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第14話 本来の自分
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漆黒の羽を優雅に羽ばたかせて真っ青な月夜の空に浮かぶミソカの姿は美しかった。見惚れるほど高貴で美しかった。だが、そこには優しげで、どこか憂いを含んだ幼馴染みの顔は微塵もなかった。人をあざ笑うかのような口元。そこから覗く鋭い牙と赤黒く光る目。変化したタナバタと同じように見えるが、そこにはタナバタに欠けていた強い意志があった。明確で妥協を許さない負の意志だ。ナナクサはミソカから発せられる、その後光に射すくめられて息もできなかった。
「ナナクサ」ミソカの声がナナクサの頭の中に語りかけた。「あなたにも始祖返りの機会をあげるわ」
戸惑うナナクサの頭の中に再びミソカの声が響いた。
「そこの御力水を飲みなさい」
声の指し示す所にはファニュがいた。ミソカが何を言いたいのかわからないと思った途端、また頭の中に声が響いた。苛立ちを隠そうともしない声だった。
「鈍いわね、ナナクサ。その娘の血。人間の血を啜るのよ。そいつらが私たち一族の本来の食糧。そして古からの敵」
「ミソカ、あなた何を言ってるの?」思わず声が出た。
しかしナナクサの声が聞こえないかのようにミソカは自分の言いたいことを彼女の頭の中に捲し立てた。
「あの飛行船の墜落現場でタナバタと御力水を飲んだわ。その時わかったの。あれは薬でも何でもない、人間どもの血そのものなんだって。だって飲んだ瞬間、頭の中に眠っていた私たち一族の歴史があっという間に紐解かれたんだもの。歴史は記憶よ。それが夜空を飛び去る流れ星よりも速く、私の中を駆け巡ったわ。一族がどのようにして生まれ、どう過ごし、そして今の惨めな暮らしをしなければならなかったのかを」
「惨めな暮らしって何よ」と、ミソカの言葉の最後がナナクサの心に引っ掛かった。
「私はすべて見たの。今までどんな史書師だって知ることがなかった知識よ。あらゆる命の頂点にいるにもかかわらず、陽の光を恐れ、政府から支給される精進水に頼って細々と生きなきゃならない惨めさ。それは、みんなこいつら人間たちのせいなのよ」
ミソカが黒みがかった四枚の羽を一閃させると凄まじい疾風が起こり、辺り一面の雪と氷を引き剥がした。
雪埃が収まって視界が戻ると、ファニュの悲鳴が起こった。
ナナクサが振り返ると震えるファニュの周りには夥しい数の人間の死体が転がっていた。武器を持ったまま引き裂かれた死体や、ありえない方向に身体を折り畳まれたもの。果ては幼児の大きさにまで縮んで皺くちゃになった大人の身体まで。その様子は、まるで死体の見本市だった。目を背けることすら出来ずにいたナナクサは引き裂かれた一つの死体が作る赤黒い血だまりが歪な形に抉られているのに気付いた。タナバタが狂ったように口にしていた赤いシャーベットの正体だった。
「これ。私とタナバタがやったのよ。凄いでしょ?」
「嘘よ!」
「そして、二人で味わったの」
「やめて!」
ミソカの言うように、それを口にすれば、きっと自分もタナバタのようになるだろう。そんなのは嫌だ。ナナクサは吐き気がした。
「さぁ、あなたも……」
「嫌よ、絶対にイヤ!」
その瞬間、目の前にミソカが立っていた。どんなトリックを使ったかわからなかったが、一瞬でナナクサの目の前に現れたのだ。
「断るってことね。いま目にした信じられない力が要らないのね?」
ミソカの口から直接発せられた言葉は、ゾッとするほど冷たかった。
「だって……」
「あなたの言おうとしていることは、わかってるわ」と、ミソカはナナクサの考えを読んで先回りした。「空腹に耐えられないとき、ちょっとだけ気分が変になるだけ。本当にそれだけよ。それに、これは残酷なことでも何でもないのよ。現にこいつら人間どもも海の生き物を殺して食糧にしてるわ。同じことよ。自然なことなの。ねぇ、わかるでしょ?」
言葉の最後は、いつもの優しい幼馴染みを彷彿とさせるものだったが、やはり違った。自分の知っている大好きな幼馴染みは今のようなことは決して口にしないのだとナナクサの心が知っていたからだ。
ナナクサの心を読み取ったミソカは微かに目を伏せると、決心したように口を開いた。
「そう、わかったわ。あなたがわかろうとしないんだったら、幼馴染のよしみよ。無理にでもわからせてあげる」
ミソカの赤黒い視線がファニュに注がれた。ナナクサはミソカがファニュを殺して、その血を無理やり自分に飲ませ、仲間に引き入れようとしていることを瞬時に悟った。しかし同時に、圧倒的な力を発揮するミソカを前に、非力な自分には何も出来ないのだという無力感に心を支配された。だから咄嗟に身体も動かなかったし、「やめて」とも口に出来なかった。
このときのナナクサは単なる人形だった。頭は冴えているのに心が麻痺した存在。助けを請うファニュの視線を捉えても、ただその目を見つめ返すしか出来ない氷の塊。それゆえに彼女が殺された後、自分が何者に変えられてしまうのかも、どこか他人事のようにしか感じられなかった。
ナナクサの目の前からミソカが一瞬にして消え失せ、直後にファニュの目の前に現れた。幼馴染は、すくみ上がるファニュを邪悪に光る赤黒い目で品定めする。人間の娘はすぐに殺されるだろう。だが突如現れた黒い影が、ミソカを弾き飛ばし、ファニュの危機を救った。タナバタだった。
「ナナクサ。娘を。ファニュを守れ!」
端正な顔の右半分がニンニクの強い毒気で爛れたタナバタは、ズボンのベルトから長い金属棒を素早く引き抜くと、半身を起こしたミソカに打ち下ろした。風を斬るその一撃は鈍い音とともにミソカの左肩に深々と喰いこんだ。だが、骨が砕け、内臓が潰されても不思議ではない衝撃を平然と受け止めたミソカは、その凶器を子供の手から玩具を引ったくる年長のイジメっ子のように易々と奪い取り、その場に投げ捨てた。武器を奪われたタナバタは、襲いかかるミソカの鋭い爪の斬撃を辛うじてかわすと、その両手に自分の指を組みつかせ、力比べの態勢をとって、彼女の進撃を食い止めた。
「ナナクサ。早くファニュを。彼女は殺されるぞ!」
タナバタの叫びは、今度こそナナクサの呪縛を解き、彼女を現実に立ち返らせた。ナナクサはファニュに素早く駆け寄ると、自分の身体で娘を守るように覆いかぶさった。
「邪魔するな!」
ミソカはそう叫ぶと、自分より頭一つぶん大きなタナバタが組み合わせていた指を手首の骨ごと難なくへし折った。骨が折れる乾いた音に苦痛の叫びが重なった。タナバタはその場に膝を屈した。
「くそっ。もう嫌だ。もう十分だ……」
「十分なんかじゃないわ、タナバタ」と、ミソカがタナバタの顔を両手で挟んで覗き込む。「邪魔をした罰に、あなたには、もっと、もっと苦痛を与えてあげる」
「苦痛なんて、どうだっていい」
「はぁ?」と、ミソカが首を傾げる。
「僕が欲しかったのは、こんな力じゃない。いろんなことが知りたかった。僕は学徒だ。ただ、それだけだったんだ。でも……でも、もう十分だ。こんなの抱えきれない……。力を得ることが、こんな嫌なものまで抱え込まされることになるなんて……」
「嫌なものですって?」ミソカは自分たちが手にかけた人間の戦士や商人の死体に一瞥をくれた。「あぁ。この人間どもの血に宿った記憶ね」
「邪悪で呪われた暴力の記憶だ!」
「妬み。怒り。猜疑。憎しみ……そんなこと、始祖さまの力の前には何でもないわ」
「君の心は麻痺してるんだ」
