侯爵様と家庭教師

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番外編5 侯爵夫人の小さな嫉妬

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 春の陽気も心地よくなってきたロンドンの街にて、リュネットはカトレア母娘と共に買い物を楽しんでいた。
 そんなに貯金を持っていないということもあり、自分で買うことはあまりしないが、学生時代はよくメグの買い物に付き合っていたし、いろいろな店を見て回るのは好きな方だ。高価なものを眺めたり、財布と相談して小物を買ってみたり、そういうちょっとしたことを楽しむのが好きだった。

 この日もそんな風にして、カトレアが散財するのを時折やんわり止めたりしながら、春物の生地などを眺めていた。

「なにを見ているの?」

 筆記具の店の前で立ち止まっていると、気づいたカトレアが戻って来て尋ねた。

「ペン?」

「いいえ、インクです。このブルーブラックという色は、どのような色かと思いまして」

 リュネットがいつも使っているインクの色は、特に変わったところのないただの黒インクだ。乾きが早いという売り文句なので使っているが、それ以外に特徴はなにもない。

「試し書きさせてくれるかも知れなくてよ」

 カトレアはにっこりと笑い、リュネットの手を引いて店へと入った。ヴァイオレットも追い駆けて入店して来る。

「ちょっと伺いたいのだけれど」

 愛想よく出迎えた店員に向かい、カトレアはショーウィンドウに飾られているインクはどのような発色なのか、試し書きはさせてもらえないか、と手早く尋ねた。店員はちょっと考えるような仕種をしたが、カウンターのところで少し待っていてくれるように告げ、店の奥へと一度引っ込んだ。

「ブルーブラックの製品ですと、当店ではこのように取り揃えております」

 戻って来た店員は三社ほどの製品をカウンターの上に並べ、品揃えを提示した。
 便箋を一枚とつけペンを三本出してくれたので、礼を言ってリュネットは試し書きしてみる。初めて見る色合いだ。黒いように見えて、ほんのりと青みを帯びている。

「……不思議な色合いですね」

 いつも使っているインクと雰囲気が違う。
 ペンを替え、他のものも試してみる。同じ色名だというのに、最初に使ったものとは僅かに違って見えるのがまた面白い。

「お母様、このカードが欲しいです。見て。これ!」

 店内を見て回っていたヴァイオレットがグリーティングカードの棚から商品のひとつを取って来ると、母親へ掲げて見せた。復活祭の時季が近づいている所為か、ウサギの絵柄のものだった。

「あら。誰かに贈るの?」

「可愛い絵だから、お部屋に飾るの」

 ヴァイオレットは絵を描くのも眺めるのも好きらしく、気に入った絵などは部屋に飾っている。専用に棚をひとつ作っているくらいだ。
 いいわよ、とカトレアは娘に甘い顔をした。ヴァイオレットは大喜びで若い女性店員にカードを渡し、自分のものなので簡易包装で済ませてくれ、と慣れた口調で頼んでいた。

 三種類のインクの試し書きを終えたリュネットは、その書き味と色味を見比べ、二番目に試したものを手に取った。

「それが気に入ったの?」

 カトレアはリュネットの手許を覗き込む。はい、とリュネットは頷いた。

「これが一番青みが強いんです。面白くて」

 黒を見慣れていた目に、その青さは新鮮に感じられた。
 このインクを使って手紙を書くことだけを想定しているのか、試し書きの文字は『親愛なる』や『ご機嫌よう』などと書かれていた。もっと果物や動物の名前でも書いてみればいいのに、と真面目なリュネットの感性に苦笑する。

「リュネットさんは青がお好きなのね」

 今日着ているドレスも青灰色だし、いつも紺色のものが多い。
 若い娘なのだから、もっと明るく華やかな色も着ればいいのに、とカトレアもマリゴールドも思っている。昔からの友人であるメグだけが、リュネットには濃いめの落ち着いた色がいいのだ、と姉達の言葉を否定していた。

「あの方が、私には青が似合うと仰っていたので……」

 そう答えてからリュネットは僅かに頬を染めた。カトレアは双眸を瞠り、そう、と笑みを浮かべて頷く。
 あの方――結婚してからもうすぐ一年経つというのに、リュネットは自分の夫のことをそう呼ぶ。彼女が夫のことを名前で呼んでいる声を聞いたことがない。
 この一年、仕事の都合で別居する形になっているが、別居の条件である月一の帰省も反故にせずしているし、マシューがロンドンにやって来る社交シーズン中は、妻として彼の傍でその役目を果たしていた。仲は悪くない筈なのに、どうにも距離があるように感じる。

