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第8話 犠牲
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「大海獣だ!」
自分の足よりも太くてしなやかな触腕に巻きつかれたジンジツが、声を張り上げた。話に聞く大人しい雪走り烏賊とは違って大きさも凶暴さも桁外れだ。
突然盛り上がり、ささくれ立った足元の氷は船員たちの荼毘の炎を飲み込んだかと思うと、次の瞬間、大量の海水と何本もの巨大な触腕を地上に噴き上げた。若者たちの中で、この襲撃に即座に反応できた者は皆無だった。彼らは雪と氷の中に叩き伏せられた途端、何本もの貪欲な触腕に襲われた。
ジンジツは犬歯と爪で、自分の首に巻きついた捉えどころのない紫色のぬめぬめとした触腕に反撃を試みようとしたが、手袋と遮光マフラーが邪魔になって思うように攻撃できずにいた。その傍らでは家宝のナイフで足首を締め上げる触腕の先端を、やっとのことでズタズタに切り裂いたジョウシが、その軛から逃れたところだった。触腕と格闘しながらジンジツは、刻一刻と氷の大地にぽっかり開いた巨大な坑に、じりじりと引き寄せられていく。もちろん坑の奥の海中には飢えた大海獣の本体が獲物を待ち構えているのだ。
一行を襲った大海獣は遠い祖先のダイオウイカより何倍も大型で狂暴だった。本来、深海に棲むこの頭足類は食料の乏しくなった棲家から稀にではあるが海上に現れて獲物を襲うことがあった。おそらく昨夜、海中に没した飛行船の残骸に残った遺体に味をしめたのだろう。より多くの食糧を得るため、ここぞとばかりに襲ってきたのに違いなかった。
ジョウシは千切れてもなおのたうつ触腕を遠くへ蹴飛ばすと、青く光る血の付いたナイフを握りなおして更なる攻撃に備えた。ジンジツはよく踏みとどまって善戦していた。掴んだ指先から手袋を突き破って、鋭い爪を直接触腕に深く食い込ませ、その膂力をもって相手を捩じ切ろうとしている。
悲鳴が上がった。
戦いながら誰もが、か弱いミソカのものだと直感したが、それは二本の触腕に巻きつかれたナナクサのものだった。彼女は戦うどころか首と太腿を締め上げられながらも両手を胸の前で固く組んでいる。しかも、その太腿は触腕が持つ歯のある吸盤で抉られ、出血が甚だしい。
「迂闊な」
ジョウシはナナクサが胸の前で守っている御力水のことに思いが至るなり、自身を罵り、脱兎のごとく駆け出した。ナナクサは自分のことより仲間のための希望を必死に守り抜こうとしていたのだ。ナナクサの傍らでは、飛行船の残骸にあった金属の棒を槍代わりにしたタナバタが彼女の首に巻きついた一本の触腕をやっとのことで撃退した。しかし、後ろから襲ってきた新たな一本に叩き伏せられ、不利な体勢で防戦を余儀なくされていく。そんな中、抵抗も空しく、ナナクサは今しも海の中に引きずり込まれようとしていた。ジョウシは彼らの後方に突き刺さる構造材の上にミソカの姿をチラリと認めたような気がした。
「入り用か?!」と、走りながらジョウシが、彼女と同じく駆けつけたジンジツに武器のナイフをかざす。
「遠慮しとく!」と、引き千切られても、のたうち続ける触腕を投げ捨てたジンジツが勢いよくジョウシに応じる。
「さすがはリーダーじゃ!」
