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第二十五章 干支の蛇根付
干支の蛇根付
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文禄二年(一五九三年)八月。
岐阜本巣郡根尾村。
せわしない蝉の鳴き声が根尾の山谷を埋める季節。
縁側で多田羅が菊花石を削って蛇の根付細工を作っていると、瓜を盆に載せた妙がやってきた。
とても甘い瓜ですよ、と白い歯を見せて笑ったあと、妙は
「ところで、淀の方様が男児をお生みになったそうですね」
ちょうど多田羅は、蛇の鱗模様を刻んでいるところだったが、手が滑って彫刻刀で親指の腹を突いた。ぷっと血が盛り上がる。
あらと、懐紙を袂から出してあてがう妙から、瓜の香りが強く香る。
多田羅は懇意にしている九能からの書状で、以前から淀の妊娠を知っていた。
八月三日に大坂城二の丸で淀殿が拾(ひろ)いという名の元気な男児を産んだこと。生まれた時、名護屋城にいた秀吉は報せを受けてひどく喜び、すぐに城を発ち、早馬を乗り継いで、わずか十日で大阪城に着き、八月二十二日には赤ん坊を抱いて狂喜乱舞したという話まで知っている。
筆上手な九能の書状からは、狂喜乱舞した秀吉が赤ん坊に対面し、諸大名や豊臣一族の前で「この子の名は『お拾い』じゃ! 拾われ子は運がよい!」
と叫ぶ様子まで、目に浮かぶようだった。
「別に黙っていたわけではないのだ」
指から溢れる血を、懐紙で押さえてくれる妙に、言い訳するように多田羅は言った。
「はい、承知しておりまする」
妙は手を伸ばし、縁に置かれた作りかけの根付を手に取った。
「私に子がなかなか出来ないので気遣ってくださったのでしょう? 礼様はお優しいお方」
根付を手にするしぐさがあどけない。妙はやっと十二歳になったばかりである。
「気にするな。きっとまだ子を生めるほどには体が長けておらぬのだ」
多田羅は、妙の頭を撫でる。
「この根付、よく出来ております。礼様は本当に彫刻細工がお上手。きっと淀の方様もお喜びになりますね」
この蛇の根付が大阪城で生まれた男児のための物と知っていたかと、多田羅はひやりとする。
けれど、妙はまるで違うことを言った。
「礼様。もう一つ、この干支の蛇根付をお作りになっては?」
「なぜだ」
「関白秀次様にもじき、お子が産まれると聞きました。太閤様のお子と関白様のお子と揃いで渡せば、きっと喜ばれましょう」
なるほど、貴人しか所有できない菊花石の根付細工である。関白秀次の子にもきっと喜ばれるだろうと、多田羅は思った。
そうして妙と二人で瓜を食み、さて、秀次の子にも根付をと、菊花石を手にしたとき、秀次に一度も拝謁したことがない多田羅は、蛇の表情をどんなものにするべきかと思案にくれた。
淀の子のための根付は、たやすくできたというのに、豊臣というと猿としか思えない秀吉と片目で下膨れの秀勝の印象が強くてどうもいかんなと、多田羅はしばし手を止めて考え込んだ。
「こんなことなら、斑目に関白の面構えを聞いておけばよかったな」と何気なく言うと
妙がさらりと答えた。
「秀次様の側室はみな、それは美しい女人ばかりだと聞きました」
それはお前が秀吉に側室として召し上げられたときに聞いたのかと言いそうになって、多田羅は慌てて、別の言葉を継いだ。
「美しい女など、俺は妙の顔しか知らん。そんなことを言うと関白の子にやる根付の蛇が、妙の顔になってしまうぞ」
その声音に涙が滲んでいる。
「ぜひ、そうして下さいませ。天下の関白様のお子が持つ根付が、私の顔なら嬉しゅうございます」
どうやら妙は本気らしい。彫刻刀を握って多田羅に渡して、言った。
