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番外編6 メイド達の閑話
しおりを挟む「あたし、旦那様のこと狙っちゃおうかなぁ」
十一月の終わりが近づいた頃の、ある午後のことだ。
仕事がひと段落したので休憩室でお茶をしていると、レベッカがそんなことを言った。
「はあ?」
ミーガンは眉間に皺を寄せ、自分よりひとつ下の若いメイドを睨んだ。
「だって、あんなに素敵なんですもの。遊びでいいからお近づきになりたいというか」
レベッカは悪びれずに自分の思いを口にし、ポッと頬を染めた。
屋敷の主人であるカートランド侯爵マシューは三十代に入ったところだが、見た目はまだ若々しい上に顔立ちも整っていて背も高く、若い娘から見たら胸が高鳴ることもあるような素敵な男性だとは思う。ミーガンは昔から男性の美醜には特に興味がなかったので、若くてハンサムなご主人様だな、と思ったくらいだが。
「なにを言ってるのかしらね、この子は……。旦那様には、心底惚れ込んだ奥様がいらっしゃるわよ」
呆れたように溜め息交じりに零し、やれやれ、とアニーはお茶を啜った。
あら、とレベッカは不満げな声を出した。
「奥様なんて本当にいらっしゃるんですかぁ? あたし、こちらのお屋敷に勤め始めて半年くらいになりますけど、一度もお会いしてませんけど?」
「それは……」
言いかけ、ミーガンは言葉に詰まった。
レベッカが雇われたのは社交シーズンが始まる少し前のことで、すぐにマシューがロンドンに行ってしまい、リュネットがこちらに戻る理由はなく、彼女はこちらに戻って来ていない。その上、シーズン中にまた喧嘩をしたらしく、ヘソを曲げたリュネットが「当分顔を見たくありません」とはっきり言い切ったということだ。お陰でマシューはここ一ヶ月ばかり元気がない。その様子を見ていたレベッカが、お慰めして差し上げたい、という考えに至ったようだった。
「長く勤めたいなら、馬鹿な考えは起こさないことね」
やっぱり呆れた口調のままアニーが釘を刺した。
以前のマシューなら、相手が誰であろうと拒まなかったかも知れない。現にアニーが知っているだけでも三人のメイドに手を出していたと思う。
けれど、今のマシューにはリュネットがいる。二人が夫婦として落ち着くまでのゴタゴタを知っていれば、決してレベッカのような気は起こさないだろう。
しかしそのことを知らない新入りのメイドは、むぅっと唇を尖らせた。
「でも、旦那様がなんだかお可哀想で」
「そういうお二人なのよ」
「そんなご夫婦、いらっしゃいますぅ?」
「奥様が戻られたら嫌でもわかるわよ」
飲み終わったカップを持って立ち上がったアニーは、ちらりとミーガンに目を向ける。
「奥様も降誕祭には戻られるんでしょう?」
「え? あ、うん。ヴァイオレットお嬢様が寄宿学校に入られたから、お屋敷を空ける理由はなくなったしね」
今年の夏、リュネットの生徒であったレディ・ヴァイオレットは、本人たっての希望で、叔母であるメグとリュネットが思春期を過ごした寄宿学校へと入学した。その為、本来あと一年ある筈だったリュネットの家庭教師としての仕事は、二ヶ月前に契約解除となっているのだ。
そのリュネットがマシューと喧嘩したあと何処にいるかというと、義妹であり親友であるメグが出産を控えていた為、傍に付き添っているということだ。
そのメグも、少し早産ではあったが、今月の頭に無事に女の子を出産し、落ち着いてきたところだった。
「五日頃にこっちに来るって言ってたかな」
ミーガンはつい昨日受け取った手紙の文面を思い返す。
「……なんでミーガンさんがそんなことを知ってるんです?」
レベッカは物凄く不審そうな目つきでミーガンを見遣った。
「手紙の遣り取りをしてるからだけど?」
きょとんとして答えると、レベッカは「えー」と嫌な感じのする笑みを浮かべた。
「なんで使用人が、奥様と文通なんてなさってるんです? 変なの」
レベッカの表情が、やはり奥様など本当は存在しないのではないか、と訴えかけているように見えた。ミーガンはムッとするが、アニーはもう相手をするのは諦めたようだ。大きく溜め息を零して茶器を片付けに行った。
