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個人授業は放課後に
個人授業は放課後に
しおりを挟む暖かさと肌寒さが共存した、四月の頭。
入学式を来週に控えているにも関わらず、すでに桜は五分咲きのところまできていて、その間に一雨二雨降ると散ってしまうのではないかと、教師達は懸念していた。
我が子の入学を心待ちにしている親も同様だろう。
由宇はというと現在春休み真っ只中だが、放課後の個人授業と予備校通い、週末の特別個人授業で大忙しな毎日を送っていた。
由宇が一番苦手とする数学を、橘は宣言通りマンツーマンで教えてくれている。
ほとんど厳しく、稀に優しく、由宇が理解出来るまでひたすら根気良く、ミントの香りを漂わせながら。
橘との関係を知った両親の暗黙の了解も、由宇にとっては後押しになった。
月に二度ほど父親の帰宅に合わせて橘がやって来る。 そして趣味の車いじりについてを時間も忘れて賑やかに語らっているが、交際については触れてこないところを見ると、まだまだこれからについてはタイミングを図った方が良さそうだ。
無口で無愛想な二人が、無邪気にああでもないこうでもないと談笑している姿を見る日がくるなど、誰が予想しただろうか。
ほんの一年前まで、由宇の耳に常に残り悪夢を見るほど怯えていた、両親の怒鳴り声が今はもう聞こえてこない。
橘のブチギレによって「改心」した両親は、それ以来ぶっきらぼうながら由宇を見てくれようとしていて、今さらなそれが気恥ずかしくてしょうがないが、……由宇はとても嬉しく思っている。
入学式にも卒業式にも来なかった薄情な両親が、由宇を構おうとする日がくる事も、もちろん想像だにしていなかった。
由宇の周囲も、心待ちも、橘と知り合ってからがらりと一変した。
まだ互いの恋心が生まれる前、橘は『助けていい?』と由宇に言った。
詳しい事は何も話していないのに、『助ける』というワードが自然と出てきた橘の嗅覚。
あの頃からすでに、由宇は橘に心奪われていたのかもしれない。
まったくもって説明が足りない、マイペース過ぎる橘に愛されてみて分かる。
彼の欠点は見付からない。
由宇には、見付けきれない。
仏頂面の三白眼でいつもどんな事を考えているのか、由宇は橘への興味と尊敬の念が尽きなかった。
きっと、これからもそうだ。
四季の巡りによって、寒々しかった冬も終わりの時を迎えるように、由宇の心にも頭上のものと違わぬほど満開の桜が咲いた。
「いいか、目瞑ってろよ」
「うん。 てか何で春休みなのに制服着て学校まで来なきゃなんないの? 先生もスーツ着てるし。 先生いま来年度の準備とかあって忙しいんでしょ?」
「いいから黙って目瞑っとけ」
「はいはい」
「はい、は一回」
「……っ……!」
由宇は、橘に連れられて桜並木を歩いていたが、言われた通り立ち止まって目を瞑った。
不安気な由宇の周囲を、橘の革靴がコツ、コツ、と踏み鳴らし始める。
制服を着て下りて来い、とだけ言われて朝早くから連れ出された由宇は、ここへ来る車中でも「なんで?どこ行くの?」を連呼していたが、無言で頭を撫でられてさり気なく無視された。
(なんなんだよ一体……てか一人増えた……?)
おとなしく目を瞑って棒立ちしていると、橘の他にも足音がして怖くなってきた。
門から校舎までの桜並木は圧巻で、晴天である今日は五分咲きの桜もとても見応えがある。
それなのに目を瞑れとは、相変わらず橘の考えている事は分からない。
「ねぇねぇ、先生。 まだ? 先生の他に誰か居ない?」
「よし、サンキュ」
「えっ、ちょっ……サンキュって何!? やっぱ誰か居るのっ? ねぇ、目開けていいっ?」
「まだ駄目。 っつーか開けると危ねぇかも」
「えぇっ? 危ない事するなよ!」
「口も動かさねー方がいいぞ」
「なっ、なんでだよーっっ!」
ウロウロしていた橘が、喋りつつ由宇の正面にやって来たのは分かった。
サンキュ、と言われていた謎の第三者の足音も、今はしない。
(目も口も危ないから開けちゃダメって、めちゃめちゃ怖過ぎだろーっっ!)
目を瞑ったまま握り拳を作った由宇は、橘の気配に集中した。
このまま置き去りにされてはたまらない。
「じゃ、いくぞ」
「えっ、えっ? 待って、行くぞってどこ行くん……うわっっっ!?」
橘が動いた気配がしたそのすぐ後、オロオロし始めた由宇の頭の上からドサッと何かが降ってきた。
驚く間もなくもう一度、ドサッ……。
由宇の頭にも肩にも、何かが降り積もった。
「目開けていいぞ」
「…………え、これ……」
数分間目を瞑っていたせいで、最初はよく見えなかった。
明る過ぎる視界に目を細めて地面を見やると、由宇の足元には桜の花びらが不自然に、しかも大量に積もっている。
首を傾げて瞬きを繰り返し、地面から橘の顔へと視線を移すと、近寄ってきた橘は由宇のネクタイを解いた。
「なんだこのネクタイ」
「…………っ?」
「二年経ってもうまくなんねーな」
眉を寄せた顰めっ面で、唇の端だけを上げての得意気な笑みを浮かべた橘が、ネクタイを結び直している。
まるで、あの日のように──。
「せ、先生……っ?」
「あ?」
ネクタイを結び終えた橘の意味深な視線から、由宇は色褪せない記憶を呼び起こした。
あの日は八分咲きだった桜並木を、負のオーラを漂わせて様々な思いの中ひとりぼっちで入学式にやって来た由宇。
そんな由宇を捕えた、橘風助との桜の木の下での出会い。
「……先生、……先生なんですか……?」
「フッ……。 そうだけど? 教師に見えねーって言いたいのか」
「そんな事言ってないじゃないですか!」
「じゃあどう見えてんだよ、由宇」
「……っ!」
「怒らねーから言ってみ」
由宇は久しぶりに、橘に敬語を使った。
意味深だった橘の視線は、由宇の記憶よりも柔らかく穏やかで、愛情深い。
何よりあの日と違うのは、橘は由宇の名前を知っている。
頭と肩に降ってきた大量の桜の花びらが、春風に乗って次第に飛んでいった。
ネクタイの間に挟まっていた三枚の花びらどころではない、制服の隙間のいたるところに忍び込んできた橘からの特別な想いに、気付かないはずはない。
──由宇だけではなかった。
橘にとっても、あの日の出会いは唯一無二だったに違いない。
(……どう見えてるかって……そんなの決まってるじゃん……)
髪から滑り落ちてきた花びらを手に取って、由宇は俯きがちに答えた。
「……橘、風助、先生……。 俺の、……好きな人……」
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