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4.五億粒子のホワイトノイズ

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第四段階:抑鬱
なお死の定めが消えないことが分かると、事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。
深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。

3月11日
3月の昼。
東京テレポート前の広場。
卒業式を終えた実感も無いまま、海斗はまた意味も無くここに来ていた。
目に映る景色をファインダーに入れる事無く、曖昧な思考でただ眺めていた。
手術は、失敗した。
鈴の体は新たな骨髄を徹底的に否定した。
反応は激しく、今も鈴を破壊し続けている。
あと一週間持つかどうか。
そう言って、店長は店のシャッターを下ろした。
海斗はバイト先を失った。
香とは電話を一回入れたきり、会っていない。
今もきっと、鈴の傍にいるのだろう。
そして自分はこの場所にいた。
何もできず、この場所にいた。
いつもの場所で、来るわけもない鈴を待つように、ただその場所にいた。
思考がどこか、自分から遠い。
考えを巡らせても、結論の手前で切り離されたかのように消失していく。
ただ、部屋に居続けて、鈴の写真を見るのは辛かったから。
この場所で空を見上げている。
「ああ・・・」
何の意味も持てない嘆息。
平日の広場は今日も無人。
三月の吹く風にはわずかな春の空気を漂わせていた。
世界は、何かを変え始めようとしていた。
桜が咲くころには、暖かい季節の頃には、沢山の事が変わっているのだろう。
それだけは、理解していた。
だから、今。
残された時間で、何が出来るのだろう。
それだけを、考えていた。
何かすべきだという、“やり残し”が心にあった。
それがなんなのかは曖昧なのに、あることだけは確かだった。
掴めない縄を懸命に掴もうとしながら、自分はただ、ここで座っていた。
車の通過音が千を越える頃。
自分に近づく足音がした。
すぐ近くに来るまで気付けなかった自分に、薫は心配そうな表情を作った。
「・・・あんた、何してんの」
「・・・別に、なにも」
更なる返答は無く、薫は隣に来て、静かに深く息を吐いた。
普段よりもどこかやつれて見えたのは、きっと気のせいではないのかもしれない。
「夜勤明け?」
「うん。昨日の朝からずーっと。もうクタクタもいいところよ・・・」
言って、薫は海斗を自分の肩に抱き寄せた。
「ねぇ、海斗・・・」
弟への想いか、疲労からなのか、薫はとろんとした声でつぶやく。
「奇跡って、起きてくれないものねぇ・・・」
海斗は黙っていた。
それから三呼吸半の沈黙。
風は遠くから迫り、階段を上り、雲一つない青空へ溶けていく。
「そもそも、偶然の入る余地もない状態だからこそ、奇跡に期待するのよね。奇跡すら起きそうもない状況だからこそ、奇跡を待つしかないのよね」
奇跡という言葉を、薫は繰り返した。
複数の内の一つでも偶然叶ってしなえばいいと、投げやりに。
「私も海斗も、もう、こうして待つことしか、出来ないのよね」
答えることは出来なかった。
頷く以外の返答が出来ないのに、どうにか否定する方法を考えていた。
広場の噴水が始まった。
高くのぼる数十本の水柱が、またゼロに戻るまでの数分間、何も話さなかった。
噴水が消え、広場は再度、静寂を取り戻す。
それを合図か、薫が小さい声で話し始める。
「ねぇ、海斗。2日後に鈴ちゃんの再手術があるの」
「・・・ふーん」
「明日死ぬ人を、一か月後に死ぬようにする為の、手術なの」
「・・・へぇ」
次の言葉までには、数十秒の間隔を置いた。
「海斗。辛い事だけど、聞いてね」
「・・・うん」

「・・・鈴ちゃんはもう、絶対に、助からない」

胸に太い針が突き刺さった感触に、手足と思考は一気に停止した。
雲一つない、悲しいまでに青い空の下。
あまりに広い広場の中で、薫は声を上げて泣きじゃくる海斗を優しく抱きしめていた。

