嫌われ者の女神たち

神崎文尾

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警視庁前 VSマスコミのち飲み会

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 警視庁を出ようとしたところで、ハイエースが入り口付近に止まり、そこからぞろぞろと不健康そうな一団が現れる。まずい、マスコミだ。私がここに居ると色々大変なことになる。木場の影に隠れようとしたが一歩遅かった。目ざとい何人かが彩音の姿を見つけるやいなや、足早に近づいてくる。
 彩音は踵を返し、警視庁に戻ろうとした。
「神戸!」
 聞き覚えのある声がする。芳香だ。ますますマズイ。ほかの連中ならなんとでも言い訳できるし、ちょっと強引に切り抜けることが出来るが、全寮制の中学五年間を一緒に過ごし、部屋から部活に至るまでほとんど一緒だった彼女の取材を断ることは出来ない。後々、めんどくさいことになる。
 ええい、ままよ。
 彩音は足を止め、ダッシュで追いかけてくるマスコミの一団と対面した。
「神戸中尉!何があったんですか!」
 まただ、また毎一。それも同じ記者。凝りもせず、いや、今日は拳銃を持っていないし警視庁だから抜き撃ちもしないと踏んだのだろう。この間より居丈高に取材を始めた。
「なんでもないですよ。それより皆さんはなぜここに?」
「ふざけないでください!絶対何かありましたよね!じゃなきゃ説明がつかないでしょ!」
「だから、何でもないって。な、木場」
 同意を求めるが、木場はしどろもどろとしていてまったく役に立ちそうになかった。突き出されたICレコーダーには、頼りない木場の声が入っているだろう。
「神戸、そもそもなんでここにいるんだ」
 一団の一番奥。カーキ色のハンチングを被り、いつも通りのサスペンダー姿の芳香がいた。
「野暮用ですよ」
「野暮用?ぜひ聞きたいね。どうして護廷隊所属のお前が警視庁なんぞに用があるんだ。言ってみろよ」
「言う必要はないでしょ、先輩」
「あるさ。お前は今時の人なんだ。関係者はお前に注目しているし、私たちにとっても扱いにくい存在なんだよ。いいからさっさと喋ってくれ」
「黙秘します」
 彩音の言葉に、芳香の目が光る。プライベートは分け隔てなく接してくれる人格者の先輩ではあるが、そこはそれ。職責を果たすためにはそこを切り離している。
「黙秘するほどの事情、ってわけか?」
「そもそも、皆さんはなぜここに来たんです?私としてはぜひそこの事情緒知りたいですね」
 しらばっくれてみたが、その言葉を本意としてとった記者はほとんどいなかった。会見を用意していたはずの警視庁職員も、玄関前でできたぶら下がり会見に目を白黒させている。
「簡単な話さ。警視庁から発表があるから、各紙の事件番が集まってる。それだけのことだよ」
「なら私の方だって、簡単な話ですよ。ちょっとした野暮用があったから、ここにいる。免許の更新かもしれないでしょ?」
「わざわざ警視庁でやる理由がないだろう、それは。だいぶ苦しいんじゃないか?」
 記者の一団はいつの間にか、芳香の前に道を開けていた。なんとかおこぼれをちょうだいしたいとばかりに、目をギラギラさせている。
「ちょ、ちょっと待ってよ!今月はうちが筆頭質問社よ!」
 その道に待ったをかけたのは、毎一の女記者だった。大方この間ミソをつけられたのを妬んでいたんだろう。彩音はこれ幸いとばかりに、一瞬出来たすきを逃さない。
「野暮用が終わったので帰ります。早く会見場に急いだほうがいいですよ。何らかの重大な発表なんでしょうしね」
「お、オイ!なんだそれ!なんでお前がそんなことを……」
