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第一章
家族の形
しおりを挟む稲荷と心鉄は、雨上がりの山道をゆっくりと歩きながら、村へと向かっていた。湿気を含んだ大地は柔らかく、足元にまとわりつく。今季は例年に比べて雨が多く、日照時間が少ないせいか、村周辺の畑もどこか元気がない。
「村の様子を見に行こうか。サキさんところに赤ちゃんが生まれたんだ。あの小さな命を見ているだけで、元気がもらえるよ」
稲荷はそう言ったものの、浮かない表情だった。心鉄は彼の横顔をちらりと見たが、何も言わなかった。黙って並んで歩く二人の間に、雨上がりの静けさが漂っていた。
「可愛いのか?」
「もちろんだよ。子どもは宝だからね」
「やったら、祝いの品でも差し入れたらええやん」
「駄目だよ、僕が顔を出したら、村の人たちが驚くだけだよ」
「ほんまに、そうか?」
「そうだよ…。僕は遠くから見るだけでいいんだ」
稲荷は村ができてから一度も、その姿を村人たちに見せたことがなかった。彼は小さな祠を守る存在だから、神様と勘違いされがちだが、実際には何の神通力も持たない。雨を呼ぶことも、風を鎮めることもできず、ただ静かに見守るだけだ。昔は、本物の神様がこの地を守り、風や雨を自在に操って村を潤していたという。しかし、稲荷にはそれができない。
いつか…いつかこの村がもっと大きくなり、誰かが祠の存在に気づき、手を合わせてくれるかもしれない。信仰が集まれば、神様も再び戻ってくるかもしれない――。
稲荷はそんな儚い希望を抱いていた。
「今のうちから祠を宣伝して、信仰を集めるべきやで」と心鉄は言うが、稲荷は首を横に振る。
信仰は押しつけるものではない。
自然に生まれる純粋な信仰こそ、神に捧げるにふさわしいと稲荷は信じていたのだ。
山道を進む。稲荷の足取りはいつもと変わらず軽やかだったが、その心はどこか重たかった。一方で、心鉄は少し緊張した様子で、周囲の匂いを嗅ぎ分けている。空は曇天で、木々は湿気に垂れ下がり、どこかしんとした静寂が広がっていた。
ふと、心鉄が足を止め、遠くの茂みをじっと見つめた。
「心鉄? どうしたんだい?」
「ほら、…あそこ」
心鉄が指し示した先に、ぼんやりとした影が揺れていた。ピンと立った耳、豊かな尻尾――その姿は、稲荷の胸を強く打つ。見慣れた、あの形。
「狼だ…」
その瞬間、稲荷の頭に熱が走った。羽夜の言葉が脳裏に浮かぶ。
『山を越えたところに狼の群れがいるんだ。そいつらと同じ姿をしている』
心鉄の鼻が微かに動いている。狼はかなり遠く、縄張りを侵すほどの距離でもない。
「狼やな。けど、こっちには気ぃついてへん」
稲荷は心鉄の言葉に静かに頷いたが、心の奥底では不安が渦巻いていた。あの狼たちが心鉄と何か関わりがあるのではないか――そんな疑念が拭えない。
心鉄に記憶は無くても、もし心鉄が彼らと何かしらの絆で結ばれていたら、彼は群れに戻っていくのではないか。そして自分は、また一人になってしまう。
(ズルいな、僕は…)
心鉄は、狼が見えなくなるまでその姿をじっと見つめていた。その視線が何を感じ取っていたのか、稲荷にはわからなかった。
やがて村が見えてきた。村人たちは日々の生活を穏やかに営み、子どもたちは楽しげに遊んでいる。家々からは夕飯の準備をする匂いが漂っていた。サキさんの赤ちゃんは家の中にいるのだろうか、姿は見えなかったが、村は平和そのものだった。
「村は平穏だな」と心鉄が言った。
「うん、そうだね……」
稲荷は胸に抱えた疑念をどう処理すべきか決めかねていた。しかし、この静けさを乱すべきではないと感じていた。畑に植えられた作物は、どこか元気がない。自分の畑でも同じような光景を見ていた。
「おい!」
「お前、誰だ?!」
突然、背後から子どもの声が響き、稲荷と心鉄は驚いて振り返ると、じっとこちらを見つめる四つの目。村の少年と少女だ。稲荷はすぐに彼らがハルさんの子ども、『アキオ』と『ユメ』だと気づいた。
「その耳…本物?」
ユメが好奇心に満ちた瞳で稲荷の耳に手を伸ばしかけた。その瞬間、アキオが彼女の腕を引っ張って止める。
「こら、ユメ! 怪しい奴かもしれないんだぞ?」
アキオの警戒心は強いが、ユメはそれを気にも留めず不満そうな顔を見せる。ユメの視線は稲荷と心鉄のふわふわした尻尾に釘付けだ。尻尾が揺れるたびに、目が追いかけている。
「村に何の用だ?」
アキオが鋭く問いかけると、稲荷は一瞬言葉に詰まった。特に目的があって来たわけではない。ただ、赤ん坊の姿を見て、癒されたいだけだった。
「えっと…その…」
言い訳を探しあぐねる稲荷の姿は、子どもに不信感を持たせるには充分で。見かねた心鉄が代わりに口を開く。
