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1巻

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   序、世界の終わり


 陶磁器のように冷えた手が、十七になったばかりの少女の手を握りしめた。

「お願いよ」

 喉の奥から引き絞られた今にも消え入りそうな声とは裏腹に、その手の力は爪が食い込むほどに強い。しかし少女は逃げようとはしなかった。それどころかわずかな喜びさえ感じたのは、目の前の尊い人の命の灯火が、まだ消えていない証のようであったからだ。

「どうかお願い」

 その冷たい手を温めるように手を重ね、息遣いさえも聞き漏らさぬよう息を止める。部屋の隅でかれた炭が時折立てる、ぱちぱちという音さえ邪魔に思えた。

「……あの子を守って」

 もったりとした薬香やっこうの煙が少女の肩を撫でる。
 看病のためにろくな睡眠も取っていなかったが、彼女の頭は冴えていた。

「はい、娘娘でんか

 自分の口から発する一言一句がしっかりと届くように、少女は言った。

「お約束します、娘娘」

 涙はもう枯れている。
 やるべきことはやりつくした。今はただ、この人が安らかに逝けるようにと願うだけだ。
 最期くらい安らかであるべきではないか。
 ずっと、何かを憂えて生きてきた人だった。

啓轅けいえん様は、私がお守りします」

 だからどうか、安堵に顔を緩めてほしい。
 笑顔を浮かべてほしい。

「何に換えても、私がお守りいたしますから」

 最期はどうか、憂いを置いて、幸福な記憶だけ持っていてほしい。
 ただただ、彼女が願うのはそれだけであった。
 すると次の瞬間、ふっ、と少女の手を握りしめていた手の力が抜けた。

「……ありがとう」

 青白い顔のまま、牀榻しんだいに横たわる女性がふわりと笑う。

「あなたがいるなら、安心ね」

 その言葉が引き金となったように、枯れたと思った涙が、再び少女の視界をにじませ、ぼろぼろとこぼれ落ちた。

珠蘭しゅらん姐姐ねえさん

 この高い壁の中に足を踏み入れた時から、呼ぶことのなくなった名が堪えきれずに転がり出る。

「珠蘭姐姐。珠蘭姐姐」

 彼女のかろうじて動く親指だけが、少女の手の甲を弱々しく撫でてくれた。きっともう、反対側の腕を伸ばす力もないのだ。

「ごめんなさいね、灯灯とうとう……」

 泣き声を上げることはできなかった。
 今もこの景承宮けいしょうぐうの外には誰かが控えている。誰も信用はできない。聞かれてはいけない。見られてはいけないのだ、この状況を。
 灯灯と呼ばれた少女は涙を拭って言った。

「大丈夫よ、姐姐。後は私に任せて。何も心配しなくていいの。啓轅様は私が守る。誰にも傷つけさせないわ。絶対に」

 そうだ。絶対に、誰にも傷つけさせない。
 もう失ってなるものか。
 少女は泣きながら笑った。

「だから安心して。何も心配しないで。ゆっくりと眠っていいのよ。いいえ、眠らないで。お願い、珠蘭姐姐。私を見て。珠蘭姐姐……」

 とうに力の抜けていた手が、少女の両手からするりと落ちた。
 痩せた細い腕が、牀榻しんだいの上にぱたりと音を立てて投げ出される。
 珠蘭は目をつむっていた。顔には涙の跡があって、泣き疲れて眠ったようにも見えた。

「――――!」

 彼女は、喉からほとばしりそうになった悲鳴を抑え込むために自らの腕を噛んだ。ぷつり、と皮膚が裂け、口内に鉄の味が広がってもやめない。歯の隙間から嗚咽おえつが漏れる。噛んでいる腕の先にある自らの手の甲に、血がにじんでいるのが見えた。先ほど珠蘭の爪が食い込んだせいだろう。
 その手はかつて、行き場を失った少女の手を引いてくれた。
 守ってくれた。ご飯を食べさせてくれた。
 少女にとっては、世界そのものだった。
 ……世界そのものだったのだ。 



