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08 エーリック

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「……もう寝たのか」
 横になってすぐに寝息をたてはじめたヒナノの顔を見て、エーリックは苦笑した。

 どこでもすぐに眠れると豪語するだけあって、毛布を敷いただけの洞窟だろうと、それすらない岩の上でも、彼女は本当にすぐ寝てしまう。
「緊張感がないんだな。男の隣で寝るってのに」
 全く意識されていないだけかもしれないが。
「……まあ、これからだ」
 子供だと思っていたから、まだ手を出すまいと思っていたけれど。

 視線をヒナノの傍に移す。
 調理道具の隣には、贈ったばかりのオパールのネックレスが置かれていた。
 他の宝石はいざという時用だが、このネックレスだけは大切にするよう、母親に言い含められて渡されたのだ。
『いつかあなたを受け入れてくれる人と出会えたら、その人に贈りなさい』と。
 瞳や髪と同じ色の宝飾品を贈るのは、その相手が自分にとって特別だという意味があるのだという。

 母親は貴族の娘だった。
 そろそろ婚約者を決めようかという頃、妊娠していることが分かった。
 家族が問い詰めたが、決して相手を明かそうとしなかった。
 父親は激怒し娘を離れに押し込め、そこで娘はエーリックを産んだ。

 その国にはいない銀色の髪、そして見たこともない虹色の瞳を持った赤子を見て、家族はこれが「魔物の子」ではないかと疑った。
 人間に近い姿の魔物は、稀に人の娘を見染めるのだという。

 それでも娘は父親が誰なのかを、息子のエーリックにも明かさなかった。
「私が死んだらあなたは殺されてしまう。だからこれを持って逃げなさい」
そう言って息子に宝飾品の入った袋を渡した母は、エーリックが十歳の時に病気で死んだ。

 母親の予言通り、一族は「魔物の子」エーリックを殺そうとしてきた。
 エーリックは幼い時から誰にも教わることなく魔法が使えた。
 その魔法を駆使し、生まれ育った家を出て国も出て、幾つもの山を越えて。十六歳の頃、とある国で一番の力を持つ、賢者と呼ばれる大魔術師の弟子となった。
 大魔術師はエーリックの魔力の高さと能力を評価したが、他の弟子たちは難なく魔法を使いこなすエーリックに嫉妬し、敵視した。
 その色彩を異形とし、師のいない場では彼を虐げ、そしてとうとう呪いをかけたのだ。

 黒い魔物の姿となったエーリックは人目を避け、山の奥深く入っていった。
 自身でこの呪いを解く方法を探したが、呪いのせいで魔力も弱まったせいか上手くいかず、ただ時が過ぎていくばかりだった。

 約百年。それだけ長く生きるのは彼の中に流れる血故なのか、呪いのせいか分からなかったけれど。
 気の遠くなる時間だった。

(もう、疲れた)
 そんな気の緩みのせいだろう、山に入ってきた人間に姿を見られてしまった。
 おそらく、彼を討伐しようと人間たちがやってくるだろう。
(これ以上生きていても……意味がない)
 いっそ討たれてしまおうか。
 そう思いながらさまよっていると不思議な気配を感じた。
 それは温かくて優しい、心に染みるような力だった。

 その力に引き寄せられた先には一人の人間らしき者と湯気の出る泉があった。
 人間はエーリックを見て驚いた顔を見せたが、エーリックが泉を見るとそこへ入るよう促した。
 久しぶりにまともに聞いた人の言葉は、まるで小鳥の声か鈴の音のように心地よくて。
 その声が導くまま泉へ入った瞬間、エーリックの身体を強い光が包み込み、まるで宙に浮きそうなほど軽くなるのを感じた。

(……は?)
 視線を落とした先にあったのは、毛の生えていない手だった。
 それが自分のものだと理解し……人間の姿に戻った身体を見回してエーリックは振り返った。

 黒髪に大きな黒い瞳の、可愛らしい顔立ちの少女だった。
 人間の姿に戻ったエーリックを見て悲鳴を上げたが、それはエーリックが裸だったからで、彼の色彩について、そして半分魔物かもしれないと言っても全く気にしていないようだった。
 ヒナノと名乗った少女は異世界から召喚されたのだと言った。
 この世界の人間の身勝手で召喚され、さらに魔物の出る山で遭難したにもかかわらず、彼女は明るく、その魔物たちを不思議な泉で手懐けてしまっていた。

 大きな瞳でじっと見つめながら、エーリックが身の上を語るのを聞き、感心したり怒ったりとその表情をコロコロ変える。
 自分や魔物に同情する優しい心を持った少女。
 まるで『温泉』というその湯のように、側にいると心が温かくなり、癒やされていくのを感じた。
(ああ、この娘が欲しい)
 ふいにエーリックの中に不思議な感情が湧き上がり――気がついた。
 自身に流れる血の、その本能に。

 魔物は時に人間の娘を見染めるのだという。
 そうしてその娘を連れ去り、大切にすることもあれば、欲を抱きすぎてその命を奪ってしまうこともあると。――母親が閉じ込められたのは、それを恐れたからなのかもしれない。
 その、父親が母親に抱いたであろう欲と同じものを、今自分は目の前の少女に抱いているのだとエーリックは本能で悟った。

 喰らいついてしまいたいという衝動と、守りたいという感情――そして、誰にも渡したくない、自分だけのものだという想い。
 枯れたと思っていた自分の心がこんなに強く動かされるとは。
(だが、悪いものではないな)
 生まれてからこれまで、自分をまともに見てくれたのは母親と師だけだった。
 百年ぶりに出会えたこの少女を欲しいと思っても、おかしくはないだろう。

「――もっとまともな家を建てるか」
 洞窟を見渡してエーリックはつぶやいた。
 ヒナノはこの洞窟に満足しているようだが、おそらく珍しいからで、すぐに苦痛を感じるはずだ。
 その前に居心地のいい家を作ってしまえば、この山から出ようと思わなくなるだろう。
 ヒナノを慕う魔物がチョロチョロしているのは目障りだが、彼らの存在も彼女をこの山に結びつける理由の一つならば仕方ない。

「家を建てて。トイレも欲しいと言っていたな」
 エーリックはヒナノの顔をのぞき込んだ。
「あんたの欲しいものはなんでもやるよ。俺の番だからな」
 黒い前髪をかき上げると、エーリックは顕になった額に口づけを落とした。
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