「この村に、赤ん坊が生まれたゆうて、めでたいから祝いに来たんやけど、勝手に村に入るのはどうかと思おて。村の玄関ってどこ?」
その言葉にアキオは少し驚いた様子で、ユメはさらに興味を深めた。
「『サツキ』ちゃんのこと?」
「そぉ! 珠のような、めっさかわええ別嬪さんやって聞いて、ほんなら一度はお目にかかりたいなぁって。なぁ、二人とも村に案内してくれへん? お礼に尻尾触らせたるで」
「「えっ!」」
心鉄が尻尾をフリフリ揺らしながら触っていいと言うや否や、ユメの目が輝き、アキオまでもが驚きで目を見開いた。
「じゃあ、こっちのお兄ちゃんの尻尾もさわれる?」
ユメが稲荷の方を見て、指を動かせている。もう気分は稲荷の尻尾を触っていた。
「あー…いや、こっちは神さ…痛ぇっ!」
心鉄が稲荷を「神様」だから気軽には触れないと言おうとしたが、稲荷は慌てて心鉄を軽く叩き、その言葉を途中で止めた。
「神様じゃないってば!」
稲荷は焦りながら、心鉄を必死で制止する。冷や汗をかきながら、どうにかその場を取り繕おうとするが、二人の子どもは顔を見合わせて首をかしげた。
「かみさま? それって何?」
アキオとユメの純粋な問いかけに、稲荷は一瞬言葉を失う。どうやら彼らには、『神様』に馴染みがないらしい。
「あ、いや…えっと…俺は神様じゃなくて、ただ神様のお仕えをしてるだけで…」
必死に説明を試みる稲荷だったが、神様を知らない子どもたちの目にはますます不思議な存在として映るだけだった。
「それは、素敵なお話ですぅ」
「稲荷の慌てた顔が目に浮かぶ」
心鉄は、先日村で起きたことを、遊びに来ていた鈴愛と羽夜に井戸端の話題として、ちょっとだけ盛って、面白おかしく話をしていた。
二人は心鉄の話に腹を抱えて爆笑していた。
さすが親友である。
「神様知らん言うとる子どもに、神様やないけど、神様にお仕えしとると真面目に自己紹介しとったで」
「それでこそ稲荷さんですぅ」
「賽銭が弾む」
今まで陰からこっそり何十年もストーカーをしてきた村人と、初めて話をした稲荷は、挙動不審だった。
あれからあっさりと村に入った二人は、アキオとユメに村長のもとへ案内された。
村長は気さくで博識な爺で、稲荷と心鉄をすぐに受け入れた。
しかし、稲荷は初めての村に、右手と右足が一緒に出るほど緊張していた。
「普通に歩かれへんの?」
「これが僕の普通だよ」
村長がおっとりとした口調で言う。
「我々の先祖も、その昔は貴方がたのような方たちと頻繁に交流していたと聞きます。まさかそちらから訪ねて来てくださるとは…」
「は、はい、ずっと見てました」
稲荷の変な返しをスルーし、村長と村人は快く、心鉄たちをサキに紹介してくれた。
稲荷は、サキの腕に抱えられたサツキにお祝いの詞を唱えた。サキをはじめ、村人たちは、稲荷の詞を理解していなくても、祝福の気持ちは充分に伝わっているようだった。
その後、稲荷は村長と何やら話し込んでいた。その顔が緩みまくっており、確実に稲荷の中で村長が『推し』になったことを確信した心鉄だった。
「そりゃそうと、村の中に可愛い子はいたか?」
「はぁ?」
唐突に羽夜が問いかけ、心鉄が目を丸くする。
「そうですよ! 心鉄さんもそろそろ身を固めてもいい年齢じゃないですか?」
「いや、俺、そもそも自分の年齢とか知らんし…」
「知らないで済ませるなって! どこからどう見ても立派な大人なんだから、そういう話をしてもおかしくない年齢だろ?」
『心鉄』の初めての記憶は、稲荷だ。
どこにいるのか、自分が誰なのかさえもわからなかった。黒い渦の中で溺れそうになっていた心鉄に、差し出された手。
『神様の帰りを一緒に待とう』
その手を掴んでいいのかわからなかったけれど、握ってみたら手放せなくなった。
稲荷は、親であって、親ではない。同志であって、同志でもない。そして、もう子どもではない心鉄にはこの気持ちが何なのか、ちゃんとわかっていた。
心鉄は口を尖らせ、不機嫌そうに黙りこくる。その様子を見て、羽夜と鈴愛は顔を見合わせた。
「心鉄、もしかして…」
「心鉄さんって…」
「な、なんやねん」
リスと烏の二人にじっと見つめられ、心鉄はたじろぐ。
「もしかして、理想が高すぎて婚期を逃すタイプですか?」
「それとも、足元にある大事なものに気づかない"灯台もと暗し"タイプ?」
「違うわ!」
めちゃくちゃ失礼なことを言う二人に、心鉄は不満を抱きつつも、何かを言いかけた。
「俺は…」
「番なら稲荷一択や」
狼の宣言に、烏は口笛を吹き、リスは手を叩いて、どんぐりをご祝儀にした。
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