花と靱(はなとうつぼ)

夏目真生夜

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第3章 嫁取り

嫁取り

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 天正十二年(一五八九年)三月――
 十五歳になった勝俊は、ある日、秀吉とおねに呼ばれた。
 何事であろう、と思いながら大阪城に登城した。
 平伏して挨拶をするなり、おねがいたずらっぽく笑って言った。
「そなたに武運を授けましょう」
 馬か槍か、一体どんな戦道具を賜るのかと勝俊は睫毛を震わせた。初陣の後も何度か戦に出たが、自分には武才がないことをすでに悟っている。
 その素直な臆病さが、おねの胸を射抜いた。おねは侍女に目配せし、一枝の梅を勝俊に与えた。時節は三月の頃である。
 勝俊は手に取った枝を仔細に確かめ、こう尋ねた。
「こちらはどのようなご神木でございますか?」
 カカと秀吉が笑った。
「ご神木とはよく言ったの。その梅はそれ、そこの庭で咲いているただの梅じゃ。だが、お前がこれから抱く梅は、正真正銘、お前に武運を授けるご神木かもしれぬぞ」
 秀吉から城内に植えられた梅の枝を賜るという行為の意味をはかりかね、勝俊は透き通るような微笑を浮かべて応じた。
「若武者らしいよい顔じゃ。実は儂とおねはな、梅という名の女をそちに娶せようと思うのじゃ」
 おねが言い添えた。
「信長公の寵臣であられた森可成殿の二の姫、梅殿があなたの奥方になるのです」
 勝俊は頷いた。
 森家といえばみな伝説的な武勇と美丈夫ぶりで知られている。朝倉攻めの折に鬼のような奮迅ぶりで討ち死にした森可成と嫡男の可隆。可成の子には本能寺の変で最後まで信長を守り、闘死した森成利(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)といった美小姓上がりの三兄弟。それに小牧長久手の戦いで討死にした当主、長可がいる。さらに可成の正室、妙向尼といえば夫の討死後、信長に本願寺の助命嘆願をし、成し遂げたほどの女でもあった。
 又聞き話を思い出すだけでも、勝俊の鼻腔に血の香りが満ちてくるような武辺の家である。
「喜べ、若狭少将。かの者を妻に娶れば、武人としてのそちの道もきっと開けよう。世にも稀なる美しさと評判の姫じゃ」
「もったいのうございます」
 と勝俊は深く平伏した。
「若狭となら、きっと御内裏様と御雛様のような似合いの夫婦(めおと)になろう」
 おねも嬉しそうに頷く。
「梅は、先の戦で兄の長可殿を亡くしたばかり。心優しく接しておあげなさいね」
 はっ、かしこまりましたと平伏したまま勝俊は答え、ややあって顔を上げると細い声でこう言った。
「森長可殿が亡くなられたこと、まことに胸が痛みまする。一度、あの方の書をお見かけしたことがありますが、ご雄渾な筆でございました。この若狭、かねてより森殿にはじかにお会いしてお話したいと願っておりました」
 ごく自然に胸元で十字を切って祈りを捧げた。勝俊はキリシタンだった。
 秀吉もつられて目を伏せる。
「うむ、あれの書は実によい筆跡(て)だった。長可は茶にも明るくての、なかなかよき茶を点てる男だったぞ」
「それはぜひ一服、頂きとうございました」
 この時の秀吉は感傷に引きずられていたのか。戦で死ぬ前、長可が遺言を書き,生前に自分が集めた名物や逸品といった茶器をすべて秀吉に譲り渡していたことが、天下人らしい気まぐれを思いつかせた。
「よし、ならば、長可に代わって、儂が若狭に茶を点てて進ぜよう」
 軽やかに立ち上がると、襖を開けてどこかに行き、しばらくして戻ってきた秀吉の手には大名物の茶入、靱肩衝(うつぼかたつき)の箱があった。
「梅と若狭が夫婦になるというのに、梅一枝が秀吉の祝いの品では面目が立たぬわ。これをそちにやろう。嫁御に負けず劣らず大切にせよ」
 秀吉は無造作に箱のかけ紐を解き、中から茶入を掬いだすようにして、勝俊の眼前に置いた。
 青瑠璃色の肌に、茶色く浮いた斑点が濃淡豊かに面白い景色を醸している。その姿に大名物の気迫がある。
 勝俊は茶入の姿に打たれ、もったいのうございますと呟いた。
 将軍足利義政から管領細川勝元の子、政元を経て、その甥の高国に伝わった。それが細川幽斉の元にゆき、その子の忠興から秀吉に献上されたという経緯だけでも、すでに大きな箔がついている。
「よく見てみろ。この斑色が、よく漬かった古漬の茄子のようであろう? 儂が言いたいのはの、このように女の肌が色変わりするほど女房と添えということじゃ」
 秀吉が隣のおねに向かってニッカと笑うと、そのおねは、まあと声を上げてまぜっかえした。
「私を漬物呼ばわりですか」
「はは、それはともかく矢入れである靱(ゆぎ)の姿をした茶入じゃ。これぞ若狭の武運の助けになるであろう」
 はっと平伏して、そのぼってりとした茶入を押し頂くと、勝俊の中に弾薬でも抱いたような熱いものがこみ上げた。
  