「いいえ。麻痺してるのは、あなたの弱い心。支配者の心は、そんな下らないことなんかで惑わされたりなんかしないわ」
「『支配者』だって。笑わせるな!」タナバタの声は悲鳴に近かった。「自分が乗っ取られるんだぞ。雪崩込む邪悪な記憶に押し流されて、自分が吹き飛ばされてしまう。自分が怪物に変わってしまうんだ!」
怯むことなく投げつけられる言葉に、ミソカは穴の開くほどタナバタの顔を見つめ続けた。
「君だって健康になりたかっただけで、こんな力なんか求めてなかったはずだ。本当は抱えきれないんだろ。僕と同じで?」
「黙れ……」
「君も本当は怖いはずだ。一族の掟に反して、生き物の命を奪わないと生きていけなくなる生活が。自分が得体の知れないものになってしまうのが。自分が自分でなくなってしまう。それって、すごく……すごく怖いし、惨めだ」
「うるさい!」
ミソカは、そう叫ぶとタナバタを突き放した。手には、いつの間にか彼女がタナバタから奪い取って投げ捨てたはずの金属棒が握られている。
「私は、もう決心したの。今さら後戻りなんて出来ない」
半ば自分に言い聞かせるように、そう呟くとミソカの目が今まで以上に赤黒く光った。
「痛くて苦しいのは最初だけ。すぐに始祖さまの力を味わえる。だから、お願い。あなただけは情けないこと言わないで、私についてきてよ、ナナクサ」
言うが早いか、ミソカは金属棒をナナクサに向かって投げつけた。
ナナクサは目を見開いた。自分に向かって飛んでくる金属棒がまるでスローモーションのように、ゆっくりと大きくなってゆく。渾身の力で投げつけられた金属の槍はナナクサと彼女が庇うファニュの身体を楽々と刺し貫くはずだ。そしてファニュは死に、自分は怪物になる。
しかし金属棒はナナクサも、また彼女が庇う人間の娘の身体も貫くことはなかった。タナバタが最後の力を振り絞って疾風となって二人を庇い、背中からその洗礼を受けたのだ。ナナクサは自分の両胸の間に微かな痛みがあるのを感じた。金属棒の切っ先はタナバタの体を貫いて彼女のコートを破り、そこで止まっていた。顔を上げると、穏やかなタナバタの顔がそこにあった。あの悪鬼のような形相は影を潜め、ナナクサが密かに惹かれた理知的で優しげな顔が「僕は僕自身だ。何者でもない」と微笑んでいた。その口元からは一筋の鮮血がゆっくりと流れると、ナナクサの顔に夜露のように滑り落ちた。瞼がゆっくりと閉じられ、タナバタの身体はぐらりと傾いてゆく。だが、自分を取り戻し、静かに死を迎え入れる決意をした者を強引に揺り起こすように、その髪の毛をミソカの手が引っ掴んだ。
「どこまでも馬鹿な男」
タナバタを愚弄する言葉に、ナナクサは生まれて初めて目の前の幼馴染みに怒りを覚えた。
「何が『馬鹿』だっていうの。タナバタを離して!」
「ダメよ。だって私の邪魔をしたんですもの」
「ミソカ」怒りと悲しみでナナクサは喉が詰まった。「あなた。あなた、いったいどうしちゃったの?!」
「どうもしないわ。さっきも言ったでしょ。そうね。無知なあなたに、もう少し教えてあげるわ」ミソカは醜く顔を歪めた。「始祖返りは高々、三百五十年くらいしかない私たちの寿命を無限にしてくれるの。健康で力強い身体に変えてくれる。空だって飛べる。それにねぇ。知らないでしょうけど、あの憎ったらしい太陽の下だって焼け死なずに歩けるのよ。信じられる。ほんと嘘みたいじゃない。まぁ、あまり気分は良くはないけどね。でも、本当に素晴らしい力よ。それを『惨め』だなんて。どうかしてるわ」
ナナクサは立ち上がって、ミソカに対峙した。
「まだわからないの。タナバタが『惨め』だと言ったのは、力を得る代わりに失ってしまうものが大きすぎるからよ。自分をコントロールできない怪物になってどうするの。それで永遠に生き続けてどうなるの。あとには惨めさしか残らないじゃない。わたしも、そう思うわ」
ミソカがナナクサを睨みつけた。
「あなたに何がわかるの。子供の頃から私がどんな思いで生きてきたか、わかってるの。身体が弱い子供が遊び仲間に置いて行かれまいと息を切らせながら付き従っていく苦痛を知ってるとでも言うの。健康なあなたたちには決してわからないことよ。その私が力を求めて、何が悪いの。何が惨めだっていうのよ!」
「わたしは」
この場に不釣合な苦い過去を吐露するミソカにナナクサは一瞬たじろいだ。
「あなたは、そんな私を嘲笑ってたのよ」
「そんなことない!」
「あら、そう。『ミソカは身体が弱いのに方違へ師になれるなんてズルい。わたしの方がスゴい方違へ師になれるのに』って、子供のころ、そう言って御老女さまを困らせたの、いったい誰だっけ。私、あれを聞いて笑ってたけど、本当はもの凄く傷ついてたのよ。私が何も感じないとでも思った。あの時のあなたは私にとって十分に怪物だったわ」
「そんな……」
「人の心を土足で踏みにじる怪物。でも、何とも感じなかったでしょ?」
「あれは」ミソカに対する後ろめたさが言葉を鈍らせた。「あれは、わたしも幼かったから……でも」
「幼かったから正直な気持ちが出ただけよ。嘲笑ってなかったとしても優越感があったのは確かよね。だから、あんなことが平気で言えたのよ。でも、気にすることなんてないわ。だって今は私の方が遥かに上の存在なんだから。あなたのように中途半端な ヴァンパイアじゃなくてね」
「ヴァン……パイア……」
ミソカは右手を夜空の月に高々と差し上げると、朗々と謳いあげた。
「高貴なる一族の名すら失った者たちに、今一度、チャンスをあげるわ。でも、これが最後のチャンスよ」
*
ミソカの言葉が合図であったかのように、空けゆく彼方の夜空に瞬く間に分厚い雲が沸き立った。それは、すぐさま渦巻く雪嵐へと姿を変えると、ナナクサたちの方へ一直線に突き進んできた。ナナクサが見守る中、目の前まで来た雪嵐は掻き消すように忽然と消滅した。これが何を意味するのか、ナナクサにはすぐに理解できた。ミソカの力の誇示だ。なぜなら消滅した雪嵐からパーティの仲間たち。チョウヨウ、タンゴ、ジョウシの三人が次々と雪上に落下してきたからだ。
運動神経の良いチョウヨウは咄嗟のことであったにもかかわらず、優雅な着地姿勢で。タンゴは空中でくるくる回りながら、最後はどさりと尻餅をついた。ジョウシはそんなタンゴをクッションとして着地の際に小さく叫び声をあげた。自分の意志と関係なく合流させられた三人は、我に返ると周りの状況を見て絶句した。生まれてこの方、これほど夥しい数の、しかも常軌を逸した死体の山を見たことがなかったためである。
「おのれ! 何を為おる?!」
驚きも冷めやらぬジョウシが最初に怒りの声を上げた。彼女が叫んだ先には幼馴染であるタナバタの首筋に喰らいつくミソカの悪鬼のような姿があった。ミソカはタナバタの喉から顔を上げると、その身体を突き離し、真っ赤な舌先で牙についた血を愛おしそうにこそげ落とした。
「あら。要らないと言うから返してもらっただけよ、こいつが味わった人間の血を」
理解しがたい状況を目にしたタンゴは半ば喘ぐように、そしてチョウヨウは顔を固く強ばらせながらミソカに説明を求めた。それに対してミソカは、出来の悪い生徒を諭す教師のような鷹揚さで冷たく言い放った。
「これが本当の私たちよ」
「な、なに言ってんだよ、ミソカ?……」
戸惑うタンゴを、ミソカは赤黒い邪悪な視線で射抜いた。
「ヴァンパイア」
ミソカは一歩、また一歩と自信に満ちた足取りで二人に近づきながら言葉を継いだ。
「高貴なる種族。古からの敵と恐れられた人間どもの生命を力に変え、すべてを支配する絶対者」
「『古からの敵』……『人間』?……」
ミソカは驚きながらも、いぶかるチョウヨウに視線を転じた。