「エレノ……奥様とは、仲良くさせて頂いてるから」
お互いに友達だとは思っているが、そう説明するのはさすがに気が引けた。躊躇って少しだけ言葉を濁した。
「使用人なのに?」
「誰にでもお優しい方なの。もう仕事に戻るよ!」
「はぁい」
レベッカは返事をしながらも、クスッ、とまた嫌な感じの笑みを浮かべていた。ミーガンはとてももやもやした。
それからしばらくレベッカは同期のエルザとひそひそとなにか相談している様子だった。
「放っておきなさいよ」
咎めようとするミーガンをアニーが止めた。
彼女達はやるべき仕事はきちんとやっている。休憩時間中のお喋りにいちいち目くじらを立てていたら、この半年の間に築いた信頼関係が崩壊する。そうなったら仕事がやりにくくて敵わない。
今のところ目に余るのは、マシューへのお茶出しなどをやりたがることくらいなので、まだ目を瞑れる範囲だ。マシューから苦情も出ていないことだし、黙って見守るしかない。
「それに、エレノアさんが戻ってくれば、あの子の馬鹿な考えは一瞬で消し飛ぶわよ」
あと三日の辛抱でしょ、と諭され、ミーガンは渋々頷いた。
レベッカのなにがそんな考えに至らせているのか、ミーガンにはまったくわからない。
(奥様の座を狙っているとでも? 身分違いもいいところじゃない)
屋敷に姿の見えない侯爵夫人が、他家で家庭教師をしているという話を何処かから聞きつけたのかも知れない。職業婦人が侯爵夫人だなんて、と笑っているのだろうか。
リュネットがマシューとの結婚を拒み続けた理由は、身分の差だった。それを気にしないとマシューが撥ね退けていたが、そもそもリュネットは貴族の令嬢であり、身分の差など本当に問題にはならないことだったのだ。普通の農民の娘らしいレベッカとは立っている場所が違う。
自分をそのリュネットと同じ立場だと思っているのなら、本当に勘違いも甚だしい。
(旦那様が相手にしていないのがいい証拠よ。旦那様がお好きなのはエレノアさんだけなんだから)
モップとバケツを提げ、同じように掃除道具を手にしたレベッカ達を横目で見る。
(胸の大きさは、エレノアさんと同じくらいかも知れないけど……)
年下のくせにたっぷりとした胸許にじっとりとした視線を向け、女の魅力は胸だけじゃないのよ、と自分に言い聞かせる。
(エレノアさんが帰って来たときに吠え面を掻けばいいんだわ)
ふん、と鼻を鳴らし、ミーガンはさっさと次の掃除場所へと向かった。
ノックの音に目を向けたモンゴメリは、あら、と笑みを浮かべた。
「こちらまでお出でになるなんて、珍しいことですわね」
戸口に立ったマシューを招き入れ、椅子を勧めた。
「僕としたことが、すっかり失念していてね」
腰を下ろして長い脚を組むと、肩を竦めて苦笑する。
「リュネットの侍女を雇わなければ」
ああ、とモンゴメリはまた目を丸くした。彼女もすっかり失念していたのだ。
「もうお戻りになるというのに、私もうっかりしておりました。すぐに求人広告の手配をしましょう。条件はどうなさいますか?」
「リュネットが着飾ることに興味がないからね。それなりの経験を持っていて、機転の利くような女性が望ましい」
招かれた相手などによって、服装や装飾品には相応しいものがある。女主人自身がそういうことに疎いので、それをきちんと補える経験と知識がある人物が来てくれると助かる。そう告げると、モンゴメリもそれに同意した。
今まではリュネットが侯爵夫人として振る舞うのはそう長い期間でもなかったし、ほとんどがタウンハウスにいる間に必要なことだったので、亡き先代夫人にも仕えた経験のあるメイド頭のポリーが上手くやってくれていた。マシューが口を出すこともあったが、それで十分だったのだ。
こちらに戻って来ているときは、特に誰かと会うような外出の予定もないので、マシューがやっていた。妻を着飾らせるのはほとんどマシューの趣味だったので苦にならなかったし、リュネットもそんな夫のことを理解していて、仕方なく身を任せているようだった。
けれど、今度はそうもいかない。リュネットは一時的にではなく、きちんと帰宅することになったのだ。その場凌ぎの侍女では困る。
