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序章
変化の始まり
しおりを挟む「じゃあ、目が覚めたら知らない場所にいて、びっくりしたね。どこか痛いところはないかな?」
稲荷の声は優しく、朝日が作る影のように柔らかく響いたが、その言葉に対する返事はない。
仔犬の唸り声は少し和らいだものの、それでも警戒の色は消えていなかった。喉の奥からかすかな「グルルル」という音が漏れ、体は緊張を解こうとせずに硬直している。耳を傾けているかはわからないが、少しでも不安が和らげばと、稲荷は静かに話を続けた。
「僕はね、いつもあの小さな祠を掃除してるんだ。だから、きみを見つけたときは驚いたよ」
その言葉に、仔犬の耳がピクリと動き、瞳が少し揺れた。まるで知らなかったことを知ったように、小さな顔が驚きに染まる。
「祠…かみさま…?」
その声は、まるでどこか遠い記憶に触れるような響きだった。
「うん、そうだよ」
「かみさま…いる?」
「神様はね、ここにはいないんだ。ちょっとお出かけしてて…」
「お前…かみさまじゃないの?」
仔犬の言葉に稲荷が頷く。
「僕は、ここで留守番をしている、神様のお仕え狐なんだ」
稲荷の目が遠くを見つめる。神様がいつ戻ってくるのかは、誰にもわからない。もしかすると、もう二度と戻ってこないかもしれない。新しい土地で新しい信仰を得て、新しい狐が仕えているのかもしれない――いや、今度は狐ではなく、犬のような存在かも?
それでも、稲荷にはここで待つしかない。
活気に溢れた村。誰彼となく訪れては祈り、時には愚痴って吐き出し、神様と村人たちが交流していた。稲荷も一緒に村の子どもたちと駆け回っていた頃もあったのだ。あの頃の明るくて光が満ちていた光景が忘れられない。できることならもう一度…。
「るすばん…」
仔犬の声は小さく、どこか寂しさが混じっている。その小さな言葉に、稲荷は微笑みを浮かべた。
「そうだよ。あそこに倒れていたってことは、もしかしたらきみは神様に会いたかったのかもしれないね」
「…わかんね」
答えは曖昧で、そして心の奥底にある不安を映し出しているようだった。
「ねぇ、きみがよければなんだけど…」
「…?」
仔犬は首をかしげ、稲荷の瞳を覗き込むように見つめ返す。何を言われるのか、少し不安げな表情がその可愛い顔に浮かんでいた。
「僕はきみがここにいてくれたら、嬉しいなって思ってるんだ」
「!」
稲荷の声は静かで、穏やかだったが、その奥にはどこか切実な想いが込められているのがわかる。その言葉を聞いた瞬間、仔犬の耳がぴくっと動いた。
驚きに目を見開いた仔犬の反応に、稲荷はそっと微笑みを浮かべた。何を言うべきか、一瞬の迷いが表情に現れる。
「僕は、神様の帰りをずっと待っているんだ。もしかしたらきみも神様に会ってみれば、なにか思い出すんじゃないかな、って思って…」
稲荷の視線は遠くを見つめながら、どこか懐かしそうに語りかける。
「かみさま…」
仔犬の声はかすかに震え、記憶を見定めるよう。
稲荷は静かに続けた。「ここから家族を探しに行くこともできる。でも、この家は僕一人には少し広すぎるから、きみがいてくれたら…」
その言葉は静かに、深く響いた。
「どうかな?」
稲荷は少し距離を縮め、仔犬に問いかける。その瞳には優しさと期待が入り混じっていた。仔犬は困ったような顔をしていたが、もう先ほどのように威嚇はしなかった。
「い…」
仔犬は少し躊躇いながら口を開いた。
「うん?」
稲荷が優しく問いかけると、仔犬は視線を逸らしながら小さく答えた。
「いてやってもいいけど…」
その瞬間、稲荷の心はぱっと晴れ渡るような喜びに包まれた。微笑みが自然とこぼれ、その表情には安堵と喜びが浮かんでいる。
