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1巻
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泣きじゃくる少女を抱いたまま、ローズは広場へやって来るとベンチに腰を下ろした。
(もう馬車は出てしまったわね)
大きな時計を見上げて心の中でため息をつく。けれどあれを見過ごすことなどできるはずもない。まずはこの子を家族の元に返して、それから今後の予定を考えよう。ローズは自分から離れようとしない少女の顔をのぞき込んだ。
「私はローズ。貴女のお名前は?」
「……ライラ」
「ライラはこの辺りに住んでいるの?」
少女は首を横に振った。身なりからして貴族の娘だろう。家名を聞き出すか、それとも……
「お嬢様!?」
そのとき、遠くから女性の声が聞こえた。
「ライラお嬢様!」
「マーヤ」
ライラの顔が明るくなった。
「ああ……お嬢様!」
中年の女性が駆け寄ってきた。その後ろから護衛らしき男たちが走ってくる。
「よかった……ご無事で……」
マーヤと呼ばれた女性は泣きそうな顔でローズたちの前に跪いた。
「ローズが助けてくれたのよ」
ライラはローズに抱きついたままそう言った。
「まあ……ありがとうございます……」
「変な男の人にね、袋に入れられたの」
安堵の表情を見せたマーヤたちの顔が、ライラの言葉に真っ青になった。
「お、お、お嬢様っ、それは……」
「でもローズが助けてくれたのよ」
まるで見ていたかのように胸を張ってライラは言った。
「ああローズ様……本当にありがとうございます」
マーヤは涙を流しながらローズに頭を下げた。
「お嬢様に何かあったら……旦那様方になんとお詫びをしたら……」
「袋を抱えた男たちが走っているのを見かけたのであとを追いかけました。私は武芸の心得がありますから。お役に立ててよかったです」
「そうですか……ああ本当に……よかった……ありがとうございます」
何度も頭を下げるマーヤはふと気づいたようにローズの脇に置かれたトランクケースを見た。
「ローズ様はご旅行中でしょうか」
「……ええ。ベイツ帝国にいる親戚を訪ねる途中です」
これくらいなら言っても大丈夫だろう。ローズは正直に答えた。
「まあ、ベイツに行くの? 私も帰るのよ」
ライラが嬉しそうに声を上げた。
「ローズも一緒に行きましょう!」
「え?」
「ねえマーヤ。いいわよね」
「さようでございますね。お嬢様の命の恩人ですから。旦那様もお礼を差し上げたいでしょうし」
「ね、ローズ。一緒の馬車に乗りましょう?」
キラキラと目を輝かせながら訴えるライラの傍らでマーヤもうなずいている。
(え? そんな簡単に……)
会ったばかりの、身元も分からない他人を同行させようだなんて。例えばローズが人さらいの男たちとグルだとか、そういう可能性は考えないのだろうか。
人のよすぎる彼らに不安を感じたが、正直、この申し出はローズにとってもありがたい。ライラの押しに流されるようにローズはともにベイツ帝国へと向かうことになった。
ライラは皇宮で政務官を務めるアトキンズ伯爵の娘だった。バークレー王国にいる、母方の親戚の元を訪れた帰りだという。母親は病弱で旅に耐えられる身体ではなく、まだ七歳のライラがその代理として来たのだという。
「お母様の代わりができるなんて、ライラは立派ね」
すっかりローズに懐いたライラの頭をなでながらそう言うと、嬉しそうに顔をほころばせたが、すぐにライラはその表情を曇らせた。
「……でもお母様はすぐ疲れてしまうから、こうやって一緒にお出かけできないの。早くお母様に会いたいわ」
まだまだ母親が恋しい年齢だ。その寂しさはローズにもよく分かる。
「ローズのお母様は、どういう方なの?」
「とても優しい方だったわ。私が五歳のときに亡くなったけれど」
あっと小さく声を上げてライラは大きく目を見開いた。
「……ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫よ」
しゅんとしてしまった小さな頭をなでる。
「お母様が亡くなって寂しかったけれど、その分、他の人たちが可愛がってくれたから」
それは自分の家族ではなく、伯父家族だったが。彼らは我が子のようにローズを可愛がってくれた。ローズへの愛情ゆえに過剰な武術も教え込まれたが、心身を鍛えたからこそオルグレン王国での窮屈な生活に耐えられたのだから本当に感謝している。
(それに比べてお父様は……)