「そうよ。こいつらが私たちを脅かす怪物の正体」ミソカは人間の死体の山を顎で指し示した。「でも、もう恐ることはないわ。あなたも私の力を見たでしょ。感じたでしょ。この力が欲しいと思ったでしょ、チョウヨウ。この力さえあれば、あなたの姉さんだって今でも元気でいたはずよ」
「お前、いったい何を言ってる?」
「この力は私たち一族を救うものだって言ってるのよ。抑えられていた能力の解放は未来への扉をこじ開け……」
そのときチョウヨウの鼻先を銀色の斬撃が掠めさった。彼女は今まで目の前にいたはずのミソカが魔法のように消え失せ、怒りに燃えるジョウシが銀の食器ナイフで空気を薙ぎ払う姿を目の当たりにしてたじろいだ。なぜなら、まるで自分がジョウシに襲いかかられたかのような錯覚に陥ったからだ。
「遅い、遅い」
二人の真横から聞こえる嘲笑にジョウシは即座に反応した。彼女は再び斬撃を加えようと振り向きざまに食器ナイフを横殴りに一閃させた。だが、ジョウシの得物を握った右手はミソカに難なく掴まれ、締め上げられた手首の骨が情けない悲鳴を上げる。苦痛に耐えていたジョウシの手から銀の食器ナイフが抜け落ちて雪上に刺さった
「痛い?」
ミソカがそう聞いた途端、骨の折れるゴキンという鈍い音が響いて、ジョウシの口から悲鳴が上がった。
「ヤヨ村の者は腕を折られるのが、よほど好きなようね」
「この馬鹿者が!」
言うが早いか、ジョウシは空いている左手の爪を伸ばし、目の前のミソカに斬撃を見舞った。だが、ミソカは避けなかった。表情も変えず、瞬きすらせずに真正面から鋭い爪の斬撃を受け止めた。ミソカの顔面はざっくりと裂け、そこから鮮血が飛び散った。しかしその醜い傷跡は、浜辺に書いた文字が波にさらわれるようにすぐに消え去った。二回目の斬撃はなかった。というより、再び攻撃しようとしたジョウシは腹部に強烈な逆撃を負って雪上に弾き飛ばされたからだ。だがジョウシは苦痛に身をよじらせながらも必死に立ち上がろうとした。そんな彼女にミソカは虫を見るような視線を投げかけた。
「初めて、あなたに遭ったとき、自分と同じ境遇の仲間が出来たと思った。生意気だけど、体が小さくて体力が無いのもすぐにわかった。互いに通じるものがあると思った。でも違った。お前は、この旅の中で誰の助けも借りようとしなかった。いや。むしろ助けを借りることを恐れるかのように仲間が差し伸べる手を頑なに拒み続けた、私と違ってね。長の子だから。もちろんそれはあったでしょう。皆から認められたいから。それもあったでしょうね。負けず嫌いな性格。やっぱり、それが一番かな」
ミソカはジョウシに指を突きつけた。
「だから、私はお前が憎かった。誰の助けも借りず、仲間の中に自分の居場所を勝ち得た、お前という存在が!」
折れた右手首を左手で押えながら、ジョウシは苦痛とも嘲りともとれる複雑な表情で小さな顔を歪めた。
「そうか。それゆえ我が幼馴友達を殺めたのか」
「あら、お生憎さま。あの弱虫が私と同じ力を要らないというから、返してもらっただけって言ったでしょ」
「利口なタナバタが妖異の力など欲しようものか」
「信じようが、どうしようが私たちが力を得たのは事実よ。もっとも、それは偶然だったけどね」
「なんじゃと?」
「あの墜落現場で私たちの目の前に、たまたま御力水があった。お前が感じたとおり、あの船員が自ら用意したものだけど、それを一滴だってやらなかっただけよ。だって、もう死んでたんだもの。だから二人で分け合ったの。そして抑えられてた力が解放された。ただ、それだけ」
「悪しきことを。おのれは最悪じゃ」
「そうね。でも、お前には、もっと最悪な話があるわ」
「このうえ最悪なことなどあるものか」
「そうかな?」ミソカは意地の悪い笑みを浮かべた。「あのとき、お前の感の鋭さが後々面倒になると私の血が直感したわ。それにお前の存在が気に入らなかったから。だからね……」
「何が言いたいのじゃ?」
「だから、お前を襲わせたのよ。あの大海獣に」
ミソカの告白は、そこにいた全員の心を刺し貫いた。しかし、その場に居合わせたデイ・ウォークの仲間一人一人の心の奥底に浸透するまで暫しの時間を要した。なぜなら、その言葉は目の前でタナバタの命が奪われるのを目撃した者にさえ、たちの悪い冗談としか思えなかったからだ。一丸となって仲間の命を救おうとしていたとき、打算と憎悪から仲間を謀殺しようと考えていた者がいたという事実。そして、それによって実際に引き起こされた惨劇。一族の者であれば、誰も考えもしないし、決して実行しようともしない唾棄すべき忌まわしい悪徳。裏切りによる仲間殺し。
「偽りじゃ……」
「そう思いたければ、思えばいいわ」
「おのれは偽りで仲間を……我れを翻弄しようとしておるのじゃ」
ジョウシの、自身に言い聞かせるように喘ぐ姿が、ミソカの気を良くした。
「偽りなもんですか。私の力は覚醒していた。それを使ってみない手はないと思ったのよ。まぁ、大海獣も所詮は賢くない動物だった。操ってみたけど、失敗しちゃった」
「ふざけるな!」チョウヨウが二人の間に割って入った。「失敗だぁ。何が失敗だよ、ミソカ。あんたの下らない妬みのために、あたいのダチは大海獣に殺されたってか。そんなこと信じられるか!」
「信じるも信じないも事実よ。さっきから、そう言ってるじゃない」ミソカはこともなげに言い切った。「それに、『あんな馬鹿、さっさと消えれば良いのに』って口癖みたいに言ってたの、あなたじゃない?」
「そんなの冗談に決まってるだろ。本気で、そんなこと望むわけない!」
「本気であろうが無かろうが、言葉には命が宿るのよ。だから言った通りになった。そうでしょ。ふふっ、あなたにも世界を動かす力があるのかもねぇ」
うそぶくミソカに絶句するチョウヨウの傍らからジョウシが言葉を絞り出した。
「おのれは……」
「なぁに?」
「おのれはジンジツの仇じゃ」
「いえ。ジンジツはお前の身代わりになったのよ。忘れないで。死ななくていいのに死んだの。お前が殺したも同然よ」
「詭弁を弄するな。おのれは、もう仇以外の何者でもない」
「いいえ。それでも仇はお前自身よ。わたしを追い詰めたから、ジンジツは受けなくていい、とばっちりを受けた。やっぱり、お前はお前自身を裁くべきよ。どう、少しは責任を感じないの?」
大海獣に用いたのと同じ力がジョウシとチョウヨウの心に使われたのかどうかはわからなかった。ただ、ジョウシの怒りは無理やり自責の念に方向を捻じ曲げられ、チョウヨウの直線的なそれは次元の違うミソカの考えにかわされた。だが、立ちすくむ二人を尻目に怒りの刃をミソカに深く投げつけた者がいた。タンゴである。
彼は無言でミソカにズカズカと詰め寄ると、その二の腕を両側から伸びた爪が食い込むほどガッチリと掴んだ。そして、小さな身体を自分の目の高さまで持ち上げると力任せに揺すぶって声を荒らげた。
「何でだよ。何でなんだよ。ジンジツは仲間だろ。タナバタは一緒に旅してる友達だろ。何でそんな酷いこと出来るんだよ。僕たちは同じ一族だろ。目を覚ませよ。何とか言え。ぜんぶデタラメだって言えよ!」
もちろん今のミソカの膂力をもってすれば、この大男ですら難なく捻じ伏せることができただろうが、さすがのミソカも、この優しく気の良い幼馴染みが眼球の毛細血管を破裂させ、真っ赤な涙を流しながら、激しく責め苛む姿にたじろがざるを得なかった。
「離せ……離してよ、タンゴ」
「ダメだ。離さない。いつものミソカに戻るまで駄目だ!」
「離さないなら、あなたでも酷い目に合わすわよ!」
「やれるもんなら、やってみろ!」
「離してって言ってるでしょ!」
