永遠のクロッカス

須藤慎弥

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 深夜に帰宅した月光は、乃蒼の寝顔を見るだけ見て自室へと戻ったようだった。
 夜の匂いをプンプンさせていた月光の気配は薄っすらとだけ感じていたけれど、熟睡中だった乃蒼は瞳を開けて「おかえり」も言ってあげられなかった。

 昼夜逆転生活を送っている月光を起こさないよう、なるべく物音を立てずに支度を済ませて出勤しようとしていた所に、下着だけ履いた格好の月光が眠そうに玄関まで見送りにやって来た。


「乃蒼もう行くの~?」
「うん。 行ってくる」
「抱き締めてー」
「はいはい。 ……行ってきます」
「行ってら~」


 ほぼ全裸の月光から両腕を広げられた時は一瞬だけ躊躇してしまった乃蒼も、それだけはOKという事にした手前、断れずに抱き締めてやった。 ……のはいいが、月光がなかなか離れない。
 行ってきます、行ってら、と言い合ってから、軽く五分は玄関先で抱き合っている。


「乃蒼、やっぱ行かないで~。 一緒に居ようよ~」
「何言ってんだよ。 月光も仕事があるように、俺にも仕事があるんですー」
「そんな事言わずにさ~添い寝してよ~」
「いやいや、……って、ヤバ! 電車の時間ヤバいからマジで行くよ!」


 月光を抱き締めている背中越しに腕時計を確認した乃蒼は、慌てて大きな体を無理やり剝がし「じゃ!」と元気に玄関を飛び出した。
 駅までの道中、抱き締められた心と体がなんだかムズムズした。


 ───恋人がいるって、こんな感じなのかな……。


 月光にとっては日常茶飯事なのだろうが、乃蒼は違う。
 玄関先で見送られ、「行かないで」と駄々をこねてハグを求められる……こんなにも照れ臭くて甘酸っぱい気持ちは知らない。
 このような妙案を提案し、乃蒼の条件までも呑んだ月光は本当に乃蒼と一緒に居たいと思ってくれているのかもしれない。
 寝ている乃蒼に手を出さず、おとなしく自室に戻ったというだけで少し見直した。

 わずか初日で、月光の気持ちを信じてしまいそうだ。
 信頼出来ない男が、ほんの少し真っ当な姿を見せてくれたというだけで乃蒼の出勤道中の足取りはとても軽く、腱鞘炎の右手もスムーズに動かせて仕事も捗った。

 体の関係を求め合わない、親友としての時間が楽しみだった乃蒼は、仕事終わりに月光のうるさい外車で夜遅くまで開いているホームセンターへと出掛けた。
 必要な食料品と、現在彼のキッチンには無いほぼすべてのものを調達した支払いは、月光がすべてもってくれた。
 さながら友人同士のお泊まり会のようなノリではあったが、それにしては揃え過ぎである。


「俺二週間しか居ないのに……。 こんなに買う必要ないんじゃない?」


 パンパンに膨らんだ買い物袋をいくつもカートに乗せ、車まで運ぶ。
 いくらなんでもここまでのものは使いきれない。
 食材はどうにかうまく使い切るとしても、家電やら食器やらインテリアやらは乃蒼との契約が終わった後どうするのだろうか。


「なんで二週間限定だと思ってんの~? もしかしたら一緒に暮らす事になるかもしれないじゃん~?」
「それはまだ何とも言えないけど……」


 後部座席に袋を詰め込み、乃蒼がカートを店内に戻しに行くのにも月光は付いてきた。
 嬉しそうに大きな図体をゆらゆらさせて、子どものようにはしゃいでいる。


「てか乃蒼の手料理久しぶりだな~! 楽しみ~!」
「帰って支度してからだから、月光の出勤に間に合わないと思うよ?」
「今日は買い物行くつもりだったから0時出勤なんだよ~だから大丈夫~」
「0時出勤って聞いた事ないよ」
「だよな~! 俺も~!」
「バカだな」


 真夜中に出勤し、たった何時間かお酒を飲んで騒ぐのが仕事だとは世の中には色んな職種があるものだと感心する。
 あの店で、月光は長くナンバーワンであるという事は噂で知っている。
 この脳天気な姿しか見た事のない乃蒼にはとても信じられないが、彼は一応、多少のワガママが許される地位にいるのかもしれない。

 出勤さえしてくれればいいとその店のトップに押し切られているようでもある事から、月光は店にとってなくてはならない存在であり、また大いに貢献しているのであろう。
 お酒を飲み、癒やされたい女性達に甘い言葉を囁く仕事は、月光からすればきっと天職に違いない。


「今日は何作る予定~?」
「ほんとは肉じゃが作ろうかと思ったけど、今日はササッと出来るポークソテーに変更。 タレは俺のレシピだから美味しいよ」
「ぽーくそてー?」
「……厚切りの豚肉をにんにく醤油で焼きます」
「えー!! 美味そう! 食いて~!」


 ポークソテーにクエスチョンマークを浮かべられるとは思わず、乃蒼はまたも「バカだな」と笑いながらシートベルトを嵌めた。




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