「とにかく取材なら護廷隊の三津田司令の許可を取ってください。では失礼、木場、行くぞ」
 未だにしどろもどろしている木場を、半ば強引に連れ出した。後ろから芳香がなんだかんだと騒いでいたのが聞こえたが、その内容は彩音を呼び止めるものではなく、先ほどの毎一記者を説教しているものだった。

 ※

「……とまあね、こういう具合に逃げ出したわけよ」
「無茶するよなあ、中尉も」
 たまにはどうだい、と帰ってから恵美に誘われた。木場は当直だったからこれから仮眠をとる、と言うので、夕方、まだ日の落ち切らない時間帯の午後五時ごろ、外出許可証をもらって都心に出てきた。
 こうしたとき、二人が行くところは決まっている。赤羽にある「R of Grande」通称アルグラというステーキハウス兼バー。そこまで行くのに電車で十五分ほどかかるが、それをくつがえせるほどの居心地の良さが売りだ。
 赤羽の駅前にあるその店は、ガラス張りになっていて通り道からも客入りが良く見える。平日のアフター5を楽しむにはやや食事に寄り過ぎなアルグラはまったくガラガラだった。客が一人もいない。
「どうも」
「いらっしゃい……ありゃあ、神戸さんに栗峰さん?ずいぶんお早いじゃないですか」
 カウンターでぼおーっと突っ立っていたのは、サブバーテンダーの小川だった。忙しい時でもほとんどマイペースを崩さない男で、あまり客商売に向いている性質ではない。彩音と恵美がカウンターに着くと、キッチンの方からおしぼりを二つ持ってきた。
「どうぞ」
「どうも……ビールね。二つ」
「はいはい、了解です。二つね」
 三十代に見えるが、驚くことに小川の年齢は彩音と同い年なのだという。最初この店に来たときは、恵美に連れられてだったが、思わず敬語で対応した彩音を二人してくすくす笑ったのを覚えている。
 目の前にあるビール注ぎを器用に動かして二つ分のビールを注いだ。
「はい、お待たせです。ビール二つ。ゆっくりしてってくださいね」
「いいのかな?こっちには護廷隊の誇る蟒蛇がいるんだけど」
「はは……うちは一応バーですからね。その蟒蛇の皆さんでも納得できるぐらいにはそろえているんです。ですが、痛飲もほどほどに。明日に差し障りますぞ」
「大丈夫だって、儲けさせてやっからさ」
「いやあ、儲けさせてもらっても、こっちのノルマがきつくなりますからね。とりあえず思うがままに飲んでいただけたら、これ幸いですよ。何か食べます?」
「いいよ。しばらくは言われたとおりに痛飲しておくさ」
「はいはい。どうぞ、お付き合いしますよ。何かしらつまみは?」
「とりあえずはこのままに。小川君、あとで何か頼むから、のんびりさせといて」
「了解です。隊長殿」
 せっかく気を抜いているのに、ここでも隊長殿は気疲れするな。苦笑しながら、グラスに入ったビールを煽った。薄暗い店内に、ビール。高ぶっていた気持ちが少しは落ち着いた。
「ふう」
 バーカウンターの裏にあるキッチンに向けて、小川が二人の来訪を告げたようだ。ぞろぞろとカーテンを翻してアルグラの店員たちが出てくる。中でも女性の山中シェフは一番と喜色をあらわにしていた。
「久々じゃん。寂しかったよ。ずいぶんご無沙汰しとったしさあ」
「仕方ないでしょ。忙しかったのよ……今日だってマスコミ対応。しんどいったらないわね」
 山中はその言葉に小首をかしげた。元地方紙の記者をしていたという小川だけは、さもありなんとうなずくが、店長の濱崎や、ウェイターの松木には理解できないようだった。なにせ彼らにとってはマスコミを如何に味方につけるかが成功への一里塚なのだから。
「一杯おごるよ。全員、好きなの飲みなって」
 すでにいっぱい開けた恵美が笑いながらそう言った。
