デイ・ウォーク

たかや もとひこ

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第11話  最初の血

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「無理なことをおっしゃられても困りますなぁ」と隊商を預かる世話役が苦笑いを張り付けた顔で首を横に振った。
「人を差し出さないのは、第一指導者ヘル・シングに対する反逆だぞ」と隊商の行く手を遮った戦士が淡々とした口調でそう告げた。二名の戦士を両脇に従えた、抜け目のない鋭い目をした徴用係りの卒長である。
「滅相もございません」と世話役は心外そうに両手を胸にやると頭を垂れた。「喜んでお手伝いさせていただきますとも。それが、この世に生きる者の務めでございますから。ですが、村にいる間にしていただきたかったですなぁ。もしそうなら私どもの隊商も不足になった人員を募集できましたのに」
「村は村で、また戦士の徴用が行われる。どの道、村では隊商の募集も無理だろう」
「そんなことをおっしゃらず」
 世話役は卒長の袖を引いて橇の脇へ連れて行った。その時、雪走り烏賊スノー・スクィードの馭者にそっと目配せをした。馭者は卒長を含む三名の徴用係の戦士たちから目を離さず、彼らからは死角になる方の手をシートの横に備え付けた弩弓ボウガンの上にそっと滑らせた。その微かな動きを察した他の橇の馭者や隊商の警護たちも各々が自分の武器が手近にあるのを確かめた。
「こうしませんか?」無駄と知りつつ世話役は最初で最後の交渉を試みた。「徴用を見逃していただけたら、一週間分の食糧の他に深海鮫メガロドンの肉も少々つけましょう。どうです?」
深海鮫メガロドンもか?」
「えぇ」
 卒長の片眉が上がった。それを見た世話役は少なからぬ拍子抜けを感じた。戦士。特に徴用係りの戦士はまったく交渉に応じないと思っていたからだ。応じなければ応じないでいい。そうなれば半年前の戦士たちと同様、立派に殉教させてやった後、鮫釣りの餌にできたのに。そう思うと世話役は心の中で舌打ちせずにはいられなかった。だが彼はそんな失望をおくびにも出さず作り笑いを浮かべた。
「取引成立ですな。では一週間分の……」
「全部だ」
「はぁ?」
「食糧は全部いただく」
 耳を疑った世話役は下腹に鋭い激痛が走るのを感じた。そして彼は膝を屈した。橇の馭者や警護は世話役が倒れるのと同時に攻撃を開始した。もちろん彼らの攻撃は三名の戦士にのみ向けられたのだが、馭者たちが二名の戦士を倒し、次の矢を弩弓ボウガンに装填する間隙をぬって、雪原の中から彼らに向けて狙いすました矢が次々と放たれた。奇襲はあってという間に終わった。卒長が盾にした世話役のむくろを離すと、雪原に掘った穴からを武装した男女の戦士が飛び出してきた。その中の一人が卒長に詰め寄ると彼を非難し始めた。
「奴ら、食糧を出すと言ってたぞ」
「一週間分だけだ」
「でも死人が出た」彼女は無数の矢に貫かれた戦士二名の死体を指差した。「あの中の一人は私の腹心だ」
「食い扶持が増えて良かったと思え」
 なおも非難しようとする女戦士を突き飛ばした卒長は、武装を解除された隊商の生き残りの商人たちを眺め渡した。武器を突き付けられ、みな一様に怯えている。
「こいつらは、どうする?」戦士の一人が卒長に尋ねた。「戦士が無暗に隊商の人間を殺したと噂になれば、あのクソ指導者が黙ってないだろ。追っ手が掛かるぞ」
「『戦士が』じゃなくて盗賊が、だろ」
 腹心を亡くした怒りから女戦士が唸るように歯を剥いた。
「盗賊どころか」と、卒長は女戦士を無視した。「俺たちは逃亡中の身だ。捕まれば並の極刑では済まん。だから喋る口と食べる口は少いに越したことはないんじゃないか」
 そう言うと卒長は振り向きざまに近くにいた一人の商人の首に剣を力一杯振り下ろした。
               *
