短編集

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王道に茨は避けられぬ

早川少年の受難

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 桜の満開は過ぎてしまった。桜色に緑が混ざりだした朝、律希は新しい制服に袖を通した。
 新しい生活のスタートに、期待で胸を膨らませていた。
 初めての電車通学。
 満員ラッシュの時間帯だ。律希は人をかき分けながら景色が見える場所に行き、入学説明会の時以来になる景色を眺めていた。
「あ、すみません」
 電車が揺れた時に、隣の人の体に触れたがすぐに離れていった。高校までは五駅ほど。律希はこれから毎日この満員電車で通学することになるのか、と覚悟を決めた。
 外を眺めていると今度は背中になにがが当たった。しかし、あたったものはすぐには離れなかった。
「!」
 あろうことか、律希の背中にあった手が臀部へと下り妖しく動き出す。真新しい制服の上から律希の小さなお尻の感触を楽しむように柔らかく掴んだり撫でたりしている。大きい手だった。男の人だと思った途端、律希は背中にぞっとしたものを感じた。
「あ……」
 痴漢だ。
 どうしよう。こんなとき大きな声を出して助けを求めなさいって学校で習ったのに、実際はそんなことできなかった。律希は泣きそうになりながら下を向くことしかできなかった。大きな体が後ろから律希の体を扉へと押しやり、耳元に気持ち悪い熱い息を吹きかけてきた。気持ちわるい。声も上げられず、固まってしまった律希に痴漢の手の動きが遠慮無いものになった。服の上から割れ目を探って太い指を割り入れようとしてくる。
 怖い。声を出さないとと思えば思うほど、舌の根が固まったように動かない。満員電車なのに、誰も気づいてくれない。助けが必要な人が声を出さないと誰も気づかないのだ。早く学校に着いて、扉が開いたら走って逃げて……立っているのがやっとで走れる自信は無いが、悠長なことは言っている場合じゃない。どうしてこんなときに限って声が出ないのだろう。
 こわい。きもちわるい。どうしよう。それしか考えられない。
 ーーー 誰か助けて……
 律希の体を触る手は、律希を置いてきぼりにして、自分勝手な欲望を押しつけてくる。
 手は大胆になって、前に回ってきた。消極的な律希の、最後の望みは、痴漢が律希を女の子と勘違いしていたら、前を触って男だと気づいて手を引っ込めてくれないかということだった。手は律希の足の付け根を行き来しながら前に回る。そして、律希の切実な思いは全く見当違いだということがわかった。手は、止まることなく律希の恐怖に縮み上がってしまったものを撫で回した。
 もうだめだ。どうしてこんなに人が多い中で自分だけがこんな目に遭うのだ。誰も気づいてくれない。もう死んでしまいたい。絶望的な気持ちになって震えることしかできないのか。早く駅に着いて!

「おまわりさーん! この人痴漢です!」
「な…っ! なんだ君は?!」
「なんだはお前だ! この変態野郎がっ!!」
「私は違う!」
「このひと、痴漢です!」
「!」
 なにが起きたのかわからなかった。四〇代くらいのスーツを着た男性が背の高い男の人に手首を捕まれていて、スーツの男性がそれを振り払おうとする。二人がもみ合っているが、周りの乗客も加勢して、スーツの男性を取り押さえてしまった。その四〇代くらいの男性が痴漢だった。取り乱しているが、律希には普通のおじさんに見えた。どこにでもいそうな普通のおじさん。そんなおじさんに本来触られることのない場所を触られていたのだと感じた途端、背筋がぞっとした。
「私は違う! この子が先に私に体を寄せてきたんだ!」
 痴漢が律希のせいにして喚いている。律希はそんなことはしていない。電車が揺れて少し体が触れてしまったがすぐに離れたのに!と心の中では言っているが声にはならなかった。
 大きな手に腕を引かれてびっくりして振りほどいてしまった。
「あ……」
 反射的だった。まだ混乱していた。この人は痴漢じゃないのに。助けてくれたのに。頭ではわかっていても、とっさの動きはどうしようもなかった。手の主は、背は高いが、同じ制服を着た男性だった。律希の行動にびっくりしたように目を開いて、すぐに笑顔で律希に話しかけた。
「あんなやつの言うことは聞くことない……怖がらせてごめんね、俺が近づいても大丈夫?」
 そう言われて、やっとうなずくことができた。男性が近づいてくるが、律希はまだ動揺していて、顔を見ることができずに体をこわばらせて下を向いていた。さっきの痴漢と違って、体が触れることなく、律希を護ってくれているみたいだった。男の人が律希に作ってくれた空間は、あと一人か二人は入られそうで、満員電車では迷惑なくらいだったが、誰も何も言わなかった。
「もうすぐ駅に着くから。そうしたら大丈夫」
「は……い」

 駅に着くと駅員さんと警察が待ち構えていて、痴漢を連れて行った。
 律希は下を向いたまま、この助けてくれた男性にお礼を言わなければと思うのだが、なぜか顔を上げられなかった。少し離れたところから違う男性の声がする。
「大丈夫か?」
「こっちは大丈夫、お前も大変だったろ」
「いいよそれくらい。それより、この子は?」
「まだ動揺しているみたいだ」
「そうだな……」
 同じ声だ。
 二人なのか、一人で話しているのか、気になって顔を上げると、そこには、同じ制服を着て、同じ顔をした人が二人いた。

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