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序章
生命との出会い
しおりを挟む日が沈みかけた夕暮れ。
空が一瞬で暗く染まり、冷たい風が吹き込むと同時に、重たい雲が押し寄せてきた。その影響はすぐに現れ、どしゃ降りの雨が容赦なく大地を打ちつけた。大粒の雨が屋根に叩きつけられ、雨音が家中に響き渡るたび、古びた家の戸口が軋み、強風にあおられた木々が外でごうごうと唸りを上げた。自然の猛威は増し続け、夜が深まっても、勢いは衰えることを知らなかった。
「こんなに強い雨が続くなんて……」
稲荷は眉間にしわを寄せ、戸口から空を見上げた。思ったよりも雨風が強い。村は大丈夫だろうか。崖に家は建っていないが、村の家々は皆、簡素な造りだ。まだ50人ほどの小さな集落で、もしも災害が起きてしまったら…。
「何か私にできることがあるだろうか……」
迷いが胸をよぎる。
神通力もほとんどない、神様でもない。ただのお仕え狐が、村に入っていいものか。だが、長い年月をかけて育まれたあの村は、稲荷にとっても大切な存在だ。決心を固め、稲荷は履物に足を通した。その瞬間、微かな声が耳に届いた。最初は風のせいかと思ったが、再び聞こえた。
今度ははっきりと。
キャン!と、風雨に混じって響く鋭い鳴き声。
かなり近い……祠のあたりか。
「……!」
体が勝手に反応した。
考える間もなく、稲荷は全力でその声に向かって駆け出した。
激しい雨が全身をびしょ濡れにし、足元の泥が飛び跳ねる。だが、そんなことはどうでもよかった。
祠の近くに辿り着くと、目に飛び込んできたのは、小さな塊だった。
近寄って、そっと塊に手を当てる。
「……仔犬?」
濡れた地面に伏せて、ぺちゃんこになった尻尾に、小さな体。まだ幼い。
雨にぐっしょりと濡れて、その体は震えている。かすかな呼吸を確認した瞬間、稲荷は安堵の息をついた。
優しくその仔犬を抱き上げ、そっと懐に抱えて温めた。
「急がなきゃ……」
稲荷は雨の中を再び走り出した。冷たい風に逆らい、懐の小さな生命を守るために――。
家に戻ると、まず火を焚き、仔犬を毛布に包んで休ませた。少し薄いがないよりマシだ。やがて、仔犬の震えも少しずつ落ち着き、稲荷はほっと胸を撫で下ろした。
「こんな嵐の夜に……家族とはぐれたのだろうか、それとも……何か理由があって、あそこに置いていかれたのか……」
稲荷は、丸くなって眠る仔犬の背中をそっと撫でながら、腕の中に抱き入れて目を閉じた。
稲荷が目を覚ますと、腕の中に抱えていた小さな生命は、変わらず静かに眠っていた。昨夜の濡れ冷えた体はすっかり温まり、その顔色も少し良くなっている。
穏やかな呼吸が繰り返されているのを感じて、稲荷は胸をなでおろした。幸い、大きな怪我は見当たらない。それを確認して、心の中に広がった安堵をかみしめつつ、そっと離れた。目を覚ましてしまわぬよう、慎重に動く。
もしこの子が目覚めたとき、ひどくお腹を空かせていたら…。
そんなことを考えながら、稲荷はかまどの前に立っていた。
誰かのために食事を用意するのは、一体いつ以来だろう。自然と湧き上がる感情を抑えきれず、心が軽やかに跳ねているのを感じた。
握り飯と、ありあわせだが温かい汁物が完成し、あとはただ、この仔犬が目を覚ますのを待つばかりだった。
雨の中、偶然出会ったこの小さな命はいったいどこの子なのだろうか。
近くに家族がいて、心配して探しているんじゃないだろうか。嵐もすっかり通り過ぎている。だとすれば、仔犬は無事だと安心させてあげたいが…。
「…!」
仔犬の瞼が、重たげにゆっくりと開く。その動きに稲荷は息を呑み、じっと見守っていた。
「目が覚めた……あっ!」
灰色がかった青い瞳が露わになり、稲荷はその神秘的な色彩に心を奪われた。まるで深い湖の底に引き込まれるよう。無意識のうちに覗き込んで、その瞳を見つめる。
「きれい…」
ぼんやりと開いた仔犬の目が、稲荷を捉える。互いの視線が重なった瞬間、稲荷の胸の奥で何かが、静かに温かく広がった。命が動き出した安堵感と、今まで感じたことのない感情が混じり合い、肩の力が自然と抜けていく。
「……誰?ここはどこ?」
仔犬の声はかすれ、まだ眠りの中にいるような曖昧な響きがあった。稲荷は優しく微笑みながら、相手の問いに答える。
「僕は稲荷だよ」
「いなり…?」
仔犬はその名を反芻するように小さくつぶやき、瞳にかすかな疑問の色を浮かべる。まだ完全には覚醒していない様子だ。稲荷はそっと覗き込んで、仔犬の目線に合わせる。
「君は、どしゃ降りの中で倒れていたんだ。ずぶ濡れで冷え切って、辛かっただろう?」
稲荷は優しく語りかけながら、仔犬の身体へそっと手を伸ばし、その小さな体温を確かめようとした。
「!!」
「グルルル…!!」
鋭く乾いた音が響き、稲荷の手が弾かれる。仔犬は瞬く間に壁際へと飛び退き、稲荷を睨みつける。
「おっ、お前誰だ?! 俺、なんでこんなところに…!」
仔犬は低く唸り、口元を引き締めて警戒心を露わにする。
稲荷は驚きながらも、仔犬の反応をじっと見つめた。
震える声には、恐怖と混乱が混じっている。
知らない場所で目が覚めたら、誰だって驚くだろう。だが、この仔犬の様子は尋常はないように見える。
目に映るものすべてに対して恐れているかのよう。
「大丈夫、怖がらなくてもいいよ」
稲荷の落ち着いた声に、仔犬はわずかに耳を傾けたが、再び「グルルル…」と低く唸り、鋭い目つきで周囲を警戒する。
「君は家族とはぐれたのかい?」
稲荷の問いかけに、仔犬は少しの間沈黙した後、小さく「…わかんねぇ…」と、消え入りそうな声で答えた。
「雨の中、祠の前で倒れていたんだよ」
「わかんねぇって言ってんだろ!」
仔犬の叫び声が響く。
「俺、誰だよ! なんでここにいるんだ?お前なんか知らない…!俺、何もわからねぇ…!」
その瞳には、不安と焦りが入り混じっていた。
稲荷はしばし言葉を失った。
「君はもしかして…記憶が…」
その言葉が出るや否や、仔犬の震える姿がいっそう痛々しく見えた。
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