戦闘の興奮からか、みな遮光マントを通してさえ感じられる太陽光がもたらす肌を苛む痛みすら感じないようにみえる。特に戦闘本能を剥き出しにしたジョウシとジンジツのコンビは凄まじい破壊力を見せ始めた。彼らは息の合った連係プレイでナナクサを襲う触腕に飛び掛かった。二人の働きで触腕はあっという間にボロ雑巾のようになって撃退され、残った触腕も不利を悟って次々と海中へ没し去った。そこへ金属棒を杖代わりにしたタナバタが合流した。負傷した頭部からフード越しに血が滲み出ていた。
「みんな無事か?」タナバタが呼吸を整えながら安否を確認した。「大丈夫かい、ナナクサ?」
ナナクサは上体を起こすと、声にならない声で自分の周りに集まった仲間の顔に礼を述べた。しかし顔が一つ足りないことに気付くと足の痛みも忘れてその瞳に不安を宿らせた。
「ミ……ミソカは?」
「わたしは、ここよ」
円陣の外から、すぐさまミソカの声がした。彼女はずっと前からそこにいたかのように超然と佇んでいる。
「ほぅ、無事であったか」
「無事だよ」ジョウシの言葉をミソカは平然と受け止め、静かに反駁した。「何だか残念そうね、ジョウシ?」
「残念どころか、清々しておる。これからお前には助けは要らぬであろうからな、方違へ師の子よ」
「助けが必要なんて、あなたに頼んだ覚えはないけど」
「確かにな。闘わずに退いておるだけなら、そうじゃろう」
「ジョウシ」
言葉が過ぎたジョウシはジンジツにたしなめられ、ばつが悪そうに引き下がった。
「さぁ」タナバタが雪の上のナナクサに手を差し出した。「もういいだろう。ナナクサには助けが必要だ。君らには要らなくてもね」
ジョウシはタナバタの嫌味に小さく溜息をつき、ナナクサに手を貸そうとした。その時、その小柄な体をものも言わず、ジンジツがいきなり後ろから突き飛ばした。何が起こったか、ジョウシが理解できないうちにジンジツの体に太い構造材が打ち付けられ、その巨体がナナクサとタナバタを伴って瓦礫の山に吹き飛んだ。雪の中に俯けに倒れたジョウシは強烈な力で胴が締めあげられ、背中全体に鋭い痛みが走るのを感じて後ろを振り向いた。
退散したと思っていた大海獣が執念深く、再び襲ってきたのだ。しかも今度は坑から胴体の一部を乗り出し、人のように道具を使ってずる賢く立ち回っている。触腕の付け根には人の頭ほどもある軟体動物特有のヌメヌメした四つの目玉と、人の胴体も難なく噛み千切ることができる鳥の嘴にも似た巨大な二つの口吻が縦に並んで若者たちを噛み裂こうとガチガチ音を鳴らしながら待ち構えている。
ジョウシは触腕の吸盤に付いた無数の歯に背中を抉られながらも家宝のナイフを取り出したが、別の触腕に叩き落とされ、強烈に締め上げられて息もできずに意識が遠のいてゆく。そんな絶体絶命の彼女を救ったのはジンジツだった。彼はジョウシに止めを刺そうと大きくしなって振り下ろされた触腕の一撃を、彼女を庇ってその背中で受け止めた。何本もの肋骨が折れる痛みをものともせず、ナイフを拾うとジョウシの胴に巻きつく触腕に深々と突き立てると血まみれの顔で彼女に頷いた。ジンジツの意図を咄嗟に悟ったジョウシは力の入らない両手で突き立ったナイフを掴むと、お返しとばかり、右に左に触腕を抉りはじめた。
だが腹を空かせた大海獣も必死だった。それでもジョウシを離す気がないと悟ったジンジツは触腕に食い込ませた爪を引き抜くと最後の手段に訴えた。彼は左右の爪を自分の両方の上腕部に掛けると、分厚い服の袖を一気に引き裂いたのだ。太陽の光に晒されたしなやかで逞しい両腕は一気に炎を吐き出した。苦痛の叫びがジンジツの食いしばった口から洩れた。
「何をするのじゃ。やめろーー!」
ジョウシの叫びを無視して、ジンジツはジョウシに巻きついた触腕と、彼を再度打ち据えようと振り下ろされたもう一本のそれを空中で掴むと、その両方を抱え込んだ。炎の中で触腕が焼ける音と水蒸気が舞い上がった。