外では宰相としてうまくやっているようだが、家の中では妻が継娘をいじめるのを止めることもせずに、今回の事件を引き起こしてしまった。止められなかったといえば国王もそう。王も宰相も、息子の愚かさを知りながら正すこともできなかった――いや、正そうともしなかった。
(あの国は大丈夫かしら)
そう思ったが、ローズは唯一まともな者がいたことを思い出した。彼はもう国へ戻った頃だろう。
「あの方は今回のことを知ってどう動くかしら」
誰にも聞こえないようにローズはつぶやいた。
*****
「陛下。ただ今戻りました」
執務室に入ってきた王太子の声に国王は顔を上げた。
「ご苦労だったな、リチャード。外遊の成果はどうであった」
「有意義でした。あとで報告書を出します。――そんなことよりも」
ダンッ、机を乱暴に叩くとリチャードは冷めた視線で父親を見下ろした。
「あのバカがやらかしてくれたようですね。ローゼリア嬢の行方は?」
「……まだ分からぬ。バークレーとの国境付近に彼女を連れていった男たちが倒れていた。ローゼリア嬢にやられたと言っているようだが……まさか彼女にそんなことができるはずもない」
王はため息をついた。
「このことがベイツ帝国に知られる前に彼女を保護しないと」
(本当にバカどもが)
愚かな弟といい、弟を制御できていなかった父といい、まったく何も分かっていない。
「分かりました。こちらでも捜してみます」
「ああ、頼む。彼女は大切な娘だからな」
(大切ならば大事にするよう、愚弟に言い含めておけばよかったのに)
「……では失礼いたします」
いら立ちを抑えながら部屋から出ると、リチャードはまっすぐ自分の執務室へと向かい、イスに座り隣に立つ補佐官のジョセフ・オーブリーを見上げた。
「『影』は呼んだか」
「は」
「しかし。まさか愚弟にあんな行動力があったとはな」
「入れあげていたという小娘にそそのかされたのでしょうか」
「その可能性は高いな。アルルがそこまで頭が回るとは思えん。小娘の周辺を調べろ」
娘を王子に嫁がせたい父親が娘を通じて知恵を与えた、そんなところだろう。たとえローゼリアと婚約していなくとも、男爵令嬢が王子と結婚できる可能性はかなり低いのだが。
(まったく、どいつもこいつも)
「帰ってきて早々、問題を抱えてしまいましたね」
ジョセフはいら立ちを隠さないリチャードの前にそっとティーカップを置いた。香りの高い琥珀色の液体を口に含むと、リチャードはようやく落ち着いたように息を吐いた。
「ローゼリア嬢はやはりベイツ帝国へ向かっているのでしょうか」
「だろうな。このことが向こうに伝わる前に彼女が無事な姿を見せなければ……最悪、戦争だ」
氷の悪魔と称されるほど冷徹な帝国の将軍、エインズワース公爵が可愛い姪が受けた仕打ちを知ったら。少なくとも今回の原因であるアルルの身柄は差し出さないとならないだろう。
「愚弟の首だけで収まればいいが」
「ついでに陛下の首も差し出しますか」
「丸く収まるならばそれもいいが……父上にはもう少し働いてもらわないとな。ローゼリア嬢の本性を見抜けない程度の凡庸だが、国民にとってはよき王だ」
リチャードは不敬なことを平然と言ってのけるジョセフに眉をひそめることもなく返した。
「殿下でさえ気づくのに三年かかったではありませんか。他の者が気づかないのは仕方ありません」
「それまで彼女と会ったのは数回だぞ。……ふ、それは言い訳に過ぎないか」
険しかったまなざしがようやく緩んだ。
初めてローゼリアと会ったのは、アルルとの婚約が正式に決まった場だった。
第一印象は「大人しそうな少女」だった。お妃教育で城には頻繁に来ていたようだが、リチャードとローゼリアが話す機会は滅多になく、王妃が開くお茶会に同席したり夜会で会ったりするくらいで、社交辞令程度の会話しかしたことがない関係だった。
ローゼリアがアルルの婚約者となり三年ほどたった頃。お妃教育を優秀な成績でこなし、薔薇に例えられるほどに美しく華やかな容貌に、中身までも完璧だと賞賛されるローゼリアと、甘やかされ不真面目なアルルとの差ははっきりと開いていた。「第二王子ではなく王太子と婚約すればよかったのに」「きっと立派な王妃となるだろう」そんな声がリチャードの耳にまで届き、それほど評判がいいとはどんな娘なのだろうと初めて興味を持った。
お茶会で会ったとき、リチャードは改めてこの少女を観察して気づいた。この淑やかで美しい少女の瞳の奥に秘められた、刃のように鋭い輝きのそれは普通の者が持つものではないことに。
(宰相の娘だとは聞いていたが……彼女は何者だ?)
