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第二章
食料不足の冬
しおりを挟む冬が訪れる頃、心鉄と稲荷はすでに食糧不足に直面していた。その苦しみは秋から始まっており、ふたりにとって、いつものように穏やかに過ごせる冬とは違っていた。
夏が終わる頃、山や村には豊かな収穫が期待されていた。しかし、現実は厳しかった。
日照りが続き、畑の作物は十分に成長せず、稲穂は黄金色に染まる前に枯れてしまった。
稲荷は毎年、この時期になると山から豊かな恵みを得られると信じていたが、今年は違った。夏の干ばつが響き、実りは少なく、村も山も日に日に厳しくなっていった。
いや、予感はあった。
稲荷はその時にできることとして、山菜やキノコなどを干したり、長期保存できるものを蓄えていたのだが、見通しが甘かった。
「まさかこんなことになるなんて…」
稲荷は秋の終わりを感じながら、ふと独り言をこぼした。山を歩き回りながら、いつものように木々から落ちる実や、地面に生えるキノコを探すが、今年はその数が極端に少ない。
いつも通りに食料を確保しようとしたが、その努力は報われなかった。キノコも早々に取り尽くしてしまった。山の恵みは確実に減少していた。
「この夏は雨が少ないと思ってたけど、こない影響するとは思わへんかった…」
心鉄が呟いたのは、ある日のこと。彼の足元に転がっていたドングリも、実は小さく痩せ、半分以上が中身のない空っぽだった。普段であれば豊富な餌を得られる獣たちも、その数を減らし、獲物を求めて山を移動していた。心鉄が追いかける鹿やウサギも、姿を消すことが多くなっていた。獣たちは食べ物を求めて移動を続け、心鉄や稲荷が確保できるものは日々減少していった。
「ごめんね、心鉄。君にひもじい思いをさせることになるなんて…」
「いや、そんなん気にすんなって。まだ山になにも無いわけやないし」
そう言って、心鉄はまた山の奥に入って行った。
稲荷は山の中で立ち止まり、目の前の荒れ果てた景色に目を細めた。夏の干ばつで栄養を失った木々や草は、秋になっても回復せず、荒れたままだった。
「山は、生き物たちが集まる豊かな場所であるべきなのに…」
稲荷の心に、不安と焦りがじわじわと広がっていた。
彼は長い年月を生きてきたが、今までこれほど厳しい状況に立たされたことはなかった。
どのようにすればこの危機を乗り越えられるのか考えていたが、答えは見つからなかった。
「…神様…どうして帰って来てくださらないのですか…」
稲荷の声なき声は、誰にも届かない。
神様がいれば、夏に雨を降らせられた。山と村に豊かな恵みをもたらすことができたのに。
祠を守るだけでは、山は潤わない。
稲荷は自分の手のひらを見つめ、ため息を落とす。
この手は無力すぎる…。
村でも、状況は深刻化していた。秋の終わりとともに、不安が広がり始めていた。村人たちは、夏の干ばつで蓄えが少ないことを承知していたが、当初はまだ楽観的だった。
主食が足りないながら、獣が冬眠する前にできる限り狩りをして、肉を保存していた。
すぐに収穫できる野菜を育てたり、できることをしていたが、焼け石に水だった。
しかし、秋が深まるにつれて、収穫の少なさが現実となり、蓄えも次第に底をつき始めた。
村人たちは、この冬をどのように乗り切るべきか頭を悩ませ、次第に互いに疑心暗鬼になる者も現れ始めた。
稲荷は村の様子を見ながらも、彼らを助ける余裕がないことに心を痛めていた。普段であれば、山の恵みを村に分け与えることができたが、今年はそれが叶わなかった。稲荷自身も食糧不足に直面しており、心鉄と共に生き延びるために必死だった。
「俺達より、このままやったら村が冬を越されへんかも…」
心鉄の言葉が、冷たい風にかき消されていった。彼の声は木々の間を吹き抜け、どこにも届かなかった。