遂にミソカは、その見えない力でタンゴを遠くへ弾き飛ばした。しかし大男は直ぐに立ち上がり、なおもミソカに詰め寄ろうとする。
そんな仲間を、我にかえったチョウヨウが必死に引き止めた。
「やめな、タンゴ。こいつは、あたいたちの知ってたミソカじゃないよ。殺されちゃうよ、あんたまで!」
タンゴはすがり付くチョウヨウに引き倒され、雪の上でやり場のない悲しみと怒りの声を上げ続けた。
「もういないんだよ、ミソカは!」
タンゴをなだめるチョウヨウの叫びはミソカにも十分すぎるほど届いただろうか。しかし彼女は眉ひとつ動かさず、その真っ赤な目をすがめて彼方の空を見やった。
「物分りが悪いわねぇ、みんな。ほら。もうすぐ朝日がさしてくるわ。でも、そんなの私はへっちゃら。見せてあげる、あの忌々しい太陽に打ち勝つ姿を。一緒に力を手にするかどうかは、それから考えてくれてもいいわ」
ミソカが言い終わらないうちに地平線から太陽が顔を出し始めた。遮るもののない氷原は、風が吹き渡るように白い光で埋めつくされていく。
慌てたチョウヨウは遮光マントの前を締めるとフードを素早く被り、宇宙服のように身体を外界から遮断して、悲嘆にくれるタンゴにも同じことをしてやった。しかしジョウシの体からは見えない手で遮光マントが剥ぎ取られた。ミソカの仕業だった。ジョウシは本能的に目の前を舞う遮光マントを追い求めた。
「お前だけはダメよ、ジョウシ。お前だけは始祖の力を与えたげない。あの陽の光を浴びて私は残るけど、お前は塵にか……」
ミソカの弾むような声がふいに途切れた。彼女は信じられない表情で自分の背中から胸の中央に突き出た一本の金属棒を凝視した。そして首を回すと、その視線は背後からの襲撃者を捉えた。
「ごめんね……」
そう言うと、ナナクサはタナバタから引き抜いた金属棒で幼馴染の体を更に抉った。抉りながらナナクサは自分の心をも深く抉り続けた。ナナクサの手はねっとりとしたミソカの血で濡れていた。しかし、その顔は涙で濡れてはいなかった。あったのは始祖の呪縛から友人を解き放ってやりたいという痛々しい一途な思いだけだった。だが、そんなナナクサをミソカはせせら笑い、胸から突き出た血塗られた金属棒に右手を添えた。
「まったく。こんなもので私の力を奪えるとでも思ってるの?」
ミソカは金属棒を握ると難なくそれを体から引き抜き、雪上に投げ捨てた。そして背後にいるナナクサの襟を左手で掴んで彼女の体を力任せに前方へ投げつけた。投げられるさい、フードごとむしり取られたナナクサの十数本の薄墨色の髪の毛は、風にさらわれ、陽の光を浴びて線香花火のように美しい火花を空中に躍らせた。息を詰まらせながら顔を上げたナナクサはミソカの力から解放された遮光マントがジョウシの手に拾い上げられ、その体に纏われるのを視界の端に捉えた。
「そこまで逆らうなら、あんたは塵に還ればいいわ」
ミソカは攻撃目標をナナクサに切り替えた。が、見えない力をナナクサに駆使しようとした瞬間、伸ばした彼女の腕に弩弓の矢が深々と突き刺さり、その傷口から薄く煙が立ち上った。体の真ん中を貫くほどの槍撃にも怯まなかったミソカの口から苦痛の呻きが漏れでた。
矢を放った人間の少女は命の恩人の名を叫びながら、その頭部に自分のコートを被せるのと、押し倒すのを同時にやってのけた。
「人間が……虫けらの分際で、この私に」
ナナクサから身を離して素早く立ち上がったファニュは、死んだ商人が持っていた弩弓に再び矢をつがえると、その陽光を反射し始めた矢じりにニンニクの実を刺し、再びミソカに狙点を定めるや否や、それを射ち放した。寒気を切り裂いた矢はミソカに当たったかに見えた。しかし、それは彼女の残像を虚しく刺し貫いたにすぎなかった。一瞬後、ファニュは眼前に迫るミソカの鋭い牙を凝視していた。ファニュは本能的に固く目を閉じた。迫る苦痛と死の恐怖から顔を背けた。だが、どれほど待っても死は訪れなかった。固く強ばった自分の肩を抱く手に、ふと気付いた。恐る恐る目を開けると、さっき自分を守ってくれたのと同様にナナクサがファニュの傍らにいた。ファニュの肩を抱く手に痛いほどの力が入った。手は微かに震えてもいた。頭からファニュのコートを被ったナナクサの表情は見えなかったが彼女が泣いているのがわかった。
「こ、こんな……」
陽の光をまともに受けたミソカの皮膚は焼けて塵になるそばから再生し、また塵になることを繰り返していた。それは終わることのない競争に見えた。
「タナバタがね」ナナクサの声がコートの奥から静かに流れた。「最後にミソカを止めてくれたのよ」
ナナクサが握っていた手を開くと、手袋越しにニンニクの粒がぱらぱらと雪上に滑り落ちた。同時にミソカは両膝を屈して多量の血を吐いた。
「なぜ、なぜなの?……私には力があるはず……わ、私には明日が……永遠がぁ…ナナク……」
ミソカがナナクサに手を伸ばした。手が届かないことがわかっていながら、ナナクサもその声に手を伸ばそうとした。
陽の光が勝利した。
身体中から青白い炎を勢いよく吹き出したミソカは、最後の瞬間、漆黒の煙になって爆散して地上から消え失せた。燃え尽きた彼女の身体はひと握りの塵すら残らなかった。微かに残った黒煙も、やがて静謐な大気に飲み込まれるように薄れ、それが人の顔を形作るかに見えたときには、もう陽光の中に掻き消えていた。
*
意志ある黒煙は、心を押してやった娘の身体が炎を上げて消滅すると同時に自らもそこから吹き散らされ、ひとかたまりになるまで空気の微粒子の間に暫く佇んでいた。子孫の若者たちの目は人間どもと比べものにならないくらい非常に良く見える。だが、空中に薄く溶け広がった存在に気付く者は誰もいなかった。たとえ気づいたとしても、はっきりと認識することすら出来はしないのだ。なぜなら、陽の照りつける中で朝目が効くヴァンパイアなど、自分以外に、この世のどこにも存在しないからだ。
しかし、なぜだ?……。
大気の中を漂う黒煙は泥水が履き寄せられるように集まると、空中に伸ばしきった身体を優雅に波打たせながら、しきりに自問自答を繰り返していた。今回はパーティの中で最初から2人も“自らが進むべき道”を選択したというのに、なぜ他の者は選択しなかったのか。本来自分たちのあるべき姿を目の当たりにした彼らを導けなかった己の力不足など思いもよらないことだった。では、目の前の若者たちに別の理由を求めるしかないではないか。この子孫たちに力と自由への抗いがたい誘惑を断ち切りらせる要因があったとでもいうのだろうか。狩人としての本質の変異。弱まった本能。疫病。磔刑に処せられ、かつては救世主と崇められた、あの者の呪い。それとも……。
黒煙は出口の見えない思索の迷宮をさ迷い続けた。そして、ふと一人の若いヴァンパイアに意識をやると、その遮光マントの奥から覗く一対の瞳をじっと注視した。
「やはり、そういうことか。ならば少しずつ削り落としてやろう。そうすれば、退屈という名の煉獄も招待客で溢れかえる舞踏会のように華やぐに違いない」
黒煙は納得したかのようにそう呟くと、遠く離れた場所で食事を楽しんでいるはずの本体へと帰路を急いだ。
「ナナクサ」ミソカの声がナナクサの頭の中に語りかけた。「あなたにも始祖返りの機会をあげるわ」
戸惑うナナクサの頭の中に再びミソカの声が響いた。
「そこの御力水を飲みなさい」
声の指し示す所にはファニュがいた。ミソカが何を言いたいのかわからないと思った途端、また頭の中に声が響いた。苛立ちを隠そうともしない声だった。
「鈍いわね、ナナクサ。その娘の血。人間の血を啜るのよ。そいつらが私たち一族の本来の食糧。そして古からの敵」