「妙は、蛇がちゃんと私に似ているか、ここでしっかり見ておりまする」
岐阜本巣郡根尾村。
せわしない蝉の鳴き声が根尾の山谷を埋める季節。
縁側で多田羅が菊花石を削って蛇の根付細工を作っていると、瓜を盆に載せた妙がやってきた。
とても甘い瓜ですよ、と白い歯を見せて笑ったあと、妙は
「ところで、淀の方様が男児をお生みになったそうですね」
ちょうど多田羅は、蛇の鱗模様を刻んでいるところだったが、手が滑って彫刻刀で親指の腹を突いた。ぷっと血が盛り上がる。
あらと、懐紙を袂から出してあてがう妙から、瓜の香りが強く香る。
多田羅は懇意にしている九能からの書状で、以前から淀の妊娠を知っていた。
八月三日に大坂城二の丸で淀殿が拾(ひろ)いという名の元気な男児を産んだこと。生まれた時、名護屋城にいた秀吉は報せを受けてひどく喜び、すぐに城を発ち、早馬を乗り継いで、わずか十日で大阪城に着き、八月二十二日には赤ん坊を抱いて狂喜乱舞したという話まで知っている。
筆上手な九能の書状からは、狂喜乱舞した秀吉が赤ん坊に対面し、諸大名や豊臣一族の前で「この子の名は『お拾い』じゃ! 拾われ子は運がよい!」
と叫ぶ様子まで、目に浮かぶようだった。
「別に黙っていたわけではないのだ」
指から溢れる血を、懐紙で押さえてくれる妙に、言い訳するように多田羅は言った。
「はい、承知しておりまする」
妙は手を伸ばし、縁に置かれた作りかけの根付を手に取った。
「私に子がなかなか出来ないので気遣ってくださったのでしょう? 礼様はお優しいお方」
根付を手にするしぐさがあどけない。妙はやっと十二歳になったばかりである。
「気にするな。きっとまだ子を生めるほどには体が長けておらぬのだ」
多田羅は、妙の頭を撫でる。
「この根付、よく出来ております。礼様は本当に彫刻細工がお上手。きっと淀の方様もお喜びになりますね」
この蛇の根付が大阪城で生まれた男児のための物と知っていたかと、多田羅はひやりとする。
けれど、妙はまるで違うことを言った。
「礼様。もう一つ、この干支の蛇根付をお作りになっては?」
「なぜだ」
「関白秀次様にもじき、お子が産まれると聞きました。太閤様のお子と関白様のお子と揃いで渡せば、きっと喜ばれましょう」
なるほど、貴人しか所有できない菊花石の根付細工である。関白秀次の子にもきっと喜ばれるだろうと、多田羅は思った。
そうして妙と二人で瓜を食み、さて、秀次の子にも根付をと、菊花石を手にしたとき、秀次に一度も拝謁したことがない多田羅は、蛇の表情をどんなものにするべきかと思案にくれた。
淀の子のための根付は、たやすくできたというのに、豊臣というと猿としか思えない秀吉と片目で下膨れの秀勝の印象が強くてどうもいかんなと、多田羅はしばし手を止めて考え込んだ。
「こんなことなら、斑目に関白の面構えを聞いておけばよかったな」と何気なく言うと
妙がさらりと答えた。
「秀次様の側室はみな、それは美しい女人ばかりだと聞きました」
それはお前が秀吉に側室として召し上げられたときに聞いたのかと言いそうになって、多田羅は慌てて、別の言葉を継いだ。
「美しい女など、俺は妙の顔しか知らん。そんなことを言うと関白の子にやる根付の蛇が、妙の顔になってしまうぞ」
その声音に涙が滲んでいる。
「ぜひ、そうして下さいませ。天下の関白様のお子が持つ根付が、私の顔なら嬉しゅうございます」
どうやら妙は本気らしい。彫刻刀を握って多田羅に渡して、言った。
「妙は、蛇がちゃんと私に似ているか、ここでしっかり見ておりまする」
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