個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 いても立っても居られなかった。


『明日、橘先生が歌音って人の家に行くんだって!  大事な話があるって言ってたよ!』


 覗きが得意の真琴が、旧校舎で盗み聞きまで敢行したらしい。

 昨日の放課後にそれを聞かされて、由宇は心が痛かった。

 あまり進展している様子の無かった橘と歌音の結婚話が、ついに具体化されるかもしれないのだと思うと昨日は眠れぬ夜を過ごした。


(やだよ先生……っ。  なんで、なんで……!)


 この所、橘がしきりに由宇へ視線を寄越してきていた。

 気にしないでおこうとしても、その熱い眼差しを常に感じるほど何か言いたげな瞳だった。

 入学式の日にパウチした桜の花びら入りのラミネートフィルムを失くしてからというもの、由宇は生気さえ失い掛けている。

 あれは、入学式当日に抱えていた不安を、卒業式には笑顔で見返せるようにと思いを込めていたものだったが、橘と関わって彼を好きになってしまってからは意味が変わった。

 桜の雨が降り注ぐ中で出会った、一つの恋。

 橘を想い、胸を踊らせる毎日を思い出に出来るように、あの出会いの記憶が色褪せないように、肌見放さず持ち歩いていた。

 諦めた恋にしがみついて泣くのも、片思いを思いっきり楽しんでしまえと開き直れるようになったのも、由宇がまだまだ幼過ぎるために思い出にせざるを得ないと悟ったからだ。

 それなのに、あんなに意味ありげに見詰められたら諦めきれない。

 もしかしてまだ望みがあるのかもしれないと、勘違いしてしまう。


(片思いでいい。  ワガママは言わない。  好きでいるのは勝手。  先生を困らせたくない。  先生の正義を……守りたい。  守りたかったんだよ……)


 父親の身辺を探っていた怜が、この歌音の自宅の場所を知っていた。

 そして盗み聞きしていた真琴が、由宇に情報をくれた。

 ──これは、何が何でも、行くしかない。

 橘が困ってしまう、もしくは鼻で笑われるかもしれない、そう仮説を立てても由宇の心は動かなかった。

 近頃の熱い視線の意味だけでも教えてほしい。

 出来る事なら、土壇場でもう一度告白してしっかりフラれて、失恋に号泣しながら一人でトボトボと帰宅しないと、……諦められない。

 大切にしていた花びらを失くしてしまったという事は、いよいよ橘への想いも踏ん切りを付けろという意味なのだと割り切った。

 結婚を阻止するために来たのではない。

 由宇は自身の恋心に終止符を打つためにここへ来たのだ。

 それなのに──。


「……………由宇」
「……先生……っ?」


 立派な門をくぐってチャイムを鳴らすと、橘本人が出て来て驚いたと同時に突然抱き締められた。

 息が出来ないほど、強くだ。

 しかも驚く由宇を尻目に切なく名前を呼んでくる始末で、こうやって思わせぶりな行動をとってくるから前へ進めないのだと内心で怒りが湧く。


「風助さんのお知り合い……ですか?」


   橘の背後からそう声が掛かって、ようやく腕の力を抜いてくれた。

   背骨が折れるかと思うほど、苦しかった。


「あぁ。  ……由宇、中入るか」
「え!?  い、いや……それは……っ」
「ちょうどいい。  入れ」
「え、ちょうどいいって何っ?  ダメ、無理だって!  うわ、ちょっ……!」


   腕を取られて、由宇はそのままリビングへと連行された。


(あ、歌音さんだ!  と、……怜のお父さん……?)


   入り口付近に並んで立つ二人はとても「こんにちは~!」と声を掛けられるような面持ちではない。

   橘と由宇の後ろから付いてきたこの家の者と思しき男性三人の顔面も怖くて、知らず橘に寄り添う。

   この場に居る半数以上が強面で、なんだここはと目を瞠る事しか出来ない。

   奥のソファに腰掛けた着物姿の初老の男性など、完全にその筋の親玉風情である。

   室内の調度品や至るところにある高そうな壺を見るからに、ここはもしかしてと息を呑む。

   否定していた橘も、やはりその筋の者なのかもしれない……とビクビクし始めた由宇は、意を決してやって来たというのに場の雰囲気に圧倒されて早くも帰りたくなっていた。

   勢いだけで家に押しかけてしまった事を相当後悔しながら、頼れる人が橘しか居ないので縋るようにさらに密着する。


(なんだよここは~……!  俺めちゃくちゃ場違いじゃん!  こんなの想像もしてなかったよ~っ)


   結婚を阻止したくて来たわけではないから、橘をソッと外に呼び出して、ただ話が出来さえすればいいと思っていたのだ。

   こんなに人が居ては告白なんて無理だし、完全に、ここは由宇が長居出来る場ではない。

   歌音と怜の父親が揃ってここに居るのも何やら事情がありそうで、まさに来てはいけない時にお邪魔してしまったと分かると泣きたくなった。


「誰だ」
「………………!」


   親玉と目が合った。

   あまりの眼力に盛大にビクついた由宇の肩を、橘がしっかりと抱いてくれているからまだ立っていられる。


(俺……絶対来るタイミング間違えた……)


   安直にも由宇は、橘と歌音の結婚の話で、現場は明るい雰囲気に満ち満ちているだろうと想像していた。

   こんなに重たい空気で、強面ばかりで、その筋の本部ですと言わんばかりの室内インテリアに恐れを成すなど……予定外もいいとこだ。



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