   一、苑祺宮の高貴妃


 藍灰色らんかいしょくの靴に、ぽつんと小さな染みができていた。
 ほんの小さな、赤ん坊の黒子ほくろのような染みである。昼間はなかったから、先ほど薬湯を少しこぼした時のものだろう。

(寝る前に、染みとりをしないと)

 範児はんじは頭の中でやるべきことを一つ加えた。
 俯いて足元を見つめる時間が長いせいで、目をつむっていても自分が履いている靴のしわの形まで思い浮かべられるようになってしまったことを、少しおかしく感じる。

娘娘でんか! 娘娘! どうかお許しください! 娘娘!」

 夜のしじまに、女の悲鳴が響いた。
 バン! と目の前の扉が開いたかと思ったら、宦官かんがんが二人がかりで、泣き叫ぶ女官を引きずりながら出てくる。

「娘娘! どうかお許しください!」
「静かにしろ!」

 宦官かんがんの一人が、布きれを女官の口に突っ込んでふさいだ。女官はなおも何かを訴えようとしていたが、問答無用で引きずられていってしまう。両開きの扉は開け放たれたままで、正面には誰も座っていない宝座が見えた。金糸で刺繍の施された緞子どんす生地の宝座は、主人がいないにもかかわらず無言の存在感を放っている。

「入りなさい」

 凛とした声が寒々とした空気を震わせて外に届いた。
 その言葉を受けてやっと、範児は両手に盆を持ったまま『苑祺宮えんきぐう』という扁額へんがくのかけられた正殿に入る。

貴妃きひ娘娘。湯をお持ちいたしました」
「……」

 返事はない。しかし、無言こそ正殿の主人の返答だ。
 苑祺宮の床は、光沢のある金磚きんせんおおわれている。正殿の臥室しんしつは東側にあって、宝座のある正面の部屋との境目には竹林が描かれた衝立ついたてが設えられていた。
 範児が衝立ついたての横までやってくると、この宮の主人であるその人は牀榻しんだいの前に立ち、艶やかな黒髪を一度持ち上げて睡衣ねまきに落としたところであった。
 こう良嫣りょうえん。この後宮においては、皇后に次ぐ貴妃の地位をたまわっている、範児の主人だ。
 一瞬見えた貴妃の首筋は、まるで一度も日の光を浴びたことがないように白く細い。範児がそれに目を奪われていると、こちらに背を向けていた貴妃が身じろぎをしたのがわかった。次の瞬間、貴妃の顔半分を隠す面紗の上の、氷のような双眸そうぼうに射抜かれて、どきりと心臓が飛び上がる。
 慌てて下を向いたが、脳裏にまざまざと残る貴妃の眼差しにまだにらまれているかのような心地になった。
 ――範児は以前、高貴妃とまともに目を合わせてしまって、一晩中中院なかにわひざまずかされた女官を見たことがあった。恐ろしいのは受けた罰ではなく、その後その女官を二度と見ることがなかったということだ。
 打ち殺されたのでは、と宦官かんがんが噂しているのを聞いた。そして死体は城の外に放り捨てられたのだと。
 先ほど連れ出された女官の様子を思い出して身を震わせた範児であるが、貴妃は罰を下す代わりに短く言った。

