの調べるだけでも楽しいもんだよ」


 ───なんていい人なんだ。


 乃蒼は、ノンアルコールだと説明を受けた食前酒で男と乾杯した。
 一口飲み、その「連れて行ってあげたい人」が誰なのか簡単に見当がついて苦笑する。


「それって……さっき言ってた人?」


 ───この優しくてハイスペックな美形医師なお兄さんを、そんなに長い間片思いさせてるなんてどこのどいつだ。 早く気付いて想いに応えてやれよ。


 乃蒼は苦笑が止まらなかった。
 八年もの間片思いし続けるお兄さんの事を思うと、その相手にかなりの苛立ちを覚えたが、乃蒼に非難する資格はない。

 神妙に頷くお兄さんは、気持ち肩を落として食前酒を口に含む。
 運転手なので、もちろんノンアルコールだ。


「うん。 いつか振り向いてくれるって信じてたけど……最近雲行きが怪しい」
「え……なんで? お兄さんがいつまで経っても告白しないからなんじゃないの。 やる事はやってるって言ってたじゃん」
「ほんとにそうなんだよ。 のんびりし過ぎちゃった。 気付いてほしいって思いながら、フラれるのが怖くて俺も卑怯な手ばっかり使ってたからね。 それがいけなかったみたい」
「お兄さん、その人をこうやって綺麗なお店連れてきて、ムードたっぷりに口説き落とせばいいじゃん。 絶対落ちると思うよ? 八年も想ってるくらい、好きなんでしょ?」


 フラれるのが怖いなど、そんなに不安を抱くほどの相手なのだろうか。
 これほどの男なら、怖がらずにどんどん攻めていけば気持ちは伝わりそうなものである。
 やる事はやっているのに、告白するだけの勇気が持てないとは何だか腑に落ちない。

 ただ、月光との過去を思い返せば乃蒼も人の事は言えないと思った。
 フラれるのが怖い。 今の関係が壊れる方が嫌だ。 ……と重要な一歩を踏み出せなかった乃蒼には、お兄さんの気持ちも分からなくはなかった。


「落ちてくれるかな」
「え? お兄さんなら絶対落ちると思うって……」
「そうだ。 俺の名前、教えてなかったね」


 突然の話題転換に、運ばれてきた突き出しを前に手を合わせていた乃蒼は動きを止めた。


「あ、そういえばそうだ。 お兄さんって呼んでたの定着してた。 スマホにも「お兄さん」で登録してたし。 名前なんていうの?」
「海翔。 海に翔けるで、海翔」
「海翔……へぇ、いい名前。 俺のキラキラネームが霞む、……くらい……」


 箸を持ち上げた手が、またしても止まる。


 ───同じ事を、いつかも言った気がする。 どこだ、どこで言った……?


 乃蒼はそっと箸を置いて、水平線を見詰めた。


「………………」


 何年も前の記憶を、一心に辿った。

『海翔』

 この名は絶対に聞き覚えがある。
 今と同じ事を、過去に一言一句違わず言った気がする。

 瞬きもせず目の前の海を見詰める乃蒼の顔を、ゆっくりと箸を置いた海翔が覗き込んだ。


「───何? 何か思い出した?」


 優しい声色、甘やかすような口調、物憂げなのにどこか颯爽とした雰囲気、そして何より乃蒼の超絶タイプな顔……。
 約七年前、月光との関係を断ち切りたかった乃蒼が、ふらふらと付いて行った火遊びの相手……。

 覗き込んでくる海翔の顔と、記憶の中の海翔の面影がピタリとハマった。


 ───思い出した。



「…………海翔、海翔ってもしかして……」



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