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第十二章 大阪城の捨て女たち
大阪城の捨て女たち
しおりを挟む今頃、妙はどうしているだろうか――。
大阪城内、初めて妙と夫婦になった部屋、蝉の間で、一人、多田羅は過ごしている。
椿の木が植えられた中壺を眺めていると、隣に妙がいるような気持になってくる。
妙とともに見た時は冬で、椿の花が幾つも咲いており、「いい匂い」と妙を喜ばせたものだった。
ここでは、生け捕りにして持ってきた鶴を世話するだけの日々が続いている。
鶴松の死によって天下は大きく動いているが、多田羅は一人、そこから切り離されたように、大阪城内で飼われていた。
そんなある日、多田羅は大野治長と廊下ですれ違った。
忙しいのか、治長の足さばきが早い。すれ違った瞬間、睨むような眼がこちらを見た。
斑目や九能から聞かされた話によれば、死んだ鶴松の父親はこの治長だという噂がある。
その噂も大阪城内だけでなく、秀吉が種なしなのは、周知の事実として天下に受け入れられていた。数多いる側室の中で、淀だけが子を産んだのだから、当然、子種は別の男だろうと、世間の誰もが思っている。
その話を聞いたとき多田羅は、なるほど、治長の母である大蔵卿局はずっと淀の側に仕えている。母の部屋を訪ねるという名目で、大蔵卿局の部屋で淀と治長の秘事が行われたのかもしれないなと思った。多田羅は、鶴松の死がどうでもいいように、その父親、すなわち子種の主にも興味がない。
今、自分を睨んでいるこの男が、あの金属を打ったような不思議な声音の淀の方と寝たのかとぼんやり見返すと、意外なことを治長が言った。
「貴様。淀の方様に菊花石を献上して取り入ったのか? 小賢しい。あんなものは所詮、野山の石ではないか」
多田羅は、首を振り、廊下から庭先につながれている鶴を指差した。
「何のことを言われているのか、まるでわからんな。菊花石なんぞ持ってきてはおらん。連れてきたのはあの鶴だけだ。此度、ここにきて以来、淀の方様にはお目通りもしていない。そもそも俺は淀の方様の顔も知らん。声を聞いたことがあるだけだ」
多田羅は正直に言った。
「嘘であろう?」
そう迫る治長は、なまじ顔の造作がよいだけに眉が吊り上がると女のような鬼面になった。ひるまず多田羅は言葉を重ねた。
「鶴を大阪に連れてきた。俺の用はもう済んだはずだ。どうか淀の方様に申し上げてくれ。
俺はいつまでここにいればいいのだ。一刻も早く根尾にいる妻の元に帰りたいのだ!」
「それはまことに、心からの言葉か?」
そう治長が笑ったのを見て、多田羅はいきり立った。
「弄(なぶ)るか? 女の元に帰りたいと思う、俺の何がおかしい? 貴殿には妻子がおらぬのか」
ところが。
「おる。男児が昨日生まれたばかりだ」
と治長からまともな答えが返ってきて、多田羅の気がそがれた。
「それはめでたいことでござるな」
と呟いて後の言葉が出ない。
どうもこの男とは話がうまくかみ合わないな、と多田羅は早く治長の前から立ち去りたいのだが、身内のことを話したせいで治長の方に妙な勢いがついていた。
治長は、ところで、と言葉を続けた。
「淀の方様は、今年二十歳。対して関白殿下は五十三歳になられる」
それほどまでに歳の差があるのか、と思いながら多田羅は頷いた。
すると治長は、すっと多田羅のそばに顔を寄せ、その耳元で囁いた。
「殿下の女好き、実はある好みがある。わかるか、多田羅殿?」
「淀の方様をはじめ、貴種好み、世に名だたる美姫好みであろう?」
秀吉の側室には、織田と浅井の血を受けた淀。名門京極氏の娘、龍子(たつこ)。将軍に連なる血として足利頼純(あしかがよりずみ)の娘、鳩子(はとこ)らがいる。みな、その美貌を天下に喧伝されて久しい女たちばかりである。
さらに淀がそうであったように、攻め滅ぼした国や服従させた家の美姫を側室に召し上げることも多かった。小田原城攻めで最後まで抗戦抵抗した成田氏長の娘、甲斐姫(かいひめ)。政権を手にした後は蒲生氏郷の妹、とら。それに信長の娘、春(はる)を人質として側室にしている。最近、側室にしたのは前田利家の三女の麻阿(まあ)である。