 
 いよいよ梅が輿入れするという時になって、勝俊は森家に
「長可殿の手による書を一つ、花嫁道具として持参して頂きたい」と申し入れた。  
 義兄長可の優れた書を手に入れ、その武魂を自身の屋敷で愛でようというつもりである。
 婚礼の日、隣で目を伏せてうつむく梅の姿を見て、勝俊はひどく鮮やかな感動に打たれた。
「梅殿の母上、妙向尼様といえば『三国一の美姫』と名高いお方ですぞ」
 そう家の者から聞かされてはいた。だが今、自分の隣にいる梅は、三国一どころでは済まない。思慮深い黒目がちな瞳が白い肌に映え、きらきらと輝いている。豊かな黒髪はあたりの光をすべて集めて閉じ込めたようだ。わずかでも油断をすると、おのが瞳がその黒髪に吸い込まれそうになる。
(もし聖母マリアが世にいるとするならば、このような姿をしているのではないだろうか……)
 ほんのりと血の気に染まった梅の爪が夫婦誓いのため、朱塗りの盃に手を伸ばす。その仕草に「たおやか」などと一口で言えないような崇高な空気が座を包む。
(ここは浄土か唐天竺か、あるいは伴天連の国か……)
 ほわほわした心地の中、勝俊も同じように盃を手にとる。
 盃を干しながら、勝俊には隣の女性(にょしょう)が自分の妻になるという自覚がわいてこない。
 
  
 宴が終わり、やがて新床のときがきた。
 美しい花嫁姿を解いて湯文字姿になった梅が畳に手につき、口上を述べる。
「どうぞ勝俊様ご所望の兄の書でございます」
 梅が差出したのは、長可の遺書だった。
 
その遺書にはこうある――。
『覚
一・澤姫の壺、秀吉様へ進上、ただし今は宇治にあり。
一・台天目、秀吉様へ進上。仏陀(寺)にあり。
一・もし討ち死に候はば、此分に候。母に候人は、堪忍分秀吉様へ御もらい、京に御入り候へく候。せん(忠政)は今の如く御側に奉公の事。
一・我々の跡目くれぐれ嫌にて候。この城(兼山城)は要にて候間、確かなる者を秀吉様より置かせられ候へと御申之事。
一・女共は急ぎ大垣へ御越候へく候。
一・悪しき茶の湯の道具、刀、脇差、せんに御取らせ候べく候。何れも何れも仏陀の如く御届け候へく候。
 仏陀の他は皆せんに取らせ申し候。但成次第此由御申候へく候。
 天正十二 三月廿六日あさ     むさし
 
尾藤甚右衛門(知宣)さま 申給へ
 又申候、京の本阿弥所に、秘蔵の脇差二つ御入り候。せんにとらせ申候。尾甚(尾藤甚右衛門知宣)に御申候へく候。
 おこう事京の町人に御取らせ候へく候。薬師のやうなる人に御し付け候へく候。母に候人は、かまいてかまいてかまいて京に御入り候へく候。せんもここもと跡継ぎ候事嫌にて候。
 十万に一つ百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て御死に候へく候。
 おひさにも申候。以上。』
 
