個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 怜とあんな事やそんな事をするなど、とてもじゃないが考えられない。

 あの優しげで綺麗な顔で歩いていると、街ゆく人達から振り向かれるほどの美形なのは分かっているが、そういう問題ではない。

 由宇にその気がない以上、怜とは何一つ出来る自信が無かった。


「分かんねーじゃん。  男は狼だからな。  同じベッドで寝てんだろ?  今日辺りキスはされるだろーな」
「えぇぇーー!!  キス……!!?  ど、どうしよう…っっ!?  ふーすけ先生!  どうしよう!?」
「喚くな、うるせー。  お前がちゃんと断わんねー限りひょろ長は気付かねーぞ。  今超ルンルンだろーし」
「そう、そうなんだよ……!!  俺がいけないんだ……昨日ちゃんと訂正しなかったから……」


 他人事だと思って、そんなに飄々としないでもらいたい。

 由宇だって分かっているのだ。

 きちんとあの場で、「違うよ、そういう好きじゃない」と言わなかったからこんな事になっていると。

 ただ怜を傷付けてしまうと思うと、今日も訂正は出来ない気がした。

 落胆させてしまうと、せっかく母親のお見舞いに行く気になっているのにそれも嫌だと言い出しかねない。

 そうなると家族の修復も、下手したら由宇との友情すら経ち消えてしまう恐れがあった。

 すべて悪い方へ転じてしまうかもしれない展望を予感して、……とてつもなく怖い。


「ま、キスくらいはいんじゃね?」
「何でだよ!!」


 やはり他人事だからそんな事が言えるのだ。


(そりゃふーすけ先生にはまったく関係ない事かもしんないけど……!!  友達とキスなんて出来るはずないじゃん!!)


「何でって。  ファーストキスは俺だろ?」
「……っっ???」
「あ?  忘れたのか?  なら思い出させてやる」


 ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がった橘は、おもむろに由宇の顎を取った。

 その瞬間、見上げる格好になった由宇にもその先に何が待つのか分かっていた。

 橘が立ち上がる動作が、まるでスローモーションのように見えて体が動かない。


「そういや、こっちはまだだったか」


 え?と、空とぼけようとした。

 唇まであと三センチのところだった。


「……んっっ……」


 今日も鼻を摘まれるのかと思い瞳は開けたままにしていたが、ぐんぐん迫ってくる橘のイケメン面がついに由宇の唇に触れる。


(キ、キス、してる…………!)


 ちゅ、っと数秒合わせるだけで離れていった初々しいキスだった。

 あまりの衝撃に、微動だに出来ない。

 まさに思い描いていた通りのファーストキスだった。

 ただし、由宇が受ける側になっていたのは想定外だったけれど、経験豊富そうな橘はわずかに顔を傾けてくれていて、鼻頭がぶつかるなんて事は無かった。


「………………」


 温かかった。  そして、とても柔らかかった。

 ほんのちょっと湿っていて、それが妙に気持ち良くて……大人みたいな事をしてしまったとつい頬を染めた。

 唇を少しだけ舐めてみると、橘が噛んでいるミントの味がして何とも言えない恥ずかしさが由宇を襲う。


「お前の一生に残るファーストキスは俺っつー事になったからな。  あとは誰と何回やっても一緒じゃね」
「…………っっ!?」


 たった今の出来事はもしかして夢なんじゃないかと疑ってしまうほど、橘は平然と由宇の前に着席した。

 ほんの一分前と同じ姿勢でガムを噛んでいる。


(キスって……キスって……特別な人とするものなんじゃないの……!?)


「……何言ってるんだよ!  ……ぜんっっぜん理解できない!」
「じゃあ理解しろ。  ひょろ長とキスしても構わねーけど、その先は絶対拒めよ。  お前に気持ちが無いなら流されるな」
「そ、そそそその先って何……!?」
「セックス」
「ヒィィィっっ……!!!」


 いきなり突飛な言葉が耳に飛び込んできて、由宇はのけ反って震えた。

 怜に限ってそんな事しようとするはずがない!

 だがさっき橘は「男は狼」と言っていた。

 ───無い話ではないのかもしれない。

 すぐにそうなりはしないだろうが、お付き合いを始めてしまっている以上ゆくゆくはそれも覚悟しなければならないという事だ。

 そうと分かると、一刻も早く怜に訂正を入れなければ、怜を拒んで傷付けてしまうのと同時に由宇の体も危ない。


「この単語だけでその反応なら大丈夫そうだな。  まぁせいぜい頑張って唇と貞操守れよ」


 立ち上がった橘は、由宇の方を見て唇の端を上げてニヤリと笑った。

 唇が触れ合う寸前は、悪魔面と思わずに「イケメン面」と思ってしまった自分が信じられない。

 今はこんなにも悪魔のようなのに、何故かあの瞬間だけはドキドキして体が動かなかった。

 怜から顔を寄せられた時はすぐに俯いてキスを回避したというのに…。


「ま、守れよってそんな……!  っていうか先生はなんで俺にキスしたんだよ!!  あれ意味あったの!?」


 由宇を置き去りにして出て行こうとする後ろ姿に必死の思いで叫んだ。


(なんでっ?  なんでふーすけ先生はいっつも何も言ってくれないんだよ……!)


 忘れられない車中でのガムキスといい、たった今の照れくさいキスといい、なぜこんな事をするんだと頭が混乱する。

 キスなんて、好きな者同士がする事ではないのか。


(…………いや、そもそもなんで俺は……嫌じゃなかったんだよ……)


 橘を追い掛けようと立ち上がりかけて、やめた。

 すると悪魔面の教師はゆっくり振り返り、


「また明日な」


と、いつもの調子で言い放つと生徒指導室を出て行った。



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