ローゼリアが七歳から十四歳までの七年間、エインズワース公爵家に預けられていたと聞かされ、嫌な考えがよぎった。ベイツ帝国の軍事を司る公爵家は、当然裏のことにも通じている。ローゼリアが諜者として育てられている可能性はないだろうか。そう疑いたくなるほどあの瞳は危険な輝きを持っている。リチャードは自身の諜者、「影」を放ち探らせた。
そうして十日後、影は腕に切り傷を作り戻ってきたのだ。
「まさか……ローゼリア嬢が?」
「一瞬の出来事でした」
影は目を見開いたリチャードに一通の手紙を差し出した。そこには、将軍はローゼリアをそのまま引き取るつもりだったので、エインズワース家の人間として武芸を教え込まれただけだということと、影を傷つけたことへの謝罪が書かれてあった。
影に気づき、一太刀浴びせた上に主の意図を見抜き、手紙まで持たせる。影を斬ったのは、彼女の力を見せつけるためと、これ以上このことに対して詮索するなという威嚇の意味があるのだろう。
(騎士に匹敵する能力と大胆さを持つとは……とんでもない棘を隠し持った薔薇だ)
リチャードは手紙をたたむと傍らに控える影を見下ろした。影の中でも特に優れた能力を持つこの男に傷をつけるとは。
「相当な腕前のようだな」
「ありえないほどの速さでした」
そう答えた影の言葉の奥に、喜びのような感情が潜んでいることに気づき、心の中でため息をつく。
(まったく。人心掌握術にも長けているとは)
「敵には回したくないな」
十代の少女にそこまで仕込める将軍家も、それを身につけたローゼリアも。
「やあ、先日は失礼したね」
数日後。登城したローゼリアを待ち伏せしてリチャードは話しかけた。
「こちらこそ、はしたないところをお見せいたしました」
優雅な微笑を浮かべてローゼリアは答えた。
「不快な思いをさせてしまったね」
「いいえ。私、安心いたしました」
「安心?」
「私のことを疑える方がいらっしゃって」
鋭い視線が一瞬リチャードを刺したが、すぐに穏やかなまなざしに戻る。
「……なんて、生意気言って申し訳ありません」
「ふ、君はうわさどおりだな。弟にはもったいない」
お返しとばかりに遠慮のない視線がローゼリアを見すえた。
「まあ弟に限らず、この国で君に釣り合う者はいないようだな」
「……そうですか」
一瞬揺れたグレーの瞳に浮かんだ、その色にリチャードは気づかなかった振りをした。
ローゼリアとアルルの婚約は国が決めたものだ。いくら能力が高くても権力を持たない彼女に覆せるものではない。彼女の心の中、その瞳の奥にどんな思いが隠れていても。
「殿下」
昔のことを思い出していると気配もなく男の声が聞こえた。
「ローゼリア嬢のことは聞いているな」
「は」
「バークレー王国からベイツ帝国のエインズワース公爵家へ向かっているはずだ。彼女の無事を確認できればいいが……もしも可能なら伝えてほしいことがある」
傍らに膝をつく影に向かってリチャードは命じた。
*****
乗合馬車ならば十日以上かかる道程だが、貴族ならばもっと速く走る馬と快適な馬車を雇い、より早いルートで移動できるため六日で行くことができる。
帝都へ向かう道中、ローズとライラは本当の姉妹のように過ごしていた。病気がちな母親になかなか甘えることのできない一人っ子のライラと、実の家族から愛情を与えられなかったローズ。心の奥に寂しさをしまい込んだ者同士、引き寄せ合うのだろう。
「このあたりは最近治安が悪いものですから。お気をつけください」
ベイツ帝国との国境に接する街で宿に入ると、主人が申し訳なさそうにそう告げた。
「何かあったのですか?」
乳母のマーヤが尋ねた。行きもこの宿を使ったが、そのときはそんなことを言っていなかった。
「ある商会が商品を移送するのに護衛を雇ったのですが、賃金の支払いで揉めまして。護衛の連中が夜な夜な街を徘徊して暴れるのです」
主人はため息をついた。
「なんでも護衛とは名ばかりの、ただの乱暴者だったようで。ろくに役目を果たさなかったため値切ったところ逆上して。領主様に訴えても当人同士で話をつけろと突き放されてしまいまして……酒を飲んでは暴れる、かといって酒を出さなくても暴れる。代金は商会のツケにしろと払わない。昨夜は酒場で働く娘をさらおうとして大騒ぎになりました。どうか夜は外に出ないでください」
「まあ、怖いですわね」
(気をつけないと、私一人じゃないし)
主人とマーヤの会話を聞き、幼いライラが再び危険な目に遭わないことを願いながら、ローズは鍵を受け取ると自分の部屋へと入った。
主人の言葉を受けて、夕食は宿の中にある食堂で取ることにした。
「まあお嬢様。にんじんを食べられるようになったのですね」
空になった前菜の皿を見てマーヤが喜んだ。
「だってローズ姉様みたいに綺麗で強くなりたいんだもの」
ライラは好き嫌いが多く、それが家族や使用人の悩みだった。けれどローズに憧れるライラにその美しさや強さの秘訣を尋ねられ、ローズは「ちゃんと食べて身体を動かすことよ」と答えた。それを受けて、ライラも頑張って嫌いなものも食べるようにしたのだ。
「ねえローズ姉様。私も綺麗で強くなれるでしょう?」
「そうね、きっと綺麗になれるわ」
ローズのように強くなるのは無理だけれど、ライラならきっと綺麗に成長するだろう。
「それじゃあお嬢様、お魚も全て食べましょうね」
運ばれてきた皿を示してマーヤが言った。