「ミソカ、あなた何を言ってるの?」思わず声が出た。
しかしナナクサの声が聞こえないかのようにミソカは自分の言いたいことを彼女の頭の中に捲し立てた。
「あの飛行船の墜落現場でタナバタと御力水を飲んだわ。その時わかったの。あれは薬でも何でもない、人間どもの血そのものなんだって。だって飲んだ瞬間、頭の中に眠っていた私たち一族の歴史があっという間に紐解かれたんだもの。歴史は記憶よ。それが夜空を飛び去る流れ星よりも速く、私の中を駆け巡ったわ。一族がどのようにして生まれ、どう過ごし、そして今の惨めな暮らしをしなければならなかったのかを」
「惨めな暮らしって何よ」と、ミソカの言葉の最後がナナクサの心に引っ掛かった。
「私はすべて見たの。今までどんな史書師だって知ることがなかった知識よ。あらゆる命の頂点にいるにもかかわらず、陽の光を恐れ、政府から支給される精進水に頼って細々と生きなきゃならない惨めさ。それは、みんなこいつら人間たちのせいなのよ」
ミソカが黒みがかった四枚の羽を一閃させると凄まじい疾風が起こり、辺り一面の雪と氷を引き剥がした。
雪埃が収まって視界が戻ると、ファニュの悲鳴が起こった。
ナナクサが振り返ると震えるファニュの周りには夥しい数の人間の死体が転がっていた。武器を持ったまま引き裂かれた死体や、ありえない方向に身体を折り畳まれたもの。果ては幼児の大きさにまで縮んで皺くちゃになった大人の身体まで。その様子は、まるで死体の見本市だった。目を背けることすら出来ずにいたナナクサは引き裂かれた一つの死体が作る赤黒い血だまりが歪な形に抉られているのに気付いた。タナバタが狂ったように口にしていた赤いシャーベットの正体だった。
「これ。私とタナバタがやったのよ。凄いでしょ?」
「嘘よ!」
「そして、二人で味わったの」
「やめて!」
ミソカの言うように、それを口にすれば、きっと自分もタナバタのようになるだろう。そんなのは嫌だ。ナナクサは吐き気がした。
「さぁ、あなたも……」
「嫌よ、絶対にイヤ!」
その瞬間、目の前にミソカが立っていた。どんなトリックを使ったかわからなかったが、一瞬でナナクサの目の前に現れたのだ。
「断るってことね。いま目にした信じられない力が要らないのね?」
ミソカの口から直接発せられた言葉は、ゾッとするほど冷たかった。
「だって……」
「あなたの言おうとしていることは、わかってるわ」と、ミソカはナナクサの考えを読んで先回りした。「空腹に耐えられないとき、ちょっとだけ気分が変になるだけ。本当にそれだけよ。それに、これは残酷なことでも何でもないのよ。現にこいつら人間どもも海の生き物を殺して食糧にしてるわ。同じことよ。自然なことなの。ねぇ、わかるでしょ?」
言葉の最後は、いつもの優しい幼馴染みを彷彿とさせるものだったが、やはり違った。自分の知っている大好きな幼馴染みは今のようなことは決して口にしないのだとナナクサの心が知っていたからだ。
ナナクサの心を読み取ったミソカは微かに目を伏せると、決心したように口を開いた。
「そう、わかったわ。あなたがわかろうとしないんだったら、幼馴染のよしみよ。無理にでもわからせてあげる」
ミソカの赤黒い視線がファニュに注がれた。ナナクサはミソカがファニュを殺して、その血を無理やり自分に飲ませ、仲間に引き入れようとしていることを瞬時に悟った。しかし同時に、圧倒的な力を発揮するミソカを前に、非力な自分には何も出来ないのだという無力感に心を支配された。だから咄嗟に身体も動かなかったし、「やめて」とも口に出来なかった。
このときのナナクサは単なる人形だった。頭は冴えているのに心が麻痺した存在。助けを請うファニュの視線を捉えても、ただその目を見つめ返すしか出来ない氷の塊。それゆえに彼女が殺された後、自分が何者に変えられてしまうのかも、どこか他人事のようにしか感じられなかった。
ナナクサの目の前からミソカが一瞬にして消え失せ、直後にファニュの目の前に現れた。幼馴染は、すくみ上がるファニュを邪悪に光る赤黒い目で品定めする。人間の娘はすぐに殺されるだろう。だが突如現れた黒い影が、ミソカを弾き飛ばし、ファニュの危機を救った。タナバタだった。
「ナナクサ。娘を。ファニュを守れ!」
端正な顔の右半分がニンニクの強い毒気で爛れたタナバタは、ズボンのベルトから長い金属棒を素早く引き抜くと、半身を起こしたミソカに打ち下ろした。風を斬るその一撃は鈍い音とともにミソカの左肩に深々と喰いこんだ。だが、骨が砕け、内臓が潰されても不思議ではない衝撃を平然と受け止めたミソカは、その凶器を子供の手から玩具を引ったくる年長のイジメっ子のように易々と奪い取り、その場に投げ捨てた。武器を奪われたタナバタは、襲いかかるミソカの鋭い爪の斬撃を辛うじてかわすと、その両手に自分の指を組みつかせ、力比べの態勢をとって、彼女の進撃を食い止めた。
「ナナクサ。早くファニュを。彼女は殺されるぞ!」
タナバタの叫びは、今度こそナナクサの呪縛を解き、彼女を現実に立ち返らせた。ナナクサはファニュに素早く駆け寄ると、自分の身体で娘を守るように覆いかぶさった。
「邪魔するな!」
ミソカはそう叫ぶと、自分より頭一つぶん大きなタナバタが組み合わせていた指を手首の骨ごと難なくへし折った。骨が折れる乾いた音に苦痛の叫びが重なった。タナバタはその場に膝を屈した。
「くそっ。もう嫌だ。もう十分だ……」
「十分なんかじゃないわ、タナバタ」と、ミソカがタナバタの顔を両手で挟んで覗き込む。「邪魔をした罰に、あなたには、もっと、もっと苦痛を与えてあげる」
「苦痛なんて、どうだっていい」
「はぁ?」と、ミソカが首を傾げる。
「僕が欲しかったのは、こんな力じゃない。いろんなことが知りたかった。僕は学徒だ。ただ、それだけだったんだ。でも……でも、もう十分だ。こんなの抱えきれない……。力を得ることが、こんな嫌なものまで抱え込まされることになるなんて……」
「嫌なものですって?」ミソカは自分たちが手にかけた人間の戦士や商人の死体に一瞥をくれた。「あぁ。この人間どもの血に宿った記憶ね」
「邪悪で呪われた暴力の記憶だ!」
「妬み。怒り。猜疑。憎しみ……そんなこと、始祖さまの力の前には何でもないわ」
「君の心は麻痺してるんだ」
「いいえ。麻痺してるのは、あなたの弱い心。支配者の心は、そんな下らないことなんかで惑わされたりなんかしないわ」
「『支配者』だって。笑わせるな!」タナバタの声は悲鳴に近かった。「自分が乗っ取られるんだぞ。雪崩込む邪悪な記憶に押し流されて、自分が吹き飛ばされてしまう。自分が怪物に変わってしまうんだ!」
怯むことなく投げつけられる言葉に、ミソカは穴の開くほどタナバタの顔を見つめ続けた。
「君だって健康になりたかっただけで、こんな力なんか求めてなかったはずだ。本当は抱えきれないんだろ。僕と同じで?」
「黙れ……」
「君も本当は怖いはずだ。一族の掟に反して、生き物の命を奪わないと生きていけなくなる生活が。自分が得体の知れないものになってしまうのが。自分が自分でなくなってしまう。それって、すごく……すごく怖いし、惨めだ」
「うるさい!」
ミソカは、そう叫ぶとタナバタを突き放した。手には、いつの間にか彼女がタナバタから奪い取って投げ捨てたはずの金属棒が握られている。
「私は、もう決心したの。今さら後戻りなんて出来ない」
半ば自分に言い聞かせるように、そう呟くとミソカの目が今まで以上に赤黒く光った。
「痛くて苦しいのは最初だけ。すぐに始祖さまの力を味わえる。だから、お願い。あなただけは情けないこと言わないで、私についてきてよ、ナナクサ」
