デイ・ウォーク

たかや もとひこ

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第40話  急転

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 床が大きくうねって闘技場の屋根の一部が崩落した。
 エイブは好奇心から崩落した屋根の淵までいくと下を覗き込んだ。下にいる人間たちは小石よりも小さく見え、動きも見辛いので、隊商時代から使っている双眼鏡とおめがねを腰袋から出して目に当てた。そこに映し出されたのは第一指導者ヘル・シングに追い詰められつつある最初に出会った女ヴァンパイアと両手のそれぞれに人間を掴んでいる人造強兵ホムンクルス。そしてそれを遠巻きにする戦士のかたまり。
「ファニュ……クイン……」
 心の呟きが声になった。人造強兵ホムンクルスの手の中で二人は生きていた。自由になる足をバタバタさせて必死に抗っていた。二人が生存しているのは第一指導者ヘル・シングが巨獣の動きをを掣肘せいちゅうしているからに他ならない。エイブの心の中で再び葛藤が生じた。友人たちを助ける何らかの努力をするか、このまま見殺しにして全ての決着がつくのをただ見守るのか。考えるにしても圧倒的に時間がなさすぎた。
 起き上がったエイブが頭を巡らすと、屋根の一部が崩落したことに慌てたレン補佐長が棒状の制御機械を必死にいじる後ろ姿が見えた。だが、彼に相談しようとは思わなかった。きっと計算外の出来事に大忙しなのだろうし、相談したところで彼の考えは変わらないだろう。
 崩落で出来た大穴にまで届く囃し立てるような大歓声が下から聞こえた。今度は双眼鏡とおめがねを使わずとも、エイブには下の様子が手に取るように想像できた。第一指導者ヘル・シングが力を誇示するためだけによくやっていたパフォーマンス。剣で刺し貫いた死体を自慢気に高々と頭上に差し上げては野蛮な大歓声に酔っている姿。今回は、それが罪人や挑戦者ではなく、追い詰められていた女ヴァンパイアであるにすぎないのだろう。しかし女ヴァンパイアの処刑が終われば、次はファニュとクインだ。
 迷った挙句、エイブは行動を起こした。彼は一番近い保守機械オート・マトンの傍に走り寄ると、柱に取りついたその胴体に両手を掛けて全身に力を込めた。その拍子に背中の傷に激痛が走り、包帯代わりにきつく巻いた幌の切れ端に新たな血がじゅくじゅくと滲みだすのがわかった。苦痛の喘ぎが漏れた。それでもエイブは思い切り引っぱった。二十キロ以上あるそれは意外に容易く柱からもぎ離された。彼は痛みを無視して、そのまま元いた穴の淵まで戻ると保守機械オート・マトンを両手で頭の上まで持ち上げた。友人たちにチャンスを与えた上で、第一指導者ヘル・シングの座に就く。成功するかしないかはわからないが、悔いを残すよりはましだ。エイブは自分の選択を実行しようとした。さぁ、いくぞ。
「なにをするのだ、新たな指導者よ!」
 レン補佐長の突然の怒声にエイブは手を止めた。「第一指導者ヘル・シングを葬ります。この高さです。これをお見舞いすれば、いかに奴でも死ぬことでしょう。成功するまで何体でも投げつけてやります」
「この高さから投げ落として首尾よく当たるとは思わん。それに事が成就するまで何人なんぴとにも気取られることは慎まねばならんと言ったはずだが、気でも違ったのか?」
「それはわかっていますが、やらせてください。殺せなくても第一指導者ヘル・シングは怯むかもしれません。そうすれば操られている人造強兵ホムンクルスも怯むはず。屋上を完全に崩落させるのはそれからでも遅くはないはずです」
「なぜだ。人造強兵ホムンクルスが怯んでどうなる?」
「仲間が掴まえられています。少しでも隙ができれば逃げれるかもしれない」
「万に一つも成功はない」
「でも掛けてみる価値はあります」
「いや、ない。お前はわかっておらん。第一指導者ヘル・シングと戦士たち、それに大量発生した吸血鬼軍団バイターズを一挙に葬り去るにはタイミングが大事だ。闘技場を邪魔者どもで埋め尽くしてからでなければ計画は失敗する。気取けどられてはならんのだ。あと少しだ。早まるな!」
「しかし屋上の一部は崩壊しました。もう計算通りにはいきませんよ」
「そんなことはない!」
 エイブは背中に新たな激痛を感じた。同時に後ろ向きにぐいぐい引っ張られて、頭上に掲げ持った保守機械オート・マトンと一緒に屋上の床に倒れ込んだ。見上げると、そこには血まみれのナイフを持ったレン補佐長の姿があった。奇妙なことにエイブが真っ先に思ったのは、仲間の事でも、自分が刺されたことでもなく、意外に腰抜けの補佐長もヤルじゃないかということだった。だがすぐに本当の腰抜けだったら、こんな大胆な大量虐殺計画など実行しようとは思わないだろうと考えを改めた。レン補佐長はエイブのそんな考えを知ってか知らずか、床に横たわる若者に対する興味を失ったようだった。
