嫌われ者の女神たち

神崎文尾

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六十年前 東京にて

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 一

 緊張を抑えるのは、簡単じゃない。それくらいわかっている。神戸彩音は、深呼吸をしながら、目の前の書類の封を切った。ついこの間二十四才になったばかりだというのに、子どものように緊張している。トレードマークの白髪を含めた頭部全体が震えていた。
 見なければ、幸せなままかもしれない。
 あるいは、平凡な日常が続いてくれるのかもしれない。
 だけれど、この書類が届いてしまった以上、そうはいかない。見てませんでしたは通用しない、一社会人として。
 A4サイズの封筒から、一枚の紙切れが出てくる。
 その中身を見た瞬間、彩音は先ほどの深呼吸の比ではない大きなため息をついた。
「まじでえ……?」
 紙切れ一枚、それ以外封筒にない。それは不合格―――昇進試験に落ちたという何よりの証拠だった。合格なら、この書類にプラス、階級章がついてくるのだが、今のより星が一つ増えた大尉の階級章は見当たらない。落ちた、ということだ。
「やっぱ、無理かなあ……」
 皇居内にある護廷隊の本部、その私室で大きなため息。彩音は行き詰まりを感じた。今の中尉という身分に不満があるわけでもないが、進級したい欲はある。女性ながら中学を出て、幼年学校も出た。成り行きではあるが、一応目標としていた将校にもなり、三年。ここらでもう一段階上に行きたい気持ちは、やはりある。
 一人になって、書類見て、落ちてがっくり。私室の自分はあまり部下には見られたくないものだ。
 そんな気落ちした彼女の私室に、調子はずれの歌が聞こえてきた。一〇〇年以上前の軍歌、雪の進軍。ド下手糞な歌を、こうご機嫌に歌う人間を彼女は一人しか知らない。
「おー、彩音!どうだったよ、人事は!」
 赤毛で、大きなドングリ目と頬のやけど跡が特徴的な栗峰恵美が上機嫌そのままに、近づいてくる。彩音は、反射的に書類を机に伏せた。
「う、うん、ま、重畳、ってとこ」
「へー、じゃ、今度から大尉?おめでとう!部下も増えるかなあ」
 恵美は同い年だが、階級は下だ。高等小学校を出て、そのまま入営した彼女は、経験と飯の数は彩音より上。やりにくいことこの上ないが、ルームメイトの気安さで、部屋にいるときはため口で接している。
「そ、そっちはどうだった?」
「ふふふ、同じよ。じゃーん、見て見て!」
 人差し指と親指でつまんだワッペンを見せる。星が二つに増えていた。彼女は無事、軍曹に昇進したわけだ。なんだか変な汗が出てくるのを実感した。
「これで給料も上がるし、言うことなし!やっぱこの前の鎮圧よ。ほら、わざわざ千葉まで行ったあれ」
「う、うーん」
 鎮圧、といっても大したことをしたわけではない。せいぜい暴徒化した某病院の労組を取り押さえた。その程度の功績だ。ただ、負傷者も出たし、隊長である彩音にとっては頭の痛い出来事ではあった。
「いや、でもさ、マジな話、あんたが大尉になれば少しはマシになると思うんだよね」
「へ?な、なんで……?」
「うちらが鉄砲玉扱いなのもさ。結局女性蔑視だからでしょ。あんたもたかだか中尉なわけで。でも大尉となれば国防軍なら中隊長、特殊部隊でも隊長務めれる身分だもん。まー、女性でそこまで行く人なんてほぼいないけど」
 たらり、と汗が流れる。どうやら勘違いされてしまったらしい。大尉ではなく、たかだか中尉を抜け出せませんでした、なんて言える空気ではない。
「そりゃ……いま、日本じゃ女性が余ってるもの。仕方ないんじゃない?」
「ほーんの二〇年前までは、女性専用車両ってのがあったんだってさ。それなのに今じゃ、男性優位に戻ってる。なんか割食った気持ちだよね」
 恵美はふくれっ面でそう言った。
 元号がまだ平成だったあの時代は、まだまだ男性の数が多かった。当時四歳の子供だった彩音も、うっすら女性だけが乗った電車に乗り込んだ記憶がある。