その日の夜。
香の部屋。
仮眠を取ってから薫はアイスピックで黙々と氷を削っていた。
表情はどこかぼんやりとしていたが、振り下ろされるピックは確実に氷の角を砕いていく。
疲れてるならば家に帰った方が、海斗は首を横に振った。
音楽の無い部屋には、氷に打ち込む錐の音だけが同じテンポで響いている。
海斗も薫も、どこかぼんやりと、少しずつ球へ形を変えていく氷を見つめていた。
「海斗。無菌室に入る前の夜、鈴ちゃんと一緒に居た彼氏さんって、海斗だったのね」
「・・・あぁ」
「昨日の夜中にね、鈴ちゃんから聞いたの。・・・なぜか鈴ちゃん、今まで誰にも言ってくれなかったの」
「・・・ごめん」
「ううん。海斗のしたことは、きっと良い事だと思う。・・・私もほら、一応女だから。鈴ちゃんがそうした理由は分かってるつもり」
手を止めた数秒の間、薫は海斗を見た。
「ねぇ、海斗」
「あぁ?」
「鈴ちゃん、楽しそうだった?幸せそうだった?」
思い出したのは車の中でのこと。
「・・・多分」
「そう。よかった・・・。きっと、よかったのよね」
氷は砕け、空中にきらめきの軌跡を残していく。
しばらくすると、ほとんど球体の氷が出来上がった。
ウイスキーグラスに落とされれば、心地よい高音を響かせる。
香はアイスピックと布巾をしまい、ウイスキーグラスを両手で持って座った。
グラスの中で転がる球体の氷を眺めながら、独白のようにつぶやく。
「昨日の夜中にね、鈴ちゃんと沢山話したの。寝るのを怖がる鈴ちゃんが寝るまで、沢山・・・」
あまりに簡単に、ベッドの上、ずっと窓から外を眺める鈴の姿が想像できた。
「さっきの夜の話とか、前の天体観測とか話した最後にね、“薫さんは、心残りはない?”って聞かれたの。すごい真剣に聞かれたのに・・・私、答えられなかった。申し訳ないけど、そんなの分からないじゃない?・・・でも先がないと思った人にとっては重要なことなのよね。一番気がかりなことなんだと思う」
「・・・だろうね。俺も何回も聞かれたよ」
「ねぇ、海斗。・・・鈴ちゃんからメッセージ預かってきてるんだけど」
「え?」
海斗は顔を上げた。
香は海斗に一枚のコンビニのレシートを渡した。
その裏には見慣れた丸っこい文字が並んでいる。
『ベストショットは撮れた?答えがノーなら、明日、病室に来ること』
「・・・行っても大丈夫なのか?」
「もう、大丈夫なんてこと無いの。・・・だから、行ってあげて」
これが本当に最後の面会になる事は、言われなくても分かっていた。
「・・・分かった」
「うん・・・」
その後、暫く二人は向かい合いながら無言だった。
自分は頭の中で今までの写真をスライドさせ、薫は昨日の夜中の事を思い出していた。
目の前のウイスキーボトルが寂しげに、照明の光を映していた。
「・・・ねぇ、海斗」
「うん」
「助からない人を前に、私たちは何が出来るのかしら」
