個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 怜はゆっくりと頷いた。

 その瞬間、言い知れぬ感情が次々と湧いてきて、じんわりと心が熱くなった。

 怜を見詰めたまま、由宇はポロリと涙を零す。


「えっ、由宇?  どうしたの、なんで泣くんだよ」
「……良かった……って思って……。  ……お母さん、きっと喜ぶよ……!  待ってるはずだよ、怜を!」


 たとえ女としての悲しみや怒りで心が壊れたとしても、お腹を痛めて産んだ息子を家に独り残している事を気に掛けていないはずがない。

 怜には言えないが、橘に連れて行ってもらった病院内で母親は確かに怜を心配していた。

 怜を、そして自分自身の気持ちを粉々にした不倫相手に発狂する前、そう確かに。

 橘のシナリオ通りにいけば、時間は掛かるかもしれないが怜の家族が元通りになるかもしれないと思うと、泣けてきた。

 まだ最初の一歩だが、これは大きな一歩だ。


「そうかな……?  由宇の言う通り、俺は母さんに会うの怖かっただけだ。  もうね、正直、父親が別の女を好きになろうがどうでもいいって思うようにはなれてるんだよ。  ただこうなった原因を作った女の事は許せないけど」
「そ、そうだよね……。  それは当然だと思う。  でも今はお母さんの事を一番に考えて、大事にしてあげよう?  怜とお母さんが笑顔になったら、それだけで俺は嬉しいよ」


 まだ思いはゆらゆらと定まらないようだけれど、ひとまずは、怜の頑なだった心を溶かす事が出来て心の底から安堵した。

 ありがと、と囁く怜にそっと抱き締められて、優しい腕に収まって首を振る。


(俺がしてあげられる事なんて限られてるんだから……怜はお礼なんか言わなくていいんだよ)


 他人からはおろか、両親からもこんなに優しく抱き締められた経験がないので、どうしていいか分からずそのままジッとしておいた。

 何日か前に「抱き枕」と称して誰かさんから後ろから羽交い締めにされた事はあるが、あれは絶対に思いのこもったものではないので数には入れない。


「……由宇……。  その……お見舞い、一緒に来てくれない、よね?」
「行くよ!  当たり前だろ!  うぅっ……」


 顔を覗き込んでくる怜が弱々しくそんな事を言うので、由宇はまたグスンと鼻を鳴らす。

 するとまたふわりと抱き締められて、少しだけ落ち着かない。


「もう、なんで由宇が泣くかな?  ……優しいなぁ、由宇は。  そういうとこ、ほんと好きだよ」
「うん、俺も怜の事好きだよ……!  怜がもう悲しまなくて済むように、俺も精一杯協力するから!」
「ありがとう。  同じ気持ちだって知って俺も嬉しい。  何となく気付いてたけど、嬉しいものだね。  ……好きだよ、由宇」


(……………………ん?)


 雲行きが怪しくないか。

 この手の経験がない由宇ですらも、互いのこの妙な食い違いに気付いた。


(ちょっと待ってよ、ど、どどどういう事っ……!?  怜……変な事言ってない……!?)


 抱き締めてくる力を強くされて、由宇は怜の体に押し付けられたせいで訂正する事ができなかった。

 どういう流れからか「好き」と言い合ったのだが、由宇は完全にそういう意味では言っていない。

 しかし、怜は何だか違いそうな雰囲気。

 家族の修復が近付いた事に感動していたから、思わず「俺も怜の事好き!」とポロッと出てしまったがそれは友達として、だ。

 由宇がここまで他人の家庭事情に首を突っ込んでしまったのも、すべては怜が替えのきかない大切な友人だから。

 怜もまた由宇の心に寄り添ってくれたおかげで、夜泣きもかなり回数が減ったと思う。

 出会って数カ月だけれど、大切で、一生大事にしていきたいと思った友人は怜だけだ。

 そういう意味で「好き」と言ったのだが、怜は意味深に優しく髪を撫でてくるので、勘違いしてるよ!などとは言えなかった。


「俺、由宇の事めちゃくちゃ大事にするから。  よろしくね」
「…………っっ!?」


(やっぱりそういう意味だったんだ───!!  どうしよう、どうしよう、どうしよう……!?!)


 由宇が驚きまくって見上げると、怜は少しだけ顔を寄せてきた。

 これはいけない、このまま顔を上げていたら恐らく……。


「……恥ずかしい?  ごめんな。  まだ早かったね」


 咄嗟に顔を怜の胸に埋めて、キスされそうな気配から逃げた。

 それすらも怜の都合の良いように解釈されて、抱き締められたままクスクス笑われてしまう。

 まだ早いも何も、怜とキスは出来ない。

 すぐさま訂正しなかったせいで、誤解だと言い出せなくなった。

 ……まずい事になった。

 よろしくね、と言うからには、男女の仲のように付き合うとかそういう話になるのだろうか。


(………………なるよな……)


 母親の元へ行く決意も出来て、さらに由宇とも気持ちが通い合ったと嬉しそうな怜に、今さら「違うんですけど」とはとてもじゃないが言いにくい。

 怜には、何となく気付いてたけど、とも言われたが、由宇は怜をそういう目で見た事など一度も無かった。

 勘違いさせてしまうような事も何一つしていないと思うし、ただただ困惑という二文字が由宇を支配する。


(せっかく解決の道に入ったのに別の問題が発生しました、ふーすけ先生……)


 困り果てて瞳を瞑ると、思い浮かんだのは橘の悪魔面だった。



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