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第十章 大阪の憑き物
大阪の憑き物
しおりを挟む根尾に戻った多田羅と妙に、しばらく平穏な日々が続いた。昼は領地の田畑に出、夜は妙を床に入れ、あれこれと話し、睦み合うという充実した腑抜けのひと時であった。
ただ、一つだけ小さな異変があった。
多田羅と妙が大阪城から戻ってきて、しばらくたった頃、百姓の弥兵衛が何者かに殺されて死んだのである。弥兵衛は妙を拾ったというその畑で、一刀のもとに斬り殺されていた。
それは不思議な死であった。
先だって秀吉が行った刀狩りにより、百姓らは刀を持っていない。根尾では特に戦もなく、無礼討ちにするような者もいない。根尾の付近で刀を所有している家といえば多田羅家くらいである。多田羅は領主として、屋敷の蔵の中の刀をすべて検めたが、どの刀にも人を斬ったような痕跡は見当たらなかった。
死んだ弥兵衛の家の軒先には、抹茶の粉がわずかにこぼれていた。
近所で聞きこんでみると、弥兵衛が殺される前夜、大阪から来たという絹の上等な小袖を身に着けた男が、大垣の赤坂(あかさか)の寺に泊まったという話が出た。
大阪といえば関白に縁がある者かとも思い、多田羅は改めて気味の悪い思いがしたが、
誰が弥兵衛を殺したかは結局、わからないままであった。
ごく簡素にとりおこなわれた弥兵衛の葬儀の日、多田羅は弥兵衛の妻女、ふちに声をかけた。
多田羅の姿に、
「あら!」
とふちは驚くような声を上げ、すぐに愛おし気な目で尋ねた。
「妙様は?」
弥兵衛の死がよほど心にこたえたのか、妙は、熱を出して屋敷で床についている。
多田羅がそう伝えると、妙が「かか様」と呼び親しむふちは、ひどく残念そうな顔をした。
ふちは、三十の坂を幾つか超えた年頃で、弥兵衛との間には子がない。その分、妙への愛情は深く、多田羅の屋敷に妙が引き取られてからも、その仲の良さは実の親子と変わらぬものがあった。
夫の弥兵衛を失い、痩せこけた顔に抹香と不幸が染みついているふちに向かって、多田羅は言った。
「家の中にある器を全部、出して見せてくれないか」
ふちは不思議そうな顔をしたが、黙って家中の器を出して縁側に並べた。多田羅は一つ一つ手に取って確かめてみたが、どれも粗末な百姓茶碗である。
「これで全てか?」
ふちは頷いた。
「弥兵衛が殺されてからなくなったものはないか?」
「ありません」
多田羅は、失望して肩を落とした。
こぼれていた抹茶から、この家には何か名物の茶器でも隠されていたのではないかと考えたのである。そしてその茶器の出どころは、妙の生家につながっているのではと期待もしていた。多田羅は重ねて尋ねた。
「まことのことを申せ。赤ん坊の妙が畑に捨てられていた時、おくるみと懐紙以外にも、まだ他にそばに何かあったのではないか? 茶器でなくともよい。例えば、薬篭、書状、装飾品、家紋や家名の知れるものだ」
ふちは一瞬目を泳がせると、その目を伏せ、ほつれた後れ髪をいじりながら、
「ありません」
と首を振った。
その様子に嘘だと、多田羅は思った。
思い返してみると、五歳の妙を手元に引き取る時から、ふちと弥兵衛夫婦の様子はおかしかった。
その際も弥兵衛は、妙を手放したがらず、ずいぶんと抵抗したものだった。一方のふちは改めてよく見てみると百姓女にしては、身ごなしや所作に、妙な細やかさがあった。
そして、今のふちの態度をみると、夫の弥兵衛が、誰に何の咎で斬り殺されたのかも知っているのではという気がした。
「お前は何を隠している?」
多田羅の怒号に、ふちは「何も隠しておりませぬ」と首を振る。その言葉遣いがすでに百姓のそれではない。