「湯を」
「……は、はい」

 命じられた言葉の意味を理解して、慌てて足を進める。もちろん、もう顔を上げたりなんかしない。
 刺繍の入った丁香紫色ちょうこうしいろの靴が視界に入ったところで足を止め、手に持っていた盆を差し出す。そうすると、白い手がすっと伸びて盆の中の湯に両手を浸した。
 苑祺宮では、万事がこのようであった。
 主人の前で無駄なお喋りをしてはいけない。
 笑ってはいけない。
 顔を上げてはいけない。
 これが、高貴妃を主人とした、苑祺宮で働く女官と宦官かんがんの暗黙の了解である。
 ……思い起こしてみれば、以前の高貴妃はこうではなかった。
 五年前に入宮した高良嫣は、女官らにも優しく気立てがいいと評判の貴妃であったのだ。謙虚で進んで誰かと対立することもなく、ただ皇帝の寵愛ちょうあいを一身に受けていた。
 けれど、二年前に起きた景承宮けいしょうぐうの火事で顔に火傷を負ってから、人が変わってしまったようだ。
 当時景承宮にいた女官や宦官かんがんらを全員後宮から追い出し、新しく与えられた苑祺宮に引きこもるようになった。笑顔を見せなくなり、少しの粗相で女官らを厳しく罰するようになった。
 その結果自然と夫である元徽帝げんきてい寵愛ちょうあいも薄れ、今や苑祺宮は、後宮の中ですっかり孤立してしまっている。毎朝妃嬪ひひんに課せられている皇后への挨拶も免除され、他の妃嬪ひひんが開く宴に呼ばれる機会もない。
 苑祺宮は、後宮の腫れ物なのだ。
 皆が高良嫣を恐れている。

(火事のせいで正気を失ったのでは、なんていう噂があるくらいだもの)

 去年の夏、苑祺宮の氷を他の宮に横流しした宦官かんがんが、貴妃の独断で杖刑五十回に処された時などは、多くの奴婢ぬひが震え上がったものだ。もっともそのおかげで、その次の冬に炭や綿入れなどの支給品が不足することはなかったのだけれど。
 苑祺宮で高良嫣に仕えるようになって二年。その間、範児は主人の笑い声を聞いたことなど一度もなかった。建物は主人の色に染まるというが、この宮は、主人そのものであるかのように寒々として冷たい。
 ――ただ、唯一の例外と言えるのは、奥殿である涵景軒はんけいけんに住んでいる、第二皇子だった。
 四歳の啓轅けいえん殿下は、明るく利発で、常時冬のような苑祺宮の中に咲く蝋梅ろうばいのような存在である。人嫌いで神経質な高貴妃の息子とは思えない可愛らしさで、範児ら女官にも明るい笑顔を見せてくれる。
 せっかくなら涵景軒で啓轅殿下に仕えたいと願う苑祺宮の女官は多いが、啓轅殿下の世話は乳母である葉夫人ようふじんが一手に引き受けていて、範児のような女官は許可なく涵景軒に足を踏み入れることさえ許されていなかった。
 貴妃の白い手が湯から離れたのを見て、範児は盆を卓の上に置くと用意していた手拭いを差し出した。

「お前」

 冷たい氷のような、感情の籠もらない声が範児を呼ぶ。今まで、『範児』と名を呼ばれたことなど一度もない。この人が、一介の女官の名を覚えているかどうかも怪しいところであった。

「もういいわ。下がりなさい」

 そう言って、貴妃が使い終わった手拭いを盆の中に投げ入れる。

「失礼いたします」

 再度盆を両手に持った範児は、後ろ向きにすすと貴妃から離れた。開け放したままの出入り口までやってきてから、くるりときびすを返して宮を出ると、盆を床に置いて両手で門扉を閉める。
 そこでようやく、範児はふうと大きな息をついたのだった。
 この苑祺宮で働く女官と宦官かんがんの数は、他の宮の半分以下だ。だから自然と一人が負担する仕事も増える。特に貴妃の身の回りの世話は、範児が一手に引き受けていた。いや、範児しか残らなかったというべきか。
 当初は些細なことで手を打たれることもままあったが、最近は身体的な罰を受けずに仕事をこなすことができている。近くに人の気配があったら眠れない貴妃が出した命令で、夜の番がなくなったのが救いであった。
 おかげで、貴妃が寝支度を終えて人払いをした後の苑祺宮は、いつも静かだ。