「いいんですか?」
 小柄な体つきをした松木が一番に言った。すばしっこそうな体型をしていて、その見かけに能わず、四十人以上のパーティーを一人で采配したこともあるらしい。
「ああ、いいよ。若者は酒におぼれてなんぼだ」
 恵美は流石に年下年上かまわず部下を率いているだけあって、こうした機微は人一倍ある。
「私栗峰さんと同い年なんですけどね。その理屈で言えば、今日のスタッフに若者はいませんよ」
「そうだっけね。ま、そんなことは関係ないさ。私も若者、あんたらも若者。若手がそろった飲み会となりゃ、少しは無謀になるもんだ」
「こないだみたいに駅まで送らなきゃならないのは勘弁してくださいよ」
 小川が苦笑と共に余計なことを言う。眼鏡をかけ、遠近が狂いそうなほど大きな顔をしている彼を、恵美はじとりとにらんだ。
「そういうとこだぞ、お前よ。言葉はしっかり考えて喋れ」
「はへ?」
「お前にゃおごらん。ちゃっちゃカクテル作っとれ」
「ちょー?そりゃないでしょ。軍曹殿」
「じゃかましいわい。何が軍曹殿だ。お前一回でも従軍したのか。未だにフリーターだなんて、お母さん泣くぞ」
「一応、国防軍は受けましたよ。だめでしたけどね」
「うん、よくわかるわ。いいから早く注げ、阿呆」
 ぶつぶつと文句を垂れながら、カクテルを作り始める。コケの一心というか、彼の手つきは素人の彩音が見ても堂に入っている。前にいたオーナーが飲食店上がりの厳しい人だったから、ビシビシ仕込まれたんだとこの間聞いた。
 そのうち、山中と濱崎はキッチンに移動し、ホールにいるのはバーテンダーの小川と、ウェイターの松木だけになった。おごってもらったビールを大切なもののようにちびりちびりと飲んでいる。小川はおごってもらえなかったことに不満を隠そうともしていなかったが、それなりに話をつづけていた。
「神戸さん、ここ何か月か、えらく大変だったんじゃないですか?」
「うん?そりゃあ、そうよ。マスコミに写真が出て、えらく苦労したわよ」
「やっぱりねえ。僕もマスコミの一員でしたからね。あれもまた大変なんですよ」
「そうなの?」
 先輩である芳香の顔が浮かんだ。彼女は中学時代から好き勝手やっていたイメージがあったから、そこまで大変な目にあっているようには思えない。
「そりゃそうですよ。新聞ってのは新鮮な刺身みたいなもんですよ。その上こんだけインターネットがみんなの手元にある時代に、新聞はすでに二手三手遅れた情報産業ですよ」
「古巣をよくもまあそこまでけなせるわね」
「僕のいたとこはかろうじて協同通信に加盟しているだけの弱小新聞ですもん。稼いでないから記者もいない。カメラなんて自弁ですよ」
「仕事道具は自前の方がいいんじゃない?私の愛用のナイフも自前よ」
「それも一考の余地ありでしょうけどね。一考させないからやめたんですよ。こっちの方が性に合います」
 本当にそうだろうか。彩音は覗くような視線を小川に向ける。
「怖いな」
「あによ。別になんもしてないでしょうがよ」
「いやね。まあ……新聞、読みましたからね。それにここに来る人には新聞記者もちょろちょろ来るんですよ」
「いやなこと聞いたわ。噂をすれば来ちゃうんじゃないの?」
「まっさか。来ると言っても、大したのは来ませんよ。大した奴はこんな場末で飲まなくてもいいでしょ」
 酒を飲みながら言う小川には悪意がないことはわかるが、いささか口が悪すぎる。人間関係では相当な苦労をしたんじゃないだろうか。関係はないが、同年代として少々危うさを感じる。
「あんたさあ、そんなこと言っていいのー?濱ちゃんに聞かれたらうるさいことになんじゃなーい?」
 すでに二杯目を注いでいた小川に、恵美が絡む。