大海獣の二つの口吻から激痛の咆哮があがり、空気を震わせた。それは生まれて初めて経験する身を焼く炎に対する驚愕の叫びであり、同時に恐れの表明でもあった。大海獣は傷めた触腕とその巨大な体を水の中に引き込む時、その四つの目で炎を上げる獲物に駆け寄るもう一匹の獲物を見た。駆け寄った獲物が自分の体でもう一匹の獲物の炎を包み込んで消し去り、互いに固く抱き合う姿も見た。
凍てついた大海原を支配してきた大海獣の心は打ちのめされた。だが、そのとき生存本能よりも強い何かが心の奥底に入り込み、それを逆撫でた。その何かは、お前は今も支配者だと煽り、そのプライドを抗いがたいほどくすぐり続けた。
*
ジンジツとジョウシは向かい合って膝を折り、黙って見つめ合っていた。今や仲間以上に敬愛し、互いを必要とする気持ちは遮光ゴーグルの分厚いレンズ越しにすら容易に伝わっていた。身を焼き焦がす激痛にもかかわらずジンジツの目がジョウシに微笑みかけた。ジョウシも正直にそれに応えて微笑み返した。
その瞬間、ジンジツの身体が風に煽られた綿雪のようにふわりと浮きあがり、坑の中に引き込まれていった。
それはほんの数秒の出来事だった。
連れ去られる寸前、触腕に捕まったジンジツの両手をしっかりと握って離すまいとしたジョウシは、自分の手の中で太陽に焼かれた若者の両腕が砂のように脆くも崩れ去る感触を味わった。両腕を失ったジンジツは、彼の名前を叫びながら坑の淵まで追いかけてくるジョウシを見た。そして奈落の底へ引き込まれて何も見えなくなるまで、好意を寄せた娘の瞳を黙って見つめ続けていた。ジョウシもまた初めて心を許した青年の瞳が深い海の底に消えてゆくまでずっと見つめ続けていた。
暗く冷たい海面に、ジンジツが巻いていた遮光マフラーが揺れていた。
自分の足よりも太くてしなやかな触腕に巻きつかれたジンジツが、声を張り上げた。話に聞く大人しい雪走り烏賊とは違って大きさも凶暴さも桁外れだ。
突然盛り上がり、ささくれ立った足元の氷は船員たちの荼毘の炎を飲み込んだかと思うと、次の瞬間、大量の海水と何本もの巨大な触腕を地上に噴き上げた。若者たちの中で、この襲撃に即座に反応できた者は皆無だった。彼らは雪と氷の中に叩き伏せられた途端、何本もの貪欲な触腕に襲われた。
ジンジツは犬歯と爪で、自分の首に巻きついた捉えどころのない紫色のぬめぬめとした触腕に反撃を試みようとしたが、手袋と遮光マフラーが邪魔になって思うように攻撃できずにいた。その傍らでは家宝のナイフで足首を締め上げる触腕の先端を、やっとのことでズタズタに切り裂いたジョウシが、その軛から逃れたところだった。触腕と格闘しながらジンジツは、刻一刻と氷の大地にぽっかり開いた巨大な坑に、じりじりと引き寄せられていく。もちろん坑の奥の海中には飢えた大海獣の本体が獲物を待ち構えているのだ。
一行を襲った大海獣は遠い祖先のダイオウイカより何倍も大型で狂暴だった。本来、深海に棲むこの頭足類は食料の乏しくなった棲家から稀にではあるが海上に現れて獲物を襲うことがあった。おそらく昨夜、海中に没した飛行船の残骸に残った遺体に味をしめたのだろう。より多くの食糧を得るため、ここぞとばかりに襲ってきたのに違いなかった。
ジョウシは千切れてもなおのたうつ触腕を遠くへ蹴飛ばすと、青く光る血の付いたナイフを握りなおして更なる攻撃に備えた。ジンジツはよく踏みとどまって善戦していた。掴んだ指先から手袋を突き破って、鋭い爪を直接触腕に深く食い込ませ、その膂力をもって相手を捩じ切ろうとしている。
