空虚

神崎文尾

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廃校の中で

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 もう、あと何センチかだ。それで終わり。
 なのに、妙な浮遊感が僕を包んでいた。目をつむっているわけでもないから、外はよく見える。
 一階の窓が過ぎ去らない。浮いたままの僕は、逆さになって、学校内の誰かと話している誰かの後ろ姿をじっと見ていた。
 それは、豪壮な菓子細工のような女性の後ろ姿だった。うなじがはっきりと、しかし主張しすぎないように作られた白い服―――巫女?そんな格好だ。紅白のはっきりとした色合いが、木造で地味な廃校に変に映えていた。
 巫女服姿のその女性は、はっきり怒っているようだった。さかさまの視界から見ても、よくわかる。夕焼けで赤く見える女性の顔は、怒りの紅潮も混じっているようだった。
「こらあっ!」
 女性は窓から身を乗り出し、僕をぽかりとたたいた。その瞬間、あ、と口から声が漏れた。
 女性の頭には、狐のような耳がついていた。つけ耳?あ、違う。そう自然に思えてしまう程だ。誰が犬に耳がついていて疑問に思うだろう。ただ、この場合、美人と称してもおかしくないような女性に、ぴょこりとそれがくっついているのが、妙に滑稽に映った。
「なあにをしておるんじゃ!大バカ者!」
 ぷかりとさかさまになって、浮かんでいる僕の胸倉をつかみ、強引に中に入れた。窓枠を超え、木の床に自分がたたきつけられる。痛い、少し肺から空気が抜け出た。
「きっさま!我が景気よくやっておるのに!なぜ上から落ちてきたのだ!」
「あ、え、う……」
 威勢のいい女性の声を久しぶりに聞いた気がする。こんなに声を荒げる人は身近にいなかった。僕の身近な異性は、その実最も遠い存在だ。
 女性は――いや、女性?人なのか?それすら定かではない。まるで人間と獣の良い処を合いの子にしたような存在は、間違いなく僕の知っている人間の定義とは反していた。
「おい!なんとか言わんかい!」
 何とも言えない、というか、腰が抜けてしまった。死線を超えてしまい、へなへなと床の上に膝を置くのがやっとだった。夕焼けが段々と沈んでいき、廃校の中がやや暗くなっていった。
「そ、そのう―――」
「なんじゃ、声が出るではないか。うむうむ。何もしゃべれんなら、こちらが大上段に構えねばならぬが、そうでないのなら重畳。しかしだなあ、なぜ上から落ちてきたのだ」
「し、死に」
「死?あ、自決か。なんとまあ、愚かなことよの。うん?あ、これは洋モクか?」
 ころりと落ちた、僕の煙草。狐耳をピコピコさせながら、女性はその小箱をもてあそんだ。
「え、ええ」
 マシンガンのように口からポコポコと言葉を出す彼女は、だいぶ楽しそうだ。先ほどまで景気よくやっていた、と言ったのは嘘ではないらしい。朱塗りの酒杯が置かれ、その中にはなみなみと酒が入っていた。そのそばにはひょうたんが一つだけ置いてあった。
「うむむ……うむ」
 何かを唸っている。聞きたそうにしているので、僕はそちらに水を向けた。
「吸いますか?」
「ええのかの!?」
 乗り出すように聞く彼女に、僕は圧倒されるようにうなずいた。女性は嬉々とした笑顔を見せながら、いそいそと中身を出し、口にくわえた。
「なんじゃ、馬鹿者。ずいぶんと残っておるではないか。このありさまで死のうとは、なんともはや、贅沢な奴よ。ん……うむう」
 手馴れた様子で煙を吐き出した。厚みのある唇が満足げに動く。僕はそれをただ、呆然と見ていた。先ほどまで、死のとば口まで行っていたのだ。そこから正気に戻るまで、少しばかり時間を要したが、その時間を与えられてなかったともいえる。