きれいな瞳の仔犬。この可愛い生き物が、これから毎日そばにいてくれるかもしれない——そんな考えが頭をよぎると、稲荷の胸は期待に弾み、抑えきれない幸せの予感が心を満たしていった。
グルルルルルル…………
地を這うような音は、仔犬の喉仏からではなく、お腹から響いた。
「あっ」
「……っ!」
真っ赤になって、「これはちがう…」と慌てている仔犬には気の毒だが、その姿はどこか愛嬌があって可愛かった。
「ちょっと待ってて」
「?」
稲荷がかまどで準備をしている間、仔犬はこっそり覗き込んで、鼻をひくひくさせていた。汁物を温めなおすだけだが、盛大に腹の虫が鳴っているのを聞いたあとでは、温める時間すら惜しいほどだ。
稲荷が振り向くと、期待に揺れていた尻尾が変な位置で止まる。その様子に微笑んで、握り飯と汁物を小さな円卓に並べた。
「お待たせ、どうぞ」
稲荷が声をかけると、仔犬が戸惑った様子を見せたのも一瞬、誘惑に勝てず、控えめに一口食べ始めた。その瞬間から、食欲が爆発したように次々と握り飯を平らげ、汁物まであっという間に飲み干してしまった。
「すごい…」
米粒一つ残っていない皿。仔犬は満足げに息をつきながら、畳の上にちょこんと座っている。尻尾も満足そうに揺れている。
「さて」
稲荷は微笑み、手早く片付けを済ませると、仔犬をヒョイっと抱き上げて風呂場へと連れていった。
「わっ!」
「今度はきみをきれいにしないとね」
「おろせっ、一人で歩ける!」
「遠慮しないで」
「!!!」
仔犬は嫌そうに暴れたが、すぐに大人しくなった。
「う…」
風呂桶に張ってあるお湯を見て、嫌そうな顔をする仔犬。
「大丈夫、すぐに終わるからね」
稲荷は仔犬を桶の縁に座らせ、お湯を手桶に汲んだ。仔犬は少し不安そうに辺りを見回す。稲荷の手がそっと背中にお湯をかけた瞬間、ピクッと体を震わせた。
「ちょっと熱かったかな?」
「だ、大丈夫」
手で温度を確かめながら仔犬にかけていく。
手早く石鹸を泡立てて仔犬の体に馴染ませていった。毛並みを泡で包み込むようにして、泥や汚れを丁寧に落としていく。仔犬の小さな体に触れながら、稲荷は膝に軽い擦り傷があった以外、どこも怪我がないことに安心した。丈夫な仔犬だ。
「きれいになったら、きっともっと気持ちがいいよ」
そう言いながら、稲荷は仔犬の耳元や背中、足元まで丁寧に洗い流す。その間、仔犬は徐々にリラックスしていき、次第にその体から緊張が消えていくのがわかった。
柔らかいタオルで仔犬を包み、優しく乾かしていった。
「よし、これで完了」
タオルで包まれた仔犬は、さっぱりとした顔つきになり、さっきの食事のときよりもさらにリラックスしているように見えた。
「名前が必要だね」
稲荷はふとつぶやいた。
名も知らぬこの小さな命に、自分の手で新しい名前を与えたかった。
「僕が決めてもいいかな?」
「……」
仔犬はじっと稲荷を見上げ、しばらくそうしてから頷いた。
「そうだね、お前の名前は……『心鉄』にしよう」
その瞬間、仔犬の耳がピクリと反応した。
「こてつ……」
その名を口にするたびに、仔犬の尻尾がパタパタと動き始めた。しかし、リラックスはどこへやら、表情はむうっとしている。
気に入らなかったのか?
「嫌だったら、他の名前を考えようか?」
稲荷は微笑み、再び考え込んだ。すると――
「こ……て、つ……心鉄!」
突然、大きな声で叫んだ仔犬に、稲荷は驚いて少しのけぞった。
仔犬のほっぺたは興奮で赤く染まり、何度も「心鉄」と名前を繰り返す。稲荷は、これでよかったのだと微笑んだ。
「これからよろしくね、心鉄」
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