「範児」

 盆を取るためにしゃがんだところで声をかけられて、顔をめぐらせる。正殿から中院なかにわに降りるには数段の階段を降りる必要があるのだが、その階段の陰から、ふっくらとした体型の目尻が垂れた女が、ひょこりと顔を出しているのが見えた。

「お勤めご苦労様」

 笑顔を浮かべ、手燭てしょくを手に立ち上がったのは、範児と同じ苑祺宮の女官の春児しゅんじだ。
 二年前の高貴妃の移宮に伴って新しく貴妃付きとなった女官は、年配の奴婢ぬひが多かった。範児と同じくらいの年の女官は春児くらいで、以来何かというと助け合う仲である。若い女官が少ないので、体力や腕力が必要な仕事は二人で分け合ってこなしてきたものだ。

「春児。そんなところで何をしているの?」
黒貂くろてんを探しているのよ」
黒貂くろてん?」

 範児は目を丸くした。

「毛皮を取るために宮中に持ち込まれた黒貂くろてんが、逃げ出してしまったんですって。万が一貴妃娘娘のご就寝中に正殿に入り込んでしまっては困るでしょう? だから念のため、正殿の周りを確かめていたの」

 苑祺宮の女官は、貴妃が快適に過ごすための努力を惜しまない。一度貴妃の怒りに触れたら、どんな罰を受けるかわからないからだ。

「でもとりあえず苑祺宮の中にはいないみたい」
「涵景軒の方は?」
「葉夫人が見てくださったわ」
「そう。私も一応、緩修殿かんしゅうでんの周りを見ておくわね」

 正殿から苑祺門えんきもんに向かって西側にある緩修殿は、女官の仕事場だ。小さなかまどや刺繍道具が置かれている。

「ありがとう。じゃあ私は偏殿へんでんに戻るわ。範児も早く寝なさいよ」
「ええ。この盆を片付けたら寝るわ」

 そう言って肩をすくめた範児に、春児は小さなあくびで応えて偏殿へんでんの方へ戻って行った。

「そうね、早く寝ないと。明日はまた忙しいわ」

 自分もまた緩修殿の方へ向かいながら、範児は独りごちた。
 先ほど宦官かんがんに連れて行かれた女官の名は小藍しょうらんといったか。ほんの数月前に入ってきた子だったのに、悲しいかな、あれではもう二度と会うことはないだろう。
 また人手が一人減ってしまったから、明日は仕事を差配し直さなければならない。

(今夜は少し肌寒いわ)

 夏の神である朱王しゅおうの残り香が消えて間もないというのに、秋の白山君はくさんくん宸国しんこくに長く滞在するつもりはないらしい。
 冬になる前に炭を確認しておかなくてはと思いながら、範児は月明かりに照らされた中院なかにわを横切り、足早に緩修殿に戻ったのだった。


 ***


 その人影が現れたのは、女官らも寝静まった夜のことであった。
 苑祺宮の東側のわた走廊ろうかを早足で駆け抜けると、走廊ろうかの突き当たりにある東耳房ひがしむねの鍵を開け、するりと中に忍び込む。その姿は怪しいことこの上ないが、そもそも人の少ない苑祺宮ではとがめられることもなかったようだ。
 しばらくすると、東耳房ひがしむねの屋根瓦が一箇所だけぽこりと外れた。そこからよいしょと身体を持ち上げた人物はなんと――苑祺宮の主人、高良嫣である。
 先ほど泣き叫ぶ小藍を容赦なく苑祺宮から追い出し、範児を震え上がらせた高貴妃は、傾斜のきつい東耳房ひがしむねの屋根から、比較的傾斜の緩い緩修殿の屋根に移ろうとして足を滑らせ、「ぎゃっ!」と面紗の下で声を上げた。

「……」

 たらりと、額を脂汗が伝う。危なかった。間一髪だ。手が届くところに屋根の隅棟すみむねがあったのが幸いだった。
 こんなところから転がり落ちたら、骨の一本や二本は覚悟しなければならない。それだけならまだしも、範児らにはどうして高貴妃が屋根に上っていたのか、不審に思われただろう。
 高良嫣は今度は注意深く、足元を確認しながら上体を起こした。

「ああ、ドキドキしたわ」

 良嫣は、緩修殿の、歇山式いりもやの屋根の北側に腰掛けて空を見上げた。
 腰の帯に挟んでいた竹筒を取り出して口に運ぼうとするが、口元をおおっているものがあるのを思い出して後頭部に手を伸ばす。紐の結び目を解くと、絹の面紗がひらりと彼女の膝の上に落ちた。
 現れたのは、黒子ほくろ一つない白い肌をした女の顔であった。きりりとした双眸そうぼうは面紗をしている時と変わらないが、今はもっと柔らかい印象を含んでいる。紅さえ引いていないその顔は、どう見ても二十に満たない小娘だ。
 範児が見たら首をかしげていただろう。高貴妃は、二十五、六になるはずなのに。
 良嫣は今度こそ竹筒を口に運ぶと、こくりと喉を上下させた。
 中に入っていた菊花酒きっかしゅの華やかな香りが鼻腔をくすぐる。少し冷たい風が頬を撫でて、空に浮かぶ丸い月に吸い込まれていった。
 次いでいそいそと懐から取り出したのは、油を染み込ませた紙包だ。竹筒を置いて丁寧に紙を広げると、中から潰れた月餅げっぺいが現れる。

「さっき転んだせいね」

 せっかく、夜食にと範児に用意させたものなのに。少し残念に思って口を尖らせたが、「どうせ口に入れば同じよね」と思い直して一つを手に取った。
 ほろほろとした生地の中には、胡桃くるみや松の実などの木の実を混ぜたあんが入っている。舌先に広がった甘さを、菊の花の香りがする酒で喉の奥に流し込んだ。
 彼女がこうして屋根の上で酒宴を催すのは、これが初めてのことではなかった。
 数ヶ月に一度は今夜のように、誰にも見られぬ場所で面紗を外して、酒を飲んでいる。
 気持ちがいいのだ。
 いつもは、高い壁の中に閉じ込められているから。
 屋根の上で空を仰ぐと、あの、こちらに関心ない顔で冷たく浮かぶ月にさえ手が届くように感じる。それが好きだった。

「あんなに小さいのに、どうしてあんなに明るいのかしら」

 手を伸ばすと、月が手の中に隠れた。
 しかしそれでも変わらず夜は明るく照らされている。

「……見えなくても、そこにいるのがわかるわ」

 良嫣は柔らかく笑った。

珠蘭しゅらん姐姐ねえさん

 もう、彼女の他には誰も呼ばないその名を口にしたその時、視界の端でぴゅっと動いたものがあった。
 ――苑祺宮のような妃嬪ひひんが住まう宮は、ぐるりと厚い壁で囲まれている。その厚い壁には雪が積もらないように、屋根がかれていた。動いたものを視線で追ってみると、その壁の屋根の上から、一対のきらりと光るものがこちらを見据えているのが見えた。あれは……。

「……黒貂くろてん?」

 しなやかで長い胴体、丸く弧を描いた小さな耳に、夜の中に溶けてしまいそうな黒い毛並みは、間違いなく黒貂くろてんである。良嫣は黒貂くろてんという生き物を以前、皇宮の外で見たことがあった。
 本来なら森の中で生息する小動物だが、その毛並みの良さから貴人たちが愛玩動物として飼うこともあるらしい。
 もしここに範児か春児がいたのなら例の逃げ出した黒貂くろてんだとすぐにわかっただろうが、そんな女官らの噂話など聞いたことのない良嫣は首をかしげた。

(どこからか逃げ出したのかしら)

 下手な人間に捕まったら、毛皮を剥がれるかもしれない。

「こっちへおいで」

 面紗と竹筒を帯のところに押し込んだ良嫣は、腰を落としながら立ち上がると、黒貂くろてんに手を伸ばした。

「怖いことはしないわ。だからこっちへおいで」

 小さな声で話しかけて、じりじりと足を進める。黒貂くろてんはまるで値踏みするようにこちらを見据えて、ぴくりとも動かなかった。

「いい子ね。おいで」

 黒貂くろてんが爪を立てている苑祺宮の東側の壁の屋根は、緩修殿の屋根とぴったりと寄り添っている。だから良嫣は、なんなく壁の方によじ登ることができた。落ちないように四つん這いになり、黒貂くろてんを警戒させまいと身を低くして手を伸ばす。

「おいで」

 それまでじっと良嫣を見つめていた黒貂くろてんであるが、その時何を思ったのか、唐突に動いた。前動作なしでさっと屋根を蹴ると、こちらに向かって飛びかかってくる。

(あっ!)

 思わぬ黒貂くろてんの動きに驚いた良嫣は、自らの体がぐらりと苑祺宮とは反対方向へかしいだのを感じた。空中に放り投げられる前にと、わらをも掴む気持ちで手を伸ばす。

「……!」

 一度は確かに屋根瓦の端に指をかけたが、一呼吸の間も持たず、伸ばした手は空を掴んだ。ここ二年は優雅な「貴妃生活」を送っている彼女が、とっかかりもない屋根瓦を掴んで自分の身体を支えることなど到底無理であったのだ。
 良嫣は目をつむった。
 どさり!
 という鈍い音がして全身に衝撃が走る。

「い……」
(いたー‼)

 声に出すのはまずいと理性が働いたので、心の中で悲鳴を上げた。しかし幸いなことに、どうやらまだ生きているようだ。目の前には、剥き出しの土と夜露に濡れた草がある。

「うう……びっくりした……」

 良嫣はおそるおそる身体を起こした。
 腰や腕に痛みがあったが、ゆっくりとでも立ち上がることができたので、骨に異常はないようだ。
 目の前の朱色の壁を見上げると、自分の背の三倍はあるように見える。あの高さから落ちてこの程度なのだから、ほぼ無傷だと言えるだろう。
 周囲を見回してみても、先ほどの黒貂くろてんは見つからなかった。

「薄情者め」

 そう毒づいて、褙子うわがけについた泥を払う。
 さて、どうしよう。このままここで夜を明かしたら苑祺宮は大騒ぎになる。もっとも望ましいのは、この壁をなんとかよじ登って、隣の苑祺宮に戻ることだが……。

(どこかに、梯子はしごがあるかしら……)

 良嫣は壁に背を向けて、自分がいる場所を確認した。
 苑祺宮の中院なかにわよりも数倍の広さの庭院にわが、目の前に広がっている。左側を見ると、そちらの奥に楼房たてものがあるのがわかった。
 良嫣は、頭の中で皇宮の地図を広げた。

(緩修殿があるのは苑祺宮の東だから、苑祺宮の東側に、隣り合っている大きな宮っていったら……)

 はっとする。

「ここは、仁華宮じんかぐうだわ」

 すぐに思いつかなかったのも無理はなかった。
 仁華宮は、今はもう使われていない宮なのだ。
 三代前の永凌帝の時に、皇太后の正宮として建設された。贅を凝らした造りをしていたが、先代の嘉世帝かせいていが倹約を好んだことから使われなくなったはず。

(苑祺宮も、もとは仁華宮の一部だったと聞いたことがある)

 他の宮とはみちを一本隔てているのが普通だが……もとは同じ敷地であったから、隔てるのが壁一枚しかないのかもしれない。
 使われていない宮だと思えば、庭院にわがこうも荒れているのも頷けた。
 足元の花壇も小さな石が敷き詰められた石畳も雑草におおい隠されているし、奇岩の根元には苔が生えている。木の枝は伸び放題で、あちらこちらに我が物顔で作られた蜘蛛の巣は、玉のような夜露できらきらと光っていた。

(苑祺宮の二倍は広いわね)

 仁華宮は、その敷地の半分が花園かえんとなっているようだった。
 荒れ果ててはいても、松や木蓮、柏、銀杏いちょう丁子ちょうじなどの木々が計算し尽くして配置されているのがわかる。花壇には牡丹ぼたん芍薬しゃくやくの葉が身を寄せていた。池の中央にはいおりが設けられており、その向こうに正殿が佇んでいる。
 百年前の皇帝が愛する母のために作った宮は静かで、不思議と後宮全体から感じるような冷たさもなかった。

(……梯子はしごか踏み台を探さないと)

 良嫣は、落ちた時に打ちつけた身体をさすってから、正殿の方へ歩いた。
 正殿の左右には緑色の瑠璃瓦るりがわらを被った楼閣が従っており、透かし彫りの四枚扉には封がされている。
 正殿の横幅は五丈はあるだろう。かつては朱色であったと思われるくすんだ色の柱が、四方に張り出した屋根を支えている。扁額へんがくは外されてしまったのか何もかかっておらず、両開きの扉の左右には、屋根と同じ緑色に塗られた格子窓が嵌っていた。
 扉に続く五段ほどの石の階段の端には、枯れた蔦がぴっしりと張り付いている。屋根の下や格子窓にも、大きな蜘蛛の巣があった。

(……中に、使えるものがあるかもしれないわ)

 正殿の扉にも封がされているが、経年劣化のためか半分剥がれていた。難なく中には入れそうだ。
 良嫣は意を決して階段を上ると、両開きの扉に手をかけた。
 随分と長いこと誰も訪れていないはずの扉は、きいという軋んだ音さえ立てずに開く。
 真っ暗な室内に、今開けた扉の隙間を縫って月明かりが差し込んだ。
 窓や建物の壊れている箇所からも月明かりがこぼれ落ちて、室内を照らしている。正面には宝座が置かれ、その後ろにあったはずの衝立ついたては倒れていた。
 左右の房間へやの間には内側を大きく切り抜いた透かし彫りの壁が設えられていて、右手にはかつてこの宮の主人が客人と談笑を楽しんだであろう床榻ながいすが見える。
 左手には、花梨の木でできた丸い卓子たくが設えられていた。床には翡翠の花瓶や鏡が転がっている。落ちていた茶杯を拾って卓子たくの上に置いた彼女は、西側にもう一つ部屋があったのでそちらを覗き込んだ。それは部屋というよりは走廊ろうかに近い空間で、どうやら北側が、そと走廊ろうかに繋がっているようだ。
 梯子はしごがあるとすれば、倉庫のような部屋の中だろう。構造的には、そと走廊ろうかから後院おくにわに出られそうだから、そちらに倉庫があるかもしれない。
 そう当たりをつけて、そと走廊ろうかに出た。

「わぁ」

 良嫣は思わず声を漏らした。そこに、月が落ちているのを見つけたからだ。
 いや違う、後院おくにわの中央にある池に、空の月が映っているのだとすぐに気づいた。波紋さえ立たない水面に映った月は、まるで本当はここが自分の家なのだとでも言いたげな顔をしている。
 池の横に悠然と枝を伸ばす木蓮の葉は黄色く色づき、白い月の浮かぶ池に柔らかな彩りを添えていた。
 わた走廊ろうかは、正殿の左右の楼閣と、奥殿に繋がっているようだ。黄色い木蓮の葉が、ところどころ敷石がめくれているわた走廊ろうかにも吹き込んでいた。
 良嫣はめくれた床石につまずかないように注意深く歩いていたが、西側の楼閣の前を通り過ぎたところで足を止めた。


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