交の鳥(こうのとり)

夏目真生夜

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第十五章 九能の一日

九能の一日

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天正十九年(一九五一年)九月二十四日。妙が秀吉の寝所に送られた翌日。

九能の元に、根尾の多田羅から早馬で書状がやってきた。
この書を託された辰木という若い男の困り果てた顔を見なくとも、九能には書状の内容に察しがつく。「関白よ。妙を返せ」というものだろう。
おずおずと辰木が差し出した書状は、驚くことに巻き立て一巻分、ある。
 九能がさらりと紐を解き、畳の上で開いてみると、中身は、このようなことが書かれていた。
「妙がいなければ、俺は生きてはゆけん! 妙を返せ。返さねば、九戸政実と同じように反乱を起こす! 根尾氏の神所城(こうどころじょう)を兵ともども奪い、根尾から大阪まで攻め入る! このこと、秀吉に伝えろ。たとえ仕置き軍が来ようとも、領民すべて殺されようとも、俺は死なぬ! 死んでも死なぬ! 妙を取り戻すまでは死んでも死なぬ!……」 
 思っていたよりも相当、激しいことが書かれている。
 やれやれと九能は瞼を揉む。
三万の南部氏の兵、それに秀次率いる三万五千の仕置き軍、合わせて六万五千の兵に、たった五千の兵で戦った九戸政実を引き合いに出すとは、多田羅はよほど戦に自信があるらしい。九戸の兵は五千で、善戦どころか互角に渡り合っている。その最期も籠城で追い詰められではなく、秀次の偽の降伏勧告に騙されての斬首である。
 何より多田羅は、九戸と違い、絶対に降伏も投降もしないだろう。
懇意にしている班目も
「あの方は勇猛果敢なだけでなく、あれで意外と頭もよく、兵の差配も巧みであられる。根尾の山奥で引っ込んでいるのはまことに惜しいもの」
などと、たびたび口にしていたものだ。
さて、どうしたものよ。
辰木が、考え込んでいる九能の袖を引いた。
「手前は、書状を九能様に渡したら『ここで腹を切って死に、恨みを込めた首を関白に見せてやれ』と仰せつかっておりまする」
「そのようなことは、せずともよい」
 九能は穏やかに首を振ったが、内心では多田羅に感心していた。
 自分が、早百合姫を亡くした時、これほどの熱が持てただろうか――。
とふと思ったのである。
 佐々成政の命に従い、早百合が殺されるのをただただ見ていた。自分がかばえば、さらに不貞を疑われ、姫の名誉が汚されると耐えるしかできなかった。
いや、違う。多田羅の書状、荒れ狂う嫉妬を見て、たった今、気づいた
 本当は成政に髪をつかまれ、早百合が神通川にひきずられていくあの時、自分は早百合の竹沢との不貞を疑っていたのだ。そう、主の成政と同じように。
 くんっと辰木が再び、九能の袖を引っ張った。
「あの……。手ぶらで帰っても、礼様に私は斬られるだけです」 
「そうか。ならば今、しばらく城内で待たれよ。多田羅殿がこの大阪城、関白秀吉公に仕えられるよう、はかってみよう」
「妙様を根尾に返すのではなく、礼様の方を大阪城に連れてくるということですか?」
 辰木は、わけがわからず目をしばたたいている。
「この件は万事、私に任せてくれ」
 九能は、ふっと目を落とし、もう一度、床に広がっている多田羅の書状に目をやった。
「妙を取り戻すまでは死んでも死なぬ」
 紙を破かんばかりの荒い筆が、のたうっている。 