 二〇年前、平成最後の年。その年に、日本の憲法が変わった。それまでの自衛隊の規模を大きくし、国防軍と改称、ライフルや迫撃砲などの小火器から戦車に至るまでライセンス生産を始めた。それまでの不況を解消するための雇用政策でもあったし、アメリカの属国である現状を打開する目的もあった。
 その政策を実行できたのは、その当時の総理大臣が独裁的な政権を維持できるほどのカリスマと、どぶ板戦術もいとわない性格だったのが大きい。野党や一部国民からの反対は大きかったものの、ちっぽけな堤防が津波に破られるようにあっさりと消え去った。
 新政策の代償は、いままでアメリカが払っていてくれた海外紛争地帯への出兵義務や、NATOへの参加。その他もろもろへの出血だった。隣国である韓国と中国とは、それを契機に国交断絶、その代わり、元から友好関係だった台湾を国として承認、東南アジア諸国とも反中路線を共に歩み始めるという名のもと、国交を強化した。一部の学者の中には、国際交流を隠れ蓑にした大東亜共栄圏の復活だと言われもしたと、彩音は教科書で読んだ記憶がある。
「男性がだいぶ減ったからね。今の人口、十七年前に、ごっそり減った男性の分だけ少ないんだってさ。それに今は少子小男性高齢化の時代よ」
「うーん、それもそうだな。男女比って四・六?」
「いや、今三・七。七が女性。ま、だから私たちみたいな対テロ特殊部隊もあるんだけどね。それも構成員全部女。化粧クサいって幹部会議で揚げ足とられるのは、何か理不尽かなとは思うけど」
「それもそうか。あ、それでさ……」
 恵美がするすると机の横に立つ、書類を見られたくなかった彩音は、腕でそれを隠した。
「な、なに?」
「見せてよ、大尉のワッペン。国防軍にいた時もあんまり見たことなくてさ。まあ、あのころは一等兵だから、じっくり見る機会もなかったしね」
「や……そ、そんなに変わんないわよ。これに一つ星が増えたくらいね」
 若草色の野暮ったい軍服、その襟元についているのが階級章だ。将校のそれは青地に金の糸で格子状の外枠が作られ、真ん中に金筋が入っている。少尉なら星一つ、中尉なら二つという風に増えていき、大将以外は三つ以上星が付くことはない。
「いーな、やっぱ青だよ。将校は冷静な思考の元作戦を遂行すべしで青なんだよね。クールだなあ」
「そ、それより軍曹の階級章、もっと見せてよ。そっちの方が私好きかも」
「お、どうぞどうぞ。ま、これで同期の出世頭だよ。実働続きで休みなしで働いた甲斐があったってもんだ」
 軍曹は兵隊の位からすれば相当の好意だ。一〇人で構成される分隊を任されるし、入営したての二等兵にとっては、軍隊を知り尽くした軍曹は恐怖の対象だ。将校にとってもそれは同じで、軍に入りたての少尉をいじめるのは古手の下士官だと相場が決まっている。
 恵美は高等小学校を出て、すぐに入営したから中学を出て、幼年学校に二年通っていた彩音より軍隊経験が長い。燃えるような赤毛と、様々なテロ鎮圧を経験している。赤地に金筋、星二つの階級章が輝いて見えた。
「おかげで助かっているわ。部下がかろうじて言うことを聞いてくれるのも、あなたのおかげよ」
「そいつはどうも。で、そろそろ返してくれると嬉しいな。すぐに縫い付けて自慢しに行きたい。新しく入ってきた新入りをいじめなくちゃならないからね。ま、私より前に、師岡曹長がそれをしているから、やさし目にしてやるとするよ」
 前線で戦う第一護廷隊を支える、後方支援部隊の第二護廷隊。そこの最先任下士官の師岡久美子は、女性で構成された護廷隊の中でも、最優秀の下士官だと誰もが認める女性だった。創設当初からキャリアを重ね、三十目前になった今も、サディスティックな笑みで新入りの将校や兵に恐れられている。
「師岡さんか、そりゃ、気の毒だね」
「まーな。あの人とは出来る限り会いたくないね。軍曹の階級章の星が少しずれるだけで見抜かれちゃうもん。あんたもすぐ出て来なよ。大尉」
「口の利き方」
「おん?……あ、失礼しました大尉殿。宜しくお願いします」
 訓練に行きたくないな、彩音はそう思った。行けばすぐに見抜かれる。自分が昇進試験に落ちて大尉になれなかったことを。

