個人授業は放課後に

須藤慎弥

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8一5 ●ふーすけ先生の取調●Ⅱ

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 ──おいコラ、待てコラ。

 橘の眉間に力が入った。

 今しがた感銘を受けた相手からとんでもない一言が飛び出して、思わず後部座席に居る怜を振り返る。

 由宇は「どうしよう」以外は何の変化も無かったので、それは安心していて良いという事なのだろうと上機嫌だったのに、だ。

 そんな事はしそうにない、清廉潔白な見た目に反して何をしでかしてくれたのか。

 振り返った橘を見据えたまま、ニヤつくのをこらえきれないのか珍しく怜がニタニタしている。


「由宇は気付いてないと思いますが、寝てる由宇にキスした事あるんです。  寝顔があんまり可愛くて……。  寝る前に押し倒してしまったので、熱冷めなかったのもあるのかもしれないですね」


 押し倒したはいいがその時は何もせず、欲に負けて寝ている由宇にこっそりキスをした、という事らしい。

 なーんだ、そんな事か。  それくらいなら今時、小学生でもやっている。

 …………などと楽観的になれるはずがなかった。

 何故こんなにも怒りの感情が湧くのか分からないが、橘のお気に入りのものに唾をつけられたような胸糞悪さを覚えてしまう。


「おいムッツリ、錯覚だと思っとけ。  んなの夢だ、夢」
「夢じゃないですよ。  まだ感触覚えてます。  こんな事ならもう少し味わっとくんだったなぁ。  あ、でも友達なら警戒しないでまた泊まってくれるか」
「誰がムッツリ野郎の家になんか行かせるか。  あいつは何も知らねーんだからビビらす真似すんじゃねーよ」


 この男はお子様などではなかった。

 由宇の事は諦める、身を引く、と聞こえたはずが、友達の位置で体良く美味しいとこ取りをしようとしている。

 家庭環境が劣悪な今、由宇は勘違いだったと知って呑気に、以前と同じく怜を頼って泊まりに行くだろう。

 その隙を狙ってまた寝ている由宇にちょっかいをかけるかもしれないと分かっていて、容易く行かせるものか。

 「ビビらせるな」というより、「俺のお気に入りに手を出すな」と言いたかった。

 だがそれは橘自身も困惑してしまう台詞なので、口を噤んでそれこそ言葉を選んだ。

 不愉快を顕にした橘は、自動ドアをくぐる由宇を見付けてさらに眉間に力が入る。


「いやいや、橘先生こそ自分がめちゃくちゃ変な事言ってるって気付いてます?  まるで由宇のこと好……」
「何がいいか聞くの忘れたけど戻ってくるの面倒で適当に買ってきた!  はい、おつりとカード」


 怜が言い終える前に、由宇が元気に車に乗り込んできた。

 レジでもたつかせる時間稼ぎのためだけにカードと現金を渡したので、怜から聞きたい事は聞けたが余計な話までされて橘はご立腹である。

 小銭とカードと、何故か茶葉濃い目の渋い緑茶を渡されて、俺はジジイかとツッコんだ。


「はぁ?  なんで俺が緑茶なんだよ。  ノンアルビール買って来いよ」
「生徒の前で飲むなってば!  まず俺じゃ買えないし!  てか先生いっつも緑茶飲んでるじゃん!」
「あーなるほど、一応考えて買ってきたわけだ。  エライエライ」
「何?  エビフライ?」
「は?  んな事言ってねーよ。  お前腹減ってんの?」
「減ってない!  先生がエビフライって言うからだろ!」
「だから言ってねーって。  急にエビフライなんて言うと思うか、俺が。  ほんっとおバカだねー」
「うるさいなぁ!  あ、怜は紅茶ね、無糖にしたよ」
「……あ、あぁ、ありがと……」


 ひとしきり由宇を揶揄って言い合いをすると、不思議と機嫌は持ち直す。

 だがバックをしようとギアに手をかけたところで、後部座席で甘えたような声を出す由宇にイラッとした。

 橘は、由宇が怒っているか泣いている姿しか見た事がないかもしれない。

 そんな、いかにも勘違いされそうな甘えた声を出し、橘には見せない穏やかな表情を怜だけには見せるのかと、ルームミラー越しに由宇を睨み付けた。


「俺と態度違い過ぎねー?」
「先生が俺をバカにするからだろ!」


 鏡越しで睨み合うとまたも気持ちは落ち着いてくる。

 茶色掛かった髪色のせいか顔の造作のせいか、威勢よくキャンキャンと元気に鳴くポメラニアンにそっくりで、つい揶揄ってしまうのを止められない。


「ポメはおつかいが上手に出来て偉かったでちゅねー」
「……っキィィィィ!!!」
「あーうるせ。  園田もこれ毎回うるさいだろ?  なんでこんな鳴くんだよコイツ」
「俺は今の……初めて見ました」


 最上級にキレると奇声を上げる由宇を見て橘は笑うが、右の口角を上げただけの微笑だ。

 病院まであと十五分ほどで到着なので、暗い雰囲気のまま行かなくて済みそうだと安堵しつつも、由宇の存在が明るさをもたらしてくれているのは明白だった。

 運転を再開した橘はタバコを吸いたい衝動に駆られたが、今は我慢しておく。

 背後から嬉しい呟きが聞けたので、それくらいなんて事はない。


「へぇ?  園田の前では鳴かないのか。  じゃコイツは俺のペットだな。  ちょうど昨日名前も決まったし」
「何だよそれ!  決まってなんかないだろ!」
「ポメ」
「それでさっきそう呼んでたの!?  もう決定!?」
「いや、今後も増える予定。  名前たくさんあっていいな」
「ムカつくーーー!!!!」


 由宇の絶叫に耳をつんざかれながら、橘はとうとうフッと笑いを溢した。

 本当に、由宇と居ると退屈しない。

 怒ってぷんぷんしている姿は可愛いとさえ思う。

 由宇の隣に座る怜は、このハイテンションな姿を見た事が無かったのか呆気にとられていてさらに笑いを誘った。

 自分だけが知っている姿を怜に見せるのは気に食わないが、怜が由宇にキスをした事実をもうやむやにさせてしまうほどの優越感を、この時少しだけ自覚してしまった。


(ま、ペナルティは2に増えたけどな。  キスなんかされやがって)


 機嫌はそこそこ良くなったはずが、ハンドルを握る手に力が入る。

 鬱蒼とした林の中を進む車中で後部座席の二人を気にしながら、意味不明な感情を持て余す橘はお得意の悪魔の微笑を漏らしていた。




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