「ハワードさんとも相談しなければいけないことですが、なるべく早く手配致しますね」
雇用関係のことを取り仕切っているのは家令であるハワードの方だ。相談は受けるし、女性使用人の場合は面接に立ち会いもするが、モンゴメリに独自の裁量権はない。
「年明けまでには来てもらえるといいですけれど、それまではどうしましょう? いつものように旦那様がなさいますか?」
「それでもいいが……」
これまでは月に一日二日のことだったのでリュネットも我慢していたのだろうが、さすがに毎日のこととなると嫌な顔をしそうだ。その様が簡単に想像出来てしまい、マシューは苦笑した。
「ミーガンはどうだろうか?」
マシューは妻と一番仲のいいメイドの名前を出した。
「悪くはないと思いますけど、賢明の策ではないですね。圧倒的に経験が足りません」
ミーガンが親元を離れて初めて務めたのはこのカートランド家であり、以来真面目に勤続七年ほどになるが、その間、この屋敷に女主人はいなかった。誰かの補助としてなら十分有能だが、一人で侍女としての役割を熟そうとすると明らかな経験不足だ。
その経験という点だけを鑑みれば、メイド頭のサラが最適だ。だが、彼女は一応部下達の監督をする役目を担っているし、これ以上あまり負担は増やしたくない。
「そうなると、アニーか……」
彼女もあまり持ち場から離さない方がいいだろう、というのがマシューの考えだ。半年ほど前に雇った新人がいることだし、サラ一人ですべてを監督させるよりは、手慣れたアニーもいてくれた方が助かることだろう。
かといって、新人のどちらかに侍女を任せるというのも、モンゴメリの考えとしてはよろしくないものとしている。その理由はさすがにマシューも気づいている。
「ポリーに来てもらうのもなぁ」
幼い頃から知っている故にすっかり気心の知れたポリーだが、今年は執事のサンダースと共にタウンハウスの留守を守っている。
まったく以て悩ましい。リュネットは本人に言わせれば、身支度くらい自分で出来ることだし、侍女など必要ない、と言うに決まっているだろうが、そうもいかないのが現実だ。だいたい彼女に身支度を任せたら、家庭教師をしているときと同じような地味で質素な服装に落ち着くに決まっている。
「取り敢えず、しばらくは今まで通りに僕がやろう。どうせ僕の部屋で寝ることになるんだし」
「そのことですが、旦那様」
結論づけたマシューにモンゴメリが待ったをかけた。
なに、と怪訝そうに目を向けると、彼女は机から小箱を取り出し、中から一本の鍵を差し出した。
「お部屋のご用意はしてあります。いい加減、寝室をお分けください」
鍵を受け取りはしたが、マシューは顔を顰める。
「どうして? 夫婦なんだから、同じ寝室を使ってなにが悪いって言うんだ」
結婚してまだ一年と半年ほどで、しかもそのほとんどを離れて過ごしていた。気分はまだ新婚の蜜月そのもので、睦み合っていて当たり前だし、そうなりたいと思っている。
はあ、とモンゴメリは深い溜め息を零した。
「リュネット様の逃げ場所を作ってください、と申し上げているのです」
「逃げ場所……」
聞き捨てならない言い回しだ。マシューは眉を寄せて家政婦を睨みつける。それに負けじとモンゴメリは冷ややかな目線を返した。
「あれは忘れもしない、丁度一年前のことですわ。深夜にリュネット様がお部屋を飛び出されたことを覚えていらっしゃいます?」
あっ、とマシューは小さく声を漏らし、口を噤んだ。覚えてはいるらしいが、モンゴメリはその先を続けた。
「リュネット様が毛布を抱えて向かわれた場所を覚えていらっしゃいますよね? 馬小屋ですよ、馬小屋!」
もちろんよく覚えている。あまり他人には言えない理由で深夜に夫婦喧嘩をした際、怒ったリュネットが毛布を抱えて寝床に選んだのが馬小屋だった。
そんなところに逃げ込んだ理由は、客室を使えばメイドに掃除の手間を増やさせて申し訳ないし、厨房の片隅に寝ようものなら支度の邪魔になるだろうし、そもそもマシューと同じ屋根の下にいることが腹立たしかった故に、雪が降りしきる中、屋敷の裏手にある馬小屋に走ったのだった。飼葉と馬のお陰で小屋の中は多少は暖かい。