「いいんすよ、旦那」
「女に向かってそれはねえわ」
「実際ね、ここ赤羽の駅前ですから、何のかんの食えるんすよ。僕の給料払うくらいの余裕はあるんす。ほいでもね、今、不況っすから。大手強くて、中小の飲食なんざ、過当競争の渦の中。一円でも安く、一秒でも早くですよ。この競争に勝てるのは、後方の安定した大手だけよ。こっちはじり貧」
「それが、さっきの話と何の関係があんだよ」
「つまりね。ここに来るのは、安月給でも、そこそこのモノが食べたい、ゆっくりしたい、っていう中産階級なんですよ。なんだかんだ言っても、日本の消費者の概念は中流ですからな。ウチの顧客は有象無象におるのです。ニッチな市場で生きているんですよ」
「ようわからんな。それで、あんたはそれでいいのかい?」
「僕も中流の庶民ってこってすな」
「意味が分からん」
 漫才じみたやり取りを、彩音はほほえましく見ていた。何のかんのと口は悪いが、周りのフォローもあるのか、それともデカい顔に満面浮かべたニコニコ笑顔のおかげか、小川こそニッチなキャラクターを独占しているように見えた。
「それよりも、今日はこんなにだらけてていいの?」
「あー、かまわないですよ。どうせ、予約もないし、こっちとしては金を稼ぎたいわけで、あなた方が蟒蛇であればあるほどうれしいってもんです」
「言うわねえ」
 その言葉につられたのか、恵美のピッチが上がっていく。この店はビール一杯七百円と中の上と言った感じの値段で酒を売っている。なるほど、誰かにおごれば見栄を張れる上に、財布にもそれほど厳しくない。まさしく中の上、中流のためのニッチな経営展開をしているわけだ。小川がやっているわけではないだろうけど。
 彩音のピッチも少しずつ上がっていった。元々下戸ではない方だ。酒の席が作り出す空気は好きだし、それが親友を隣に置いてだというのなら言うまでもない。通りに目をやると、誰も彼もせかせかと動いていた。当然だ。まだまだ働いていても全くおかしくない宵の口。そんな時間に酒を飲むのは、なんだかとてつもない贅沢のように感じた。
「実際どういったお仕事なんです。神戸さんは?」
「あん?仕事ォ?」
 少々ろれつが回らなくなる。
もちろん頭はすっきりしているが、久々の呑み、それも恵美の早いピッチにつられた席だ。いつもより酔っぱらっているのは否定できない。小川はグラスを拭きながら、何となく静まってきたカウンターの空気を再燃させるために質問したようだった。
「新聞見てると、ストレス多そうな仕事じゃないですか」
「ストレスなんてどんな仕事にもあるわ。小川君だってそうでしょうが」
「そらまあ……お客さんの筋がいいおかげで、まあまあやっては行けていますけどね」
「うらやましいったら……こっちの客筋は最悪のその下ってとこかしら……」
「最悪の下?それはもう地獄でしょ?」
「地獄も地獄。大地獄よ。こればっかりは客層のいいあなたがうらやましくてしょうがない?」
「仕事を変えます?彩音さんがバーやったら僕飲みにいきますよ」
 笑えた。人を立てて、満足度を高める。必要とあれば何でもする。プライドが高い方だと思ったことはなかったが、死んでもごめんだった。商売なんて。
 笑い方が少しばかり暗かったからか、小川はさっと恵美の方を向いた。そちらは松木とぺちゃくちゃ喋っており、それなりに盛り上がっている。助け船はない。彩音と小川の間に気まずい空気が流れる。
「あっと……何か召し上がります?せっかくだからおごりますよ。安いやつ」
「太っ腹なんだか吝嗇なんだかわかんないわね。この前来た時には高いのめっちゃくちゃ勧めてたじゃない。お勧めはそれじゃないの?」
「僕の財布と人の財布は目方が違うんです。グラムとキロくらいは」