「嘘だろう! お前はどこからやってきたのだ? 弥兵衛は、武家に殺されるような罪を犯した罪人なのか! お前もその咎を負っているのか?」
多田羅はふちの肩をつかんで揺さぶった。
「おやめ下さい」
とふちが首を振って抵抗するのにも、多田羅は容赦しなかった。
「弥兵衛の死は、妙にも関わりがあるのか、そうなのか?」
皮肉なことに、多田羅が大阪城で覚えてきたのは、恫喝の手練手管であった。
やがて、ふちが口を開いた。
「私は、礼様のお味方でございます」
ふちは疲れ切った体を、多田羅の胸に倒すようにして囁いた。
「赤ん坊だった妙様のおそばには血の付いた小さな刀が添えられていました」
「銘は? なんと書いてあった」
ふちは首を振り、漢字は読めませんと呟く。
「では紋は? どんな家紋がついていたか、言ってくれ」
「桔梗、桔梗の花が刀袋に咲いておりました」
多田羅は愕然として、その場に崩れ折れた。
桔梗といえば明智光秀の家紋だ。妙は、明智家に連なる血筋の娘だったか……。
合点の中で、多田羅は叫んだ。
「その刀は今、どこにある!」
「弥兵衛が市で売り払いました」
くそっ、多田羅はふちを突き飛ばした。地面に突き転ばされた女の着物の裾が割れ、白い腿があらわになった。ふちがすがるような目で多田羅を見上げた。
「どこで、どんな行商人に売ったのだ!」
「さあ? どこの者だったのか」
ふちは、それきり口を閉じた。
養父、弥兵衛の死は、しばらくの間、妙を塞ぎこませた。
うつむく横顔、長いまつ毛に影が落ちている。
そんな憂いもまた女ぶりを添えていいと思いながらも、妙を慰めてやりたくて多田羅は必死だ。
「こういう時は、歌だ。歌だ。新古今和歌集がよいか、伊勢物語がよいか? なあ、妙」
しょげかえる妙の前に、ぬんと文机を出してくる。
「ほら。九能殿が、妙殿は御息災かと書状をくれたぞ」
和歌の指南をするという約束を違えず、大阪の九能はまめに書状を寄こしてくれる。それを手本に、多田羅と妙は和歌を書き写す。
禅宗の寺で育った九能は、和歌にも漢字にも知悉しており、よい師となった。
半泣きだった妙も多田羅に促され、筆を手にすると、
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
などと和歌を唇に載せ、そのあと一息にすらすらと書き写した。多田羅も妙も、九能の教えを素直に吸収する、よき弟子ぶりを発揮している。
また、妙は九能の書状の中に興を惹かれる漢字があると、
「礼様。この伊勢物語の渚の院の段に『山崎のあなた』と出てまいります。この『崎』という字はどういう意味があるのですか?」
などと口にした。
「おお、山がつくからには山のてっぺんのことか? 山の端のことか? 俺にもわからん。よし、九能殿に俺が書状で尋ねてやろう」
「うれしゅうございます。その書状には、妙は『桜』という文字が一等好きだとお書き添えくださいませ」
「そうか。俺も桜は好きな字だぞ。だが『妙』の字がもっと好きじゃ」
妙の体を後ろから抱きしめる。その髪の分け目に唇をつけ、すんと匂いを嗅ぐ。
抱かれながら妙が呟く。
「『桜』も『妙』も『女』の文字がついていて、おそろいでございますね……」
明智の血を継ぐ姫だと思うようになってから、多田羅の妙への思いは、さらにいや増した。
このように教養を与えるのも、当世きっての文化人と言われた明智光秀の名に恥じぬ姫にせねばという思いがあるからだ。
光秀の娘には、荒木村次に嫁いだが離縁となり、後に光秀の従弟で名将と名高い明智秀満に再嫁した巴(ともえ)や細川忠興に嫁いだ珠(洗礼名:ガラシャ)がいる。どちらもその美貌と知性を誉めそやされ、秀吉もずいぶん執心していたという。