答えることは出来なかった。
18の高校生に答えが分かる訳もないし、薫もきっと適当な答えは持っていなかった。
「・・・何が出来るんだろうね。私たちに、何が出来て・・・でも、それが何になるのかしら。死んだら終わりなのよ。何があっても、死んだら終わりなの。死ぬ間際に幸せだろうと不幸だろうと、死んだら何も残らない。それが死ぬって事なんだから。何をしたって、全部ゼロになっちゃうんだから」
からん、とグラスの中で氷が鳴った。
香はずっと氷の表面を見つめ続ける。
「・・・それでも何かしてあげたい。これは、本能?残される人の傲慢なのかしら?」
何が出来るか、その答えは簡単だった。
何もできないのだ。
結末は既に決定している。
控えているのは、延命手術。
根本を解決できない今、何をしたところで、何もならないのだろう。
何もなかったことになってしまうのだろう。
後はもう、本人と残される人々にとって、最も平和な結末になるよう、準備をするだけなのだろう。
海斗は何も答えられず、薫のグラスにウイスキーを注いだ。
氷が緩やかに溶けて、僅かに木の香りが漂う。
「・・・ありがと」
注がれたウイスキーを、薫は一気に飲み干した。
止める時間はなかった。
止める気すらなかった。
僅かに頬を上気させながら、薫はもう一つの海斗のグラスにも注いだ。
視線で促され、海斗も一気に喉へと流し込んだ。
40度の強烈なアルコールがのどを焼いて、脳を直接揺らされているような感触が走る。
自分たちにはもう、これくらいしか出来ないのだろう。
回り始めるアルコールを感じつつも、意識はどこか、ひどく醒めていた。
「ねぇ、海斗」
「・・・あぁ」
「・・・多分鈴ちゃんは、私が看取る、最初の人になる」
「姉ちゃん・・・」
香は大きく息を吐いた後で、自虐的に微笑んだ。
「ダメね、私・・・。仕事が仕事なのだから、こんなことがあるのは当然なのにね。これからも何度も立ち会ったりするはずなのよ。何度も、何回でも・・・」
香はまた自らウイスキーをグラスに注ぎ、また一気に飲み干した。
海斗は両手でグラスを持ち、小さくなった氷を見ながら、俯く。
「俺は・・・」
口を開く。
「俺は、鈴を助けるために、幸せにするために、写真を撮ったのに・・・」
グラスを持つ手が、震えていた。
「そのために、俺はいるのに・・・」
声は震えていた。
ほとんど嗚咽のように、海斗は呟き続ける。
「助けたい・・・でも、俺には、何も・・・出来ない。・・・してあげられない」
海斗の頬からは、水滴が落ちた。
震える腕に何粒も落ちて、小さく色を変えていた。
「姉ちゃん・・・。鈴が・・・可哀想だ・・・。俺、悔しいよ・・・」
香は海斗を包み込んだ。
細い肩と、暖かな体温。
香も海斗も、何かを絶対に守らなきゃいけないというような使命感が、何にも揺るがぬ圧倒的な重量を持って、自分たちのどこかに突き刺さった音を聞いた。



