身勝手な恋心

日暮 千疾

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友達の貴女と知らない貴方

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 空の大部分が闇に覆われ、赤く染まる箇所があと少し。そんないつもの夕暮れ終わり、商いをする店の外にポツリポツリと灯が点き、賑やかな夜の始まりを知らせる。


 いつものようにふらりと友人のベーネがマルガの仕事先である酒場に飲みに来た。

 落ち着いて品のある紅色の、一目で仕立てが良いと分かる清楚なドレスに身を包み。目を引く綺麗な金の髪を結い上げ、その風体に見合う美しい淑女の微笑を浮かべたままベーネは仕事上がりの客たちに料理を運んでいた友人のマルガが働くこの酒場に、来店の挨拶とついでに注文を告げた。

 マルガがベーネから受けた注文の品を、彼女がいつも好んで座るカウンター席に持っていく頃には、ベーネの両隣には馴染みの客がひしめき合い、誰かから渡された酒がなみなみと注がれたグラスを周囲と打ち合い、それを合図にのけ反った白い首を長い詰襟から少しだけ無防備に曝して空にしている最中。

 ごくりごくりと、本来ならば淑女が出してはならない音を立て、顔ほどの長さがある筒状のグラスに入った酒を飲み干していく。周囲の男達はベーネの飲みっぷりを眺める者、少しだけ見える白い首に目が引かれる者、二つに分かれるが後者の方が圧倒的に多い。そんな男達とベーネをもはや呆れた眼差しで眺めていたマルガは、グラスから唇を離しとても吐息とは思えない満足げな声を出すベーネの座るカウンターに注文されたグラスを置いて溜息を一つ溢すと、次から次へと増える仕事にマルガは足を向けた。


「マールガ、もう上がりでしょ?」

 そうベーネが飲みかけのグラスを弄りながら機嫌良さそうにマルガに声をかけた時には、彼女を取り巻いていた男達は居らず、賑わいを見せていた店内はしんと静まり返っている。数人残っている客は居るが皆一様に可愛らしいとは少し言い難い寝息を立てている。

「あとは寝てるお客さんを帰して、おしまい」

 ちょっと待っててね、とベーネに答えながらマルガは寝入った客一人一人に声をかけ始め、ようやく最後の一人が店の扉を出た。これでマルガの今日一日の仕事がやっと終わりを迎える。ベーネはそれを見とめると、椅子を上げている店主に声をかけた。

「おやっさーん。今日はとことんマルガと飲みたいから、これ、先に渡しておくわ」

 カウンターにこつりと小さな音を立てて置かれたのは、ここのような市井の酒場ではお目にかかれない銀の硬貨。どれだけ飲むつもりだと呆れる店主に、ベーネは大輪の華が咲いた様な笑顔で、飲ませすぎてマルガを寝坊させるかもしれないから、その迷惑料よ。と言ってのけた。一晩中飲ませると宣言されたマルガはただ苦笑を浮かべ、店の扉を施錠した。



 カウンターの中にマルガが座り、外にベーネ。マルガはさっそく仕事上がりの一杯を喉に通す。それを見計らってかベーネが口を開く。

「唯一心を偽らないで居られる私の親友、マルガ」
「ちょっ、なに? ここは劇場じゃないわよ?」

 いきなり仰々しい物言いをしだすベーネに、マルガは危うく口に含んだ物を噴き出しそうになったがなんとか耐え、劇場を例えに気恥ずかしい台詞を誤魔化した。
 マルガのその返事に、ベーネは心外だと言わんばかりに秀麗な眉を吊り上げるだけの抗議でとどめ、簡潔に本題を告げる。

「少し、いえ。当分ここに来れなくなったわ」

 ベーネの告げる言葉にマルガは、ついに来たか、と思う。別に理由に見当が付いている訳ではなく、お互いの立場を考えれば分かる事だった。市井の酒場で働く平民の娘であるマルガと、明らかに貴族だと分かる雲上人のベーネ。友人関係を結ぶこと自体、通常はあり得ない。

「そっか。寂しくなるね」

 その友人関係さえ、ベーネが酒場に来るという一方通行な繋がり。

「ねえ……、それだけ? 親友たる私に、他に言う事はないわけ?」
「答えてくれるなら一杯聞きたい事あるんだけど、無理でしょ?」 

 意地の悪い返しだとマルガも分かってはいるが、責めるようなベーネの言葉に少なからず腹が立つ。言われた彼女は、それもそうかと納得し、その綺麗な唇を矢継ぎ早に動かし始める。