辰木を部屋に残して、九能は、一人で厨に向かう。腹に策がある。
厨には懇意にしている淀の侍女、お夏がいた。境の商人の娘で、父の意向で奥にあがった女だ。一度だけ秀吉の手がついて、そのまま城内で淀の侍女になり、飼われている。ようは捨て女の一人である。
「あら、九能様」
今年、十九になるお夏は明るい。
「お夏殿、息災か」
「はい、お陰様で」
 いつもお夏は、淀の居室で起こるさまざまなことを九能に話してくれる。「私、まるで女透波(おなごのすっぱ)でございますわね」などと軽口を叩くが、その実、ひそかに九能のことを好いており、彼が喜ぶことならなんでもしたいと思っているのだ。
「淀の方様は大融寺に参籠されていて、おりませぬよ」
「いや、今日はそなたに一つ、尋ねたいことがある」
「何でございましょう。あっ、少々お待ちください」
 お夏は、しゃがみこんで厨の竈に薪をくべる。パチパチと火が跳ね、お夏の顔を赤く照らしている。竈の上でくつくつと鍋が音を立て、芋煮の匂いが厨を包んでいる。
九能もお夏の横にそっとかがみ、人には聞かせられぬ話だ、とお夏の形のいい耳に唇を寄せた。
「そなたに、殿下のお手がついたのはいつだ」
え、とお夏はびくっと肩を上下させた。
「何歳の時かと聞いている」
 催促され、真っ赤になってお夏は、九能の鬢の濃い耳元に口を寄せた。
「……十八の時でございます」
「奥に上がったのはいくつの時だ?」
「十三歳でございます」
「もう一つ、聞きたい。此度、殿下が本巣の根尾から召し上げた女のこと、奥ではどんな噂になっている?」
「古参の女房の方たちは『また城内に捨て女が増える』と顔をしかめていらっしゃいます」
「それだけか?」
お夏は少し頬を歪めて言った。
「『夏のような子どもの世話はしとうない』とも、みな口にしております」
 九能はそのまま立ち上がり、振り向きもせず厨を出て行った。
「それだけでよいのですか?」
とお夏が後を追いかけたが、聞いていない。

内心で、九能はやはりと思っている。
お夏の話を聞き、今、十歳の妙には、おそらく数年は秀吉の手がつかないだろうと確信した。
もともと秀吉は、幼い女を好まない。女の処女性よりも美貌を圧倒的に重視した。美しく教養がある女性と聞けば、寡婦だろうと、家臣の妻女だろうと床に連れ込もうとしたが、年齢が足りず、体が長けていない者は、城に入れることを待ったほどである。
現に前田利家の娘、加賀殿(お麻阿)は側室になったのは十四歳だったが、実際に加賀から京に上ったのは十五歳になってからのことだ。淀を十八で側室にしたのも、当時としては晩婚となる。
 妙の召し上げも体目当てではなく、多田羅を苦しめるためと、九能には察しがついた。
(殿下も困ったお方だ)と思うが、これも天下人の差配だ。
多田羅には「妙殿の体に何一つ害はない。殿下が興を失うまで、しばらく待て」と説き、班目、あるいは自分のもとに仕えさせ、夫婦暮らしはできなくとも妙のそばにいさせてやるよう手を回してやろう。
自分の居室に向かって廊下を歩く間に、九能はそこまで決めてしまっていた。
多田羅の書状にあった「死んでも死なぬ」の言葉が、九能の胸でやけに渦巻いている。
多田羅が本巣の城に立てこもって、鉄砲や刀を手に、数万の豊臣仕置き軍と戦っている様を思うと、なにやら笑いがこみあげて止まらないのだ。それでいて、多田羅が斬り死にするところも、鉄砲で撃たれるところも、切腹するところもまるで想像がつかない。
 こうなればもう、このいっそ大阪に呼んで、あの男の命運をそばでたっぷり見物するが面白いと、九能は笑いをかみ殺した。