あのときは結局ミーガンの部屋に引き取ってもらい、翌日、二度とリュネットの嫌がることをしない、と誓約書まで書かされてようやく許されたのだ。あの誓約書はたぶんまだハワードが保管している。
あんな騒動は二度とごめんですよ、とモンゴメリは溜め息を零す。それはマシューも同意するが、妻の性格上、そうなるのは仕方のないことなのだ。
リュネットは見るからに儚げな容姿をしていて、普段はおっとりと大人しいというのに、意外にも苛烈な面を持ち合わせているのだから始末が悪い。どの瞬間に彼女の地雷を踏み抜くかわからないのだから。
しかも、その吹けば飛ぶような見た目に反してとても頑固な面があるので、一度怒らせると、その怒りを解くまでに少々時間がかかるのが難点だ。
ああ、とマシューも溜め息を零す。
「わかった。部屋を分けるよ」
もしも万が一、また喧嘩するようなことになったとき、変なところに逃げ出されるのは勘弁して欲しい。付き合いの長いモンゴメリやハワードから、あとでチクチクと小言を言われるのもまたつらいのだ。
受け取った鍵が何処の部屋のものか、マシューにはわかっていた。
当主と当主夫人の部屋は隣り合っていて、当主の支度部屋から夫人の寝室へと通じている。この鍵はその扉のものだ。
つまり、リュネットの為に用意された部屋は、本来彼女が使うべき部屋なのだ。
もう一度溜め息を零しながらマシューは立ち上がる。
「取り敢えず、求人の件は大至急で頼んだぞ」
「お任せください、旦那様」
侯爵夫人が帰宅したのは、その翌日のことだった。
「旦那様、お茶をお持ちしました」
レベッカは朝から図書室に籠もっているマシューの許へ赴き、ハーブティーを差し出した。マシューは上の空で頷き、差し出されたカップには見向きもしない。
おや、とレベッカは首を傾げる。つい数日前までは、お茶を出せば「ありがとう」と笑顔を向けてくれていたというのに、今日はこちらを見もしない。いったいどうしたというのだろうか。
「他になにか、あたしでお役に立てることはありませんかぁ?」
すぐ傍に膝をついて小首を傾げると、ようやくこちらを見てくれた。しかし、マシューは怪訝そうな顔をする。
「いや、別にないが……。ああ、お茶、ありがとう」
今気づいたようにテーブルに置かれたカップを取り上げ、ひと口だけ啜った。
「? 下がっていいよ」
まだその場にいるレベッカの様子を不思議そうにしながら、マシューは素っ気なく答える。それからまた視線は手許の本へ向かってしまった。
レベッカはますます首を捻る。
本当にいったい今日の旦那様はどうしたというのだろうか。心ここに在らずだ。最近ずっと元気がない様子ではあったが、このような姿は初めて見る。
以前勤めていたお屋敷も、その前に勤めていたお屋敷でも、レベッカがこうして少し上目遣いで見つめ、優しい気遣いのある言葉を投げかけると、だいたいの男性達は落ちてきたというのに、この旦那様は一向にそのような気配を見せない。甘える風な女は好みではないのだろうか。
次の対策を考えながら部屋を出ようとすると、入れ違いにミーガンが駆け込んで来た。彼女は一瞬だけレベッカに視線を向けたが、すぐに主人の方へと向き直った。
足音に顔を上げたマシューに向かって「無作法をお許しください、旦那様」と駆け込んで来たことを詫びるが、彼はそんな謝罪がもどかしいとでも言うかのように腰を浮かしかけ、ミーガンの様子に笑みを浮かべた。
「来たんだね?」
はい、とミーガンも笑顔で頷く。
「門が開くのが見えました。もうすぐにご到着です」
ミーガンは屋敷の中で一番視力がいい。予定の時間が近づいて来たので、見晴らしのいい窓から門の様子を窺っていたのだ。
そうか、と頷いたマシューは本を投げ出して立ち上がり、そのまま足早に図書室を出て行った。ミーガンもそのあとに続くが、ぽかんとした様子のレベッカの前で足を止める。
「なにをしているの?」
「え?」
「奥様がお戻りになるの。お出迎えをするんだから、玄関に来なさい」
「は?」