「まず、当分って言うのは正直いつ帰ってこれるか分からないからよ。厄介な仕事を押し付けられてちゃって、泣く泣く行ってくるしかないの。それが終わるまで帰って来れないし、数ヵ月、数年、全く見通しがつかないのが、もう腹立たしいったらありゃしない」

 マルガが考えていた理由より予想外で、つくづく自分はただの小娘だと、少し悲しくなった。所詮マルガが思い描いていた理由は、市井へのお忍びが発覚したやら、婚姻が決まった位しか浮かばなかったのだ。仕事とは考えもしなかった。それもそうだ、マルガは彼女がなんの仕事を、それどころか仕事をしていること自体、知らない。
 それは果たして親友なのだろうかと浮かびそうになる疑問を振り払い、いつ発つのかとベーネに尋ねた。

 詳しくは教えられない。ただ、明日明後日の話しではないが、準備で忙しなくなるので出立までにマルガに会えるのは今日が最後だ。と、麗しい淑女は言う。

 マルガは何故だか不安に駆られた。自分でも分からず理由がつけられない、強い不安。それはもはや不安と言うより、ある種の確信に近かった。

 もう二度と、ベーネに会うことはない。

 そんな強烈な確信がマルガに一つの決意を固めさせた。


 それから二人、夜更けまで語り合いながら杯を交わした。ベーネより酒に強くないマルガはもっぱら聞き役で、今回の出立に係わるベーネの愚痴に耳を傾けていた。やれ私は嫌だと言ったのに、男臭い連中ばかりで反吐がでるやら、殆どが同行者や待遇に対しての不満ばかりだったが。
 終いには酒に自信があるベーネでも今回ばかりは足が覚束無くなるまで酒に飲まれてしまい、渋々といったマルガに肩を借りて彼女の住み込み部屋で少し休ませてもらう……と言う名目でマルガのベットという安心を手に入れたベーネは嬉々として深酒を再開させたのだった。




 心行くまで語り、なんの心配もなく好きなだけ酒を飲み干したベーネが幸せそうに眠っている。マルガは自身のベッドを占領するベーネを見下ろしていた。その瞳を葛藤で揺らし、一度力強く瞬きをすると迷いを消し、瞳には決意と罪悪感だけが残っているだけだった。

 何かを決心したマルガはベーネのドレスの裾をたくし上げると、本来ならドロワーズを履くべきなのに淑女とは縁がないズボンが現れる。マルガはそれに驚くこともせず、淡々と股部分にあるズボンの留め具を外す。
 途中ベーネが起きるのではと何度も手を止めながらも留め具を外し終わると、マルガは漸く目的のモノと対面を果たすことが出来た。

 緊張からごくりと唾を飲み込むマルガの視線の先には、男の象徴。

 そう、美しい淑女である友人ベーネは本当は男性だ。

 最初ベーネと知り合った時、マルガは全く気が付かなかった。とんでもなく変わった令嬢だと思っていたし、そう接していた。それがいつからだろうか、度々ベーネに心を揺り動かされるようになった。友人としてではなく想い人として。同性だと信じていた当初のマルガは酷く混乱した。友人に、それも美しい女性に自分は恋をしているのか、と。
 自覚してしまった衝撃はあまりに大きく、距離を置こうとしたが急に余所余所しくなった友人に気が付いたベーネはことあるごとにすぐに逃げようとするマルガの手首を捕まえると問いただした。

 その時だ。マルガは小さな、それでいて決定的な違和感を感じた。
 最初は手袋をしたベーネに力強く掴まれた手首から感じる痛み。同じ女の筈なのに自分の手首を掴んでもまだ余裕のある掌の大きさ。肌に食い込んだ指にある独特な癖と節。
 この時は友人といえども身分が違いすぎるからと何とかごまかしたが、それからマルガは違和感というよりも確信に近いものをはっきりさせる為に気付かれぬよう注意深くベーネを観察した。

 友人として近しくなればなる程、マルガの感じた確信が正しかったことを証明していった。
 それにベーネとマルガは飲み友達だ。どうしたって酒が絡み隙ができやすい。そして注意してみればそれは案外分かりやすいほどに示唆していた。酔い過ぎた時に偶に素の声だろう男性的な低い声で話したり、手洗いに立って戻って来た時に手袋をし忘れていたり。決定的だったのが酔いつぶれて何度か部屋で休ませる事も度々あり、その日も同じ様にベッドを貸したがベーネはその夜、終ぞ起きる事はなく。次の朝、彼女の仕立てのいいドレスに不自然な膨らみを見つけたマルガは何故今まで気づかなかったのかと自分に呆れながらもベーネが男性であることを確信した。
 
