個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 色恋の経験が皆無な由宇にとって、橘の言葉の意味を理解するにはまだまだ幼な過ぎた。

 たかが露天風呂に入る時間がズレこんだだけでこんなにも不機嫌になるなんて大人げないと、由宇はまるっきり言葉通りを信じている。

 噂の二人と橘の愉快な仲間が待つビルの駐車場に到着し、見覚えのある黒のワンボックスカーの隣に橘も車を駐車させた。

 拓也と瞬が降りてくるのを見て、橘は由宇に視線を寄越す。


「お前は拓也達と一緒に居ろ。  中まで来るとケガさせちまうかもしんねーから」
「ぜんっぜん、穏便にしようとしてないね……」
「するわけねーだろ。  でもま、とりあえず話は聞いてやるつもりだ。  その後はどうなるか分かんねー。  俺との約束を破った事を後悔するんじゃね?」


 正面を向いた橘はいつもより微笑を濃くしていて、まさしく悪魔のようだった。

 いくら由宇が止めても、あの大暴れが再来する可能性は極めて高い。


「……ねぇ、ふーすけ先生」


 溜め息混じりに橘を呼ぶと、三白眼で「あ?」と凄まれた。

 ……ような気がするだけで、橘は普通に見ているだけだと知っている由宇は、ひるまずトンチンカンな事を口走る。


「……先生さぁ、魔王様と契約か何かしてんの?」
「は?  なんだよ、意味不明」
「いや……すごい事をポイポイ言うから。  たまにほんとに魔王様に見えるし、乗り移ってんじゃないのかなと思って」


 真っ当な正義を振りかざしていても、この顔面と行ないは普通の人間ではないように見えてきた。

 一暴れする、という言葉通り、部屋の中をめちゃくちゃに破壊してスッキリして戻って来る姿を想像すると、由宇の考えはあながち虚像ではないような……。

 ついに魔王と名指しされた橘がポカンと呆気にとられていたのは、ほんの一瞬だけだった。

「お前バッカだなー。  ほんとのバカ。  それだけぶっ飛んだ事聞かされたら、いっそ清々しいわ」


 由宇はとても真面目に問うたのだが、フッと鼻で笑われてイラつく。


「うるさいな!  ほんとにそう思ったんだから仕方ないだろ!  いっつも悪魔みたいな顔してる方が悪いんじゃん!」
「誰が悪魔みたいな顔だ。  ポメ君、ペナルティがまもなく10になりますがよろしいかな」
「だからペナルティって何だよ!  ふーすけ先生、ほんとは優しいくせに!」


 喉から手が出るほど欲しい説明を何一つしてくれないし、ペナルティの事も、キスの事も、情熱的な台詞の事も、橘の本意がまったく見えない。

 けれど橘は、弱い者、真っ当な者の味方である事だけは知り得ている。

 本当は他人を思いやれる超が付くほど優しい人間のはずなのに、そんなに魔王様と仲良くしていたらいつか誤解されて危ない目に遭いそうだ。

 由宇が小さな牙を剥いた分だけ同じ熱量の軽口が返ってくるかと身構えたのだが、目の前の橘は無表情で由宇を見ていた。


(な、何……?  俺……地雷踏んだ?)


 何の感情もこもっていないそれは、血走った目のブチギレ橘よりもっと背筋が寒くなった。

 少しだけ体を橘から遠ざけ、ゴクリと唾を飲み込む。


「…………優しくねーよバカ。  何言ってんの?  バカじゃね?  あり得ねーくらいのバカ」
「バカを連発するなぁ!!!」


 どんな恐ろしい言葉が降ってくるかと思えば、小学生の悪口のような稚拙な単語を連呼されさすがに頭にきた。

 大暴れする気満々の橘を、自分が完全に止められるとは思っていなかったが「ほんとは優しいのに誤解されるような事をしないで」と言いたかったのは紛れもない本音だ。

 橘は敵を作りやすいだろうから、優しい一面は惜しみなく出してちょうどいいと思っている。

 それなのに、「バカ」を連呼とはヒド過ぎだ。


「喚くなよ、うるせー。  お前の頭には花が咲いてるみたいだからこの際ちゃんと言っとくわ」
「な、何だよっっ」
「俺は優しくなんかない。  お前を幸せにはしてやるけど、俺が幸せにしてやるわけじゃない。  期待はするな。  以上」
「………………はぁ??」


 幸せにはしてやるけど優しくなんかないって??

 「俺」が幸せにするわけじゃない??

 さっき先生、自分で「俺の事だけ考えてろ」って言ったよね?


(……矛盾してない?  先生……)


 どういう意味なのかさっぱり分からなかった。

 言う事がコロコロ変わる情緒不安定さも、由宇には理解出来なかった。

 橘は充分優しい。

 性格がひねくれていて悪魔のように揶揄ってはくるが、こうと決めたら真っ直ぐ前を向いて決して振り向かない芯の強さがある。

 由宇に何度もちょっかいを掛けてくる事はさておき、本当の橘を知っても魅力的にしか映らない。


(どういう事なんだろ?  幸せにしてくれるのに、優しくできないって何?  優しさたくさんくれてるのに。  ふーすけ先生、気付いてないのかな)


 微笑を封印したまま、橘はドアに手を掛ける。


「じゃ、一暴れしてくっから。  二十分で戻る」
「……うん。  穏便にね、先生。  穏便に」
「それは分かんねーっつってんだろ」


 表情を何一つ変えずに車を降りた橘は、ツンツンヘアーの瞬と共にビル内へと入って行った。


(俺は先生の事が分かんないよ……。  ほんとはめちゃくちゃ優しいのに、優しく出来ないって何だよ?  先生の事だけ考えてろって言ったから俺……ちょっとだけドキドキしたっていうのに。  ……どういう事なんだよ……)


 橘の言う言葉はすべて、由宇には難しくて呑み込む事が出来ない。

 キスも、あの熱の入った台詞も、朦朧とした意識の中での橘の笑顔と共に由宇の心に大切にしまわれた。

 それなのに、期待はするなと突っぱねられてしまった。

 まだ由宇が幼いから、理解が出来ないだけなのだろうか。

 そもそも、期待するなとは何なのか。

 にこやかに挨拶をくれた拓也の車に乗り込んで、いつかと同じヘッドホンを耳に装着されながらも由宇の頭の中は悶々としていて……橘からの「説明」を強く欲していた。




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