「あっそ。それじゃ、ミックスナッツでもくれる?」
「はい了解!」
 気まずい空気から逃れることが出来て心底安心したとばかりに、小川は足早に
カウンターからキッチンを結ぶカーテンをめくった。たぶんその中ではやばいだとかまずっただとか言っているだろう。別にそんなつもりはないのだが。
「ま、ここんとこ治安出動はないけどさ。あれこれ忙しくなったよな。流石世界の東京。変な奴らのメッカってわけだ」
 入ってきた新規の客に、松木が対応しに行ったのを見計らい、恵美がビールを煽りながら言った。さっきからこれで五杯目。ビールばっかりだと太りそうなものだが、恵美の身体には無駄な脂肪一つない。もちろんバストも。スレンダーというにふさわしい体型だ。
「あれのせいよ、あれの」
 彩音は勇ましい軍艦の書かれたポスターを指さした。二か月後、横須賀沖で海軍の大演習が行われると記した宣伝ポスター。国防海軍が友好国すべての海軍を集めた観艦式をするというのだ。何でも今上天皇の治世が二十年を迎えたという記念行事として真っ先に予算が組まれたらしい。いつものように韓国と中国からは抗議が来ていたが、これもいつものことだと無視していた。
 大きなイベントが関東圏であると、護廷隊の幹部は頭が痛くなる。一応首都の治安を守る名目の元、東京の警備につくが大変なのだ。東アジア全域のハブ空港である新東京国際空港には一日何十便と世界中から飛行機がやってくる。要人もだ。そうした際に儀仗隊めいたこともやらなくてはならない。
 彩音にとってはその儀仗隊任務が一番嫌なのだった。空手をやっていて近接格闘では国防軍全軍を入れても五指に入る彼女は、要人警護に引っ張りだこになる。連日要人の相手はさせられるわ、内容が決まり切っている紋切型のあいさつを何十回もそばで聞かされるわ、ろくなものではない。
 そして、その任務には、もう一つろくでもない噂がある。儀仗隊としての席がある限り、昇進の可能性が限りなく低くなる、という噂。別に誰が公表しているわけではないが、実体験として実しやかにながれている噂だった。
 考えてみれば当然で、要人警護が出来る軍人、SPなど数が知れている。一から育成するにしても多大な時間がかかるため、上としては、その間の任務に集中してもらうためにも昇進など考えても欲しくないのだろう。
「あー、あれね……世界中の海軍と王家の名代を招待したっていうあれ」
「もうね、要人がわんさか来るわよ。たまらないわねえ。緊張しっとおしだし、おトイレにも行けないわ。恵美、代わってよ」
「どうせ私もそこに入るんだぜ。あれだよ。アメリカ大統領閣下の道を守る狙撃兵。私一応元オリンピック候補だからさあ。来ちゃうんだよね。警視庁と国防軍以外からも選抜するかどうかはわかんないけどさ」
 卓越した狙撃能力が、花開くことがあれば、それが見送られてしまうこともある。射撃において、恵美はそうした経験をしていた。二十二才、二年前に行われたジャカルタオリンピック。東南アジアで初めて開かれたそのオリンピックの候補に恵美は選ばれていた。合宿を済ませ、一時帰宅したときには意気揚々と選手団のジャージを見せてくれた。
 だが、彼女がジャカルタに行くことはなかった。帰宅したその日、都内で暴漢が出たとの通報があった。銃器を所持していると確認した彩音たちはすぐに出動し、隊員一名が重傷を負ったが、それを鎮圧することが出来た。
 重傷を負ったのは、恵美だった。
 頬に第二度の火傷。やけくそになった犯人が足立区の工業地帯に逃げ込み、バラック同然の物置に火をつけて自殺しようとしていた。狙撃班だったが、出番のなかった彼女は本能的に犯人確保に動き、火傷を負った。全治一か月。合宿を辞退し、代わりに選ばれたのはSAT所属の婦人警官だった。