3月12日

第五段階:受容
死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが、死んでいくことは自然なことなのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る

きっと。
石川 鈴の撮影会は、今日が最後になる。
今日が終わったら、もう暫くはカメラを持つことが出来なくなるのだろう。
そう覚悟して、海斗は病院の前に来た。
空がどこか遠い。
3月12日の夕方、広尾病院。
香を迎えに来たことは数知れないが、見舞として、この建物を見上げるのは初めてだった。
肩に一眼レフを一つ、それだけだった。
エントランスからの人通りは少なく、タクシーが暇そうに並んでいる。
歩いて行く途中、店長とすれ違った。
見るのが辛いほどにやつれていた父親は、海斗がここに来ることを知っていた。
沢山の事実を受け止めた上で、ただ一言、「ありがとう」と言った。
エントランスを抜け、1階で一度受付をしてから、エレベータで7階へ。
入院病棟に入り、ナースステーションで受け付けを済ます。
鈴は上の病棟だった。
今になってやっと、鈴が本当に病人なんだと理解できた。
受付の看護師は、面会は長くても1時間以内とすること、ついでに鈴の恋人であるかどうかも確認した。
長い廊下を歩いて行く。
スリッパの音がぺたんぺたんと緊張感の無い音を立てる。
すれ違う患者は全て、老人だった。
この廊下の先に鈴がいることなど嘘のようだったが、嘘ではなかった。
『723号室 石川 鈴』
表札は一字一句間違える事無く、そこにあった。
扉の前で数秒、固まる。
ノックをするのには、多少の覚悟が必要だった。
ノックを二回
「海斗です」
「どうぞ」
二週間ぶりの鈴の声は、前の変わることはない。
冷たい取っ手を握り、ドアを開ける。
小さな背中。
鈴はベッドの端に座り、開けっ放しの窓から、夕日を眺めていた。
病室の全ては夕焼けの褐色で塗りつぶされ、カーテンが風にゆらゆらと揺れている。
暖房が鈍い音を響かせながら、外の冷気と戦っていた。
「・・・遅いよ、海斗。予定より5分遅れじゃん」
「ごめん」
鈴は振り向く。
流れる髪の軌跡は二週間前と異なって、固かった。
「冗談。・・・久しぶりね、海斗」
「・・・うん、久しぶり」
逆光。
鈴が夕方を指定した理由が少しだけわかった気がした。
その髪の半分がウィッグであることも、わざわざ私服に着替えていたことも、青い頬や腕に青いあざが出来ていることも、全てを見ないことにできる時間がきっと、夕方だった。
「鈴。窓開けて良かったのか?」
「良くは無いけど、いいの。私にはもう、無菌室もいらないの。・・・まぁ、私がとことん嫌がったからなんだけどね」
表情はいつもの鈴なのに、笑う声には、力が無かった。
「・・・辛くないか?」
「大丈夫。ほら、二週間前とあんまり変わらないでしょ?」
「うん・・・」
「・・・たくさんの薬で何とかしちゃってるのよ。海斗ならもう、痛くて苦しくて、発狂してしまうような苦痛を、何とかしちゃってるの」
それから鈴は笑顔で飲んだ薬を簡単に言った。
痛み止め、造血剤、点滴に輸血、抗鬱剤。
「薬のせいで少し浮かれた気分になってるのよ。まぁ、海斗にはこれくらいが丁度いいでしょ?」
「鈴。お前もしかして、この面会のために」
「バカねぇ、海斗は」
髪に夕日を映し、鈴は幸せそうに笑う。
「私はね、海斗のためなんかに、頑張ったりしないよ」
「ああ・・・そうか」
「そうだよ。自惚れちゃだめだよ、海斗」
「はははっ、確かにそうだな」
「・・・そうなのよ」
バカにしながら、されながらも、2人は笑っていた。
泣きそうだったけど、笑っていた。
暖房の駆動音、差し込む夕日、時間はあまりに優しすぎて事実はあまりに悲しすぎた。
「ねぇ、海斗。こうして来たって事は、まだ写真、撮りきれてなかったんだね?」
「うん。今頃になってで、すまないけど」
「・・・言ったでしょ?私はね、誰にも“やり残し”をさせたくないの」
「何度も言ってたね」
「しかも、海斗はしょうがないヘタレだしなぁ・・・」
「はいはい」
「・・・いいよ。今撮っても」
「いいの?」
「いいも何も、海斗にしか、撮れないのよ。私の事はもう、海斗にしか、残せないのよ」
鈴の瞳はまっすぐ海斗へと向かっていた。
「この病室も、次に誰かが使う。家だって貸家だから、いつかは誰かが使う。高校の名簿は、私の蘭が消える。私の痕跡はね、ものすごく簡単に消えるのよ。・・・だから撮ってほしい。撮ったからって別に何にもならないけど、残してほしい。ここにいた証明。石川 鈴が、ここにいた、証明」
それが、2月から始まった撮影会の、最後を始める合図だった。
交わす言葉は少なく、シャッター音だけが断続的に部屋に反響する。
ファインダーの中で鈴は、幸せそうな笑顔を作っていた。
あれだけ苦労した自然な笑顔が、そこにあった。
撮った十数枚の写真の中で。
もうすぐ死ぬ少女は、全てを受け止め、全てを諦めて。
結果として、微笑んでいた。