言うが早いか、ミソカは金属棒をナナクサに向かって投げつけた。
ナナクサは目を見開いた。自分に向かって飛んでくる金属棒がまるでスローモーションのように、ゆっくりと大きくなってゆく。渾身の力で投げつけられた金属の槍はナナクサと彼女が庇うファニュの身体を楽々と刺し貫くはずだ。そしてファニュは死に、自分は怪物になる。
しかし金属棒はナナクサも、また彼女が庇う人間の娘の身体も貫くことはなかった。タナバタが最後の力を振り絞って疾風となって二人を庇い、背中からその洗礼を受けたのだ。ナナクサは自分の両胸の間に微かな痛みがあるのを感じた。金属棒の切っ先はタナバタの体を貫いて彼女のコートを破り、そこで止まっていた。顔を上げると、穏やかなタナバタの顔がそこにあった。あの悪鬼のような形相は影を潜め、ナナクサが密かに惹かれた理知的で優しげな顔が「僕は僕自身だ。何者でもない」と微笑んでいた。その口元からは一筋の鮮血がゆっくりと流れると、ナナクサの顔に夜露のように滑り落ちた。瞼がゆっくりと閉じられ、タナバタの身体はぐらりと傾いてゆく。だが、自分を取り戻し、静かに死を迎え入れる決意をした者を強引に揺り起こすように、その髪の毛をミソカの手が引っ掴んだ。
「どこまでも馬鹿な男」
タナバタを愚弄する言葉に、ナナクサは生まれて初めて目の前の幼馴染みに怒りを覚えた。
「何が『馬鹿』だっていうの。タナバタを離して!」
「ダメよ。だって私の邪魔をしたんですもの」
「ミソカ」怒りと悲しみでナナクサは喉が詰まった。「あなた。あなた、いったいどうしちゃったの?!」
「どうもしないわ。さっきも言ったでしょ。そうね。無知なあなたに、もう少し教えてあげるわ」ミソカは醜く顔を歪めた。「始祖返りは高々、三百五十年くらいしかない私たちの寿命を無限にしてくれるの。健康で力強い身体に変えてくれる。空だって飛べる。それにねぇ。知らないでしょうけど、あの憎ったらしい太陽の下だって焼け死なずに歩けるのよ。信じられる。ほんと嘘みたいじゃない。まぁ、あまり気分は良くはないけどね。でも、本当に素晴らしい力よ。それを『惨め』だなんて。どうかしてるわ」
ナナクサは立ち上がって、ミソカに対峙した。
「まだわからないの。タナバタが『惨め』だと言ったのは、力を得る代わりに失ってしまうものが大きすぎるからよ。自分をコントロールできない怪物になってどうするの。それで永遠に生き続けてどうなるの。あとには惨めさしか残らないじゃない。わたしも、そう思うわ」
ミソカがナナクサを睨みつけた。
「あなたに何がわかるの。子供の頃から私がどんな思いで生きてきたか、わかってるの。身体が弱い子供が遊び仲間に置いて行かれまいと息を切らせながら付き従っていく苦痛を知ってるとでも言うの。健康なあなたたちには決してわからないことよ。その私が力を求めて、何が悪いの。何が惨めだっていうのよ!」
「わたしは」
この場に不釣合な苦い過去を吐露するミソカにナナクサは一瞬たじろいだ。
「あなたは、そんな私を嘲笑ってたのよ」
「そんなことない!」
「あら、そう。『ミソカは身体が弱いのに方違へ師になれるなんてズルい。わたしの方がスゴい方違へ師になれるのに』って、子供のころ、そう言って御老女さまを困らせたの、いったい誰だっけ。私、あれを聞いて笑ってたけど、本当はもの凄く傷ついてたのよ。私が何も感じないとでも思った。あの時のあなたは私にとって十分に怪物だったわ」
「そんな……」
「人の心を土足で踏みにじる怪物。でも、何とも感じなかったでしょ?」
「あれは」ミソカに対する後ろめたさが言葉を鈍らせた。「あれは、わたしも幼かったから……でも」
「幼かったから正直な気持ちが出ただけよ。嘲笑ってなかったとしても優越感があったのは確かよね。だから、あんなことが平気で言えたのよ。でも、気にすることなんてないわ。だって今は私の方が遥かに上の存在なんだから。あなたのように中途半端な ヴァンパイアじゃなくてね」
「ヴァン……パイア……」
ミソカは右手を夜空の月に高々と差し上げると、朗々と謳いあげた。
「高貴なる一族の名すら失った者たちに、今一度、チャンスをあげるわ。でも、これが最後のチャンスよ」
*
ミソカの言葉が合図であったかのように、空けゆく彼方の夜空に瞬く間に分厚い雲が沸き立った。それは、すぐさま渦巻く雪嵐へと姿を変えると、ナナクサたちの方へ一直線に突き進んできた。ナナクサが見守る中、目の前まで来た雪嵐は掻き消すように忽然と消滅した。これが何を意味するのか、ナナクサにはすぐに理解できた。ミソカの力の誇示だ。なぜなら消滅した雪嵐からパーティの仲間たち。チョウヨウ、タンゴ、ジョウシの三人が次々と雪上に落下してきたからだ。
運動神経の良いチョウヨウは咄嗟のことであったにもかかわらず、優雅な着地姿勢で。タンゴは空中でくるくる回りながら、最後はどさりと尻餅をついた。ジョウシはそんなタンゴをクッションとして着地の際に小さく叫び声をあげた。自分の意志と関係なく合流させられた三人は、我に返ると周りの状況を見て絶句した。生まれてこの方、これほど夥しい数の、しかも常軌を逸した死体の山を見たことがなかったためである。
「おのれ! 何を為おる?!」
驚きも冷めやらぬジョウシが最初に怒りの声を上げた。彼女が叫んだ先には幼馴染であるタナバタの首筋に喰らいつくミソカの悪鬼のような姿があった。ミソカはタナバタの喉から顔を上げると、その身体を突き離し、真っ赤な舌先で牙についた血を愛おしそうにこそげ落とした。
「あら。要らないと言うから返してもらっただけよ、こいつが味わった人間の血を」
理解しがたい状況を目にしたタンゴは半ば喘ぐように、そしてチョウヨウは顔を固く強ばらせながらミソカに説明を求めた。それに対してミソカは、出来の悪い生徒を諭す教師のような鷹揚さで冷たく言い放った。
「これが本当の私たちよ」
「な、なに言ってんだよ、ミソカ?……」
戸惑うタンゴを、ミソカは赤黒い邪悪な視線で射抜いた。
「ヴァンパイア」
ミソカは一歩、また一歩と自信に満ちた足取りで二人に近づきながら言葉を継いだ。
「高貴なる種族。古からの敵と恐れられた人間どもの生命を力に変え、すべてを支配する絶対者」
「『古からの敵』……『人間』?……」
ミソカは驚きながらも、いぶかるチョウヨウに視線を転じた。
「そうよ。こいつらが私たちを脅かす怪物の正体」ミソカは人間の死体の山を顎で指し示した。「でも、もう恐ることはないわ。あなたも私の力を見たでしょ。感じたでしょ。この力が欲しいと思ったでしょ、チョウヨウ。この力さえあれば、あなたの姉さんだって今でも元気でいたはずよ」
「お前、いったい何を言ってる?」
「この力は私たち一族を救うものだって言ってるのよ。抑えられていた能力の解放は未来への扉をこじ開け……」
そのときチョウヨウの鼻先を銀色の斬撃が掠めさった。彼女は今まで目の前にいたはずのミソカが魔法のように消え失せ、怒りに燃えるジョウシが銀の食器ナイフで空気を薙ぎ払う姿を目の当たりにしてたじろいだ。なぜなら、まるで自分がジョウシに襲いかかられたかのような錯覚に陥ったからだ。
「遅い、遅い」
二人の真横から聞こえる嘲笑にジョウシは即座に反応した。彼女は再び斬撃を加えようと振り向きざまに食器ナイフを横殴りに一閃させた。だが、ジョウシの得物を握った右手はミソカに難なく掴まれ、締め上げられた手首の骨が情けない悲鳴を上げる。苦痛に耐えていたジョウシの手から銀の食器ナイフが抜け落ちて雪上に刺さった
「痛い?」
ミソカがそう聞いた途端、骨の折れるゴキンという鈍い音が響いて、ジョウシの口から悲鳴が上がった。