「……頑張るわ」
顔をしかめながらもライラが魚を食べるのを見守っていると、乱暴にドアを開く音が聞こえた。
「おう! 酒と飯を出せや」
五人の男が押し入るように食堂へと入ってきた。
「きょ、今日は宿泊のお客様で貸し切りなんです……!」
給仕係が慌てて男たちの前へ駆け寄った。普段は宿泊客以外にも食事を提供しているが、この数日の騒ぎがあった上に今日の宿泊客には他国の貴族もいる。問題を起こされてはたまらないと、入り口にも貸し切りの札を下げていたはずなのに、男たちはそれを無視して入ってきたのだ。
「ああ? 席は空いてるじゃねえか」
制止する声を聞き流して男たちは入ってすぐの席にどっかりと座り込んだ。他のテーブル客たちから不安げなざわめきが起きる。
「お客様……申し訳ございませんが、一度お部屋へお戻りください」
報告を受けた宿の主人が慌てて食堂に現れると、一番奥にあるローズたちのテーブルへ来て小声でそう言った。
「彼らが問題の男たちですか」
「さようでございます」
「マーヤさん、ライラと先に二人で出てください」
一度に大勢が動くと目立ってしまうだろう。ローズはマーヤにそっと告げた。
「はい。さ、お嬢様」
「皆さんも、一人ずつ目立たないよう外へ」
ライラたちが宿泊者用の出入り口から出ていったのを見届けると、ローズは護衛たちに言った。
「ローズ様は……」
「私は最後に行きます」
「いえ、ローズ様を最後に残すわけには……」
「貴方方の仕事はライラの護衛でしょう」
鋭い銀色の視線が護衛たちを見た。
「任務が最優先です」
「……かしこまりました」
有無を言わせないローズの声色に、小さく頭を下げると護衛の一人がまず外へ出た。続いて二人目、三人目と音もなく出ていく。ローズも出ていくタイミングを計ろうと背後をうかがった。
「おら、さっさと酒を出せよ!」
「一番高い肉を持ってこい!」
「支払いは全部マゴット商会だからな」
男たちの騒ぎ声に交ざり、女性の小さな悲鳴が聞こえた。
「姉ちゃん、酌をしろよ」
「離してください!」
ガタン、とわざと音を立ててローズはイスから立ち上がった。
「お、こっちにも女がいるじゃねえか」
音に気づいた男の一人が歩み寄ってきた。
「ちょうどいい、姉ちゃんも酌をしな」
「こ、この方は大切なお客様で……!」
「どけ」
間に入ろうとした宿の主人を男が乱暴に払いのけると、主人は側のテーブルに倒れ込んだ。食器が落ちて割れる音と客の悲鳴が響き渡る。
「あーあ、めちゃくちゃじゃねえか」
「店を変えるか」
「姉ちゃんも一緒に行こうぜ」
男がローズの顔をのぞき込んだ。
「おっ、すっげえ美人じゃねえか。今夜は俺たちと遊ぼうぜ」
肩を抱きかかえようと伸ばされた手をローズは叩き払った。
「汚い手で触れないで」
「……あ?」
ローズの言葉に、薄笑いを浮かべていた男は真顔になった。
「姉ちゃん、そんな生意気なことを言ってどうなるか……」
再び伸びてきた男の腕を取るとローズは身体を素早くひねった。腕をねじりながら男の身体を床に叩きつける。
「なんだ?」
派手な音に他の男たちが立ち上がった。ローズは音も立てず素早く男たちのテーブルへ走り、身体を沈め手前にいた男の腹に拳を入れた。立ち止まることなくもう一人、二人と同様に腹を突くと、男たちは次々と倒れていく。
「な……」
「隙だらけね」
ローズは残った一人の前に立った。
「この程度の腕で態度だけ大きくて。みっともないわ」
「女……!」
残った男が拳を振り上げた。ローズはそれを難なくかわし男の背後に回り込み、首筋に手刀を打ちつける。大きな身体が崩れ落ちると、周囲の客や従業員たちから歓声が上がった。
「すごい……あんな細い身体で」
「誰も手をつけられなかったのに……」
「ご主人。大丈夫ですか」
ローズは従業員たちに介抱されている宿の主人へ歩み寄った。
「は……い。ありがとうございます」
なんとか立ち上がると主人は深く頭を下げた。
「お客様はとてもお強いのですね。誰も止められないほど強い者たちでしたのに」
「私が女だからと油断したのでしょう」
ローズはほほ笑んだ。
「彼らが気づく前に捕らえた方がいいでしょう。領主は彼らの対応に乗り気ではないようですが、突き出す先はありますか」
「はい……とりあえず、商人ギルドのほうで身柄を拘束します」
そう答えて主人はため息をついた。
「領主様を悪く言いたくはないのですが……あまり我々のことまで気が回らないお方ですので」
領主の中には領民たちの安全など顧みないという者もいる。この地の主もそうなのだろう。
(領民の安全は領地の繁栄にもつながるのに)
ローズは不快感を覚えた。
「もし手に余るようでしたら、ベイツ帝国のエインズワース公爵家へご連絡ください」
「エインズワース? ……もしかしてあの『氷の悪魔』の?」
主人は目を見開いた。
「ええ。私が巻き込まれたことを知れば心配するでしょう。それに、帝国に隣接するこの地の治安に不安があれば、帝国も見過ごすことはできないだろうと、領主様にもそう伝えてください」
笑顔でローズはそう言った。
翌日、宿の従業員や周辺の店主など大勢に見送られてローズたちは宿を出た。皆昨日の男たちに悩まされていて、お礼に菓子や果物などたくさん渡してくれたのだ。
「ローズ姉様の活躍を見たかったわ」
頬をふくらませてライラが言った。
