個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 数分間、沈黙が続いた。

 由宇の頬には静かに涙が伝っていたが、そんなものはどうでも良かった。

 冷たい大人には慣れているつもりでいたけれど、橘にそれをされると慣れている由宇でもかなりこたえた。

 これまで橘は、由宇を気に入って構ってくれているのだとばかり思っていたからだ。

 そんな思い込みに酔って、甘え過ぎていたのかもしれない。

橘は甘えても良い対象だと、いつの間にか由宇の中で都合良く解釈し──この有様だ。

 じわっと橘の腹の上から降りた由宇は、ベッドからも降りた。

 ひたひたとフローリングの床を踏みしめる。

 ここに居てもツラいだけ。

 由宇の居場所なんて、結局、はじめからどこにもなかった。


(帰りたい……ううん、帰らなきゃ……)


 夜も遅く、電車もバスも恐らく動いていない。

 ここがどこだかも、知らない。

 知らなくても、ひたすら歩いていればいつか家に辿り着くだろう。

 そう考えて、制服に着替えようとバスローブの紐に手を掛けた時、無心だった由宇を橘が背後から抱き締めてきた。


「……なんでお前はそういう事言うかね」
「………………」
「とりあえず寝ろ」


 不意の抱擁に、体が固まった。


(ほら、……なんでこういう事すんの。  優しくできないって言いながらこんな事……しないでよ……っ)


 冷たくしないでと言ったからこうしてくれているのだと思うと、やっと引っ込んだ涙がまた頬を伝いそうになる。

 どういうつもりで、こんなに優しく抱き締めてくるのだろう。

 橘の言動の意味不明さは、すべてを忘れたいと願った今の由宇にはツラいだけだった。


「……嫌っ……帰る!!  俺ここに居たくない!  悩むのはもう嫌!」
「はいはい、分かったから。  どんだけ俺を嫌がってもいいけど、お前の家の件が済むまではここに居ろ」
「…………俺の……家の件……?」


 そういえば先週、橘はそんな事を言っていたような気がする。

 悪夢を見てうなされて目覚めた由宇に、切羽詰まった様子の橘が「お前の件は早急に片付ける」と確かに言っていた。

 もしかして今、橘はその件で動いてくれているのだろうか。

 振り返って橘を見上げると、スッと視線を逸らされてしまったが構わずその三白眼を見詰めた。


「あぁ。  あと二、三日で調べが全部終わる。  そうだな、ちょっと早えけど水曜にお前ん家で暴露会やる事にしよ。  分かったら片付くまでヤケを起こすな。  いいな」
「調べ……?  暴露会って何……?」
「お前にとっちゃツラい話になんのかもしんねぇけど、お前自身と家に平穏を取り戻すためにはやんなきゃならねーからな」
「え、いや、だから……なんの事言ってるのっ?」


 暴露会とは何なんだと、今度は別の戸惑いに支配され始めた。

 まったく視線を合わせてくれないので、由宇は躍起になって橘の視界に入ろうとしつこく顔を覗き込む。


「いいから来い」
「わ、うわっ……!」


 するとあっという間に橘に抱え上げられ、ポイとベッドに放られた。

 由宇の体がベッドの上で小さく弾み、毛布をかけてくれた橘が無理矢理由宇を寝かせたかと思うと、後ろからギュッと抱き締めてくる。

 いつかの「抱き枕」のように。


「困ったガキだな。  抱っこされねーと寝ないなんて」
「……ッッ!!」


(……ふーすけ先生だ……!!!)


 抱き締めてくる腕も、背後から届く橘の声色も、それは由宇が求めていたものだった。

 優しくないのに、優しい体温。

 背中に感じる温もりを求めて、由宇はより密着するように体をすり寄せてしまった。


「数学っつーのは答えが明白だから面白いんだよ。  でも国語は訳分かんねー。  お前の考えてる事はこんなによく分かんのに」
「いきなり何っ?  先生、俺にはふーすけ先生の事が一番よく分かんないよ!」
「気が合うじゃん。  俺もだ。  自分に負けたくねーから、お前絶対俺に触るなよ」
「先生は今俺に触ってるじゃん……」
「これはいんだよ。  お前からは触るなっつってんの」


 分からない事ばかり言う橘の顔を見たくても、ガッチリと抱き枕を固められていて動けなかった。

 ただ、由宇の心がハッキリと安堵を感じているのは自覚できた。

 一週間ずっと、冷たい氷のような橘と接していたからか、いつもの悪魔な橘が現れて嬉しくてたまらない。

 いくら口が悪くても、揶揄われても、会話をしてくれるだけやはりこっちの方が、由宇は落ち着く。

 あまりの態度の激変ぶりに、嫌われているのかもしれないとそこまで考えて悲しくなっていたから、悪魔な橘の意味不明発言も笑顔で聞けた。

 この橘が居るなら、帰りたくなんかない。

 由宇の心にはすでに、橘の優しさが、存在が、染み込んでいるのだ。

 そう簡単に嫌いになどなれないし、橘から直接、絶縁の言葉を聞くまでは一緒に居てもいいのかなと思う。

 思い返せば、橘はいつも由宇の理解の範疇を大きく越えてきていた。

 今さら素っ気なくされても、この温かく力強い腕が由宇を包み込んでくれているうちは、悩むだけ損なのかもしれない。


「…………先生はやっぱり、何が言いたいのか全然分かんない。  分かんないけど……明日からさっきの髪型してくれるんなら、言う事聞く」
「さっきのって、あれ?  ……別にいいけど」
「やった……!」
「いつまで起きてるつもりなんだ。  お子様ランチは早く寝ろ」
「俺はお子様ランチじゃない!!」
「あーうるせ。  お前と話すと耳やられんだよ」
「ふーすけ先生が余計な事言うからだろ!」
「俺が悪りぃのかよ」
「先生が悪い!  全部!」
「センセーはもう寝ました」
「……っっ。  おやすみ!」
「ん」


 もっともっと言い合いをしていたかったけれど、橘が自己申告をしてきた事で由宇も引き際を見る。

 素直な由宇が可笑しかったのか、背後で、橘がフッと笑った気配がした。



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