 レン補佐長は失望を顔に表さなかった。人間といっても所詮は精密な機械にすぎない。ほんの些細な故障からいずれ全体が駄目になる。精巧なるが故の最大の欠点。しかも性質が悪いのは完全に駄目になるまで、故障部分を迂回しながら曲がりなりにも動き続けてしまうということだ。そして完全に駄目になってしまったとき、命令者は手駒の突然の機能不全に戸惑うことになる。エイブの故障は仲間という不確かなものを完全に切り捨ててしまえなかったことにある。これでは指導者になってからも自分以外の者たちを心の拠り所とするかもしれない。今回は些細な故障が早めにわかってよかったのだ。やはり次の第一指導者ヘル・シングは馬鹿であっても、慣例通りに人工子宮ホーリー・カプセル生まれにしよう。あれこれ操らねばならないことは面倒だが、贅沢を言ったところでどうしようもない。レン補佐長はナイフを捨て、無造作に服で血糊を拭いさると、来たるべき新体制のために棒状の保守機械オート・マトンの操作装置を再び動かしはじめた。
               *
 ナナクサの背を胸まで貫いた幅広の刀身は彼女の血で真っ赤に染まっていた。第一指導者ヘル・シングの頭上に掲げられた彼女の身体は、もはや弛緩し、右手と両足は第一指導者ヘル・シングの動きに合わせてぶらぶら動いているだけだった。ナナクサは呼吸をしようとしたが裂かれた肺からヒューヒューと空気が漏れる音しかしなかった。喧騒の中にファニュの叫びが聞こえた。頭を巡らそうとしたが首にも、やはり力が入らなかった。突然、視界が一回転して背中からなにかが抜ける感じがすると、もうそこには自分を見下ろす第一指導者ヘル・シングの姿があった。彼の血塗られた剣を見るまで、自分がその頭上から石畳の上に投げ落とされたことにも気づかなかった。あのとき不覚にも目の前に降り注ぐ陽光にひるんだ隙を突かれたのだ。足音がしなかったのは、たぶん剣は自分に投げつけられたものだったのだろう。背中に鈍い衝撃を感じた時には勝敗は決していたのだ。
 ナナクサは第一指導者ヘル・シングが自分にまたがって大きな左拳を振るうのを見た。左拳は彼女の右顔面を掠めて石畳に打ち下ろされた。
「どうだ、恐ろしいか?」
 近づいた顔は醜い喜びに歪んでいた。その一撃はナナクサを最後までいたぶるためにわざと外されたのだ。
 ナナクサは無性に腹が立った。目の前の独裁者に。それどころか世の中のすべてのものに。始祖の身勝手な言い分。自分を置いて死んでしまった仲間たち。自分にだけ課せられた運命。彼女は最期の力を振り絞ってでも怒りをぶちまけたいと思った。その思いに身体が反応して犬歯が伸びた。犬歯は身近な獲物に怒りのひと噛みをぶつけた。それは第一指導者ヘル・シングの丸太のような太い左腕に深々と突き立った。
               *
 圧倒的な力で蹂躙する快感はいいものだ。殺戮の調べに誘われながら夢見心地でフィールドまでの長い廊下を進む始祖はそう思わずにはいられなかった。しかも蹂躙じゅうりんする相手は強ければ強いほどいい。強い者は、弱い者を踏みにじる力だけでなく、この世に存在する唯一の美徳である邪悪さを必ず兼ね備えているからだ。そしてなにより邪悪な血は旨い。身も心も酔わせるほどに美味であるだけでなく、無限の活力をも授けてくれるのだ。だからいにしえより悪人の血を好んで食してきた。悪人が居なければ、わざわざ悪人を作り上げてでも、その血を存分に賞味してきたのだ。目の前のフィールドは十数世紀ぶりに悪人どもで満ち満ちている。さっき子孫の小娘と作った吸血奴隷バイターズの何十倍の数だ。久し振りに浴びるほど痛飲と洒落こもうか。
 あのナナクサの心にも、やっと邪悪への入り口である、激しい怒りが芽生えたことでもあるのだから……。
               *
 エイブはレン補佐長の後ろから棒状の操作装置を奪い取った。だが、補佐長に組み付かれ、再びその場に倒れ込んだ。二人は一つの玩具を取り合う幼児のように屋上の床をゴロゴロと転げまわった。レン補佐長はエイブの背中の傷口を手で掻きむしるように抉った。エイブの口から苦痛の声が漏れ、その拍子に操作装置が彼の手を離れて屋上の床に開いた大穴の淵に転がった。それを見たレン補佐長とエイブは我れ先に装置に手を伸ばし、もみ合ううちに二人とも足を滑らせて穴に落ち、辛うじて両手で淵を掴んで落下を免れた。しかし装置は彼らの手から数十メートル以上下のフィールドへ落下していった。
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