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第三章
狼の捕獲
しおりを挟む冬の夜が深まり、外の風はますます冷たさを増していた。
稲荷は、古びた布団にくるまりながらも、全身に寒さが染み込むのを感じていた。布団は薄く、寒気を完全に防ぎきれない。
「しゅんっ…」
鼻をすすって、稲荷は体を小さく丸めた。どんなに身を縮めても、冷えは和らぐことなく、手足の先がじんわりと痛みすら感じるほどになってきた。
同じ部屋で寝ている心鉄を起こさないよう、寝返りをうった。今夜は特に寒さが厳しかった。
「あ…」
隣で寝ていた心鉄が目を開いて、稲荷の方を見ていた。
「寒いやろ、こっち来れば」
心鉄は少し布団を広げた。
稲荷の脳裏に浮かんだのは、以前心鉄が彼に「番だ」と宣言した日のことだった。あの時の真剣な瞳を思い出すと、どうしても少し身が固くなってしまう。心鉄は、ただの同居人ではない。
彼の提案に甘えて布団に入れば、その距離の近さが何を意味するのか。
心鉄に対する気持ちが、完全に嫌ではないことも自覚している。それどころか、時折心鉄の優しさや温もりに心が揺れることもあった。
しかし、番として受け入れるには、まだためらいがある。それが何故なのか、稲荷自身もはっきりとは分からない。ただ、素直に心鉄を受け入れるのが怖いような気もする。
心鉄は寒くて風邪を引かないよう心配してくれているだけだというのに、ここまで考えてしまうのも恥ずかしい。
「…でも、お前が寒いだろ」
稲荷は躊躇いながら、心鉄に尋ねた。自分の心の中で揺れ動く感情を隠しながら。
心鉄は笑って首を振った。
「風邪ひいたら大変やろ、ほら。俺は丈夫やし、一緒のほうがあったかいやん」
稲荷はしばらく迷ったが、結局心鉄の隣に体を寄せることにした。
心鉄の温もりが、冷たい夜の寒さを一瞬で和らげてくれる。
「温かい…」
「やろ」
しかし、その温もりが稲荷の心をさらに複雑にさせた。
「ありがとう…」
心鉄に感謝を伝えながらも、稲荷の心の中ではまだ多くの思いが交錯していた。温かさと共に増していくこの微妙な距離感が、稲荷にとっては心地よくもあり、戸惑いの元でもあった。
冷たい風が肌を刺す冬の午後、稲荷と心鉄はアキオたちと村の広場で遊んでいた。雪が積もる中、子どもたちの笑い声が澄んだ空気に響き渡っていた。
心鉄は尻尾で遊ぶユメを楽しそうに見守っていた。
「もう少しで勝てるぞ!」
アキオが元気よく声を上げ、雪の中を走り回っていた。
雪を丸めて、トシキに目がけて投げる。アキオより二つ年上のトシキのほうが分があるが、アキオも負けていない。
彼の顔には笑顔が浮かんでいたが、その裏ではお腹が空いているのだ。
寒さが厳しくなり、村では依然として食糧不足が続いていた。アキオは自分のことよりも、ユメを気遣っていると聞く。ユメに食べ物を先に与え、自分は少し我慢しているのだ。
「ふたりとも頑張れ!」
稲荷が楽しそうに声をかけて声援を送る。
途端にアキオとトシキが結託して稲荷に雪玉を投げ始めた。
「えっ、ちょっとちょっと!!」
「頑張れって言われたら張り切るしかないわ!」
ユメを抱きかかえ、心鉄が叫ぶ。
「そっちの”頑張れ”じゃないよ!」
稲荷はヘトヘトになるまでアキオとトシキから逃げ回った。
心鉄は、元気な子ども二人に雪玉を当てられ座り込んだ稲荷に二人がじゃれついている姿をユメと見ていた。
その時、心鉄がふと村の端に視線を向けた。
彼の瞳が鋭く光り、冷たい風の中で鼻をひくつかせた。遠くの雪に覆われた木立の影に、狼のようなシルエットが一瞬見えた気がしたのだ。心鉄の胸に緊張が走る。だが、雪かきをする周りの大人たちも、誰もそのことには気づいていないようだった。
稲荷も子どもたちた遊んでいる。
心鉄は目を細めながら、再び木立の方をじっと見つめた。しかしもう影は消えていた。気のせいかもしれない、そう思いたいが、心鉄の胸騒ぎは止まらなかった。雪が降りしきる中、狼が近づいてきているかもしれない――きっとガロウの群れだろう…、その予感が彼の心を重くさせた。
「心鉄? どしたの?」
ユメが不思議そうに声をかけてきた。
「ん? なんもあらへん」と心鉄は静かに答えたが、気を抜くことはできなかった。
雪の中で遊ぶ子どもたちを見守りながらも、心鉄の目は絶えず村の端を警戒していた。
その夜のこと。
アォ゙ーーーーーーーーン………
どこからか獣の遠吠えが聞こえ、祠から戻る途中だった稲荷と心鉄は、それが狼のものだとわかった。
それも、かなり切羽詰まっている。
先に動いたのは心鉄だ。
「心鉄?!」
「ちょっと見てくる!」
「あっ…! 僕も行くよ!」
「見てくるだけやから!」
心鉄の後ろ姿を見送りながら、稲荷は不安を隠せなかった。
「心鉄…」
心鉄が覚えていないだけで、その狼が本当の家族だったらどうするの?