と――居室の前に珍しい客がいた。大蔵卿局だ。白髪交じりの髪、たるんだ顎が廊下の暗がりの中で目立って見えた。
「おお、九能。そなたに頼みがあってまいりました」
 打掛から伸びた手が、すでに襖の取っ手にかかっている。
(困ったな)
部屋の中には辰木がいる。中に招じ入れるわけにはいかず、九能は
「書院で伺いましょう」
と大蔵卿局の先に立って歩きだした。
「話はすぐ済む」
その袖をつかまれたが、九能は構わず歩く。大蔵卿局のことだ、どんな政治臭い話が出るかわからない。
 書簡や綴じ本のひしめく暗い書院に入ると、さっそくとばかりに大蔵卿局は切り出した。
「昨日の伽役をした妙という童、あれをしばらくそなたのところで預かってほしいのです」
「奥で、侍女として使われるのではないのですか?」
「あの童は、二月(ふたつき)ほど城内にとどめおいてから、根尾に送り返せというのが殿下の御達しです」
「なぜ、そのようなことをなさるのです?」
「知りませぬ。とにかく殿下がそう仰せになっているのです。あとで、童はそちらの部屋に連れて行かせます、九能、頼みましたよ!」
 やれやれ、これで荷を下ろしたわという顔をして大蔵卿局は書院を出ようとする。慌てたのは九能だ。
「お待ちくだされ。某は独り者ゆえ、いかにまだ十歳といえども、人の奥方と共住みはできませぬ!」
「なんじゃ、そなた、その齢でまだ独りか。ならば、侍女の誰ぞを妻にして、それに世話をさせればよい。そのこと、私から淀様にお頼みして殿下に申し上げよう」
(このお方は、人を人とも思わぬか。妙殿の面倒を見させるために私に夫婦になれとは、まるで犬猫のそれではないか……)
 しかし、大蔵卿局のような女には何を言っても通じまい。九能はその場に平伏した。
「私のことなどで、御台様のお手を煩わせるのはもったいのうございます。妙殿の件は承知いたしました。責任をもってお預かりいたしまする。殿下、御台様、並びに豊臣のおんために」
「おお、それでこそ九能じゃ。頼みましたぞ。あとで治長が、例の童をそなたのところへ連れてゆきます。よく面倒を見るように」
 おほほと口元に袖をあてて大蔵卿局は笑っている。
九能は治長の名前が出たことで、余計に不審を深めた。
 此度の妙殿の処置、豊臣家にとって何か裏がある――と。


大蔵卿局と別れたあと、九能は白木の廊下を駆けるようにして居室に飛び込んだ。こうなった以上、一刻も早く辰木を根尾に送り返してしまわねばなるまい。
もし辰木が、この大阪城で多田羅の書状を読み上げ、宣戦布告などすれば逆賊の妻として、妙の首が真っ先に飛ぶ。とにかく辰木を本巣の根尾に帰して、多田羅に反乱の挙兵などせぬようにするのが、今は一番の策だ。
「辰木殿! すまぬが、今すぐここを出て、根尾に帰られよ!」
言いながら、九能は多田羅の書状を丸め、それだけでは安心できぬと、火をつけて香炉で燃やしている。万事、手が早い。
 辰木はぷすぷすと燃える書状を、ぼんやり見ている。
「空手で帰っても、私が礼様に斬られるだけです……」
「わかっておる。策を授ける。屋敷に帰りついたら、このようにせよ」
 その策が、単純だが、ひどく優れている。
「……えええっ」
 九能の話を聞き、辰木は思わず声を上げた。
「……よいな。この策以外に妙殿、はては多田羅家を生かす道はないと思われよ」
 九能はそう言うと、「さあ、早くお支度を」と手甲、脚絆を辰木の胸に押し付けた。


間一髪。
辰木が廊下を渡り、白砂の庭へ走り出て去っていくのを見届けた直後、襖の向こうから「もうし!」
と大野治長の甲高い声がした。
「どうぞ」
と襖を開けると、治長が妙の手をそっと握って立っている。
 その治長の顔がひどく白い。二人並んで手をつないでいる様子は親子のようであるのに、治長は渋面を作っている。
「我が母から聞いておるだろう。この娘を頼む。丁重に扱えとの殿下の仰せである」
「はっ。承知いたした」
 それだけで中にも入らず、治長はぱっと妙の手を放し、「ゆけ」と短く言うと、くるりと踵を返した。
(母上殿に似て、まるで犬猫の扱いを平然となさる)と内心、思ったが、妙を安心させてやろうと九能は満面の笑顔を作った。
「お久しぶりでござるな、妙殿」
「九能様。お久しゅうございます」
リンと鳴る鈴の音のような声で妙は挨拶した。



