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しおりを挟む無理して予約客を詰め込んできた、特にここ二年ほど。
筋肉とは無縁の体は確実に悲鳴を上げ始めていたらしく、美形男もとい美形医師の言う通り、診断結果は腱鞘炎だった。
一回やってしまうとなかなか完治は難しいと聞いて、無表情ながら内心ではげんなりしていたがこれは完全に乃蒼の自己責任だ。
とりあえずは炎症を止める注射を打ってもらい、テーピングと湿布、念の為の痛み止めを処方されてその足で職場へと向かった。
シャンプーは助手に任せて、施術を主にやる事で客とも三隈とも話がつき、しばらくは無理をしないという事を徹底するつもりだ。
乃蒼は毎日、死に物狂いで過去を忘れ去るべく仕事に没頭していた。
そんな日々のせいで体を痛めてしまうなど、情けない事この上ない。
誰にも言えなかった過去の苦悩を引き摺ったまま、何年もその思いをほったらかしにしていたツケが回ってきたのである。
「あ、……っ」
テーピングと薬が入ったビニール袋を片手に、トボトボと肩を落として家路を急いでいると午前中に登録したばかりの「お兄さん」から着信がきた。
お礼を言いそびれていた事を思い出し、白衣姿の美形医師を脳裏に蘇らせていた乃蒼はすぐさま応じる。
『もしもし、乃蒼?』
「こんばんは」
『良かった、乃蒼だ。 着信きてたけど違う人だったらどうしようかと思ったよ』
見た目が申し分ない男は、電話越しの声までイケていた。
思わず聞き惚れていた乃蒼をよそに、男はクスクスと優雅に笑う。
確かに何も言わずに番号だけ残していたので、男が不安がるのも無理はなくメールくらいはしておけばよかったと後悔した。
「ご、ごめん。 お兄さん上がりだって言ってたし、睡眠邪魔するのも悪いと思って。 とりあえず俺の番号だけ教えるつもりだった。 で、あの……今朝はありがとうございました。 やっぱ腱鞘炎だったよ」
『そうなんだ。 職業柄、なりやすいのかもしれないね』
「ですね。 とりあえず落ち着くまで無理しないようにします。 お兄さん今夜勤中?」
『そうだよ、少し時間空いたから電話してみた。 乃蒼、さっそくだけど今週末出掛けない? 海の見えるレストランで海鮮食べようよ。 もちろんやましい事は抜きでね』
「海鮮……! いいですね! あれ、でも夜勤続くから来週末って……」
『夜勤明けの休みがある事すっかり忘れてたんだ。 ローテーション的に、今週はわりと楽だからね、大丈夫』
「やった! なんか気持ち滅入って凹んでたから、美味しいもの食べたいなーって思ってたんだ。 海鮮かぁ」
早速の誘いに、乃蒼の顔が綻んだ。
考え込む事が多い中、さらに大事な右手首を負傷した乃蒼は誰にも悟られぬように実は落ち込んでいた。
気晴らしになる事といえば、いつもならゆるぎに向かって……なのだが、今は全くその気が起こらない。
ゲイだと打ち明けていない友人達と食事をしたところで、気を使うだけなのは目に見えている。
美味しいものを食べながら、一度関係を持った相手とは思えない大人な対応をしてくれるこの男となら、鬱屈とした気分を晴らせそうな気がした。
乃蒼は歩を止めて、高揚感から左手に持つビニール袋をぶらぶら揺らす。
『……そう。 そんなに喜んでもらえて俺も嬉しいよ。 ていうか、乃蒼凹んでるの? 慰めようか?』
「いやそれは大丈夫。 海鮮が楽しみだから元気出た」
『ふふ、楽しみにしててね。 また連絡するよ』
「うん、了解です。 ありがとう」
仕事の合間にわざわざ電話を折り返してくれた美形男に感謝しつつ、乃蒼は再び歩き始めた。
狭い世界で生きてきた乃蒼にとって、視野を広げてくれそうな人との付き合いは大切にしたい。
何しろ、職場からゆるぎへの繁華街は、少数派である乃蒼にとっては憩いの街でもあったけれど、月光と再会してからは行きづらい場所になってしまった。
かと言って、夜の街が嫌いなわけじゃない。
ゴミゴミしたにおいも、慌ただしい人波も、落ち着く事に変わりはない。
「何が違うんだろ……」
ただそこに、乃蒼を切なくさせる人物が一人居るだけだ。
そのたった一人のせいで、これほど掻き乱される心。
嫌だと拒絶しても尚、縛り続けてくる大きな存在。
それをまた過去のものにするために、乃蒼は前を向かなければならない。
金蹴りをお見舞いした憎い奴だと、そういう風な別れ方をするとは思いもよらなかったが、確実に一歩を踏み出すためには致し方なかったのだ。
「のーあー」
───そう。 だからたとえこんな幻聴が聞こえたとしても、キョロキョロしてはいけないのだ。
「乃蒼~。 乃蒼~。 おーい」
……いや、これは……幻聴じゃない。
まさかこんなところに居るはずがない。
乃蒼の自宅まですぐそこだ。
アイツがここに居るはずは……。
何度も繰り返し呼ぶ馴染み深い声に、乃蒼は恐る恐る振り返った。
「………………月光……」
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