「まあ、アジア大会で一位になったあんたなら、そういう話がきて当然ね」
「そゆこと。だから無理だね、たーいちょう」
 赤くなった顔には、ただれたほほの火傷が目立つ。無意識に彩音はそこから目を話した。
 自分のせいだ。
 私が、突っ込んでいればよかった。相手はポン中で照準を合わせることも出来ない中年男性だったじゃないか。火を恐れず突っ込めば、十秒もかからずに制圧して逃げ出せたはずだった。オリンピックに出ることが出来ていれば、恵美だって嬉しかったはずだ。たとえ全選手最下位だったとしても―――いや、これはあり得ない。恵美が射撃を外すことはどうにも思い浮かばなかった。
「お待たせし―――うん?あ、いらっしゃいませ!」
 ミックスナッツをもってカーテンを開けた小川は、一瞬戸惑いを見せた後、彩音の後ろにいる人影にあいさつしたようだった。自分の後ろ、そんなところに案内してどうする?松木。いや、松木がしたわけじゃないだろう。つまりは―――。
「こんばんは、中尉殿」
 ハンチングが右手のすぐそばに置かれた。最近は彼女のハンチングの皺の数まで覚えてきてしまう程、これをよく見ている。
「先輩……」
 振り向くと、芳香が引きつった笑いをしたまま、立っていた。

「へー、田丸さんは好日の記者なんですか。そりゃすごい」
「すごくないわ、全然。夜討ち朝駆け当直勤務。こんな格好悪い仕事とは思ってなかったな」
「同感です。僕はそれが嫌ですぐにやめた口ですけどね」
「なんだ、小川君。君も記者だったのか?」
「大昔ですけどね。地方の県内紙。報道部しかなくて、写真部も持てないほどのしょぼい田舎新聞ですよ」
 その割には、どこか誇るように小川は言った。彩音と恵美は、というと、唐突に降ってわいたような芳香の登場に驚き、かつ記者の彼女にうかつな情報は漏らせないという都合上ずっと押し黙っていた。そこは幹部である彩音や、軍曹まで上り詰めたベテラン軍人の恵美だ。口を割ることはしない。
「地方紙は青息吐息だよなあ……好日だって給料高い以外には大したメリットないぜ。定年は五十才だからな」
「早いですね、それ。国防軍よりも早い定年で、天下りもないんでしょ?」
「報道稼業自体がもう限界さ。無駄飯ぐらいの年寄りを守ってやる体力はないんだよ。だから若手が使い走りして何とか支えてる。いっそ全員個人で雇って私が社長になりたいくらいだよ」
「ほへー、そりゃまた。野心家ですね」
「五十才定年制もその走りみたいなもんさ。記者みたいな泥食い稼業を三十年やってて、飯の種も見つけられないならとっとと死ね、ってわけよ」
「おー、怖い怖い。やめてよかった」
 そうは言うけどさ、生活は大丈夫かと心配を始めた。なんだかんだ言って流石は年長者で先輩なだけはある。こうした余裕は流石高給取りの大手新聞社社員だけあった。
「そんでさ、何でもいいんだが……ネタはないか?」
「特にないですけどね。漏らせる情報は一つもなし。大体そちらの新聞は政府寄りでありがたくはありますけど、所詮新聞社でしょ。人を傷つけるのが仕事だ」
「違うさ、違う」
「違うって何が?」
「あのな、金を一番手っ取り早く稼ぐ方法は何か知っているか?」
「さて、恵美?」
「わ、私……?」
 全く話に関与していなかった恵美が、ビールを少しこぼす。泡だらけになった口元をおしぼりでぬぐいながら、答えを探すように目をうろうろさせ始めた。
「僕なら、けなげに働くっていうとこですけどね」
 間をつなぐように小川が口を開く。
「そりゃまあ、そうだよ。それは最低限さ。目の前の仕事に真摯に打ち込む。でも、それにだって種類はあるだろ?」
「ありますね。ここの給料と大蔵省じゃ二倍は違う」