「ヤヨ村の者は腕を折られるのが、よほど好きなようね」
「この馬鹿者が!」
言うが早いか、ジョウシは空いている左手の爪を伸ばし、目の前のミソカに斬撃を見舞った。だが、ミソカは避けなかった。表情も変えず、瞬きすらせずに真正面から鋭い爪の斬撃を受け止めた。ミソカの顔面はざっくりと裂け、そこから鮮血が飛び散った。しかしその醜い傷跡は、浜辺に書いた文字が波にさらわれるようにすぐに消え去った。二回目の斬撃はなかった。というより、再び攻撃しようとしたジョウシは腹部に強烈な逆撃を負って雪上に弾き飛ばされたからだ。だがジョウシは苦痛に身をよじらせながらも必死に立ち上がろうとした。そんな彼女にミソカは虫を見るような視線を投げかけた。
「初めて、あなたに遭ったとき、自分と同じ境遇の仲間が出来たと思った。生意気だけど、体が小さくて体力が無いのもすぐにわかった。互いに通じるものがあると思った。でも違った。お前は、この旅の中で誰の助けも借りようとしなかった。いや。むしろ助けを借りることを恐れるかのように仲間が差し伸べる手を頑なに拒み続けた、私と違ってね。長の子だから。もちろんそれはあったでしょう。皆から認められたいから。それもあったでしょうね。負けず嫌いな性格。やっぱり、それが一番かな」
ミソカはジョウシに指を突きつけた。
「だから、私はお前が憎かった。誰の助けも借りず、仲間の中に自分の居場所を勝ち得た、お前という存在が!」
折れた右手首を左手で押えながら、ジョウシは苦痛とも嘲りともとれる複雑な表情で小さな顔を歪めた。
「そうか。それゆえ我が幼馴友達を殺めたのか」
「あら、お生憎さま。あの弱虫が私と同じ力を要らないというから、返してもらっただけって言ったでしょ」
「利口なタナバタが妖異の力など欲しようものか」
「信じようが、どうしようが私たちが力を得たのは事実よ。もっとも、それは偶然だったけどね」
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「あの墜落現場で私たちの目の前に、たまたま御力水があった。お前が感じたとおり、あの船員が自ら用意したものだけど、それを一滴だってやらなかっただけよ。だって、もう死んでたんだもの。だから二人で分け合ったの。そして抑えられてた力が解放された。ただ、それだけ」
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「そうね。でも、お前には、もっと最悪な話があるわ」
「このうえ最悪なことなどあるものか」
「そうかな?」ミソカは意地の悪い笑みを浮かべた。「あのとき、お前の感の鋭さが後々面倒になると私の血が直感したわ。それにお前の存在が気に入らなかったから。だからね……」
「何が言いたいのじゃ?」
「だから、お前を襲わせたのよ。あの大海獣に」
ミソカの告白は、そこにいた全員の心を刺し貫いた。しかし、その場に居合わせたデイ・ウォークの仲間一人一人の心の奥底に浸透するまで暫しの時間を要した。なぜなら、その言葉は目の前でタナバタの命が奪われるのを目撃した者にさえ、たちの悪い冗談としか思えなかったからだ。一丸となって仲間の命を救おうとしていたとき、打算と憎悪から仲間を謀殺しようと考えていた者がいたという事実。そして、それによって実際に引き起こされた惨劇。一族の者であれば、誰も考えもしないし、決して実行しようともしない唾棄すべき忌まわしい悪徳。裏切りによる仲間殺し。
「偽りじゃ……」
「そう思いたければ、思えばいいわ」
「おのれは偽りで仲間を……我れを翻弄しようとしておるのじゃ」
ジョウシの、自身に言い聞かせるように喘ぐ姿が、ミソカの気を良くした。
「偽りなもんですか。私の力は覚醒していた。それを使ってみない手はないと思ったのよ。まぁ、大海獣も所詮は賢くない動物だった。操ってみたけど、失敗しちゃった」
「ふざけるな!」チョウヨウが二人の間に割って入った。「失敗だぁ。何が失敗だよ、ミソカ。あんたの下らない妬みのために、あたいのダチは大海獣に殺されたってか。そんなこと信じられるか!」
「信じるも信じないも事実よ。さっきから、そう言ってるじゃない」ミソカはこともなげに言い切った。「それに、『あんな馬鹿、さっさと消えれば良いのに』って口癖みたいに言ってたの、あなたじゃない?」
「そんなの冗談に決まってるだろ。本気で、そんなこと望むわけない!」
「本気であろうが無かろうが、言葉には命が宿るのよ。だから言った通りになった。そうでしょ。ふふっ、あなたにも世界を動かす力があるのかもねぇ」
うそぶくミソカに絶句するチョウヨウの傍らからジョウシが言葉を絞り出した。
「おのれは……」
「なぁに?」
「おのれはジンジツの仇じゃ」
「いえ。ジンジツはお前の身代わりになったのよ。忘れないで。死ななくていいのに死んだの。お前が殺したも同然よ」
「詭弁を弄するな。おのれは、もう仇以外の何者でもない」
「いいえ。それでも仇はお前自身よ。わたしを追い詰めたから、ジンジツは受けなくていい、とばっちりを受けた。やっぱり、お前はお前自身を裁くべきよ。どう、少しは責任を感じないの?」
大海獣に用いたのと同じ力がジョウシとチョウヨウの心に使われたのかどうかはわからなかった。ただ、ジョウシの怒りは無理やり自責の念に方向を捻じ曲げられ、チョウヨウの直線的なそれは次元の違うミソカの考えにかわされた。だが、立ちすくむ二人を尻目に怒りの刃をミソカに深く投げつけた者がいた。タンゴである。
彼は無言でミソカにズカズカと詰め寄ると、その二の腕を両側から伸びた爪が食い込むほどガッチリと掴んだ。そして、小さな身体を自分の目の高さまで持ち上げると力任せに揺すぶって声を荒らげた。
「何でだよ。何でなんだよ。ジンジツは仲間だろ。タナバタは一緒に旅してる友達だろ。何でそんな酷いこと出来るんだよ。僕たちは同じ一族だろ。目を覚ませよ。何とか言え。ぜんぶデタラメだって言えよ!」
もちろん今のミソカの膂力をもってすれば、この大男ですら難なく捻じ伏せることができただろうが、さすがのミソカも、この優しく気の良い幼馴染みが眼球の毛細血管を破裂させ、真っ赤な涙を流しながら、激しく責め苛む姿にたじろがざるを得なかった。
「離せ……離してよ、タンゴ」
「ダメだ。離さない。いつものミソカに戻るまで駄目だ!」
「離さないなら、あなたでも酷い目に合わすわよ!」
「やれるもんなら、やってみろ!」
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「やめな、タンゴ。こいつは、あたいたちの知ってたミソカじゃないよ。殺されちゃうよ、あんたまで!」
タンゴはすがり付くチョウヨウに引き倒され、雪の上でやり場のない悲しみと怒りの声を上げ続けた。
「もういないんだよ、ミソカは!」
タンゴをなだめるチョウヨウの叫びはミソカにも十分すぎるほど届いただろうか。しかし彼女は眉ひとつ動かさず、その真っ赤な目をすがめて彼方の空を見やった。
「物分りが悪いわねぇ、みんな。ほら。もうすぐ朝日がさしてくるわ。でも、そんなの私はへっちゃら。見せてあげる、あの忌々しい太陽に打ち勝つ姿を。一緒に力を手にするかどうかは、それから考えてくれてもいいわ」
ミソカが言い終わらないうちに地平線から太陽が顔を出し始めた。遮るもののない氷原は、風が吹き渡るように白い光で埋めつくされていく。
慌てたチョウヨウは遮光マントの前を締めるとフードを素早く被り、宇宙服のように身体を外界から遮断して、悲嘆にくれるタンゴにも同じことをしてやった。しかしジョウシの体からは見えない手で遮光マントが剥ぎ取られた。ミソカの仕業だった。ジョウシは本能的に目の前を舞う遮光マントを追い求めた。