悲鳴が上がった。
戦いながら誰もが、か弱いミソカのものだと直感したが、それは二本の触腕に巻きつかれたナナクサのものだった。彼女は戦うどころか首と太腿を締め上げられながらも両手を胸の前で固く組んでいる。しかも、その太腿は触腕が持つ歯のある吸盤で抉られ、出血が甚だしい。
「迂闊な」
ジョウシはナナクサが胸の前で守っている御力水のことに思いが至るなり、自身を罵り、脱兎のごとく駆け出した。ナナクサは自分のことより仲間のための希望を必死に守り抜こうとしていたのだ。ナナクサの傍らでは、飛行船の残骸にあった金属の棒を槍代わりにしたタナバタが彼女の首に巻きついた一本の触腕をやっとのことで撃退した。しかし、後ろから襲ってきた新たな一本に叩き伏せられ、不利な体勢で防戦を余儀なくされていく。そんな中、抵抗も空しく、ナナクサは今しも海の中に引きずり込まれようとしていた。ジョウシは彼らの後方に突き刺さる構造材の上にミソカの姿をチラリと認めたような気がした。
「入り用か?!」と、走りながらジョウシが、彼女と同じく駆けつけたジンジツに武器のナイフをかざす。
「遠慮しとく!」と、引き千切られても、のたうち続ける触腕を投げ捨てたジンジツが勢いよくジョウシに応じる。
「さすがはリーダーじゃ!」
戦闘の興奮からか、みな遮光マントを通してさえ感じられる太陽光がもたらす肌を苛む痛みすら感じないようにみえる。特に戦闘本能を剥き出しにしたジョウシとジンジツのコンビは凄まじい破壊力を見せ始めた。彼らは息の合った連係プレイでナナクサを襲う触腕に飛び掛かった。二人の働きで触腕はあっという間にボロ雑巾のようになって撃退され、残った触腕も不利を悟って次々と海中へ没し去った。そこへ金属棒を杖代わりにしたタナバタが合流した。負傷した頭部からフード越しに血が滲み出ていた。
「みんな無事か?」タナバタが呼吸を整えながら安否を確認した。「大丈夫かい、ナナクサ?」
ナナクサは上体を起こすと、声にならない声で自分の周りに集まった仲間の顔に礼を述べた。しかし顔が一つ足りないことに気付くと足の痛みも忘れてその瞳に不安を宿らせた。
「ミ……ミソカは?」
「わたしは、ここよ」
円陣の外から、すぐさまミソカの声がした。彼女はずっと前からそこにいたかのように超然と佇んでいる。
「ほぅ、無事であったか」
「無事だよ」ジョウシの言葉をミソカは平然と受け止め、静かに反駁した。「何だか残念そうね、ジョウシ?」
「残念どころか、清々しておる。これからお前には助けは要らぬであろうからな、方違へ師の子よ」
「助けが必要なんて、あなたに頼んだ覚えはないけど」
「確かにな。闘わずに退いておるだけなら、そうじゃろう」
「ジョウシ」
言葉が過ぎたジョウシはジンジツにたしなめられ、ばつが悪そうに引き下がった。
「さぁ」タナバタが雪の上のナナクサに手を差し出した。「もういいだろう。ナナクサには助けが必要だ。君らには要らなくてもね」
ジョウシはタナバタの嫌味に小さく溜息をつき、ナナクサに手を貸そうとした。その時、その小柄な体をものも言わず、ジンジツがいきなり後ろから突き飛ばした。何が起こったか、ジョウシが理解できないうちにジンジツの体に太い構造材が打ち付けられ、その巨体がナナクサとタナバタを伴って瓦礫の山に吹き飛んだ。雪の中に俯けに倒れたジョウシは強烈な力で胴が締めあげられ、背中全体に鋭い痛みが走るのを感じて後ろを振り向いた。