「・・・手、握ってくれる?」
撮影を終えた後で、鈴は呟くように言った。
相変わらず小さくて冷たい、また細くなったような手を握ると、鈴は窓の外を見つめる。
「この窓からね、夜景が凄いのよ。特に大晦日のときとか、にぎやかだろうし」
「駅とかすごい込み合うだろうね」
「海斗は行ったことある?」
「いや、あんまり」
「そっか。・・・楽しいのかな?通る人はみんな楽しそうだけど」
「まぁ、町中がお祭りみたいなものなのかもね」
「そうかぁ・・・いいなぁ・・・」
会話はそこで途切れた。
手を少しだけ強く握られて、握り返しただけだった。
その先の会話はきっと、今ではもう、意味の無い会話になるに違いなかった。
「・・・そういえば海斗、遺影は出来た?」
「候補の写真の選別くらいだよ」
「見せてくれる?どんなんか、私がチェックしたいな。変な写真だと嫌だし」
「ああ」
ベッドのテーブルには、いつか渡したフォトフレームがあった。
それだけがあった。
一度手を放し、一眼レフとケーブルで接続して、データーを送る。
送信完了の表示が映るころには、海斗の左手が鈴の右手に包まれていた。
「・・・第一候補だと、これかな」
画面に映ったのは神社での一幕。
鳥居の下、微笑む鈴の写真だった。
「・・・んー。これはダメ」
「なんで?」
「何か、笑顔が緩すぎに思わない?もうちょっとは、ぴしっとした顔が良いと思う」
「そうか?」
「そうよ」
「それじゃ、次だと・・・これかな」
2月7日。
初めて制服姿で現れた日。
葉のない桜の下、風が僅かに髪を揺らす、淡い写真。
「これもイマイチ・・・。制服ってなんかアレじゃん。さも“学生なのに亡くなった不幸な少女”って感じで嫌じゃん」
「厳しいねぇ」
「そりゃそうよ?私のなんだから」
鈴は笑って、写真の表示を次々にスライドさせていく。
自分の遺影を選ぶ。
どうしようもなく悲しい作業だったのに、二人は楽しげに一枚を選び抜いた。
その間で、店長や薫や海斗と撮った写真が映るたび、鈴は目を細めて淡い笑顔を作る。
選別は続く。
十数分を使って選び抜いた一枚は、二人で初めて撮った、ぎこちない笑顔の写真だった。
「マジかよ。よりによって、これ?」
「いいじゃん。私がいいって言ったらいいの。これが一番私らしいと思うの」
行ったあと、鈴は暫くの間、その写真を眺め続けた。
鈴がいなくなったと同時にあり続けるその姿を、愛おしそうに眺めていた。
「・・・いい写真ね」
数百枚の最後は、優しい評定だった。
目頭が熱くなって、どうしようもなくなる、評定だった。
「・・・ねぇ、海斗。私がどうなっちゃうかは、もう聞いてるでしょ?」
「・・・あぁ」
「ホント困ったねぇ。とことん運が悪かったみたいだね、私」
他人事のように、鈴は言う。
「ねぇ、海斗」
「うん」
「死ぬのって、やっぱりどう考えてもね、怖いの」
握られた手に、僅かな力を感じた。
「海斗は考えたことある?自分が死んだらどうなるんだろうって」
頷く。
誰もが一回は必ず考えることだと思う。
そして、証拠もない結論ばかりを並べて、うやむやにしてきたと思う。
「私はね、考え過ぎて、泣いたこともあるよ。ちょっと前まで、毎日泣いてばっかだった」
カーテンが揺れた。