「お前だけはダメよ、ジョウシ。お前だけは始祖の力を与えたげない。あの陽の光を浴びて私は残るけど、お前は塵にか……」
ミソカの弾むような声がふいに途切れた。彼女は信じられない表情で自分の背中から胸の中央に突き出た一本の金属棒を凝視した。そして首を回すと、その視線は背後からの襲撃者を捉えた。
「ごめんね……」
そう言うと、ナナクサはタナバタから引き抜いた金属棒で幼馴染の体を更に抉った。抉りながらナナクサは自分の心をも深く抉り続けた。ナナクサの手はねっとりとしたミソカの血で濡れていた。しかし、その顔は涙で濡れてはいなかった。あったのは始祖の呪縛から友人を解き放ってやりたいという痛々しい一途な思いだけだった。だが、そんなナナクサをミソカはせせら笑い、胸から突き出た血塗られた金属棒に右手を添えた。
「まったく。こんなもので私の力を奪えるとでも思ってるの?」
ミソカは金属棒を握ると難なくそれを体から引き抜き、雪上に投げ捨てた。そして背後にいるナナクサの襟を左手で掴んで彼女の体を力任せに前方へ投げつけた。投げられるさい、フードごとむしり取られたナナクサの十数本の薄墨色の髪の毛は、風にさらわれ、陽の光を浴びて線香花火のように美しい火花を空中に躍らせた。息を詰まらせながら顔を上げたナナクサはミソカの力から解放された遮光マントがジョウシの手に拾い上げられ、その体に纏われるのを視界の端に捉えた。
「そこまで逆らうなら、あんたは塵に還ればいいわ」
ミソカは攻撃目標をナナクサに切り替えた。が、見えない力をナナクサに駆使しようとした瞬間、伸ばした彼女の腕に弩弓の矢が深々と突き刺さり、その傷口から薄く煙が立ち上った。体の真ん中を貫くほどの槍撃にも怯まなかったミソカの口から苦痛の呻きが漏れでた。
矢を放った人間の少女は命の恩人の名を叫びながら、その頭部に自分のコートを被せるのと、押し倒すのを同時にやってのけた。
「人間が……虫けらの分際で、この私に」
ナナクサから身を離して素早く立ち上がったファニュは、死んだ商人が持っていた弩弓に再び矢をつがえると、その陽光を反射し始めた矢じりにニンニクの実を刺し、再びミソカに狙点を定めるや否や、それを射ち放した。寒気を切り裂いた矢はミソカに当たったかに見えた。しかし、それは彼女の残像を虚しく刺し貫いたにすぎなかった。一瞬後、ファニュは眼前に迫るミソカの鋭い牙を凝視していた。ファニュは本能的に固く目を閉じた。迫る苦痛と死の恐怖から顔を背けた。だが、どれほど待っても死は訪れなかった。固く強ばった自分の肩を抱く手に、ふと気付いた。恐る恐る目を開けると、さっき自分を守ってくれたのと同様にナナクサがファニュの傍らにいた。ファニュの肩を抱く手に痛いほどの力が入った。手は微かに震えてもいた。頭からファニュのコートを被ったナナクサの表情は見えなかったが彼女が泣いているのがわかった。
「こ、こんな……」
陽の光をまともに受けたミソカの皮膚は焼けて塵になるそばから再生し、また塵になることを繰り返していた。それは終わることのない競争に見えた。
「タナバタがね」ナナクサの声がコートの奥から静かに流れた。「最後にミソカを止めてくれたのよ」
ナナクサが握っていた手を開くと、手袋越しにニンニクの粒がぱらぱらと雪上に滑り落ちた。同時にミソカは両膝を屈して多量の血を吐いた。
「なぜ、なぜなの?……私には力があるはず……わ、私には明日が……永遠がぁ…ナナク……」
ミソカがナナクサに手を伸ばした。手が届かないことがわかっていながら、ナナクサもその声に手を伸ばそうとした。
陽の光が勝利した。
身体中から青白い炎を勢いよく吹き出したミソカは、最後の瞬間、漆黒の煙になって爆散して地上から消え失せた。燃え尽きた彼女の身体はひと握りの塵すら残らなかった。微かに残った黒煙も、やがて静謐な大気に飲み込まれるように薄れ、それが人の顔を形作るかに見えたときには、もう陽光の中に掻き消えていた。
*
意志ある黒煙は、心を押してやった娘の身体が炎を上げて消滅すると同時に自らもそこから吹き散らされ、ひとかたまりになるまで空気の微粒子の間に暫く佇んでいた。子孫の若者たちの目は人間どもと比べものにならないくらい非常に良く見える。だが、空中に薄く溶け広がった存在に気付く者は誰もいなかった。たとえ気づいたとしても、はっきりと認識することすら出来はしないのだ。なぜなら、陽の照りつける中で朝目が効くヴァンパイアなど、自分以外に、この世のどこにも存在しないからだ。
しかし、なぜだ?……。
大気の中を漂う黒煙は泥水が履き寄せられるように集まると、空中に伸ばしきった身体を優雅に波打たせながら、しきりに自問自答を繰り返していた。今回はパーティの中で最初から2人も“自らが進むべき道”を選択したというのに、なぜ他の者は選択しなかったのか。本来自分たちのあるべき姿を目の当たりにした彼らを導けなかった己の力不足など思いもよらないことだった。では、目の前の若者たちに別の理由を求めるしかないではないか。この子孫たちに力と自由への抗いがたい誘惑を断ち切りらせる要因があったとでもいうのだろうか。狩人としての本質の変異。弱まった本能。疫病。磔刑に処せられ、かつては救世主と崇められた、あの者の呪い。それとも……。
黒煙は出口の見えない思索の迷宮をさ迷い続けた。そして、ふと一人の若いヴァンパイアに意識をやると、その遮光マントの奥から覗く一対の瞳をじっと注視した。
「やはり、そういうことか。ならば少しずつ削り落としてやろう。そうすれば、退屈という名の煉獄も招待客で溢れかえる舞踏会のように華やぐに違いない」
黒煙は納得したかのようにそう呟くと、遠く離れた場所で食事を楽しんでいるはずの本体へと帰路を急いだ。
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これは、事故物件を心から愛する、ちょっとだけ趣味の歪んだ御令嬢と、それを取り巻く個性豊かな面々の物語。
※本作品は他作品【猫屋敷古物商店の事件台帳】の精神的続編となります。本作から読んでいただいても問題ありませんが、前作からお読みいただくとなおお楽しみいただけるかと思います。
炎の騎士伝
ラヴィ
ファンタジー
今から十年前、幼いシラフはとある儀式の最中で火災に巻き込まれ、家族を失いながらも炎の力に選ばれた。
選ばれた炎の力は祖国の英雄が振るったとされる、世界の行方を左右する程の力を秘めた至宝の神器。
あまりに不相応な絶大な力に振り回される日々が長らく続いていたが、ようやく彼に大きな転機が訪れる。
近い内に世界一と謳われる学院国家ラークへの編入が決まっていたのだ。
故に現在の住まいであるラーニル家の家族と共に学院へと向かおうとすると、道中同じく向かう事になった謎の二人組ラウとシンに会遇する。
彼等との出会いを皮切りに学院に待ち受ける苦難の先でこの世界は大きく動こうとしていた。
夏霜の秘め事
山の端さっど
ミステリー
東の島国、環樹の名もなき忍びが一人、無愛想な秘め事屋は仮の名を霜月という。彼には三つ、大きな秘め事があった。一つ、「悪意」を感じ取る能力を持つこと。一つ、大陸を統べる国の長「裁」の養い子であること。一つ、実は女であること。野心渦巻く謀略の国、露霧から一人の異端児、夏冬が現れたとき、霜月の秘め事は増え始める。
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