退散したと思っていた大海獣が執念深く、再び襲ってきたのだ。しかも今度は坑から胴体の一部を乗り出し、人のように道具を使ってずる賢く立ち回っている。触腕の付け根には人の頭ほどもある軟体動物特有のヌメヌメした四つの目玉と、人の胴体も難なく噛み千切ることができる鳥の嘴にも似た巨大な二つの口吻が縦に並んで若者たちを噛み裂こうとガチガチ音を鳴らしながら待ち構えている。
ジョウシは触腕の吸盤に付いた無数の歯に背中を抉られながらも家宝のナイフを取り出したが、別の触腕に叩き落とされ、強烈に締め上げられて息もできずに意識が遠のいてゆく。そんな絶体絶命の彼女を救ったのはジンジツだった。彼はジョウシに止めを刺そうと大きくしなって振り下ろされた触腕の一撃を、彼女を庇ってその背中で受け止めた。何本もの肋骨が折れる痛みをものともせず、ナイフを拾うとジョウシの胴に巻きつく触腕に深々と突き立てると血まみれの顔で彼女に頷いた。ジンジツの意図を咄嗟に悟ったジョウシは力の入らない両手で突き立ったナイフを掴むと、お返しとばかり、右に左に触腕を抉りはじめた。
だが腹を空かせた大海獣も必死だった。それでもジョウシを離す気がないと悟ったジンジツは触腕に食い込ませた爪を引き抜くと最後の手段に訴えた。彼は左右の爪を自分の両方の上腕部に掛けると、分厚い服の袖を一気に引き裂いたのだ。太陽の光に晒されたしなやかで逞しい両腕は一気に炎を吐き出した。苦痛の叫びがジンジツの食いしばった口から洩れた。
「何をするのじゃ。やめろーー!」
ジョウシの叫びを無視して、ジンジツはジョウシに巻きついた触腕と、彼を再度打ち据えようと振り下ろされたもう一本のそれを空中で掴むと、その両方を抱え込んだ。炎の中で触腕が焼ける音と水蒸気が舞い上がった。
大海獣の二つの口吻から激痛の咆哮があがり、空気を震わせた。それは生まれて初めて経験する身を焼く炎に対する驚愕の叫びであり、同時に恐れの表明でもあった。大海獣は傷めた触腕とその巨大な体を水の中に引き込む時、その四つの目で炎を上げる獲物に駆け寄るもう一匹の獲物を見た。駆け寄った獲物が自分の体でもう一匹の獲物の炎を包み込んで消し去り、互いに固く抱き合う姿も見た。
凍てついた大海原を支配してきた大海獣の心は打ちのめされた。だが、そのとき生存本能よりも強い何かが心の奥底に入り込み、それを逆撫でた。その何かは、お前は今も支配者だと煽り、そのプライドを抗いがたいほどくすぐり続けた。
*
ジンジツとジョウシは向かい合って膝を折り、黙って見つめ合っていた。今や仲間以上に敬愛し、互いを必要とする気持ちは遮光ゴーグルの分厚いレンズ越しにすら容易に伝わっていた。身を焼き焦がす激痛にもかかわらずジンジツの目がジョウシに微笑みかけた。ジョウシも正直にそれに応えて微笑み返した。
その瞬間、ジンジツの身体が風に煽られた綿雪のようにふわりと浮きあがり、坑の中に引き込まれていった。
それはほんの数秒の出来事だった。
連れ去られる寸前、触腕に捕まったジンジツの両手をしっかりと握って離すまいとしたジョウシは、自分の手の中で太陽に焼かれた若者の両腕が砂のように脆くも崩れ去る感触を味わった。両腕を失ったジンジツは、彼の名前を叫びながら坑の淵まで追いかけてくるジョウシを見た。そして奈落の底へ引き込まれて何も見えなくなるまで、好意を寄せた娘の瞳を黙って見つめ続けていた。ジョウシもまた初めて心を許した青年の瞳が深い海の底に消えてゆくまでずっと見つめ続けていた。
暗く冷たい海面に、ジンジツが巻いていた遮光マフラーが揺れていた。
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