個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 橘の自宅で、丸二日ダラダラと不健全な性生活を過ごした。

 ところてん体験以外はとても充実した甘酸っぱいひと時だったので、離れがたいがとうとう帰宅しなければならない三日目の夕方。

 膨れっ面の由宇は、橘に送ってもらい目前に見えてきた自宅を睨み付ける。

 橘の自宅からここまで、三十分しか掛からなかった。

 どうせなら、橘が何時間も掛かるような遠いところに住んでいれば、もっとたくさん、巧みな運転テクニックと夕陽に眉を顰める横顔を見ていられたかもしれない。

 いや、たとえ何時間掛かっても結局分かれなくてはならないのなら、長く居過ぎた方が離れるのはきっとツラくなる。

 由宇の表情は、膨れっ面から半べそへと変わっていた。

 橘宅から程近い氏神様に挨拶に出掛け、あとは食事とセックスくらいしかこの正月の思い出は無いが、由宇なりにたっぷりと甘える事の出来た三日間は何にも代え難い時間だ。

 離れたくない。

 もっとずっと、一緒に居たい。

 肘置きに置かれた、傷痕を隠すためなのかスナイパーのような黒い手袋をした左手の小指を、じわっと握った。

 由宇の「帰りたくない」気持ちをささやかに体現してみると、察した橘からのお返しはギュッと肩を抱いてのおでこにキスだった。

 橘は、甘やかしがうまくなっている。


「今日から五日は会えねぇ。  寂しいっつって浮気すんじゃねーぞ」
「し、しないよ!  浮気の心配があるのは先生の方だろっ」
「お前以外で勃つ気がしねーから心配いらねぇ」
「あ、そ、そう……?  えへ、へへ……っ」


 スムーズに停車した車内の助手席で、不意打ちのデレの連続に頬が緩んだ。

 しかしその直後、「あ?」と不機嫌丸出しの低い声がして、へへっ…と呑気に笑っていた由宇の笑顔がぴしりと固まる。


「……なんだ、見慣れねぇ車だな」


 呟いた橘のオーラがドス黒くなった。

 ハンドルに両腕を付いてその上に顎を乗せた橘が、由宇の自宅前に停まったシルバーの車をジロジロと見ている。


「お前……今日俺が送るって分かってて浮気相手寄越したんじゃねぇだろーな」
「えぇっ!?  俺にそんな人居ないよ!  居るわけないだろ!」


 甘かった空気が一変し、三白眼の橘の背中に黒々とした羽根が見えた気がした。

 穏やかに抱いてくれていた華奢な肩をギリッと強く握る橘は、まるで数学の問題の解説をするかのような口振りになる。


「えーっとな、お前が浮気したらどうなるか教えとくけど」
「え……嫌だ、怖い。  聞きたくないよ。  浮気する気なんかサラサラないけど怖いな」
「まぁ聞けよ。  ポメが万が一浮気したら、俺ん家のペット決定な。  外出は一生許さねー。  ソフトMをドMに調教する。  家ん中は常に裸で、首輪と手錠と足枷付けて……叫ばねぇように猿ぐつわも要るな。  で、肝心の相手に関しては……」
「も、もういいよ!  分かった!  浮気なんてしないからこれ以上俺をビビらせないでっ」
「な?  浮気しても良い事一つもねぇから、絶対すんなよ?」
「はいっ」


 悪魔が降臨すると、橘の口角は一切上がらない。

 恐ろしい台詞を日常会話のように淡々と語る橘に、キスされる寸前のところまで顔を寄せられて、三白眼相手にも関わらず心臓が高鳴った。

 浮気など考えた事もない。

 もう帰らなくてはならない未成年の自分を呪ってしまうくらいには、橘の事が好きで好きでたまらないのだ。

 浮気相手だと誤解した橘の視線の先を見てみると、それは由宇の父親の車だった。


「なーんだ。  あの車、お父さんのじゃん。帰ってきてるなんて珍しい……年末年始に家に居た事ないのに」
「そうか。 親父か。  挨拶しとこ」
「えぇ!?  ちょっ、先生……っ?  フットワーク軽いなぁ……!」


 父親と橘が対面するのは、去年の暴露会以来のはずだ。

 運転席から降りた橘は助手席の方へ回り込み、ジェントルマンよろしくドアを開けて屈むと、由宇のシートベルトを外す。

 ふわりと漂う大人なムスクの香りにキュン…としても、すぐに「行くぞポメ」などと、ときめきを打ち砕くあだ名で呼ばれた。

 何にも意に介さない橘の横顔を見ながら、両親と会うのはさすがに気まずいのではないのかと心配するも、彼の辞書に恐らく「ばつが悪い」という言葉は存在しない。

 勝手知ったるで由宇から奪った鍵で玄関の戸を開け、革靴を脱いでスリッパを履く。  そして、リビングに居た両親の姿が目に入るや発した「丁寧」な挨拶に、それを確信した。


「あけおめっす」


 両手をポケットに突っ込んだ橘の後ろ姿に、由宇は頭を抱えた。

 怖いもの知らずもここまで来ると尊敬に値する。

 常々、橘の行動や言動には目を瞠ってきたが、彼の堂々たる登場に驚かない我が両親にも相当な肝の太さを感じた。


「……誰かと思えば」
「あらっ、お久しぶり、橘先生。  由宇、橘先生と一緒だったの?  怜君は?」
「えっ……あっ……あの……っ、」
「渋いシーマ乗ってるっすね。  超かっけー」


 動揺した由宇をさり気なく背後に隠しながら、父親と向かい合って腰掛けた橘が見事に話を逸らしてくれた。

 三日間の堕落生活ですっかり忘れていたが、由宇は怜宅に泊まると言って家を空けたのだ。

 しかし、今まで知らなかったが父親は車が趣味らしい。

 橘に愛車を褒められて気を良くした父親はとても分かりやすく、すぐさまその怪訝な表情が柔和なものに変わった。


「お、分かるかね。  君、車種は?」
「俺のは二年落ちのマジェスタ。  ミッション捨ててハイブリッドにしたらめちゃくちゃ燃費良くなったっす」
「やはりハイブリッドの時代か。  どうも私は波に乗り遅れておる」
「いや、車に関しては趣味貫く方が最先端っすよ。  あのマフラーも超渋い」
「おぉ、分かってくれるかね!  あれはな、……」


 橘とは話が合うと知った父親が、なんと身を乗り出してまで上機嫌に喋っている。

 普段は橘同様、仏頂面を得意とする父親のこんなにも無邪気に輝いた瞳を、由宇は見た事がない。

 母親が出したコーヒーにも二人は口を付けず、趣味である車いじりについてを延々と一時間以上も語り合っていた。


「……まだ話してたんだ。  車の話って事だけは分かるけど……ついていけないなぁ」


 暇過ぎた由宇は一度二階に上がってベッドにゴロンと横になっていて、母親に至っては客人が来ているというのに洗濯物を干していた。


「そうね。  あんなに楽しそうなお父さん見たの久しぶりじゃないかしら。  そもそも見た事ないかも」
「めちゃくちゃ盛り上がってるもんね」
「かなりね」


 思わず由宇に似た微笑みを浮かべた母親も、滅多に見られないご機嫌な旦那の姿を見て嬉しそうだ。

 趣味の話に花が咲いた橘もどことなく楽しそうで、晩御飯を振る舞うと言った父親の台詞に「いいんすか」と喜びの声を上げていた。

 すぐに離れる事にならなくて良かったけれど、『これは思ってたのとちょっと違う…』と贅沢にいじけた由宇であった。



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