9 / 19
第二章
心鉄の家族
しおりを挟む心鉄は、山の斜面を慎重に歩きながら、静かに山菜を摘んでいた。澄み渡る空に、爽やかな風が木々の間を抜けていく。心地よい自然の静けさが広がる中で、心鉄はただひとり、周囲に気を配りながらもその孤独を楽しんでいた。
昨夜のことが頭をよぎる。
流れに任せるように番宣言をしてしまった。
あの二人に言えば稲荷にも伝わることなんか、当たり前なのに、つい、衝動にまかせて言ってしまった。しかし、嘘はない。
心鉄は稲荷を、親でも兄弟でもないのに、一番近くに感じている。心鉄の中では、『番』という言葉が一番しっくりくる。
昨夜、稲荷を腕の中に収めた瞬間、彼の小さな体が思った以上に脆く感じられ、守りたいという感情が心鉄の中に膨らんだ。だが、稲荷の困惑した表情は忘れられない。嫌悪感を示さなかったことに安堵する一方で、その無言の反応が、心鉄と稲荷の間にまだ越えられない距離があることを痛感させた。
稲荷はすでに神様のような存在だと心鉄は思っている。
かつて祠を出ていった神様に代わるものは、今や稲荷に他ならないのではないかと思うが、稲荷は『お仕え狐』の身分に拘り、健気に神様の帰りを待っている。
心鉄の想いが稲荷に届く日はまだ遠い。心鉄は、無くした記憶にも今は興味がない。幼い頃の心鉄が神様を探していたかどうかも怪しい。
ただ、稲荷が少しずつ心に近づいてくれることを願いながら、そっと距離を見守っている。
突然、背後から低く響く声が、心鉄の耳に届いた。
「お前…アオやろ?」
心鉄は反射的に振り返った。そこに立っていたのは、自分と歳も変わらなさそうな、鋭い目つきをした精悍な狼族の男だった。
灰色の毛並みが風に揺れ、琥珀色の瞳がまるで何かを確信したように心鉄を見据えている。
「アオ?」
心鉄は眉をひそめ、男をじっと見返した。
「悪いけど人違いや。俺はそんな名前やないで?」
以前から、遠くの山の向こうに狼の姿を感じていたが、まさか目の前に現れたこの男がそうなのか?
それにしても、なんでこんなところまで来たんや…?
男は一瞬、感情が溢れそうになるのを堪えながら、心鉄の灰色がかった青い目をじっと見つめていた。やがて、深いため息をつく。
「いや…お前の目。その灰色がかった青い目…間違いない、お前はアオや。俺たちの群れにいた頃を覚えとらんのか? 一緒に狩りの練習もしたやろ? 俺はガロウ、お前の兄貴や」
心鉄はますます怪訝そうな顔をして、思わず目をこすった。
「いやいや、目が青っぽいのは分かるけど、それで兄弟やとか言われても、ちょっと無理あるんちゃう?」
ガロウは心鉄の言葉に表情を歪めたが、鋭い琥珀色の目をさらに細めて一歩近づく。その動きには、長く失っていた弟をやっと見つけた者の喜びがにじみ出ていた。
「お前…本当に忘れたんか、アオ? 俺はずっとお前を探してたんや。嵐の中、弟が消えたんやぞ! 群れの誰もが心配してた。お前は俺たちの大事な家族や…」
心鉄はその言葉にますます困惑し、呆れたように鼻を鳴らした。『嵐』という言葉に引っかかりはあるものの、アオなんて知らない。
家族? そんな記憶は微塵もない。
「はぁ? 兄弟とか群れとか、何言うてんねん? 目の色だけで決めつけられても困るわ」
ガロウは微かに落胆しながらも、必死に言葉を続けた。
「お前の目は特別やった。群れの中でも、灰色がかった青い目を持つのはお前だけやった。それで間違いない、アオ…俺の弟や。どうしてもお前を見つけたかったんや…!」
心鉄はガロウの切実な声を前に、思わずため息をついた。
「……だからって、目の色だけでそんなこと言われても、俺はただの心鉄や。アオなんて知らんて!」
「心鉄…?」
「そうや、俺は心鉄や!」
稲荷が『心鉄』と名付けて可愛がってくれた。
ガロウはその場で短い沈黙を挟み、ため息をつきながら目を伏せた。喜びはあった。しかし、同時に深い落胆もあった。
「お前がそう言うなら、それを尊重する。でも…もし記憶が戻った時、俺たちはいつでもお前を待ってるからな。なあアオ、俺たちの群れに戻る時が来たら、その時は俺たちが迎え入れる」
「いやだから、何なんやそれ…もうええわ」
心鉄は呆れ顔を浮かべ、ガロウを見送りながら、結局最後まで彼の話が理解できないまま、その場に立ち尽くしていた。
「おかえり、心鉄」
「ん」
山菜が入ったかごを稲荷が受け取る。
「こんなにたくさん、ありがとう。心鉄が斜面もラクラクに渡ってくれるから助かるよ」
「だろ?」
「今年は、日照りが続いたせいで収穫期が短かった。もうすぐ冬が来る。少しでも食べ物があるうちに蓄えておかないと」
「だな、村にも行くんか?」
「うん。ここより村のほうが心配だよ」
「俺も行く」
「わかった」
山菜を干し、残りは村に持って行くことにした。
さっきまで山菜を採っていたあたりを通っていく。
「そういえば」
「うん?」
「俺の兄貴?を騙る狼と会ったで」
「え?」
前を歩いていた稲荷が勢いよく振り向く。
「わっ、急に止まんなって」
「心鉄、お兄さんに会ったの?」
「兄貴っちゅうか、自称兄貴?」
「狼だよね?」
「まぁ。多分、隣山の狼っぽい。ほら、時々こここらも見えてたやろ」
心鉄がいつも狼が見える方角に視線を移すが、稲荷は下を向いて動かない。
「稲荷? ちょお大丈夫か?」
「…うん…」
「うん、て顔青いで?」
「大丈夫、…ほら行こう心鉄」
「あ、ああ…」
稲荷の、思い詰めたような雰囲気も一瞬。
すぐにいつものように軽い足取りで村へと向かった。
心鉄はその後ろ姿を追いかけながら、嫌な予感だけを感じていた。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します