「なんでわざわざ大蔵省を出したのかは知らんが……?大蔵省?」
「いや、違った。財務省でしたね。失礼」
「だからなんで……まあいいや。つまりはそう言うことだ。真面目にやってても稼げるかどうかは職種で決まる。どうだ?」
「うーん、栗峰さん」
「ちょ、ちょっと待てって……ええと、稼ぐだろ?」
 少しだけ唸り、恵美は話した。
「やっぱ、株とか証券とかじゃね?動く金が段違いだしよ。完璧に見切って神の見えざる手を理解すれば、コスパよく稼げる」
「それは悪手だ。それを理解出来れば、会社は倒産しないし、計画経済を発動してもっと繁栄が簡単になる。だが、そうはいかないだろ?会社はつぶれるし、週明けに電車に飛び込むやつはまだまだたくさんいるんだからよ。証券会社だって血眼にはなりゃしねえぜ」
「じゃあ、なんです?」
 ビールを煽って、待ちわびている三人に向けて芳香が言葉を発した。
「簡単だよ。弱い奴をいじめて小金をせしめ続ける。これにかなうもんはねえ。自分が弱いと思うなら、強い奴の脇にいてコバンザメすればいいんだよ。それだけさ。それを真面目に真摯に続ける。そうすればいつか大金持ちだ」
「格好悪いなあ、それ」
 あんまりにもあんまりな結論に、つい彩音が口を挟んだ。
「格好云々じゃないよ、要するに手っ取り早く稼ぐ法則はこれ。新聞ってのは結局弱いからな。国だ軍だというものを動かす権力はない。だけど民衆に情報を知らせる窓口として機能しているうちに、民衆を扇動する信頼を得た。だから、時に脅し、時に仲良く権力機構と付き合う。さっきの理論で言えば後者だな」
「卑怯ですね、やっぱり」
「食うため生き残るために、卑怯だなんだと関係ないぜ。ま、そんなことはどうでもいい。ネタだ。大手も地方も、今は一斉に護廷隊をたたいている。だけど、ここで私たちが逆ザヤ食らわせてみろよ。注目が集まる。その注目がほしいんだ」
「まあ……あー、あるっちゃありますよ。恵美、あれだよ」
「あれってなんだ?」
 難しい話はごめんだとばかりに酒をかっ食らっていた恵美は、うんざりだと顔に浮かべながら話を返す。
「あれよ。護廷総隊技量確認」
「ああ、あの運動会か。確かにほほえましいって言えばそうだね。なるほど、良い案だ。すぐ来週だし、師岡さん喜ぶよ」
 彩音の提案した護廷総隊技量確認とは、毎年五月の連休前に行われる、護廷隊員の技術の向上を目的とした大会だ。順位をつけることで、射撃や格闘術などの五種目を行い、優勝者には報奨金が与えられる。五百人全員が強制的に参加し、逃げようがないので、ふてくされることすらできないのだ。どんなに美人でも、技量最下位だとそれだけで新人隊員から軽んじられる原因になるため、必死である。
 彩音は格闘術の師範教官、恵美は射撃の師範教官をそれぞれ務めているため、猶更必死になるのだ。一応審判委員を務めてはいるが、模範試合や模範射撃といった注目を浴びる機会が多いため、貧乏くじだと思っていた。二人とも一応今まで下手をこいたことはないから安堵していたが、今年がどうかは分からない。
「それ、いいな」
「カレーフェスタやってる海軍とか、富士山麓で戦車の演習やっている陸軍にはとても勝てませんけどね、それなり盛り上がりますよ」
「なんでそれを教えてくれないんだよ。せっかくだから一大イベントにすればいいじゃねえか。年頃の女性が組んずほぐれつ。週刊誌に売れば、適当なキャッチコピーつけて売ってくれるぜ、間違いない」
「いやあ、やめといたほうがいいぜ。陸軍演習以上に危ないし、こっちは治安部隊だからさ。怖がられてなんぼの部分もあるわけよ。なんなら、近づいてくんない方がいい。それぐらいの責任感は一応あるんだぜ」