光秀の娘でなく、例えば秀満の娘であったとしても、やはりその血は優れているであろうと多田羅はさまざまに想像し、妙の体と魂を高貴なものとして崇めるようになった。
そうやって多田羅が心をこめ、手をかけて体を重ねる度に、妙は多田羅の体に馴れ、ゆっくりとゆっくりと花がほころんでいくように、肌も中も甘く柔らかくしなるようになっていった。
時折、あ行の音で、小さく声を上げるようにもなった。
そっけない子どものものだった乳首が少しずつ赤みを帯び、胸がふくらんでいくにつれて、多田羅は感動するように口にする。
「そのうち、明智のガラシャ様の再来と言われるようになるぞ」
「明智の姫だなんてそんな証の品はございませぬ。私は百姓の子」
と妙は笑って、取り合わない。
それでも大阪城でのことは妙に何かを悟らせたのか、閨で度々、多田羅にこう言った。
「もしも私がいなくなっても、礼様は死んではだめ。死なないと約束して」
多田羅は妙の目をのぞき込む。
「俺より先に死ぬのか、お前はどこかに行ってしまうのか?」
「ううん」
妙は頭(かぶり)を振って言う。
「礼様から死なないというお約束が聞きたいだけ」
それから少し困った顔をして
「私のことになると、礼様はすぐに死を覚悟してしまう」
「そんなことは当たり前だ」
そう言い切る多田羅に妙はため息をついて
「約束してくださる?」
と小指を絡めてくる。そんな妙は、何かに怯える小鳥のように多田羅には見えた。
そんな風に数日が過ぎ、天正十九年(一五九一年)その年、二月最後の日、千利休が切腹を賜った。
その死の理由は、秀吉から側室にと望まれた娘のお吟(ぎん)を差し出さなかったからだと巷では噂された。
政権に深くかかわった利休ほどの高弟でも、簡単に腹を切らされる。そんな世に多田羅はつくづく自分と妙は運がよかったのだと、背に冷たい汗をかいたのだった。
三月になると転封によって、岐阜城城主が池田輝政から、秀吉の甥、豊臣秀勝に替わった。
以後、多田羅家は、池田輝政の配下から秀勝配下となったが、多田羅は、さほど関心がわかない。
岐阜城に登城し、秀勝その人に謁見して挨拶をした。それだけのことであった。
秀勝――左目が病で潰れ隻眼、若干二十一歳の小男である。ぼってりと膨れた唇が常に不満を抱えて、もごもごと動いている。
謁見した間で、秀勝は多田羅に向かって言った。
「叔父上に逆らって、鶴を半分こにしたそうだな。お前は偉いやつだ」
学がなく頭の悪い秀勝は、うまく言葉にできなかったが、多田羅のことを誉めたつもりでいる。
百姓だった両親から生まれ、秀吉の立身出世のとばっちりを受けて、あれよあれよと武士にさせられ、戦に駆り出され、城やら位やら茶道具を与えられ、こんなところに座っている自分には叔父の秀吉に逆らうなどという発想すらなかった。いや、国中の諸大名にもそんなことをやってのけるやつはいないだろうと思っていた。
それを自分とさほど年も変わらない目の前の多田羅がやってのけたことに、彼は単純に驚いていた。
誉められた多田羅は、黙って平伏している。
その堂々とした男ぶりに、秀勝はまた感心したように言った。
「多田羅の自慢の妻女のこと、この岐阜にまで話が届いておる。ぜひ一度会ってみたいものだな」
多田羅は一言も喋らなかった。
(豊臣と名のつく者にはもう二度と関わりたくないわ)が彼の偽らざる本心だった。
そんな多田羅に、新しい主となった秀勝はつまらなそうな顔で言った。
「お前には何か、奇妙な憑き物がついているようだな」
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