 美しい妻の放つ空気に夢見心地にいた勝俊の頭が、一瞬で現実に引き戻された。何と言っていいのか、言葉にならない
 何しろその遺書は、自身の所有していた茶器を秀吉に献上せよと真っ先に述べると、そのあとは末弟の忠政に対する家督のことと母、妻といった女達への奇妙な願いをくどくどしく並べたてているのだ。
 どれもこの時代としては、ひどく型破りな願い事ばかりである。
 母上はどうかどうかどうか京で安泰に暮らしてくれ。弟の忠政に自分の跡を継がせてはならない、絶対に嫌だ! 妻も侍女を連れて、実家の大垣に帰れ、ときて、おこうという妹には町人や医師に嫁げと言い切っている。これは暗に武家には嫁に行くなということか。
 
「十万に一つ、百万に一つこの戦(小牧長久手の合戦)で秀吉方が負けるようなことになったら、一族全員郎党火をかけて死ね。おひさ(妻)にも申し伝える」
 という最後の口上が、またふるっている。
 筆の具合を見ても、武家はもうこりごりだ、森家など潰してしまえと言わんばかりの勢いである。
「これは本当にそなたの兄の長可殿が書かれた物か?」
 思わず勝俊は新妻に尋ねた。これに梅はすらりと答える。
「はい。確かに兄の書でございます。我が森家には兄の書は、この書より他に残っておりませぬ」
 長可殿に何か思惑があってものか……。
 勝俊は黙り込んで、書を見つめた。
 長可といえば
「我が槍の前では敵という敵は、みな骨なしよ」
 という意味を込め、名鍛冶、和泉守兼定の鍛えた十文字槍に「人間無骨」(にんげんむこつ)という文字を刻んで戦場を暴れ回った男だ。小牧・長久手の戦いで、秀吉方、敵の徳川方のどちらでも「地獄の鬼邏卒」と恐れられたさまとは、まるで結びつかない。
 しかも、この遺書、能書とはとても言えない、実にまずい筆跡(て)であった。
「討ち死にする十日程前に書かれた物と当家には伝わっております。きっと兄は戦場で人を殺しすぎて気が狂っていたのでございましょう。この遺書はわが森家の恥でございます」
 殺しすぎ――、長可の生前の殺戮癖は、つとに有名だった。
 梅は、利発そうにきらきらと光る双眸で続けた。
「さ、床に入りましょう」
「いや、待て」
 めんくらった勝俊が後ずさりした。
「私に何かご不満でも?」
「いや、そうではない」
 燭台の灯影に照らされる梅は、匂いたつように美しい。
「そうではないが、長可殿の遺言について、まだ私は考えている」
「考えても栓のないことを考えるのですか?」
 それはどういう意味なのだと勝俊が問うと、 
「兄の遺言で叶えられたは、秀吉様への献上物のことと嫂上の池田家へのお戻りだけでございます。その嫂上も先だって中村家に再嫁されました」
 そうなのだ――と勝俊はゆっくりと思考を巡らせ、こう思った。
 長可殿の審美眼は、やはり確かであった。
 遺言に託して捧げた家宝は、秀吉の心をしっかりと掴んだ。おかげで森家は改易にもならず、幼い末弟の忠政が森家の領地である兼山を治められるようになったのではないか。妻女も長可とともに死ぬことなく、また新たに女(おなご)としての人生を歩み出した。
「決して忠政を兼山城主にするな」
 と最初から卑屈に秀吉に嘆願することで、逆に、森家と周りの者達を生かす道を残したのではないか。だとすれば、長可は非常な知恵者ではないかと。
 勝俊は遺言をじっと見つめ、佳き物を花嫁道具にもらった、と梅に向かって頭を下げた。
 その姿に、梅が少女のような声音で言った。
「勝俊様は、何を考えているかわからないお方なのですね」
 梅は、この線が細く涼やかな目をした夫を見つめ、心の中で(大丈夫かしら)と首を傾げた。
 輿入れにあたって、夫の勝俊はキリシタンだと聞いている。「ペテロ」という夫の洗礼名には感慨も親しみもわかないが、嫁いできたこの木下家の行く末には興味がある。
 キリスト教は生涯、側室を持たず一人の妻を愛し抜くことを教義にしている。家の存亡のため、梅の体にかかる重責は非常に大きいのだ。
 このように、不名誉でおかしな兄の遺書にいつまでも感心されていては困るのだけど――。
 かすかにため息をつく。
 勝俊は梅の吐いたその息の甘さに驚き、
「ああ、すまぬ。婚儀の席でそなたも疲れたであろう。今夜は存分に体を休められよ」
 と言うと遺言を握りしめ、そそくさと立ち上がって部屋を出ていってしまった。
 勝俊は、こうして妻を娶ったのだから、自分も遺言を書こうという気になっていた。
 まず長可の遺書を書き写し、それから夜を徹して、自分の遺書を勘案しようというつもりである。そう思いつくと、新妻と肌を合わせるという仕事の方は頭から飛び去ってしまった。いったん筆を握ると、ただもう心が弾み、他のことに頭が回らなくなる。幼少からの勝俊の悪癖である。
  