 乗り気になった芳香を諫めるように、恵美が言った。事実だ。彩音も同感である。元々首都の憲兵隊がもととなった部隊だ。憲兵がいるほど治安が悪いかどうかは老いておいて、国民を守る国防軍とは違い、護廷隊は治安を守り、陛下の側所を守るのが任務。その意味は、民衆と仲良しこよしでなくても別に構わない側面を持っていた。親しみなんぞ要らない。石をぶつけてくれてもかまわない。それでも愚直なまでに治安は守る。災害があったとしても、他国との戦争になったとしても、都民を少々殺しても、治安が乱れることは絶対に起こさない。
 だから、国防軍に比べると護廷隊の退役者は多い傾向にある。言わずもがな、悪役ポジションにへきえきした者、親族の手前、体裁の悪さ。そうしたすべてをひっくるめた者も少なくない。国防軍と、警察の悪い処どりとはよく言ったものだと思う。
「昔、石黒首相っていたでしょ?自衛隊を国防軍化して、中韓とのパイプを切ったっカリスマ」
「いたな。あの時は新聞各紙が総力を挙げて大バッシングしたもんさ。なんならマスコミの力で強引に政権交代劇を起こそうとしていた。なんだかんだ言っても民衆の顔色をうかがうのが政府だからな。それで?」
「その人が護廷隊を作った時に言ったそうなんです。諸君らは都民からひどく恨まれるし、碌な目に合わない。きっと退役するまで日の目を見ないものも多くいるだろう」
「当たってるな。大概そうだぜ」
「続きがあるんです。しかし都民が諸君らを頼るようになった時は、首都が壊滅する何かが起きた時だ。艱難辛苦が堪えない職業を選び、ほめられることもないだろう。だが、耐えてくれ。君らが自分の仕事は、大勢の人が笑っているときに泣き、大勢の人が怒るときにはそれを抑え、喜んでいるときには声もなく立ち去ることだ、とね」
「働く気失せる言葉だなあ」
「そうかもしれません。ですが、国防軍も護廷隊も、似たようなものなんですよ。活躍するときはいつだってどこかの誰かが大変な時。私達の活躍が日の目を浴びる時、みんなはそれを見ている暇なんてない時なんです。それだけのことなんですよ」
 我ながら達観している。誉められるのが好きな人間はすでに護廷隊を去っている。誉められることもなく、認められることもなく、ただ淡々と目の前の行動を作業と割り切り、粛々と勤め上げる。国防軍と護廷隊が決定的に違うのは、そこに棒力があるか、ないかだけだ。未だに実戦の機会に恵まれない張り子の虎である国防軍と、治安出動を何回か繰り返し、創隊以来二十年で四十人以上の殉職者を出している護廷隊。暴力的な治安出動が、もっと暴力的な犯罪を呼び寄せている様な気になる。
「だから、ことさらに怖いイメージを作っているんですよ。これでもね」
「わかったけど、今までなんで取材NGだったんだ?そこを知りたいよ、私は」
「簡単ですよ。全くキャッキャうふふも望めないほどガチだってことです。射撃で言えば、実弾を使っていますので皇居内の一部でしか行われませんし、格闘術に至ってはリーグ戦の総当たりで予選を行いますから、決勝トーナメントあたりになると複雑骨折の患者が複数いるのは当たり前、裸締めにされて失禁する奴も出るし、とにかくえぐいんです。K-1やプロレスはやはり興行だけあって人を楽しませる部分には事欠きませんが、決定的にかけてますからね。こちらの方は」
「……私、記者でよかったよ。空手黒帯程度ではどうにも対抗できそうにないな」
 失禁も、複雑骨折もすべて彩音の実体験だ。しかもその二戦とも、護廷隊の広報をしている師岡曹長によるものだと知れば、詰め寄る記者も少なくなるだろうな、と思った。

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