レベッカは訝しんだ表情になった。そんな後輩の様子にミーガンは眉を寄せるが、言っても仕方のないことだろう、と無視して玄関へと向かう。
門から屋敷の玄関までは五分もあれば着く筈だ。急ぎ足で玄関ホールに辿り着くと、他の使用人達もほとんど皆揃っていて、年末の報告に来ていた帳簿管理人のマイケル・グレアムまで顔を出している。
「リュネットさんにお会いするのは久しぶりだから」
声をかけると、グレアムは人の好い笑みを浮かべた。そうですね、とミーガンも頷く。
しばらくすると、御者が「どう」と馬を止めるよく通る声と、馬車の車輪が止まる音が聞こえた。
「旦那様」
ハワードとバーネットの声が重なり合って主人を呼んでいるので、ミーガン達はちらりとそちらに目を向ける。走り出しそうになっていた主人を家令と従者が押し留めているようだった。
その様子に思わず小さく吹き出してしまい、誤魔化すようにミーガンとアニーは目配せし合った。
「……ありがとう」
ドアの向こうからリュネットの声が聞こえた。
久しぶりに聞く声は元気そうだ。その様子にミーガンは安心する。
表に迎えに出ていた従僕の手に因って玄関のドアが開くと、全員が一斉に叩頭した。
「お帰りなさいませ、奥様」
使用人達の声は綺麗に揃った。
リュネットはその光景に一瞬面食らったような表情になったが、すぐに笑顔を浮かべ、
「長らく留守にしていました。今日からよろしくお願いします」
と答えた。はい、と使用人達も笑顔で答える。
コートを預かる為に出て来た従僕に襟巻とコートを預けると、彼女の視線はようやく人々の奥へと向かい、久しぶりに会う自分の夫へと焦点が合わさった。
「お帰り、リュヌ」
マシューは両手を広げて妻を出迎える。
「ただいま戻りました」
対するリュネットはまだ夫に対して幾分含みがあるのか、その場でちょこんとスカートを抓んだ。
(相変わらず、すごい態度の差……)
そんな主人夫妻の遣り取りに、ミーガンは微妙な表情をした。昔からリュネットのマシューに対する態度は甘さの欠片もない。時折マシューが憐れにさえ思えてくるくらいだ。
そんな妻の冷たい対応はものともせず、マシューは駆け寄り、その勢いのままリュネットを抱き上げた。
「美しいリュネット。僕の愛しいお月様! ようやくきみと一緒に暮らせる」
「降ろしてください!」
一瞬にして真っ赤になったリュネットが怒ると、一応はいろいろと反省している部分があるのか、マシューはあっさりとその言葉に従った。くるりと一周回っただけですぐに妻を降ろしたのだ。
しかし、ホッとした様子の妻の頬を両手で掴み、そのままキスをした。
「! んんーッ! んーッ!!」
突然のことにリュネットから呻き声による抗議の声が上がったが、そんなものに応じるマシューではない。藻掻くリュネットを抑え込み、二ヶ月以上ぶりになるキスを堪能させてもらう。
非力なリュネットは夫の重みに耐えきれず、その場に押し倒された。あっ、と使用人達から声が上がるが、主人は動かない。
「旦那様、奥様を窒息させるおつもりですか」
見兼ねたハワードが声をかけると、ようやくマシューは顔を上げた。その頃には当然のことながらリュネットはぐったりと倒れ込んでいる。
その一連の様子に、レベッカとエルザは心底驚いているようだった。茫然とした様子で主人夫妻の様子を凝視している。
「リュネット、どうしたんだい? ああ、長旅で疲れているんだね」
力なく横たわる妻を抱き起しながら、マシューは心配そうに尋ねる。その口調とは裏腹に、表情は例えようもないくらいに明るかった。
誰の所為だ、と潤んだ瞳で夫を睨んで責めるが、彼にそういうものが通用しないのはよく知っている。リュネットは投げ遣りな態度で溜め息を零した。
「可哀想に。夕食までの間、ゆっくりと休んでいるといいよ」
そう言って妻の細い身体を抱え上げて立ち上がり、くるりと身を翻した。リュネットは抵抗することを諦めたようだった。
ハワードとモンゴメリは顔を見合わせて大きく溜め息を零し、一連の再会シーンを見守っていた使用人達も溜め息交じりに苦笑した。我等が主人夫妻は相変わらずのご様子だ。
「侯爵ご夫妻は相変わらずのご様子ですねぇ」
グレアムがハワードに声をかけると、ええ、と彼も頷く。
