個人授業は放課後に

須藤慎弥

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「あらまぁ、政略結婚を破談にしたの。  それなら本当に縁が切れたという事じゃない」
「そういう事だ。  俺はまだ、あと一年半はここ辞めらんねー」


   面食らう教師達の真ん中で、橘は堂々と言い切って見せた。

   あと一年半は辞められない──。


(先生……それって……)


   自惚れかもしれないが、由宇が高校を卒業するまであと一年半ほど。

   それはつまり、由宇の卒業を見届けるまでは「辞めたくない」という橘の心の声を聞いた気がして、照れくささにポッと頬を染めた。


「辞めなくて結構。  橘先生の堅実さを私はよく知っています。  もしや自主退職を促していたのではありませんか、校長先生?」
「そ、それは……」
「辞めなくていーなら、俺は何も聞いてなかった事にする。  今まで通り授業するし、一年二組の担任も三月まできっちりやる」


   先ほどから冷や汗が止まらないらしい校長が、しきりにハンカチで顔中の汗を拭っている。

   まさか、今の今まで声高に退職を促していましたなどとは、とても言い出せない雰囲気だ。

   しとやかに微笑むご婦人はさらに詰め寄る。


「橘先生の縁故採用を不服とする者がいるのですか?  私共に送られてきた資料には、橘先生が受け持ったクラスでの数学の平均値が急上昇していると数値でハッキリ出ていましたよ。  校長先生、橘先生の人間性と確かな実績を見て差し上げて下さいな」
「……はい、それはもう……!」
「それと、誰しも過去に言えない事の一つや二つあるものです。  私は気にしません。  橘先生の現在を見ます」
「国定さん……」


   周囲の教師達も、橘が新任としてやって来た当初からの協力的な姿勢に納得の頷きを見せ始めた。

   コミュニケーションはほとんど取らないが、与えられた仕事はきっちりこなし、授業でも生徒達に目に見える結果を残しているとなれば、自主退職などはなからおかしな話だったのだ。

   勝利を勝ち取った橘が悪魔顔でニヤリと笑い、右手がポケットに突っ込まれる。

   はじめから毅然とはしていたが、「辞めたくない」から校長や教頭と対峙していたと分かると、橘の信念を貫く姿勢にまさしく感心した。

   由宇は覗くのをやめて、扉を背にずるずるとへたり込む。


(……先生……ずっとかっこいいなんて卑怯だ……)


「ヒロコ良いこと言うじゃん。  ま、俺は正義の暴走族だったからな。  そこら辺走り回ってる迷惑な連中と一緒にされるのは心外だ」
「ホホホホ……!  橘先生らしいわ。  後日ゆっくり聞かせてちょうだい、あなたの武勇伝を」
「んなもんねーよ。  てかもう帰っていいっすか?」
「えぇ、いいわよ。  私はじっっっくり、校長先生と教頭先生とお話しなくちゃ。  帰って安静にしていてね」
「了解~」


   ご婦人が不敵に校長に視線を寄越すと、橘もニヤリとして挨拶代わりに包帯が巻かれた左手を上げた。

   足音がこちらへ近付いてくる。

   ガラガラ、と扉が開かれ、前を見据えたまま歩を止めない橘から「来い」と声を掛けられた。


(俺が覗いてたの……やっぱ気付いてたんだ、先生)


   においや気配でそこに居る者が分かる、と言っていた橘の謎の嗅覚が今も発揮されていたようだ。

   鞄を肩に掛け、橘の背中を追い掛ける。

   由宇が小走りに駆け寄って横に並ぶと、スタスタと早歩きに近いほど早かった橘の歩む速度が、急に失速した。


「今日俺ん家泊まりな」
「え、っ……?」
「車で待ってる」
「え、あっ、……?  ちょっ、先生……っ?」


   一度も由宇を見ないまま、橘は職員専用の下駄箱へと向かってしまった。


(今日、先生の家に泊まり、なの……?)


   いつそんな事が決まっていたのか分からないが、橘はいつだって唐突で、行動や言動が読めない人物なのはもう分かっている。

   車で待つ、と言われたので、由宇はドキドキしながら靴を履き替えて橘の愛車の元まで行った。

   あれだけ嫌だったのに、「走って」行った。

   早く橘と話したい。

   どれだけ急ごうとも、確実に「遅せーよ」と軽口を叩いてくるであろう、橘の飄々とした姿に憤りたい。

   会いたい。

   話したい。

   触れたい。

   ……触れてほしい。


「遅せーよ」


   車内ではなく、橘は車に寄りかかって待っていて、お決まりの台詞で由宇を笑わせた。


「言うと思った。  走ったんだよ、これでも」
「乗れ」
「はいはい」
「はい、は一回」


   懐かしいやり取りに心が弾みっぱなしだ。

   橘の愛車内も懐かしい香りでいっぱいで、涙腺の脆い由宇は早くも目頭が熱くなる。


(……好きでいて、良かった──)


   橘に言いたい事、聞きたい事はたくさんあった。

   離れていた間の事、昨日の事、先ほどの一悶着、そして何より、橘の気持ち。

   それなのに、無言で運転を始めた橘の横顔すら見られない由宇は、恥ずかしさを紛らわすために窓の外の流れる景色ばかり見ていた。

   好きな人と二人きりの密室空間が、こんなに照れくさいものだなんて……知らなかった。



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