「あの場所にライラがいたら危なかったわよ」
「そうですよお嬢様」
ローズの言葉にマーヤもうなずいた。
(エインズワースの名前を出すのは早かったかしら)
まだ不満そうなライラの頭をなでながらローズは思った。だがこの街の治安に不安を感じたのも確かだ。昨日の男たちは油断していたこともあってローズ一人で簡単に倒せたが、街の人々で抑えられないならば騎士が出てこないとならなかっただろう。
領主は騎士を出すことなく放置していた。今後も同じようなことが起きる可能性がある。
この街は帝国へ出入りするときの検問所がある、重要な場所だ。その地の治安に不備があれば帝国にとっても問題だと、帝国からバークリー王国に訴える可能性も出てくる。それは領主にとって不名誉なことだろう。
(そこまで察して領主が動いてくれればいいけれど)
馬車の窓の外に視線を移して、にぎやかな街道を眺めながらローズは願った。
(もう馬車は出てしまったわね)
大きな時計を見上げて心の中でため息をつく。けれどあれを見過ごすことなどできるはずもない。まずはこの子を家族の元に返して、それから今後の予定を考えよう。ローズは自分から離れようとしない少女の顔をのぞき込んだ。
「私はローズ。貴女のお名前は?」
「……ライラ」
「ライラはこの辺りに住んでいるの?」
少女は首を横に振った。身なりからして貴族の娘だろう。家名を聞き出すか、それとも……
「お嬢様!?」
そのとき、遠くから女性の声が聞こえた。
「ライラお嬢様!」
「マーヤ」
ライラの顔が明るくなった。
「ああ……お嬢様!」
中年の女性が駆け寄ってきた。その後ろから護衛らしき男たちが走ってくる。
「よかった……ご無事で……」
マーヤと呼ばれた女性は泣きそうな顔でローズたちの前に跪いた。
「ローズが助けてくれたのよ」
ライラはローズに抱きついたままそう言った。
「まあ……ありがとうございます……」
「変な男の人にね、袋に入れられたの」
安堵の表情を見せたマーヤたちの顔が、ライラの言葉に真っ青になった。
「お、お、お嬢様っ、それは……」
「でもローズが助けてくれたのよ」
まるで見ていたかのように胸を張ってライラは言った。
「ああローズ様……本当にありがとうございます」
マーヤは涙を流しながらローズに頭を下げた。
「お嬢様に何かあったら……旦那様方になんとお詫びをしたら……」
「袋を抱えた男たちが走っているのを見かけたのであとを追いかけました。私は武芸の心得がありますから。お役に立ててよかったです」
「そうですか……ああ本当に……よかった……ありがとうございます」
何度も頭を下げるマーヤはふと気づいたようにローズの脇に置かれたトランクケースを見た。
「ローズ様はご旅行中でしょうか」
「……ええ。ベイツ帝国にいる親戚を訪ねる途中です」
これくらいなら言っても大丈夫だろう。ローズは正直に答えた。
「まあ、ベイツに行くの? 私も帰るのよ」
ライラが嬉しそうに声を上げた。
「ローズも一緒に行きましょう!」
「え?」
「ねえマーヤ。いいわよね」
「さようでございますね。お嬢様の命の恩人ですから。旦那様もお礼を差し上げたいでしょうし」
「ね、ローズ。一緒の馬車に乗りましょう?」
キラキラと目を輝かせながら訴えるライラの傍らでマーヤもうなずいている。
(え? そんな簡単に……)
会ったばかりの、身元も分からない他人を同行させようだなんて。例えばローズが人さらいの男たちとグルだとか、そういう可能性は考えないのだろうか。
人のよすぎる彼らに不安を感じたが、正直、この申し出はローズにとってもありがたい。ライラの押しに流されるようにローズはともにベイツ帝国へと向かうことになった。
ライラは皇宮で政務官を務めるアトキンズ伯爵の娘だった。バークレー王国にいる、母方の親戚の元を訪れた帰りだという。母親は病弱で旅に耐えられる身体ではなく、まだ七歳のライラがその代理として来たのだという。
「お母様の代わりができるなんて、ライラは立派ね」
すっかりローズに懐いたライラの頭をなでながらそう言うと、嬉しそうに顔をほころばせたが、すぐにライラはその表情を曇らせた。
「……でもお母様はすぐ疲れてしまうから、こうやって一緒にお出かけできないの。早くお母様に会いたいわ」
まだまだ母親が恋しい年齢だ。その寂しさはローズにもよく分かる。
「ローズのお母様は、どういう方なの?」
「とても優しい方だったわ。私が五歳のときに亡くなったけれど」
あっと小さく声を上げてライラは大きく目を見開いた。
「……ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫よ」
しゅんとしてしまった小さな頭をなでる。
「お母様が亡くなって寂しかったけれど、その分、他の人たちが可愛がってくれたから」
それは自分の家族ではなく、伯父家族だったが。彼らは我が子のようにローズを可愛がってくれた。ローズへの愛情ゆえに過剰な武術も教え込まれたが、心身を鍛えたからこそオルグレン王国での窮屈な生活に耐えられたのだから本当に感謝している。
(それに比べてお父様は……)
外では宰相としてうまくやっているようだが、家の中では妻が継娘をいじめるのを止めることもせずに、今回の事件を引き起こしてしまった。止められなかったといえば国王もそう。王も宰相も、息子の愚かさを知りながら正すこともできなかった――いや、正そうともしなかった。