「奥様がお戻りで嬉しいのはわかりますが、少し自重して頂かないと……お前もきちんとお諫めしなさい、バーネット」
「わたしが言って聞き入れてくださる方ではないですよ。ハワードさんが言っても、モンゴメリさんが言っても聞かないのですから」
まったくその通りなので困った主人だ。ハワードはもう一度溜め息を零す。
「さあ、皆さん仕事に戻って。あと、ミーガン。あのご様子だと、三十分以内には奥様が寝室を飛び出していらっしゃいます。これ以上拗れないように、上手く間に立って差し上げてください」
家令からの指示にミーガンは大きく頷いた。あのまま仲良くしてくれていればいいが、ああいう雰囲気の場合、すぐにリュネットが怒ってしまうに決まっている。
それぞれの仕事場に使用人達が戻って行く中で、アニーはレベッカの肩を叩いた。
「だから言ったでしょう?」
えっ、とレベッカは振り返り、にやりと笑うアニーの笑みを凝視した。
「旦那様には心底惚れ込んだ奥様がいるって」
一応はお互いを愛し合って結婚した筈なのだが、初恋を拗らせたマシューの方が想いが強いらしく、どう見ても一方的に好意を寄せているようにしか見えないのが面白い。
そんな彼が、誰に迫られようとも――どんなに見目麗しい相手であろうとも、以前のお相手のように遊びと割り切れる人物であろうとも、リュネット以外に目が向くことは二度とないだろうと思われる。
「あんたがなにを考えて旦那様に手をつけてもらえると思ったのか知らないけどさ、うちの旦那様は昔は遊び人だったけど、今は奥様お一筋でね。奥様以外の小娘に目を向けるような余裕なんてこれっぽっちも持ち合わせていらっしゃらないの。わかった?」
強い口調で告げると、レベッカはほんのりと唇を尖らせた。
「でも、じゃあ、なんで別居なんて……」
「そういうお約束でご結婚なさったからですよ」
急に割り込んで来た声にレベッカがギクリとした。振り返るとモンゴメリとサラがなんとも言えない表情で立っている。
「旦那様と奥様には、お二人にしかわからない事情があるのです。それを使用人のあなたがとやかく詮索すべきではありませんよ」
「も、申し訳ありません……」
上司である家政婦に咎められ、レベッカもさすがに少し顔色を悪くして謝罪した。
「あなたの素行のことは、前のお屋敷の方から聞いて知っていましたけど、仕事が出来るから黙認していたのです。けれど、このお屋敷でも同じようなことをしようとするなら、対応を考えなければいけませんね」
マシューに対して対応が冷たいリュネットだが、きちんと配偶者として想っているのは事実で、嫉妬心をまったく持ち合わせていないわけではない。なにか誤解を招くような存在が夫の傍にいれば、彼女の心中も穏やかではいられないだろう。
ただでさえマシューは女性関係においてはかなりの前科を持っている。それが原因でリュネットがマシューを嫌っていた時期もあったのだし、女性問題にはかなり敏感な筈だ。その所為でまた喧嘩をされたら、巻き込まれるこちらとしても堪ったものではない。
解雇を匂わされたレベッカはますます顔色を悪くする。今までのお屋敷では、奥方にバレないように適当に遊び、ほんの少しお小遣いをもらったりしていただけなのだ。それ以上のことは望んでいなかったし、今回もその程度のことしか考えていなかった。
「あの、あたし、そういうつもりじゃなくて……」
レベッカは瞳を潤ませてモンゴメリとサラに訴える。
ではどういうつもりだったのか、と問いかけようとしたとき、上階から扉が乱暴に開かれる音が響いた。同時に走り出す足音が吹き抜けを通って下にまで響いてくる。
ああ、とレベッカ以外の人間は溜め息を零した。
「……ミーガン、すぐに行って差し上げて。アニーはジェシカに言って、ホットミルクを用意してもらって。蜂蜜多めでね」
指示を受けた二人は頷き、やれやれ、と思いつつも役目を果たすべく動き出した。
主人夫妻の本当の新婚生活は、またもや夫婦喧嘩から幕を開けることになったようだ。
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