 その存在は、目覚めた時に必ずすることがあった。それは食事のように必要に駆られての行為ではなく、ましてや優雅に嗜好を満たすための欲求ですらなかった。敢えて言えば、それは意地や挑戦に類するものといってもよかった。だから止めるという選択肢はないも同然だった。その存在は陽が照りつける白銀の世界を黒い疾風になって駆けると、人間たちで賑わう城塞都市カム・アーに辿りついた。そして城門前の大岩の陰で壮年男性の姿をとると、様々な防寒着に身を包んだ老若男女の隊商が行き交う城門前までゆっくりと歩を進め、挑むべきその巨大な敵を見上げた。やがて城門から雪走り烏賊スノー・スクィードに曳かれて出てきた数台の橇から道行く人間たちに視線を戻すと、彼は城門に向かって歩きだした。だが、城門からほんの少し手前でいつものように足が停まった。いくら頑張っても彼は城門に一歩も足を踏み入れることができなかった。遠い昔には捕まえた人間を脅して城門内に招待させようと試みたこともあった。また、いつの世にもいる波長の合うよこしまな者を使ったり、催眠術で人の心を操って侵入しようとしたこともあった。しかし、厳しい生存環境に置かれた人間には多かれ少なかれ、彼とは正反対の存在を崇める信仰の断片が心の内にあった。そのおかげで彼のもくろみは頓挫し、いつも中に入ることができないのだった。
 今回も彼の挑戦は失敗に終わった。自分が完全であると信じるが故に、その苛立ちは尋常ではなかった。しかし完全なる存在を自負するが故に、また彼はその苛立ちを懸命に飲み込んだ。彼は自嘲するように少しだけ首を左右に振ると、再び身体を薄く溶け広がる黒煙に変えて大空へと姿を消した。そして苛立ちから再び感じ始めた食欲を満たすため、あてどなく雪原上を移動していたところで人間どもの殺し合いに出くわし、その甘美さに我を忘れて魅入ってしまった。なぜなら恐怖や痛み、特に神の似姿とされる人間同士が醸し出す憎悪の波動は、食欲はおろか、何ものにも増して彼の苛立ちを癒すだけでなく、心の空虚を埋めてくれる妙薬だったからだ。
 その突発事態が起こるほんの少し前、存在は黒煙に変えた身体を人間の目には捉えられない薄さに広げ、狙いをつけたその集団を魚網のように包み込んでいた。そして五百年ぶりの悦びに身を震わせた。いくさでも起こらない限り、決してありつくことができない幸せに酔いしれた。しかし思わぬ事態が最高のショーを台無しにしてしまった。突然の闖入者だ。その存在は闖入者に戸惑いつつも、それを察知できなかった隙だらけの自分に腹が立った。突発事態が起こったのは隊商と複数の戦士集団に対してだった。隊商の世話役を謀殺した卒長が、先ず闖入者に襲われた。闖入者の姿は人間のスピードでは到底捉えることができず、戦士と生き残りの商人たちは、事態を把握できないままに次々と切り裂かれた喉から血煙を上げて倒れていった。
 その存在は我に返ると、この無粋な闖入者と、そいつが繰り広げる行為に激怒した。生き残りの商人たちに最大の恐怖と痛みをもたらす戦士たちを殺されて怒り狂った。しかもそれを奪った闖入者が自分の子孫であることを感じ取るや、怒りの炎はさらに激しく燃え上がった。その存在は残った人間に襲いかかろうとした闖入者を薄く溶け広がった黒煙の身体で絡め取ると、大地に目一杯に叩きつけた。そして黒煙の身体をいつもの痩せた壮年男性の姿に変えると、乱れた黒髪をそのままに邪魔者を睨みつけた。たとえ子孫でも、この暴挙を許すことはできない。どうしてやろうか。先ずはその精神をズタズタに引き裂き、次に細胞の一片一片に忘れえぬ苦痛を与え、その上で滅ぼしてくれようか。残虐な怒りにうち震えながら、彼は倒れている子孫を見下した。そして自分の心を子孫のそれにナイフのようにズブリと抉り込ませた。抉り込ませた先からは目覚めた時に感じた、あの時の揺らぎが、どっとあふれ出たことに彼は驚いた。自分のものに勝るとも劣らないドス黒さが彼の身体を隅々まで満たした。
「これは、これは」
 彼は思わずそう呟くと、あれほど怒り狂っていた心を一挙に冷まし、三日月のように目を細めた。
「これは、これは」
 彼は楽しげに、そうつぶやきながら大きく広げた両腕に迎え入れるかのように一歩一歩、踊るように倒れ伏した子孫に近づいていった。
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