(あの国は大丈夫かしら)
そう思ったが、ローズは唯一まともな者がいたことを思い出した。彼はもう国へ戻った頃だろう。
「あの方は今回のことを知ってどう動くかしら」
誰にも聞こえないようにローズはつぶやいた。
*****
「陛下。ただ今戻りました」
執務室に入ってきた王太子の声に国王は顔を上げた。
「ご苦労だったな、リチャード。外遊の成果はどうであった」
「有意義でした。あとで報告書を出します。――そんなことよりも」
ダンッ、机を乱暴に叩くとリチャードは冷めた視線で父親を見下ろした。
「あのバカがやらかしてくれたようですね。ローゼリア嬢の行方は?」
「……まだ分からぬ。バークレーとの国境付近に彼女を連れていった男たちが倒れていた。ローゼリア嬢にやられたと言っているようだが……まさか彼女にそんなことができるはずもない」
王はため息をついた。
「このことがベイツ帝国に知られる前に彼女を保護しないと」
(本当にバカどもが)
愚かな弟といい、弟を制御できていなかった父といい、まったく何も分かっていない。
「分かりました。こちらでも捜してみます」
「ああ、頼む。彼女は大切な娘だからな」
(大切ならば大事にするよう、愚弟に言い含めておけばよかったのに)
「……では失礼いたします」
いら立ちを抑えながら部屋から出ると、リチャードはまっすぐ自分の執務室へと向かい、イスに座り隣に立つ補佐官のジョセフ・オーブリーを見上げた。
「『影』は呼んだか」
「は」
「しかし。まさか愚弟にあんな行動力があったとはな」
「入れあげていたという小娘にそそのかされたのでしょうか」
「その可能性は高いな。アルルがそこまで頭が回るとは思えん。小娘の周辺を調べろ」
娘を王子に嫁がせたい父親が娘を通じて知恵を与えた、そんなところだろう。たとえローゼリアと婚約していなくとも、男爵令嬢が王子と結婚できる可能性はかなり低いのだが。
(まったく、どいつもこいつも)
「帰ってきて早々、問題を抱えてしまいましたね」
ジョセフはいら立ちを隠さないリチャードの前にそっとティーカップを置いた。香りの高い琥珀色の液体を口に含むと、リチャードはようやく落ち着いたように息を吐いた。
「ローゼリア嬢はやはりベイツ帝国へ向かっているのでしょうか」
「だろうな。このことが向こうに伝わる前に彼女が無事な姿を見せなければ……最悪、戦争だ」
氷の悪魔と称されるほど冷徹な帝国の将軍、エインズワース公爵が可愛い姪が受けた仕打ちを知ったら。少なくとも今回の原因であるアルルの身柄は差し出さないとならないだろう。
「愚弟の首だけで収まればいいが」
「ついでに陛下の首も差し出しますか」
「丸く収まるならばそれもいいが……父上にはもう少し働いてもらわないとな。ローゼリア嬢の本性を見抜けない程度の凡庸だが、国民にとってはよき王だ」
リチャードは不敬なことを平然と言ってのけるジョセフに眉をひそめることもなく返した。
「殿下でさえ気づくのに三年かかったではありませんか。他の者が気づかないのは仕方ありません」
「それまで彼女と会ったのは数回だぞ。……ふ、それは言い訳に過ぎないか」
険しかったまなざしがようやく緩んだ。
初めてローゼリアと会ったのは、アルルとの婚約が正式に決まった場だった。
第一印象は「大人しそうな少女」だった。お妃教育で城には頻繁に来ていたようだが、リチャードとローゼリアが話す機会は滅多になく、王妃が開くお茶会に同席したり夜会で会ったりするくらいで、社交辞令程度の会話しかしたことがない関係だった。
ローゼリアがアルルの婚約者となり三年ほどたった頃。お妃教育を優秀な成績でこなし、薔薇に例えられるほどに美しく華やかな容貌に、中身までも完璧だと賞賛されるローゼリアと、甘やかされ不真面目なアルルとの差ははっきりと開いていた。「第二王子ではなく王太子と婚約すればよかったのに」「きっと立派な王妃となるだろう」そんな声がリチャードの耳にまで届き、それほど評判がいいとはどんな娘なのだろうと初めて興味を持った。
お茶会で会ったとき、リチャードは改めてこの少女を観察して気づいた。この淑やかで美しい少女の瞳の奥に秘められた、刃のように鋭い輝きのそれは普通の者が持つものではないことに。
(宰相の娘だとは聞いていたが……彼女は何者だ?)
ローゼリアが七歳から十四歳までの七年間、エインズワース公爵家に預けられていたと聞かされ、嫌な考えがよぎった。ベイツ帝国の軍事を司る公爵家は、当然裏のことにも通じている。ローゼリアが諜者として育てられている可能性はないだろうか。そう疑いたくなるほどあの瞳は危険な輝きを持っている。リチャードは自身の諜者、「影」を放ち探らせた。
そうして十日後、影は腕に切り傷を作り戻ってきたのだ。
「まさか……ローゼリア嬢が?」
「一瞬の出来事でした」
影は目を見開いたリチャードに一通の手紙を差し出した。そこには、将軍はローゼリアをそのまま引き取るつもりだったので、エインズワース家の人間として武芸を教え込まれただけだということと、影を傷つけたことへの謝罪が書かれてあった。
影に気づき、一太刀浴びせた上に主の意図を見抜き、手紙まで持たせる。影を斬ったのは、彼女の力を見せつけるためと、これ以上このことに対して詮索するなという威嚇の意味があるのだろう。