例え何度戻ろうとも僕は悪役だ…
東間
BL
ゲームの世界に転生した留木原 夜は悪役の役目を全うした…愛した者の手によって殺害される事で……
だが、次目が覚めて鏡を見るとそこには悪役の幼い姿が…?!
ゲームの世界で再び悪役を演じる夜は最後に何を手に?
攻略者したいNO1の悪魔系王子と無自覚天使系悪役公爵のすれ違い小説!
R指定はないけれど、なんでかゲームの攻略対象者になってしまったのだが(しかもBL)
黒崎由希
BL
目覚めたら、姉にゴリ推しされたBLゲームの世界に転生してた。
しかも人気キャラの王子様って…どういうことっ?
✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻
…ええっと…
もう、アレです。 タイトル通りの内容ですので、ぬるっとご覧いただけましたら幸いです。m(_ _)m
.
乙女ゲームが俺のせいでバグだらけになった件について
はかまる
BL
異世界転生配属係の神様に間違えて何の関係もない乙女ゲームの悪役令状ポジションに転生させられた元男子高校生が、世界がバグだらけになった世界で頑張る話。

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。

三度目の人生は冷酷な獣人王子と結婚することになりましたが、なぜか溺愛されています
倉本縞
BL
エルガー王国の王子アンスフェルムは、これまで二回、獣人族の王子ラーディンに殺されかかっていた。そのたびに時をさかのぼって生き延びたが、三回目を最後に、その魔術も使えなくなってしまう。
今度こそ、ラーディンに殺されない平穏な人生を歩みたい。
そう思ったアンスフェルムは、いっそラーディンの伴侶になろうと、ラーディンの婚約者候補に名乗りを上げる。
ラーディンは野蛮で冷酷な獣人の王子と噂されていたが、婚約者候補となったアンスフェルムを大事にし、不器用な優しさを示してくれる。その姿に、アンスフェルムも徐々に警戒心を解いてゆく。
エルガー王国がラーディンたち獣人族を裏切る未来を知っているアンスフェルムは、なんとかそれを防ごうと努力するが……。
【完結】悪役令息の従者に転職しました
*
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。
依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。
皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ!
本編完結しました!
『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく、舞踏会編、はじめましたー!
他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる