デイ・ウォーク

たかや もとひこ

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第51章  新たなる夜明け

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 月明かりが陰り始めた見渡す限りの大雪原。
 岩を組み上げた丈の低い建物が点在する村の中は慌ただしさを増していた。そろそろ夜明けが近いのだ。そこかしこで仕事の後片付けに余念のない村人たちの傍らでは放牧された数頭の雪走り烏賊スノー・スクィードが彼らとは対照的に、のんびりと雪をんでいる。そんな彼らの姿を臨む小高い丘の上。そこに迷い込んだ一頭の若い烏賊の後ろで雪がもぞもぞと動いた。そして一瞬その動きが止まったかと思うと、粉雪を巻き上げて子供の小さな身体が笑い声とともに勢いよく飛び出してナナクサの胸の中に飛び込んだ。
「大婆さま!」
「おや。雪潜りスノー・ダイブとは、たいそう元気の良いことじゃな。お前が我れの所へ遊びに来たということは……」
 ナナクサは、その小さな女の子の身体を左手で抱きかかえながら訳知り顔で大げさに足元を見渡した。そして海面高く飛び上がるイルカのように雪上に姿を現した二人目の男の子を右手で難なく捕まえた。
 この年、ナナクサはちょうど千百歳を迎えたが、その動きと外見は大婆と呼ばれるのが憚られるほど若々しく、人間でいう壮年に入ったばかりの女性にしか見えない。
「ずるいぞ。大婆さまを味方にすんのは反則だ!」
「反則じゃないよ。あんたが捕まえられなかっただけじゃない」
「これこれ」二人の子供を両手で一人ずつ抱きかかえたナナクサの声は限りなく優しい。「喧嘩をするでない、二人とも」
「喧嘩じゃないよ、勝負だもん」男の子が怒って口をとがらせるそばから、女の子が「勝負だもん」と、その口真似をして舌を出す。
「やめろ、お前たち。大婆様が迷惑がっておられるぞ」
 ちょうど丘を上がってきたばかりの身体の引き締まった若者が二人の子供を叱る。
「わぁ、ツイナだ!」
 男の子は叱られたことなどそっちのけで、叫び声をあげてナナクサの手の中から飛び出し、ツイナと呼ばれた若者に飛びつこうと飛び上がったところ、彼にも空中で難なく捕まえられてしまった。
「下ろしてよ」
「お前の落ち着きのなさはなんだ。この分では、やはり大婆さまに迷惑をかけていたろ?」
「かけてないよ!」
「本当か?」
「ほんとだよ」
「あたちも迷惑かけてない」と女の子も男の子に追従する。
「この子らの言うとおりですよ」ナナクサは子供たちに微笑みかけながら、目の前の若者から漂う微かな不安も見逃さなかった。「そんなに心配するものではありませんよ、ツイナ」
「何をですか?」
「自身が一番わかっておるでしょう?」
「しかし……」
 心を見透かされて言いよどんだツイナをナナクサは諭した。
「考えてもご覧なさい。お前も帰ってくるまで、もっと時間がかかったではないですか。あのとき我れら村の者がどれほど心配したことか。だから、いま少し信じておやりなさいな」
 デイ・ウォークで命を落とす若者は今も皆無ではない。ましてや家族を失い、一人残った妹の帰りを待つツイナの気持ちは察するに余りある。ナナクサも若者を送り出すたびに不安に駆られはするが、だからといって、それを他の村人に悟らせることは決してない。なぜなら不安がらせないようにするのが最長老の勤めでもあるからだ。
「そうですね」
「えぇ」
「それはそうと」ツイナは不安を振り払うように話題を変えた。「そろそろ夜明けです」
「もう、そんな時間になりましたか」
「ねぇ」男の子が親猫に首をくわえられた子猫のように手足をぶらぶらさせながら二人の会話に割り込んだ。「早く下ろしてよ」
「子どもは寝る時間だ。墓穴シェルターのベッドまで運んで行って、そこで下ろしてやる」
「やだよ」
「駄目だ。目を離したら、またお前は雪潜りスノー・ダイブで、どこかに行ってしまうだろ。陽を浴びでもしたらどうする。死んじまうぞ」ツイナはナナクサに抱かれている女の子にも手を伸ばした。「さぁ、お前もだ」
 二人の子どもは口々に「いやだ」と抗い、女の子の方はナナクサにより一層強くしがみついた。
「二人とも、もう三十歳だろ。聞きわけたらどうだ」
「じゃぁ、ベッドでお話ちてよ」
「ぼく“紅星の戦い”がいい」
「あたち、それ知ってるよ。ツイナとノリトも敵をやっつけたんだよ」
「そんなこと、だれだって知ってるよ!」
「あたちは、“ガプーラ・シンの和睦”だって知ってるもん」
「昔の話だ……」
 そう呟いたツイナの目は女の子とナナクサを突き抜けて、はるか遠くを見ているようだった。
 そう。昔の話。忘れえぬ過去の話だ。
 彼の左瞼から左頬にかけて薄っすらと残る刃物傷が、今も自分の手の甲に残る傷跡を始祖から受けた時のことをナナクサに思い起こさせた。外傷に対する完全な治癒力を持つヴァンパイアですら治らぬ傷もあるのだ。今では“中興の大戦おおいくさ”として記憶される始祖との戦いも、それを知らない多くの者にとっては遥か大昔の出来事となり果てていたが、ナナクサにとっては決してそうではない。ツイナが両親を失った紅星の戦いと同じように、彼女はそれでデイ・ウォークを共にした、かけがえのない仲間をすべて奪われたからだ。
 行動力と正直さのジンジツ……その聡明さに好意を抱いたタナバタ……身体の弱さを克服しようと必死だったミソカ……包容力と芯の強さを兼ね備えたタンゴとチョウヨウ……そしてジョウシ……。あの始祖との戦いのとき、極限まで高められたヴァンパイアの力をもってしても彼女を助けることができなかっただけに、それを思い出すと心が苛まれる。しかし、一族に対するジョウシの責任感がもたらした決断が、今まで人間たちとの相互不可侵の盟約を守らせ、その後の二つの種族が理解しあってゆく礎になったのだ。中興の大戦おおいくさの終盤。ナナクサが始祖を量子脳に封印する直前、ジョウシはファニュに看取られて息を引き取っていた。まるで自分たちの勝利を確信するかのような安らかな死であったという。しかし、ジョウシはヴァンパイアと人間の行く末を案じ、死の間際にナナクサにこう囁いてもいたのだ、「我れの死後、かばねは塵に還すべからず。この地深くに葬りて、もって時が満つるまで、恐怖の封印とせよ」と。ナナクサは彼女の真意を理解し、戦いが終わったあと、その遺言のとおりにした。
 ナナクサは城壁外に追放されていた者たちを呼び戻すと、彼らと生き残りの戦士たちにファニュを城塞都市カム・アーの終身執政者とし、その補佐にクインを据える旨を伝えた。予想し得た戦士たちの反発もナナクサが再び披露した圧倒的な力の前に、すぐに影を潜めた。翌日。ジョウシを地中深く葬った闘技場そばの広い空き地に再び人々を集めると、「人がまたよこしまな野望を持ったとき、ここに眠る監視者は地中より目を覚まし、その者どもをことごとく滅ぼし尽くすであろう」と声高らかに宣言した。もちろん、これが大法螺だと知っている人間はファニュだけだったし、ヴァンパイアの脅威とナナクサの力を身近に体験した人間たちが新たに恐怖の伝説を末永く口承していってくれることに疑いの余地はなかった。ただ、ファニュは執政者という重圧に押しつぶされそうになってはいたが、最後まで武器を手にジョウシを庇って自らも命を落としたエイブが荼毘だびに付される段になると、さすがに毅然と居ずまいを正し、ヴァンパイアと人間の懸け橋となるべく城塞都市カム・アーで生きる道を受け入れたようだった。
 そのファニュも今では失われた六人の仲間たちと共に遥か昔の記憶の中に生きている。ヴァンパイアも人間も同じだ。生涯を戦い抜き、傷つき、そして死んでゆく。それは自分のためだけでなく、大切な誰かのためであり、何かを成し遂げるためのものなのだ。ヴァンパイアの若者たちが挑み続けるデイ・ウォークのように。
 ナナクサは村に掲げられた旗を見上げた。鳥が翼を広げたように左右から差し伸べられた二つの手が互いのそれを握り合う寸前の意匠の真ん中に一本の剣があしらわれている。もちろん手の甲に当たる部分にある三本のギザギザ模様はナナクサの手に残る傷を意味している。過去には人間と反目しあったこともあるし、互いに協力し合って他種族からの侵略と戦ったこともある。この意匠から剣が消え、二つの手がただ単に握手をするだけの意匠に変わる未来はあるのだろうか。
「大婆様」今度はツイナが呼びかけた。「いかがなされました?」
「なんでもありませんよ」ナナクサは自然と身に付いて久しいジョウシの古風な物言いで静かに応じた。「我れも昔のことを少し思い出していただけです」
長駆ちょうくの三行者!」女の子が声を上げた。
「ちがうよ!」男の子が反論の口火を切る。「それはツイナとノリトだよ。大婆さまは七賢者の一人だろ!」
「大婆さまも三行者だよ!」
「七賢者の方がエラいんだぞ、バカ!」
「これ」ナナクサは男の子を軽く睨んだ。「友だちを馬鹿とは何事ですか」
「だって、こいつ何も知らないんだもん」
「しってるってば!」
「我れはのぅ」ナナクサは幼子の目を交互に見詰めた。「ただの生き残りじゃ」
 ツイナはその言葉の中に自虐の酸味を感じ取ったかもしれない。だが、そこには過去に対する負の気持ち以上のものが込められている。悪意に満ちた人間の血を吸ったことで得た気も遠くなるほどの長命を呪いと考えるか、力ととるか。ナナクサは七百年前には眠れぬほど思い悩んだこともあったが、今ではそれも苦にならない。むしろ、これは宿命なのだと受け入れている。どうせ避け得ない定めなら、失われた仲間たちが生きられなかった分を薬師くすしとして新たな仲間たちのために前向きに生きてゆこう。それは城塞都市カム・アーから救い出した生存者たちと残りのデイ・ウォークを踏破し、そののち彼らと、このゴセック村を切り開いたときから始まったことなのだ。ナナクサはこの宿命を伴侶として今まで生き続けている。たぶん、これから先もずっと……。
「さぁ、子どもたち。もう寝るがよい」
 ナナクサに促されて二人の幼子はツイナに手を引かれて丘を降りてゆく。その途中、三人は同時に足を止めると遠くの地平線に目をやった。彼らの視線の先には村に向かって四頭立ての大型橇が雪を蹴立てて疾走してくるのが見える。人間との交易を終えて、村の方違へ師かたたがえしたちが二年ぶりに帰ってきたのだ。ナナクサはそれを確認すると子どもたちを早く寝所へ連れて行くようにツイナに軽く頷く。村に入った大型橇は仕事の後片付けを終えたばかりの村人の手で次々と荷を解かれ、半地下になった集会所兼倉庫に運び込まれてゆく。一連の作業は手慣れたもので早送りの映像を見るようだ。そんな作業集団から一枚の遮光マントがひらりと抜け出し、ツイナに抱きつくと二言三言、言葉を交わし、ナナクサのいる丘の上まで長い銀髪をなびかせて軽やかに上がってくる。人間との交易を終えて二年ぶりに帰ってきたノリトだ。ナナクサはその姿を見て、元気のいい娘だと目を細める。
「大婆様、ただいま戻りました」
 尻尾が二股に分かれた黒い雪猫のコマタもノリトに負けじと、彼女の足元からするりと姿を現すとナナクサを見上げて「にゃぁ」と帰還の挨拶をする。子猫のくせにヴァンパイアにすら接近を気取らせない忍者。紅星の戦いのとき、人知れず村に住み着いた無限の寿命を持つ雪猫の子どもだ。しかし、この愛くるしい忍者は、ちょくちょく生え変わった直後の、まだ柔らかい雪走り烏賊スノー・スクィードの足を食い千切っては失敬する悪戯者なので、その心配だけは増えることになる。
「ご苦労でした」
「ご指示どおり、大型のつちのみ。それに多少の衣類も手に入れました」
「あんなに橇を飛ばしてくるとは、さぞや疲れたことでしょう。ゆっくり明日の夜に帰ることもできたでしょうに」
「村が近いと思うと気持ちを押さえられなかったんです。で、あとは水筒を六本。村で廃棄処分になってたのと差し引きしても余りますよ。それから……雪割りトマトの苗が一箱……」
「いかがした?」帰還早々なにか言いたげなノリトにナナクサは水を向けた。
「なんでもありません」脚に身体をすり付けて甘えるコマタに注意を向けながらも、ノリトは、さして面白くなさそうに応じる。「でも、トマトなんて育てても、なんの腹の足しにもならないと前々から思ってます」
「精進水に遥かに劣るとはいえ、非常食としては有効ですよ。されど、お前が言いたいのは、トマトの話ではなかろう? 言いたいのなら、今お言いなさい。言わぬなら、ずっと黙っておくことじゃ」
「では、申し上げます。人間との交易が無駄とは思いませんが、やはり効率が悪すぎます。必需品が山積みされていて人間が足を踏み入れない場所を知ってるだけに納得がいきません。あそこの物資を使い続けられれば、村はもっと便利になります」
 ノリトは言いたいことを一気に吐き出すと肩をすくめた。確かに若いノリトの思いは、もっともなことだ。だが、高度に物流が発達した社会に生きていたナナ・ジーランドの記憶を持つナナクサには、物に囲まれすぎることで自身を見失う危険を孕むより、不便であるがゆえに互いの絆を武器にして支えあう生活の方が、今の世界では何十倍も健全で文明的だと思われた。それはヴァンパイアとて人間と同じように、すべてを達観した物欲のない超越者たり得ないからだ。それに必需品を無暗に使い尽くすということは、デイ・ウォークで新成人が獲得する記念品を枯渇させてしまう恐れもある。なぜなら、デイ・ウォークの物理的な終着点である要所は、ブラム氷期突入後も略奪や破壊を免れた、北半球に存在する唯一の巨大ショッピングモールなのだから。
「お前の気持ちはわかります。されど、それを今どうこうするというのも性急にすぎますよ。我れらが心をもっと深化させてから話し合っても遅くはありません」
「いつになりますか?」
「さて。いつになるかのう」
「物があふれた便利な世界を見たいのです」
 ナナクサは夢見がちな娘に、ただ微笑みを見せるだけだった。
「早く見たいのに……」ノリトは不満気に溜息をつくと、突然、思い出したように肩から下げた袋の中に手を突っ込んで取り出したものをナナクサに手渡した。「そうだ。これを忘れてました。お土産ですよ、大婆様」
「おやまぁ。これは本ですね……」
「えぇ。今回の隊商が持ってました。彼らの話によると大昔にうち捨てられた辺塞近くで見つけたらしいです。すごいとお思いになりませんか。でも何と交換したかは秘密ですよ」悪戯っぽく微笑んだノリトは背表紙からページに目を移したナナクサの手元を覗き込んだ。「古代の言葉をもっと勉強しとけばなぁ。大婆様に渡す前に少しは読めたのに」
「言葉の勉強は今からでも遅くはありませんよ」本から目を離さず、ノリトに応じたナナクサは次に本自体を丹念に調べ始めた。「防腐加工を施したプラスチックページ……。文字の大きさと、この挿絵のタッチからすると青少年用に簡略化された古代の小説ですね。おや?……」
 ナナクサはページの中のマントに身を包んだ不気味な男が若い男女の前に立ちはだかる挿絵の下に点々とこびりついた黒い染みに目を止めた。その動きにノリトが素早く反応する。
「かなり古い血です、大婆様。匂いはほとんど消えかけてますが、人間のじゃありません。私たちヴァンパイアのものに間違いありません。調べたかったのですが、“記憶見の秘法”は大婆様にしか許されてませんから」
「お前が本をくれた本当の理由は、これですね?」
「えぇ。実はそうです」
「しょうのない娘ですね」
 悪びれるどころか好奇心を隠そうともしないノリトにナナクサは顔をしかめてみせた。血から個人の記憶を垣間見るなど、お世辞にも褒められたことではない。ただ、その血の持ち主の生き様を知ることが、その者の生きた証となり、村人の心の糧となる可能性があるなら、その行為は許されるのではないか。ナナクサは幾度か行った“記憶見の秘法”の際にも、そう自分に言い聞かせてきたのだ。
「良き記憶であらんことを」
 ただの怪我で付着したものか、そうではないのか。どうか前者であるようにとナナクサは祈る思いで人差し指を黒くこびりついた血に押しつけた。そして大きく息を吐いて心を落ち着け、砂粒のような血を口元に運んで舌で舐めとった。しばらくすると視界の周りにかすみがかかり、見知らぬ若者の顔や景色が次々と現れては消えていった。そして……。
「どんな記憶でした?」
 ナナクサは目を伏せると悲しげに首を振った。好奇心が勝るノリトもさすがに察して、右手を左胸に添え、いにしえの故人の記憶に一礼を捧げるとナナクサの前を静かに辞した。
「この記憶の持ち主の名は、ボウシュ」ナナクサは丘を降りるノリトの背中に声をかけた。「不幸な最期に見舞われはしましたが、型破りで好奇心にあふれた夢ある若者でした。彼女が残した生き様は、またお前たちにも伝えましょう」
 たとえ本の内容にボウシュが直感した一族の秘密や歴史が書かれていなかったとしても重要なのは、それではない。ナナクサは自身のデイ・ウォークの仲間だったチョウヨウの魂にも、そう語りかけた。
「さて、いよいよ夜明けか」
 ナナクサは空に背を向けると本を閉じて小脇に抱えた。本の背表紙にはこうあった。“ブラム・ストーカー著・少年少女文庫版『吸血鬼ドラキュラ』。”
 薄っすらと差し込む朝陽がヴァンパイアの長老から長い影を引き、それは彼女が地下の寝所に潜るまで白い大地に伸びていた。

               了
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