(騎士に匹敵する能力と大胆さを持つとは……とんでもない棘を隠し持った薔薇だ)
リチャードは手紙をたたむと傍らに控える影を見下ろした。影の中でも特に優れた能力を持つこの男に傷をつけるとは。
「相当な腕前のようだな」
「ありえないほどの速さでした」
そう答えた影の言葉の奥に、喜びのような感情が潜んでいることに気づき、心の中でため息をつく。
(まったく。人心掌握術にも長けているとは)
「敵には回したくないな」
十代の少女にそこまで仕込める将軍家も、それを身につけたローゼリアも。
「やあ、先日は失礼したね」
数日後。登城したローゼリアを待ち伏せしてリチャードは話しかけた。
「こちらこそ、はしたないところをお見せいたしました」
優雅な微笑を浮かべてローゼリアは答えた。
「不快な思いをさせてしまったね」
「いいえ。私、安心いたしました」
「安心?」
「私のことを疑える方がいらっしゃって」
鋭い視線が一瞬リチャードを刺したが、すぐに穏やかなまなざしに戻る。
「……なんて、生意気言って申し訳ありません」
「ふ、君はうわさどおりだな。弟にはもったいない」
お返しとばかりに遠慮のない視線がローゼリアを見すえた。
「まあ弟に限らず、この国で君に釣り合う者はいないようだな」
「……そうですか」
一瞬揺れたグレーの瞳に浮かんだ、その色にリチャードは気づかなかった振りをした。
ローゼリアとアルルの婚約は国が決めたものだ。いくら能力が高くても権力を持たない彼女に覆せるものではない。彼女の心の中、その瞳の奥にどんな思いが隠れていても。
「殿下」
昔のことを思い出していると気配もなく男の声が聞こえた。
「ローゼリア嬢のことは聞いているな」
「は」
「バークレー王国からベイツ帝国のエインズワース公爵家へ向かっているはずだ。彼女の無事を確認できればいいが……もしも可能なら伝えてほしいことがある」
傍らに膝をつく影に向かってリチャードは命じた。
*****
乗合馬車ならば十日以上かかる道程だが、貴族ならばもっと速く走る馬と快適な馬車を雇い、より早いルートで移動できるため六日で行くことができる。
帝都へ向かう道中、ローズとライラは本当の姉妹のように過ごしていた。病気がちな母親になかなか甘えることのできない一人っ子のライラと、実の家族から愛情を与えられなかったローズ。心の奥に寂しさをしまい込んだ者同士、引き寄せ合うのだろう。
「このあたりは最近治安が悪いものですから。お気をつけください」
ベイツ帝国との国境に接する街で宿に入ると、主人が申し訳なさそうにそう告げた。
「何かあったのですか?」
乳母のマーヤが尋ねた。行きもこの宿を使ったが、そのときはそんなことを言っていなかった。
「ある商会が商品を移送するのに護衛を雇ったのですが、賃金の支払いで揉めまして。護衛の連中が夜な夜な街を徘徊して暴れるのです」
主人はため息をついた。
「なんでも護衛とは名ばかりの、ただの乱暴者だったようで。ろくに役目を果たさなかったため値切ったところ逆上して。領主様に訴えても当人同士で話をつけろと突き放されてしまいまして……酒を飲んでは暴れる、かといって酒を出さなくても暴れる。代金は商会のツケにしろと払わない。昨夜は酒場で働く娘をさらおうとして大騒ぎになりました。どうか夜は外に出ないでください」
「まあ、怖いですわね」
(気をつけないと、私一人じゃないし)
主人とマーヤの会話を聞き、幼いライラが再び危険な目に遭わないことを願いながら、ローズは鍵を受け取ると自分の部屋へと入った。
主人の言葉を受けて、夕食は宿の中にある食堂で取ることにした。
「まあお嬢様。にんじんを食べられるようになったのですね」
空になった前菜の皿を見てマーヤが喜んだ。
「だってローズ姉様みたいに綺麗で強くなりたいんだもの」
ライラは好き嫌いが多く、それが家族や使用人の悩みだった。けれどローズに憧れるライラにその美しさや強さの秘訣を尋ねられ、ローズは「ちゃんと食べて身体を動かすことよ」と答えた。それを受けて、ライラも頑張って嫌いなものも食べるようにしたのだ。
「ねえローズ姉様。私も綺麗で強くなれるでしょう?」
「そうね、きっと綺麗になれるわ」
ローズのように強くなるのは無理だけれど、ライラならきっと綺麗に成長するだろう。
「それじゃあお嬢様、お魚も全て食べましょうね」
運ばれてきた皿を示してマーヤが言った。
「……頑張るわ」
顔をしかめながらもライラが魚を食べるのを見守っていると、乱暴にドアを開く音が聞こえた。
「おう! 酒と飯を出せや」
五人の男が押し入るように食堂へと入ってきた。
「きょ、今日は宿泊のお客様で貸し切りなんです……!」
給仕係が慌てて男たちの前へ駆け寄った。普段は宿泊客以外にも食事を提供しているが、この数日の騒ぎがあった上に今日の宿泊客には他国の貴族もいる。問題を起こされてはたまらないと、入り口にも貸し切りの札を下げていたはずなのに、男たちはそれを無視して入ってきたのだ。
「ああ? 席は空いてるじゃねえか」
制止する声を聞き流して男たちは入ってすぐの席にどっかりと座り込んだ。他のテーブル客たちから不安げなざわめきが起きる。
「お客様……申し訳ございませんが、一度お部屋へお戻りください」
報告を受けた宿の主人が慌てて食堂に現れると、一番奥にあるローズたちのテーブルへ来て小声でそう言った。
「彼らが問題の男たちですか」
「さようでございます」