「匂いが独特じゃのう……こりゃ、ずいぶんと癖がある。それに、やけに軽いの」
 軽いのは、何もタールが少ないからじゃないと思う。だって、吸い込まずにただ吐き出しているだけなのだ。それで軽い扱いをされたら、JTは怒るだろう。
「あの、それは、吸い方が」
「なぬ?煙草の吸い方は万事が吐き出しじゃろうて。そのまま吸っては喉がいとうてやれんであろ?それに貴様はえらく小さく、若いのにタバコの吸い方を知っておるとは思えんぞ」
 ハスキーな声でそう言った。いや、そんなのはスマホだのなんだので、いくらでも調べることが出来るのだ。実体験がなくても、それにそぐうような話し方はいくらでもできる。
「うん?」
 女性が後ろを向いた。教室であるはずのその部屋の中央部を向く形で、彼女は何か、僕に見えない誰かと話しているようだった。
「吸い込む?はん、貴様の持つ金鵄と一緒にするな。こちとらのキセルは一点物の江戸物よ。吸いさし?馬鹿抜かせ。紙切れなんぞ口にさせるかい」
「あ、あの」
「ああ、ボン。貴様に言うとるのではないのだぞ。まあ、自殺はよしとけ。ことここにおいてはなぁ。我も、こっち。ようけ死を見過ぎて、とっさのことで止めたけんど……ほいでも、なんで死のうとしたんな?」
 彼女が僕の方を向き直した。よくよく見ると、うっすらと顔におしろいが塗ってあり、頬に紅化粧をしている。なんだか――――。
「よ、妖怪……」
 小声で言った。そのはずだったのだが、彼女はいきなり目を剥いて怒り出した。明らかに機嫌が悪くなり、持っていた朱塗りの盃で、べた座りしていた教室の床をたたいた。
「なんな、おどれ。我を妖怪と抜かしたか?」
「は、え、あ……はい」
「ほほ……面白いことぬかしやがる。我をあのような存在と同じに扱うな。不敬な」
 なにが癇に障ったのか分からないが、彼女は青筋を立てて何とか怒鳴りつけるのを抑えている様な顔をした。その端正な顔でも一番目立つ、切れ長の長い目。開いているのかそうでないのか分からないほどの糸目だが、長いまつげがぴくぴくと動いているので、おそらく怒っているのだろう。僕は床についている足を組みなおした。特に意味のない行動だった。
 目の前の―――おそらく、いや、間違いなく人ではない存在。盃を持ち、ひょうたんでそれを満たしていく。
「ま、お主ら人がそういう簡単な分け方をするのは分かるわい。貴様らは弱い。イワシの群れのようにな。そのくせ頭がいいものだから、白黒つけようとする。無理やりにでもな。そうなると、我は人ではない」
「や、やっぱり」
「狐の耳を生やした女子がおると思うか。つうても、最近は我のこの素晴らしい耳に憧れたか知らぬが、そうした形のつけ物をつけとる者もおるな」
「ええ、まあ、そうですね」
 知り合いにそうした類がいるから、一応そう言った。
 コクコクと盃を傾け、飲む。飲み干した後、ぶはっと息を吐いた。酒臭いにおいが充満した。
「う……」
「なんじゃ。酒に弱いのか?」
「い、いや、飲んだためしがなくて……」
「ほう。それはいかんのぅ。呑むか?」
「え、ええ……」
 同意とも、否定ともいえない声が出た。彼女は、先ほどまでの渋い顔をやめ、大きな口を少し横に伸ばし、口角を上げ、ニヤリと笑った。
「何を遠慮しておるのやら。どうせ捨てた命であろうが。それならば、死への一盃くらい構わぬであろ。ほれ、ほれほれ」
 盃になみなみ注いだ酒。澄み切っていて、雑味というものをいっぺんも感じさせなかった。僕はおろおろしながら、それを受け取る。盃の大きさに戸惑い、少しこぼしてしまいそうになった。
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