数日が過ぎた。
 九能は自分の居室を妙に明け渡して、毎夜、納戸で寝ている。いかにも律儀な九能らしい。
 妙は、九能から別に屋敷があるといい聞かされ、素直に信じ込んでいる。
妙にとって、九能は心優しい師となった。多田羅のことも「万事、うまくゆくようにしてある。心配しなくていい」と穏やかな口調で請け負ってくれた。
ともすれば沈みがちな妙の心も、見聞見識の広い九能の話を聞いていると、自然と癒されるようだった。
 今、妙は、九能について書の手習いをしていた。
「朝日さす、夕日輝く、鍬崎に、七つ結び、七結び、黄金いっぱい、光り輝く」
 以前、九能が教えてくれた里歌を妙は唇に乗せ、筆を動かした。
「九能様。この歌はどういう意味なのですか?」
 九能はちょっと困った顔をした。さすがに佐々の埋蔵金の在処を示す歌とは言えない。
「九能様?」
 うつむいて筆を握っていた妙は、筆を置き、右手で髪をかき上げて耳にかけた。そのとき九能の口から、あ! と声が漏れた。
妙を預けに来た時の大野治長の暗い顔、それから治長の妻女の話が蘇った。妙について、ある想像が頭を駆け巡る。
いや、しかし、まさか……。それはあるまい。
そう否定しながら、九能は妙の顔に、ふと早百合を思い出した。
「この歌は、以前、佐々家に仕えていた折に、成政様の側室の早百合様に頼まれて作ったものでしてな」
「そうなのですね」
「ええ。佐々家は越中で、金山をいくつも掘りあてていたのですよ。それにちなんで佐々の金色に輝く行く末を歌っております。まばゆく朝日がさし、沈むはずの夕日も沈まず照り輝く、鍬崎山の豊かな景色。金山で得た金が七つの蔵にいっぱいになり、それがまた七つの処(ところ)に作られ、さらにそれが増えるようにという意味です。七つ結びというのは、七つのものが七つかけ合わさるという意味です」
「では、蔵は全部で、四九になるのですね」
 さっと計算してしまうあたり、妙の賢さが知れた。
「そうです。けれど今は佐々の蔵ではなくて、豊臣の蔵が黄金でいっぱいですな」
「そうでございますね。蔵には黄金、奥にはお綺麗な女性(にょしょう)もいっぱい……」
 悲しそうな顔をする妙に九能は胸を突かれた。
「妙様はいずれ、多田羅殿のいる岐阜の根尾に戻れるそうです。心配は要りませぬ」
「そうですね。でもいずれ、私は……」
 妙がふいに顔を両手で覆って、泣き出した。
「どうなされた?」
「……九能様。どうか私にお約束してください」
「何を?」
「……いつか私が、本物の桜の鳥になって天に召されたそのとき、礼様が私の後を追ったりしないよう、九能様が諫めてください。九能様なら此度のように、きっと上手に収めてくださる気がするのです。どうかお願いでございます」
 九能のすぐそばで妙が泣いている。その体温の熱さがほのほのと鼻をくすぐる。
「桜の鳥になって天に召されるとは、いったいどんな意味ですかな」
「今は言えません。私からの謎かけです。そのときがくれば、きっとわかります」
 泣いて乱れた髪を指で梳き、妙が耳に髪をかけた。
「僭越ながら、先刻から想像している答えが一つ、ありまする。答えても構いませぬか?」
「……ええ」
九能は、妙を窺うように、その答えを口にした。
 その答えに妙は目を見開く。
「……当たりです」
そう言って、妙はかすかに頷いた。
「……ですから、どうかそのときは礼様のこと、どうかよろしくお願いいたします」
声がふるふると震えていた。
九能は優しく妙の両肩に手を置いていった。
「この九能に万事、お任せなされ」
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