 
 小半時ほどして、梅が勝俊の部屋を訪れた時、彼はちょうど遺書の内容に苦吟しているところだった。
 まだ若く、養父木下家定の石高で暮らす身のため、遺言に書き遺すものがまるで思い浮かばないのである。
 襖を開けて入ってきた梅を見て、閃くものがあった。愛おしそうに笑いかける。
「おお、そなたか。ちょうどよいところへきた。一つ、聞いてほしいことがある」
「何でございましょう」
「もし、私が死んだら、その時は、そなたは他家に嫁に行くがよい。それが私の望みである」
 今日、妻になったこの美しい姫に、どうしても告げておかねばという気持ちが、するりと口からこぼれた。
 しかし、梅は冷ややかだ。
「それは、どのようなご冗談でございますか?」
「いやこれは冗談などではない。森家の姫君であるそなたには、きっと武運がついておると秀吉様に言われたのだ。なるほど、こうしてそなたの顔を見ていると、神がかって美しい。眼福とは、そなたのためにある言葉かもしれぬ。しかれば、このように価値のあるものを一所におさめておくのは、天下にとっても誰にとってもよくない。その美を知り、生かす者に使われてこそ華であると思いませぬか、梅殿?」
 梅はあきれるような思いで夫を見た。
「勝俊様は、私を茶器か何かとお思いになっておられるのですか?」
 それよりも――と梅は、美しいという言葉を確かめるように、勝俊の方に膝をにじらせた。
「私には私自身の手で作り、後の世に残したいものがございます」
「それは一体……?」
「私の実家、森家の血と勝俊様の血が混じりあって出来る、私達の二人のお子でございます」
 妻には妻の仕事があるのだという強い口調だった。勝俊は困ったような顔をした。
「そうか、しかし、こうして遺書を思案し始めた今、そなたを改めて抱きよせるというのもなかなか難しいもの……」
 勝俊は、思案顔で背に汗をかいている。
「では、どうすればよいのです」
「ならば、ゆるゆると物語などしようか。そなたは伊勢物語を知っておられるか」
「はい。存じております」
 武家の女人にしては珍しい、と勝俊の目が輝いた。
 死んだ兄の可隆が和歌好みでした、という梅の言葉に勝俊はなお喜んだ。それから二人は伊勢物語の話に弾んだ。
 
 
 そのさらに二刻(四時間)後、ついにこの夫婦は床入りした。書物を読むために点っていた蝋燭の火は消え、淡い闇が二人を包んでいる。
 梅がはらりと湯文字を肩から滑らせると、その体のそこかしこから桃源郷のようにかぐわしい薫りがした。それでつい勝俊は床の中で、これは現実の薫りかと何度も確かめ、「匂う」と漏らした。あまりの鮮烈な香気に何度も何度も「匂う」と呟いた。
 そのまま、朝が来ても、「梅」とは呼ぶ気にならず、「におう」と呼んだ。
 源氏物語に出てくる匂宮の女版というつもりの勝俊に
「金剛力士の仁王像みたいではないですか」
 と梅は嬉しそうでもない様子で、とんと朝餉の膳を勝俊の前に置いた。
(ふふっ、まことに佳き女を殿下に戴いたものよ)
 汁の香と梅の香りを鼻いっぱいに吸い込んで、勝俊は笑っている。
 
 それから日々を重ねても、勝俊は「におう」と呼び続け、「におう御前様」――それが家中での梅の呼び名になった。
 
 
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