部屋の外で誰かの足音が遠く響いた。
開け放った窓に向けて、鈴は視線を投げる。
「結局ね、克服なんて出来ないの。出来るのはただ、諦めることだけ。仕方ない、どうしようもないって諦めるだけ。それが私の結論」
「・・・鈴はもう、諦めたのか?」
「うん。諦めた」
笑顔で言わないでほしかった。
いつもみたいに冗談めいて、あるいは悲しげに言ってほしかった。
鈴は笑顔で「私は諦めたから、海斗も諦めろ」と伝えていた。
心残りがまた、勝手に消されていく。
「・・・海斗、約束したよね?私が死んでも、海斗は傷つかず、泣いてもいけないのよ?」
「・・・ああ、分かってる」
「ホントに分かってる?海斗、今にも泣きそうな顔してるじゃん」
「まだ・・・訓練中なんだよ」
「どうしようもないなぁ、海斗は」
頭の上に、鈴の手が乗った。
子供をあやすかのように、柔らかな笑顔で、髪を撫でていた。
「大丈夫だって、海斗。津波みたいなものよ。押して、引いて・・・それが終われば、楽になるから。その間だけ我慢すれば、何とかなるから・・・」
手が下がっていく。
盲目の人が、手の感触だけで物体を知ろうとするかのように、優しく、怯えながら、手が触れていく。
髪を撫でた手は耳を、頬を、鼻を、口を通り、首に触れる。
鈴は海斗の首を引き寄せると、唇を重ねた。
「・・・ごめんね、海斗。やっぱり、巻き込むべきじゃなかったんだろね。こんな最後になっちゃったし」
「いや、後悔はしてないよ」
「私がしてるの。言ったでしょ。私のせいで悲しむ人がいるのは辛いの」
脇で鈴は寄り掛かった。
掴んだ手と繋いだ手に、力が籠った。
顔を上げて、鈴は微笑む。
夕日が鈴の表情にコントラストを与えていた。
全てが褐色に染まる世界で、鈴は幸せそうに、笑っていた。
そこには互いの純粋な感謝があって、混沌とした愛があって、その間に冷徹な結末が横たわっていた。
ありがとうの言葉がお互いから出る、その一拍前。
控え目なノック音が二回、鳴った。
「二ノ宮 海斗さん。そろそろお時間となりますので・・・」
時計を見ると、既に面会開始から一時間半を超え始めていた。
重病人を見舞うには長すぎる時間だった。
手が離れた。
ほんの一秒、たった一秒だけ見せた、寂しげな鈴の表情は、この先延々と記憶していくのだと理解した。
「・・・悪い、こんな長く。無理させすぎた」
「いいよ。何も困ったことなんて無かったし」
準備を終えて、立ち上がる。
鈴はベッドの脇に座り直し、窓の先を見つめ始めた。
後は別れの言葉を言えば、長かった撮影会と、短かった石川 鈴との恋も終わる。
背を向けた鈴は、何も言わなかった。
「・・・鈴?」
「ドアを開ける後ろ姿って、見たくないの。・・・最後に見たのが後ろ姿って、嫌なの」
「・・・そっか」
「うん」
「・・・なぁ、鈴」
「なに?」
「鈴は、本当にやり残しとか、無いのか?」
「・・・海斗。そういうのはもう、諦めていいの。もうこの先には何もないんだから」
「そう・・・分かった」
次を言えば終わる。
この姿を見ることも、この声を聞くことも、今後一切、無くなる。
・・・言葉が出なかった。
声を出したら、同時に泣くのだろうと、分かっていた。
「・・・ねぇ、海斗