 皇居のすぐそばに、首都大演習場と呼ばれる大きな広場がある。日曜日は開放してピクニックに来る家族連れもいるが、れっきとした演習場だ。東京都内の中では一番大きいと聞いたことがある。国防軍とも両立して使うから、護廷隊の使用頻度はそこまで高くない。借り切れたのは、今日が二月の一日で新人隊員がやってくるからだった。同じように将校も。
 彩音はひどく億劫な気持ちで演習場に向かった。皇居を出て、半蔵門の方に向かうと、近代的なビルに囲まれた巨大な空き地が出てくる。彩音はここに来るたび、いつも億劫だった。平日も休日も、ここに来ると動悸がする。少尉の階級章をつけるまで、ここは無邪気に遊べる原っぱのひとつに過ぎなかったのに。
 巨大な広っぱの隅に、三列縦隊で並んでいる一団がいた。その一団と向かい合う場所に、恵美がいる。深いブルーの戦闘服。特徴としてはポケットが多い。下士官は兵隊よりも多くものを持つべきだという理論の体現だそうだ。三列縦隊を構成する女性たちは皆若く、つるつるの戦闘着がまだ板についていない。軍帽のかぶり方もよくわかっていないらしく、恵美は怒鳴りつけたいのを必死でこらえているようだった。
「はあ……」
 億劫なのは、これだ。軍人になって五年、幼年学校を合わせればもう七年もこの世界にいるのに、彩音はこの瞬間に全くなれなかった。自分を待ち望む不安でいっぱいの新入り達の顔。それにどういった態度で出迎えればいいのか、まだまだ理解しきれていなかった。
「隊長殿に、かしらーなかっ!」
 恵美は気楽なものだ。そう思う。本人の性格とも相まって、ああいった仕切りは大得意だ。やけど跡があるのもいい。結婚できるかどうかは置いておくが、ああした古傷持ちの下士官は、実戦経験者としてわかりやすいので、新入りも結構言うことを聞く。
 一方で、彩音は少し綺麗すぎた。自分は人並みだと思っている容姿は、他者から見れば羨望の念もわかないほど、とびぬけて綺麗だ。夜になると月明りを反射する銀髪、上にも下にも切りあがり過ぎていない眼。通った鼻、小ぶりな唇。美人と称すには十分すぎる道具立てがそろい過ぎていた。そんな彼女が、若草色の軍服を着ている様を見ると、年頃の少女は小さな嫉妬や憧れも知らないままに持ち、自覚のないままないまぜになって、愚痴めいた悪口になってしまうことが多々あったのである。
「ん……」
 背筋を伸ばして横柄に、鷹揚に。機敏な恵美の敬礼をあざ笑うような、ゆったりとした答礼。
 教科書通りとはいえ、やっている方も気持ちいいものではない。部下になめられないようにするための動作。
 ただ、それをするだけで、何人からか、感嘆の声が漏れた。恵美はあえてそれをとがめず、続きを促すように、彩音を見やる。
「入隊おめでとう。これから皇居、ひいては首都を守るため、力を貸してほしい。分からないことがあれば、速やかに先輩に聞くように。下士官は兵を娘のように、将校は下士官を仲間のように思って見守っている。一日も早く、君らが戦力になれるよう我々も努力する」
 早口すぎたかな。そう総括して、彩音は敬礼をした。
「隊長殿に、かしらーなかっ!」

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