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第一章
狼への変貌
しおりを挟む「よっ、稲荷! この間の嵐は大変だったな。ここらは無事だったか?」
「羽夜じゃないか、あのときはありがとう。おかげで事前に準備ができて事なきを得たよ」
「そりゃよかった」
嵐が来ると教えてくれた羽夜のおかげで、風に飛ばされそうな物はすべて家の中に仕舞い込み、畑の作物も何とか守ることができた。
畑では、稲荷と心鉄が共に大根の種を蒔いていた。静かな秋風が彼らの周りを包み、土の香りが心地よく広がっていた。稲荷は丁寧に土を掘り、心鉄に種を手渡す。心鉄はまだ不慣れな手つきで種を蒔き、そっと土を被せる。
「嵐の夜に拾い物をしたって聞いたが…?」
羽夜が不意に話を振る。視線は、心鉄に注がれている。稲荷は、すぐに笑みを浮かべて答えた。
「そうだよ。心鉄って言うんだ。あんな嵐の中で、こんな小さな仔犬がどうして一人でいたのかわからないけれど…」
稲荷の言葉に、心鉄も首を傾げている。
「へえ、鈴愛も言ってたが、『心鉄』か。かわいいな!」
羽夜はにやりと笑いながら心鉄に目をやる。
「…」
心鉄は、羽夜の黒目がちな瞳にじいっと見つめられ、一瞬怯えたように視線をそらして、稲荷の後ろに隠れた。先日の鈴愛との出会いが記憶に新しく、また妙な奴が来た、とばかりに警戒を強めている様子だ。稲荷はそんな心鉄の様子にくすりと笑った。
「もぉ、心鉄ったら。羽夜は僕の友達なんだから、心配しなくて大丈夫だよ」
「へへ、煽ったつもりはなかったけどな」
羽夜は肩をすくめて笑いながらも、その目には優しさが宿っていた。
「うー…」
心鉄はまだ警戒を解かないが、稲荷が優しく彼の頭を撫でて「よしよし」と宥めると、少しだけ安心したようだった。
「村も大きな被害はなかったみたいだな」
「ああ、安心したよ。せっかくあそこまで大きな集落になったところだったんだ」
「俺はそんな長生きしてないから、今の村しか知らないけどな」
「村?」
心鉄が不思議そうに稲荷を見上げる。
「そうだね、心鉄はまだ村を見たことがなかったね。今度一緒に行ってみようか?」
「おう!」
心鉄は稲荷に向かって元気よく頷いた。
「羽夜、葉物の野菜がたくさん採れたんだ。持って帰ってくれるかい?」
「おっ! ありがとう、助かる」
羽夜は心鉄をじっと見つめ、静かに口を開いた。
「こいつ、狼だな」
「えっ?」
稲荷が驚いた顔で羽夜を見返す。
「山を越えたところに狼の群れがいるんだ。そいつらと同じ姿をしている」
羽夜の言葉に、稲荷も心鉄も驚きの表情を隠せなかった。心鉄も、稲荷が『仔犬』だと何度も言うので、そうだろうと思っていたのだ。
「…俺って、狼なん?」
心鉄は首をかしげ、不思議そうな顔で稲荷に問いかける。
無邪気な瞳には疑念が浮かんでいたが、声に焦りはない。心鉄は自分の過去について何も覚えていないため、目の前の事実がまるで他人事のように感じられ、『自分が狼かもしれない』という可能性を再確認するだけだった。
「えぇ…仔犬でしょ? だって、目が…」
稲荷の指先が心鉄の瞳に向かって伸びる。灰色がかった青い瞳、それは稲荷のお気に入りだった。月光の下で青く光るその瞳に、稲荷は何度も見とれてしまうほど惹かれていた。けれど羽夜の言葉に、「自分の知る限りの事実に固執しているのかも」という気持ちが生まれてくる。
「うぅーん…? 確かに、狼じゃ見かけない目の色だけどな…でもなぁ…」
稲荷の反応に、羽夜もだんだん自信がなくなってきていた。