それ以外にも秀吉は美しいと聞けば、家臣、他家の嫁でも平気で召し上げた。犯し、あとは城内に放り出す。
大阪城の大奥にはそのような女どもが山ほどいた。そんな捨て女たちは、正室のおねや他の側室の侍女になったり、大政所、仲(なか)の百姓仕事を手伝うなどして城内で飼われている。
大阪城内に留まる間に、多田羅はそんなことも知るようになっていた。
しかし治長は白い顔を横に振って、一段、声をひそめた。
「それだけではない。まだ理由がある。殿下は子だくさんの血を継ぐ女を好んで集めておる」
子だくさんの血? 多田羅の問いに治長は答えた。
「血筋よく美貌と才覚に恵まれ、かつ多く子を産んだ女の娘を側室として集めているのだ」
先に挙げた側室たちはみな、多産の血筋であった。
淀殿の母、お市の方は浅井長政との間に六人の子を設けている。麻阿の母、まつは利家との間に十一人、蒲生とらの母は九人。京極龍子の母は九人。彼女たちはみな歴とした家柄の娘で正室だった。
いかに一人の女が多産であったとはいえ、衛生状況はよくなく、産褥で死ぬ者も多いこの時代において、彼女たちのこの出産数は驚くべきものであった。
治長からそれを聞かされた多田羅は、血縁者の少ない秀吉にとって側室が子をよく産む血筋かどうかは、非常に大きな関心事なのだろうと理解した。
さらに治長は続けた。
「此度、鶴松様が亡くなった。今、関白殿下は淀の方様に一縷の望みを賭けておいでだ」
「九能殿から聞いた話だが、前田家から新しい側室が来たのだろう? ほかにも数多のご側室がいるはずだ」
「このほど側室になった麻阿姫は前田家にちなんで加賀殿(かがどの)と呼ばれ、珍重されてはいるが、ご病弱で大阪城よりも城下の前田屋敷にいる方が多い。京極殿(龍子)はもう四十を超えられ、お褥すべりをしておる。三条殿(とら)は、側室になって五年になるが、いっこうに子を孕む気配がない。淀の方様が子を産むことだけが大阪城にいる者のみなの夢なのだ」
うっとりと目を閉じるようにそう呟く治長から、多田羅は目を逸らした。
その多田羅の手を治長は取り、強く握った。
「であるから、多田羅殿! お主が頼みなのだ。どうか鶴汁を淀の方様に献上し、お健やかになっていただき、優れた男児を淀の方様がお産みになるよう、力を尽くしてくれ」
そんなのは知らぬ、鶴汁を献上して、淀の方に子ができなければ、また俺のせいだと、秀吉は騒ぐのであろうと、多田羅は言ってやりたい。
「淀の方様がいなければ、そなたの妻女は処刑されるはずだったのだ」
「俺の妙が、何をしたというのだ」
「鶴松様が亡くなると、関白殿下のお怒り、それは凄まじく、すぐに鶴松の鶴を半分奪ったかどで、妙殿を捕まえて殺せとお命じになったのだ」
「妙は関係ないであろう、秀吉が勝手に俺から鶴を半分召し上げたのではないか。こんなことは間違っているとお前は思わないのか?」
治長は、端正な顔を歪めて、薄く笑った。
「妻女とともに死にたいのなら、そう殿下に言えばよい。淀の方様が『多田羅の鶴汁が飲みたい』と進言してくれたからこそ、お主の妻女は生かされている。それがまことよ。お前が天下を取らない限り、殿下に逆らうことも、殿下から何かを奪うことも叶わないのだ」
そう言い捨てると、治長は去っていった。
その日、多田羅は、九能の居室を訪れ、嫌な話を聞いた。
秀吉が犯した女の中には、治長の正室、お幸(こう)も含まれていたというのである。
なんでも、大阪城内に「鶴松の実の父親は治長だ」という噂がたち、それを知った秀吉は怒りに任せて、お幸を犯し、のみならずその小指を片方、切り落としたのだという。
治長の整った顔と、そこに染みついた神経質さを思い返し、
「妻女のなくなった小指を見る度に、治長は秀吉の悪行とその力を思い返すわけだな。それが秀吉の望みか」
顔をしかめる多田羅に、九能は言った。
「それほどまでに、関白殿下は嫉妬深いお方なのだ」と。
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