―大丈夫?」

―明日、自分が死んでも心残りはない?
思えばずっと、この言葉を言われてきた気がする。
撮影会の時でも、ファインダー越しに、鈴は視線で疑問を投げ続けていた。
このたった短い言葉が、鈴と海斗との、全ての会話の集約だった。
どんな文化でも、どんな時代でも、どんな状況であろうとも交わされてきた、ありきたりな人間の会話。
それが二人にあった会話の、集約だった。
「・・・待ってね」
言うと途端、鈴はゆっくりと上着のボタンを取りはじめ、上着を脱ぐ。
上着、から下着、全てを脱いでから、鈴はまたベッドに座った。
視界には、病室があった。
そこには開け放った窓から降り落ちる陽光を見つめる、生まれた時の姿でベッドに座る鈴の背中があった。
体は細くて白く、所々に青く広がったあざが付いている。
あまりに寂しくて、あまりに悲しい光景は、あまりにありきたりな構図を保っていた。
それはまるで、石川 鈴を表すかのように。
それはまるで、今までずっと待ち続けたシャッターチャンスのように。
カメラを構えた。
ファインダーに小さな背中が映る。
電子音を立てて、鈴にフォーカスを当てた。
これで終わる。
シャッターを切った時に、沢山の事が終わる。
指が震えていた。
映る画面が、小刻みに揺れていた。
か細い紐を断ち切るように、さよならを告げるように。
シャッターボタンを押し込む。
ラストショット。
終わった・・・。
全てが、これで。
その瞬間、両手の力は全てが抜けた。
やがて視界は判別不能なまでにぼやけ始めた。
「あ・・・う・・・」
声にならない声を漏らす。
もう、だめだ・・・。
ダーン!
大きな音に一瞬肩を震わせた鈴は、後ろを振り向くなり驚いた表情をして海斗を見た。
「・・・海斗?」
振り向いてほしくなかった。
なぜならそこにはカメラも持てずにボロボロに泣く、みっともない姿があったから。
床には落としたカメラの割れたレンズとプラスチックのバラバラになった破片と部品が散乱している。
約束も守れない、情けない男に、きっと鈴は幻滅する。
軽蔑するに違いないし、されても仕方がない。
そう思うほど、今度は海斗の脚力が奪われていき、床に付いてしまった。
だが、近づいてきた鈴はどちらでもなかった。
ちょっとだけ幸せそうに、でも柔らかいような苦笑いを浮かべながら海斗の肩を持つ。
「泣かないでって・・・。もう、相変わらずヘタレねぇ、海斗は」
「・・・ごめん」
思いもしなかった鈴の優しさに、なおも涙はあふれ出してくる。
鈴は海斗の頭を包むとそのまま自分のちいさな胸に優しく押し当てた。
「ねぇ、海斗。これはもう、どうしようもないことなの。海斗は何一つ悪くないし、私も多分悪くないし、悪い人もいない。海斗が悔やむことなんて何もないし、私もそれを望んでない。それに・・・これは、私と海斗の最後の会話になるんだよ。だから・・・最後は笑顔で帰ってくれないと困る」
しばらくの間、鈴の裸体に身を任せて、静かに泣いた。
鈴の手が、海斗の頭を優しく撫でていた。
元気な男子高校生がこれから死ぬ裸の少女に慰められるという、途方もなくカッコ悪い光景がそこにあった。
懸命に心を落ち着け、袖で涙を拭う。
深呼吸して呼吸を落ち着ける。
「やれやれ、困った子ね。・・・まぁ、ヘタレな海斗らしいけど」
鈴は夕日が差し込む窓とその先の空を眺めた。
「やり残したこと、かぁ・・・。じゃぁ、しいて言えば、一つだけ」
「なに?」
「ちょっと待って」
そういうと鈴はまた服を上から着なおして、また海斗の所へ来ると両腕を出した。
「おんぶして。また前みたいに」
背中を向けて後ろに載せ、立ち上がる。
「・・・鈴」
「薄い胸だねとか言ったら・・・」
「絞め殺していいよ」
鈴が小さく笑った。
でも海斗が言いたかったのは違った。
前と比べても想像以上に軽かったことに、思わずまた涙のしずくが落ちた音がしても、鈴は何も言わなかった。
指示されるままに2人は病院の屋上へと来た。
「夕日、綺麗ね・・・」
病院の屋上に照らす夕日の温かさが2人を優しく包み込む。
「好きな人と夕日を見る、私が最後にしたかったこと」
突拍子もない、きっと今さっき思いついたんだろう。
でも鈴は幸せそうだった。
「私ね、さっき海斗が泣いてるのを見て、ちょっと嬉しかった。なぜだろう・・・悲しんでくれる人がいるって、幸せなことなのかな」