秋が終わり、初雪が降り始める頃、山は凍てついた寒さに包まれた。
心鉄と稲荷は、ただでさえ苦しい秋の終わりからさらに厳しい冬の訪れを感じ取っていた。狩りの機会は減り、山の獣たちは一層姿を消していった。村では、不安が膨らむ中、食糧の蓄えは日に日に減っていった。村人たちの間には、険しさと疑念が漂っていた。
「春になればまた実りがあるから…」と、稲荷は心鉄を励ました。しかし、その言葉はどこか空虚に響いた。
稲荷自身も自分の言葉に自信が持てなかった。秋から続く苦しい日々は、まだ終わりが見えず、先行きはさらに暗く感じられた。
稲荷と心鉄は、群れからはぐれた鹿を狩ることに成功した。すぐには食べず、保存できるように加工した。わずかだが、村にも持って行った。
村人全員の腹を満たすには足らない量だが、長老は、「ありがたい」と言って受け取った。
「儂は、長老として情けない」
好々爺の嘆きは、稲荷の嘆きだ。
祠を守ることで、山を守っていたつもりになっていた。
そして、なにかあれば神様が戻って来てくれるだろうという淡い期待も。
「いいえ、まだ諦めないでください。僕たちもできるかぎりのことをしますから…」
永らく山に神の恵みが絶たれたことの影響は、稲荷自身も感じていた。山は荒れ果て、神の声も聞こえない。
「神様…本当にもう戻って来てはくださらないのか…」
心の奥底に湧き上がる不安を押し隠しながらも、稲荷は自らを奮い立たせるように前を向いた。そんな稲荷の姿を、心鉄がじっと見守っていた。
「稲荷」
「心鉄…」
心鉄が稲荷の肩をそっと引き寄せる。
「まだ終わってへんで。鹿も捕まえたし。村も、俺たちも、この冬を越えられるようなんとかせんとな」
「うん…そうだね」
心鉄の言葉は、力強さを感じさせるものだった。狼にとって、厳しい冬は常に戦いだ。だが、稲荷がいることで心鉄は孤独を感じたことはない。稲荷と共に支え合いながら、この困難な時期を乗り越えようとしていた。
稲荷は心鉄の言葉に少しだけ安堵を感じつつも、目の前の現実を冷静に見つめていた。鹿を狩ったことで、わずかな食糧は得られたが、それがどれほど持つのかはわからない。次の獲物を捕らえる保証もなく、山の恵みは依然として薄かった。
稲荷は、肩に心鉄の体温を感じながら、前を向く力が湧いてくるのを感じた。山と村を守るため、そして神の再来を信じるために、行動を続けることを決意した。
「そうだね、僕たちはやれる限りのことを続けよう」
その夜、ふたりは祠の前で静かに手を合わせた。冷たい月光が彼らを包み、遠くで風が木々を揺らしている。稲荷の心には、わずかな希望の光が灯り続けていた。
「ありがとう心鉄」
「え、ああ…」
稲荷の感謝に、もっと褒めろと得意げに胸を張る仔犬はもういない。ぶっきらぼうに答える心鉄は、もう稲荷と肩を並べて歩く、いや、もっと先にも行ける立派な大人になっていた。
頼もしいと思う気持ちと共に、寂しさもある。
不安も。
心鉄の兄と名乗る狼。
彼は隣山にある狼の群れの狼らしい。
心鉄はまるで相手にしていないが、心鉄の家族の可能性が高い。確かめたいが、今の稲荷にそんな勇気はない。
肩に感じた温もり。幼い頃から見守ってきた、稲荷だけの狼…。
手放せない思いと、家族が求めるなら帰さなければという思いに潰されそうだった。
そして程なくして、雪が積もり、山の獣たちの足跡すらもすぐに消えてしまうほどの寒さの中で、稲荷は自分たちがこの冬を越せるかどうか、少しずつ不安がぶり返して来るのを感じていた。冷たい風が絶え間なく吹き、木々は寒さに震えていた。
稲荷は心の奥で春を信じ、必死に前を向こうとしていたが、心には重い不安が常に影を落としていた。
長く冷たい冬が、これから本格的に始まろうとしていた。
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