 だがベーネが男性だと分かっても二人の間は特に何も変わるような事はなかった。得たものは自身から同性愛の疑いを晴らすことができたマルガの精神的安堵くらいだろうか。
 友人として過ごす時間と同じだけマルガの恋心も育っていったが、それはベーネには関係が無い事だ。
 ベーネは今現在に至るまで、マルガに自身の正体を話してはくれなかった。それどころか仕事や生活、どこに住んでるのかさえも語る事はなく、ベーネの口から貴族階級だと伝えられることさえ無かったのだから。
 マルガに求められるのは女性同士としての友人。それも何処の市井にもある酒場の、気軽な飲み友達。

 ならば想いも何もかも伝えず、抱く恋心が優しい思い出に変わるのをただ待っていたのに、今日という日が今まで押し殺して来たマルガの心の蓋を壊した。

 マルガはスカートから下履きだけを外すと、少ない給金を貯め特別な日にだけ使う様にしていた香油を手にベーネの上に馬乗りになった。
 恋焦がれている男に触れたのがこんな時だなんて、とマルガは今にも泣きそうな顔をするも悲しみを耐え、それでも自分勝手な決断を果たそうと手を動かした。





 闇に覆われていた空一面が白く清浄な光で照らされる、そんないつもの朝が平等に全ての人間にやってきた。近隣の住宅から朝の支度をする賑やかな音が一日の始まりを知らせる。

「ベーネ! 朝よ、いい加減起きて!」 

 朝から大きな声を発して遠慮も加減もなくマルガはベーネを起こす。だが昨晩は深酒に次ぐ深酒をしたベーネには堪ったものではなかった。中々きちんと覚醒できないベーネはもう少しと睡眠の延長を弱弱しく訴えて起き上がろうとしないが、マルガのある一言で飛び起きる。

「早く帰らなきゃまずいんじゃないの?」

 お家の人にお忍びがバレちゃうわよ、とマルガが付け足す時にはベーネは慌てて履いた靴の紐と格闘していた。

「マルガ! なんで起こしてくれなかったのよ!」
「昨晩も散々起こして、終いには快くベッドを貸してあげた友人に朝から言うことがそれなの?」

 腕を組んで不機嫌にマルガが言えばベーネは途端に勢いを無くし、暫し逡巡するとぎこちない笑顔でマルガにおはようと挨拶をした。それにマルガは呆れた顔をしながらも同じようにおはよと返す。

 余程慌てているのか低い声でヤバいヤバいと焦りを溢しながらベーネは昨晩の酔いを感じさせない身のこなしでマルガの部屋から飛び出し酒場から出ていく。そのまま凄い速度で路地を走り去るベーネを目に焼き付ける様に見詰めるマルガは胸の痛みに苦しみながら、瞳に溢れる涙を零さないように必死に耐えた。


 ごめんね、ベーネ。


 そう心の中で謝るが、マルガが昨晩したことは完全な一人善がりで最低な行為だ。
 せめて初めては好きな人に捧げたかった。言葉だけ聞けば乙女なら誰しも一度は夢見ることだろう。その乙女の夢を叶えた筈のマルガが幸せとは真逆な顔をしているのは相手の承諾もなく無理やり捧げたに他ならない。

 それでもマルガは後悔はしていなかった。してる最中や終わった後、心底馬鹿な事をしたと感じていたし、今もそれは思っている。
 ただ、これでベーネへの恋を捨てれる、とその安堵が大きかった。 

 本当はもう、自分でもこの恋心を抱き続けているのが辛かったのだ。距離を置こうにもいい口実は見つからず、ベーネは相変わらず魅力的でいて、尚且つ友人としてマルガを大切に扱ってくれる。

 どうやって忘れればいいのか。どうやって諦めればいいのか。

 そこに昨日のベーネの一言だ。あんな言い方をされたらまた次を期待して、ずっとこの酒場でベーネがひょっこりやって来るのを何時までも待ってしまうではないか。期限不明の癖に、当分という言葉を使って夢を見せないで欲しかった。だからカッとなったと言ってもいい。ベーネからしたら完全な八つ当たりだろうが。

 流れ落ちた涙を指で払ったマルガは、ベーネの去っていった道の先からやっと視線を動かし酒場の裏口に戻っていった。





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