稲荷は、早々に狼の群れが心鉄を取り返しに来ると怯えていたが、そうはならなかった。しかし、それは諦めたからではなく、今が冬で、それもここ数百年で最悪の冬だからだと思っている。
こんな時に相談したい羽夜も、食糧を求めてかなり遠くの山を渡っているし、鈴愛も巣ごもりしている。
春まで会えない。
耐えてやり過ごすしかないこの身を不甲斐なさが包みこんだ。
心鉄は遠吠えがする方へと足早に暗い山の中を駆けていた。冷たい風が肌を刺す中、知った匂いが心鉄を導いた。村にほど近い場所。
村に明かりはない。もうみんな寝静まっていた。
雪の中で狼の影を見たのは、この場所ではなかったか…?
そこにいたのは、ガロウだった。
心鉄は目を見張り、ガロウに駆け寄った。
「ガロウ...! どうしてここに?!」
ガロウの目は険しく、白い息の隙間から背後には数人の狼が控えているのが見えた。
ガロウは苦しげに唸り声を漏らしながら、心鉄に近づいた。
「待てよお前ら! 何してんだよ?!」
嫌な予感に突き動かされて、心鉄が叫ぶ。
「アオ…群れは飢えている。もう山では食い物が見つからん.. 」
「ガロウ、放っとけ、行くで」
群れの一人がガロウに話しかける。
狼達が村に向かっていく。
「待てよ! 何をするつもりやお前ら!! やめろ!!」
心鉄は驚きと動揺を隠せなかった。稲荷が大切にしている場所、心鉄にとっても。
自給自足で自然と共に成長してきた村が、ガロウたち狼の標的になろうとしている。
心鉄は全速力で走って、ガロウ達の前に立ちはだかった。
「なんやテメェ…!」
「邪魔すんな!」
「ガロウ!! 村には無防備な人たちがいるんや! 彼らを襲うなんて許せない!!」
ガロウをはじめ、狼達の目は揺るがなかった。
「群れの生活がかかってる…生き残るためには何でもする。お前もわかるやろ?」
ガロウは一歩前に出て心鉄の肩に手を置いた。その目には、かつて兄弟愛を示した親愛の色はなく、どうにもならない苦悩が映し出されていた。
心鉄はガロウの言葉に胸が締め付けられる思いだった。心鉄には、彼らと過ごした記憶はない。しかし、同じ狼であることには違いない。
狼たちの行動を見守るしかないのか?
この先には村人たちがいるのに?
「あかん、ガロウ! 村も必死にこの冬を耐えてる! お前たちと一緒や! やめてくれ!!」
心鉄は必死に食い下がるが、ガロウたちの意志は固かった。
その時、村の方からかすかな物音が響いた。
狼の耳が反応する。
心鉄が振り返ると、村の明かりが灯り始める。
村人たちが異変に気づいたのだ。
「…ちっ!!」
「!!!」
「狼だ!! 狼が来た! 村を守れ!」と、一人の村人が叫んだ。村の男たちが武器を持ち、集まり始めた。
狼たちもその声に気づき、動揺が走った。
「時間がない! 行くで!」とガロウが指示を出すが、心鉄は再び彼らの前に立ちはだかる。
「ここから先は行かせへん!」
心鉄が狼の進行を阻む。
「コイツに構うな! 貯蔵庫に行くぞ!」
「待て!」
村人たちは怯えながらも、貯蔵庫に向かう狼を追う。中にはその場に立ちすくんでいる者もいる。狼たちの荒々しい雰囲気に押される形で、村人たちは一歩下がっている。争いとは無縁の村だ。明らかに分が悪い。
「ガルルル…!」
「ひいっ!」
「やめろ! 村人に手を出すな!」
狼たちは貯蔵庫から村の食糧を盗み始めた。干し野菜や穀物の袋が次々と狼たちに奪われていく。
「ガロウ、止めろ!」
心鉄は狼たちに向かって叫び、蛮行を止めさせようとするが、頬を殴られてたたらを踏む。心鉄の声はかき消されてしまった。
持てるだけ食糧を抱えた狼たちが村を出ていく。
村人たちも成すすべがないまま、しかし、なんとか抵抗をしようと、狼の後ろ姿に縋り付くようにして足を止めさせた。
「俺達の食べ物を返せ!!」
「くっ…!!」
狼が一人、引きずり倒される。
「やった!」
「ギンジ!!」
「構うな! 行け!」
ギンジの声に狼たちは咆哮しながら走り去って行った。
「捕まえたぞ!」
一人の村人が歓声を上げる。ギンジは必死にもがいたが、数人の村人に取り押さえられ、逃れることはできなかった。
「連れて行け!」
大変なことになった。
心鉄は、稲荷に知らせるため、慌てて走り出した。
眼前には、ガロウたちもいた。
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