大人二人が首を捻っているその一方で、心鉄は二人の困惑を全く意に介していないようだった。まだ幼い心鉄にとって、自分が何であるかは大きな問題ではなかった。稲荷が『仔犬』と言って可愛がってくれることが今の心鉄の全てだった。
結局、『どっちでもいいか』と心の中で軽く結論を出し、心鉄は静かに作業に戻った。小さな手が種を蒔いて土を被せていく。その姿には無邪気さと、どこか大人びた静けさが混ざっていた。
時間は、ゆっくりと静かに流れていった。心鉄と稲荷の間には、言葉では表現できない微細な変化が訪れていた。ふたりの生活は穏やかで、平凡な日常の繰り返しだったが、その中に隠された絆は徐々に深まっていた。
稲荷の頭にふと、幼いころの心鉄との思い出が蘇る。小さな仔犬だった心鉄が、まだ稲荷の膝に丸く収まっていた頃――。
その日も、心鉄は草花を摘むふりをしながら、土の匂いを嗅いでいた。目を輝かせて、「稲荷、これは食べていいん?」と無邪気に聞いてきたことがあった。稲荷は思わず笑いながら、「それは食べられないよ」と答えたものの、心鉄は真剣な顔で頷き、結局その草を根元から丁寧に抜いて集めていたのだ。
当然、また埋め直したのだが…。
「ほんとに、手がかかるんだから…」と当時は思ったものだが、その無垢な瞳に見つめられるたび、稲荷は心が温かくなるのを感じていた。
そして、月日は流れ…。
「嘘だ…」
稲荷の目の前にいる心鉄は、もうあの無邪気な仔犬ではなく、堂々とした成狼へと成長していたのだから。
心鉄の背丈は稲荷より頭一つ分大きくなり、引き締まった筋肉が全身に広がっている。肩幅は広く、背中はしっかりと厚みがあり、その姿はまさに力強さと威厳を併せ持つものだ。
心鉄の毛並みは灰色がかった濃い銀色で、日の光や月明かりを受けるたびに鈍く輝く。尻尾の毛はやや長く、風になびく様子が凛々しさをさらに際立たせていた。顔立ちは精悍で、眼差しも鋭い。しかし、その瞳はどこか柔らかさを持っており、灰色がかった青色が深みのある静寂を感じさせる。
「ほら、言っただろ?」
羽夜は、得意げな表情を浮かべて軽く笑みを浮かべる。
「普通、そんな大事なこと間違わへんと思うで…仮にも神様やろ?」
「神様じゃないよ、僕はお仕え狐だよ。神通力もほとんど無いし…」
稲荷は肩をすぼめて小さく答えた。隣で羽夜が口を挟む。
「似たようなもんやろ」
「似たようなものだろ」
羽夜と心鉄がほぼ同時に口を揃えて言ったものだから、稲荷は思わず苦笑する。
「違うよ…」
「まぁ、ちょっと突っ込みにくいボケやけどな」
心鉄の淡々としたその言葉には、真剣さが感じられた。
「ボケじゃないけどね…!」
稲荷はさらに抗議するが、言葉ほど怒っていない。
あの幼かった心鉄が、こうして立派に成長して、今では稲荷をからかうほどにまでなった。立派な毛並みを持ち、狼らしい威厳を纏っている心鉄を見上げると、不思議と胸が締め付けられる。
――どうしてだろう。
稲荷は自分でも、この胸のざわめきをどう処理すればいいのか分からなかった。かつて膝の上に乗っていた小さな体が、今やすっかり大きくなり、目線の上で灰色がかった青い瞳が輝いている。稲荷はふとその瞳に見つめられた瞬間、初めてその瞳を見たときと同じように、思わず心がときめいてしまうのだった。
「ほんとに、大きくなったね…」と稲荷は心の中でつぶやく。その変わらない灰色がかった青い瞳に、自分が思っていた以上に深い感情が映っていることに気づき、少し頬が熱くなるのを感じていた。
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