「マーヤさん、ライラと先に二人で出てください」
一度に大勢が動くと目立ってしまうだろう。ローズはマーヤにそっと告げた。
「はい。さ、お嬢様」
「皆さんも、一人ずつ目立たないよう外へ」
ライラたちが宿泊者用の出入り口から出ていったのを見届けると、ローズは護衛たちに言った。
「ローズ様は……」
「私は最後に行きます」
「いえ、ローズ様を最後に残すわけには……」
「貴方方の仕事はライラの護衛でしょう」
鋭い銀色の視線が護衛たちを見た。
「任務が最優先です」
「……かしこまりました」
有無を言わせないローズの声色に、小さく頭を下げると護衛の一人がまず外へ出た。続いて二人目、三人目と音もなく出ていく。ローズも出ていくタイミングを計ろうと背後をうかがった。
「おら、さっさと酒を出せよ!」
「一番高い肉を持ってこい!」
「支払いは全部マゴット商会だからな」
男たちの騒ぎ声に交ざり、女性の小さな悲鳴が聞こえた。
「姉ちゃん、酌をしろよ」
「離してください!」
ガタン、とわざと音を立ててローズはイスから立ち上がった。
「お、こっちにも女がいるじゃねえか」
音に気づいた男の一人が歩み寄ってきた。
「ちょうどいい、姉ちゃんも酌をしな」
「こ、この方は大切なお客様で……!」
「どけ」
間に入ろうとした宿の主人を男が乱暴に払いのけると、主人は側のテーブルに倒れ込んだ。食器が落ちて割れる音と客の悲鳴が響き渡る。
「あーあ、めちゃくちゃじゃねえか」
「店を変えるか」
「姉ちゃんも一緒に行こうぜ」
男がローズの顔をのぞき込んだ。
「おっ、すっげえ美人じゃねえか。今夜は俺たちと遊ぼうぜ」
肩を抱きかかえようと伸ばされた手をローズは叩き払った。
「汚い手で触れないで」
「……あ?」
ローズの言葉に、薄笑いを浮かべていた男は真顔になった。
「姉ちゃん、そんな生意気なことを言ってどうなるか……」
再び伸びてきた男の腕を取るとローズは身体を素早くひねった。腕をねじりながら男の身体を床に叩きつける。
「なんだ?」
派手な音に他の男たちが立ち上がった。ローズは音も立てず素早く男たちのテーブルへ走り、身体を沈め手前にいた男の腹に拳を入れた。立ち止まることなくもう一人、二人と同様に腹を突くと、男たちは次々と倒れていく。
「な……」
「隙だらけね」
ローズは残った一人の前に立った。
「この程度の腕で態度だけ大きくて。みっともないわ」
「女……!」
残った男が拳を振り上げた。ローズはそれを難なくかわし男の背後に回り込み、首筋に手刀を打ちつける。大きな身体が崩れ落ちると、周囲の客や従業員たちから歓声が上がった。
「すごい……あんな細い身体で」
「誰も手をつけられなかったのに……」
「ご主人。大丈夫ですか」
ローズは従業員たちに介抱されている宿の主人へ歩み寄った。
「は……い。ありがとうございます」
なんとか立ち上がると主人は深く頭を下げた。
「お客様はとてもお強いのですね。誰も止められないほど強い者たちでしたのに」
「私が女だからと油断したのでしょう」
ローズはほほ笑んだ。
「彼らが気づく前に捕らえた方がいいでしょう。領主は彼らの対応に乗り気ではないようですが、突き出す先はありますか」
「はい……とりあえず、商人ギルドのほうで身柄を拘束します」
そう答えて主人はため息をついた。
「領主様を悪く言いたくはないのですが……あまり我々のことまで気が回らないお方ですので」
領主の中には領民たちの安全など顧みないという者もいる。この地の主もそうなのだろう。
(領民の安全は領地の繁栄にもつながるのに)
ローズは不快感を覚えた。
「もし手に余るようでしたら、ベイツ帝国のエインズワース公爵家へご連絡ください」
「エインズワース? ……もしかしてあの『氷の悪魔』の?」
主人は目を見開いた。
「ええ。私が巻き込まれたことを知れば心配するでしょう。それに、帝国に隣接するこの地の治安に不安があれば、帝国も見過ごすことはできないだろうと、領主様にもそう伝えてください」
笑顔でローズはそう言った。
翌日、宿の従業員や周辺の店主など大勢に見送られてローズたちは宿を出た。皆昨日の男たちに悩まされていて、お礼に菓子や果物などたくさん渡してくれたのだ。
「ローズ姉様の活躍を見たかったわ」
頬をふくらませてライラが言った。
「あの場所にライラがいたら危なかったわよ」
「そうですよお嬢様」
ローズの言葉にマーヤもうなずいた。
(エインズワースの名前を出すのは早かったかしら)
まだ不満そうなライラの頭をなでながらローズは思った。だがこの街の治安に不安を感じたのも確かだ。昨日の男たちは油断していたこともあってローズ一人で簡単に倒せたが、街の人々で抑えられないならば騎士が出てこないとならなかっただろう。
領主は騎士を出すことなく放置していた。今後も同じようなことが起きる可能性がある。
この街は帝国へ出入りするときの検問所がある、重要な場所だ。その地の治安に不備があれば帝国にとっても問題だと、帝国からバークリー王国に訴える可能性も出てくる。それは領主にとって不名誉なことだろう。
(そこまで察して領主が動いてくれればいいけれど)
馬車の窓の外に視線を移して、にぎやかな街道を眺めながらローズは願った。
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