病室に戻った。
カメラは壊れた。
一瞬にして6、7万の高価な道具が、鉄の塊になっても、海斗は不思議と幸せそうだった。
病室の扉で互いは抱き合いながら、額を付ける。
キスをした。
「大丈夫?」
鈴が言う。
「・・・これで、大丈夫だよ」
海斗は言う。
「・・・そっか」
鈴が答えた。
「うん」
一歩、病室から出る。
名残惜しそうに体は離れ、腕が離れ、手が、指先が、離れていく。
「それじゃあね、海斗」
「うん。・・・それじゃあ、鈴」
2人の視界の間にドアが閉まる。
モザイクの窓にはまだ鈴が立っているのが分かるが、海斗は背を向けるとエレベーターへと飛び乗った。
壁に背を付けたまま、動けなかった。
足に力が入らない。
見上げると、天井が、すぐさま滲んでいく。
「・・・ぅ。・・・あぁっ・・・」
泣き崩れた。
この時まで、知らなかった。
こんなにも悲しいことが世の中にあるなんて、知らなかったのだ。


3月13日
東京テレポート駅前の広場の公園。
辺りは雨と湿気で包まれていながら、時折冷たい風に髪が僅かに揺れる。
昨日までの小春日和が嘘のように、空気は冷え切っていた。
連なる何層もの雲が、緩やかに世界を押しつぶそうとするような空だった。
午前11時。
鈴の再手術が行われる。
あれから、薫から聞かされる病態は、耳を塞ぎたくなるような内容ばかりだった。
反発する免疫は、母体となる鈴の体を致命的なところまで叩き潰していた。
そして自分は、ここにいた。
何もできないが故に、ここにいた。
遺影の写真は既に店長の所へ渡し終え、出店用の作品も作り上げた。
全てを終えてここにいた。
後はもう、祈ることしかできなかった。
起きることの無い奇跡に希望を託すだけだった。
「・・・どうか、神様」
『神様に祈ったって、助けてくれないよ?』と鈴の声が頭に響く。
思えば3年間、同じ学校だったにも関わらず、海斗は鈴の事を、あまりに知らなかった。
己の遺影となる写真を撮りながら、何を思っていたのか。
長い病院生活の中で、何を思っていたのか。
星を見ながら、何を思って泣いたのか。
神社で何を祈り、別れる友人の背を見て、何を思っていたのか。
二ノ宮 海斗をどのように思い、寒い夜中に何を思って歩いていたのか。
知らないことが多すぎた。
そして今後も、知らないままとなることが多すぎた。
だから、今。
出来ることは、諦めることと、祈る事、それだけだった。
静かに、両手を握り合わせる。
目を閉じる。
いるかどうかも、信じてもない神様に、都合よく、今だけの祈りをささげる。
『だから、祈ったって意味なんかないよ』と鈴が呆れる声が響いても、手を放さない。
そんなことは分かっているのだ。
それでも、それでももう、祈るしか出来ない。
はるか遠くから聞こえる車の通過音、通りかかる人の足音、限りなく平和なこの場所で。
何も悪くない少女を消していく、あまりに残酷なこの世界で、ただただ祈り続けていた。
自分は何を失ってもいいから、とにかく助かってほしいと祈った。
奇跡が起きてくれることを信じて。
悪者のいない世界に、これ以上の不幸が起きないことを願って。
体中は濡れていた。
頬が凍って、足先がかじかんで、それでも、こうしている限り、鈴が助かり続けると思いたかった。
だから、祈った。
この世にいるかも分からない、神様に。
ずっと、ずっと。
ただ、ずっと、祈っていた。

数十分後、電話が鳴った。
香からだった。
結果を聞いて、携帯をしまった。
立ち上がる。
降り続ける雨を見上げ、その先にある宇宙を睨みつけていた。
喉が裂けそうなほどに叫んでいたのに、声が聞こえなかった。
頭の中ではずっと、波が引くようなホワイトノイズ音が、鳴り響いていた。
この日から、海斗は初めて雨の日を好きになった。
3月13日、雨の日。
手術は、失敗した。

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