(そういえば、キスをしているところも見たことがないわね……)

 リュネットが会計を済ませているところを見つめながら、そんなことを思い出す。
 マシューはリュネットに再会すると、まず抱き締める。そして頬にキスをする――しかし、そんな行動は妹であるカトレア達にも、姪であるヴァイオレットにもしている。家族の挨拶として普通のことだ。
 もっと親密な、唇へのキスの話だ。
 彼等がそういうことをしている姿は、結婚式のときの一度しか見たことがない。まだ結婚して一年にも満たないのだから、まわりに他人がいたとしても、もっと甘い空気を出していてもいいと思う。
 もちろん、頻繁にそういうことをしろと言っているわけではないし、人目も憚らずにそういう行為をしろと言うわけでもない。カトレア夫婦だってそういうことをしょっちゅうしているわけではないが、スキンシップとして大事であると思っているし、余程酷い喧嘩をしていない限りは、お互いのどちらともなくキスをする。それが夫婦の在り方としては一般的なものだろう。
 兄夫婦はいくら離れて暮らしているとはいえ、まったく会わないわけでもないし、新婚の夫婦としてかなり淡白すぎると思う。

(独身の頃のお兄様は、結構なキス魔だったわよ)

 ゴシップ誌に話題を提供し続けていた頃の兄の行状を思い起こし、カトレアは僅かに眉根を寄せた。彼はその時々で懇意にしている女性の腰を抱き、人目も憚らずに口づける。女性もそれに応えて撓垂れかかるものだから、カトレアは兄と夜会で一緒になるのが苦手だった。
 そんな兄が、必死に縋りついて口説き落とした年下の新妻には、ほとんどキスもしない。愛情表現の欠落にも思えるそのことが異常にさえ思えてきた。

「あら。姉様、リュネットさん――と、ヴィオラ。三人でお買い物?」

 カトレアが自分の考えに軽く身震いし、リュネットが包み終えた商品を受け取っていると、丁度新たな来店客があり、それがマリゴールドとメグだった。

「マリーちゃんにメグちゃん。偶然ね」

「そうね。私達も偶然そこで会ったところなのよ」

 ここに来る前に立ち寄った帽子屋で会ったのだという。

「丁度いいから、用事を済ませたらお茶にしましょうよって話していたのだけれど、姉様達も一緒に如何?」

「いいわね。ちょっとお腹も空いてきたところだったの」

 別々に出かけて来た筈の三姉妹と兄嫁が約束もなしに揃うという物凄い偶然に四人は笑い、幼い息子も含めて男性陣が誰もいないということで、女性達だけでちょっと贅沢をしよう、という話になった。

「リッツの喫茶室ティールームに行かない?」

 メグが提案すると、姉達は「賛成」と声を揃えた。

「素敵だけど、私、あまり持ち合わせが……」

 リュネットは困惑気に零した。リッツはとても高級なホテルで、リュネットなどが気軽に出入り出来るような場所ではないのだ。

「あら。兄様ったら、生活費もくれないの?」

 兄嫁の言葉にマリゴールドが呆れたように零し、他の二人もそれに同調した。

「私のお給金はギリンガム家からきちんと発生していますので、必要ないと断っているんです。お食事も用意して頂いていますので、生活するのに困ることはないですから」

 今までずっと自分の給料だけで暮らして来たし、住み込みなので寝床と食事の心配もないし、贅沢をしなければまったく問題ないのだ。そう説明すると、マリゴールドは呆れたような表情になり、雇い主である姉を見つめた。

「カトレア姉様。リュネットさんはこんなことを言ってるけど?」

「そうなのよ。待遇も普通の家庭教師ガヴァネスと同じでいいって言われちゃって」

 ヒースホールにいたときと同じように、部屋は学習室の隣の小部屋だし、食事は階下で使用人達と共にしている。けじめだ、と本人は言っているが、一応周囲に内緒にしているとはいえ、兄嫁に対してそんな扱いは出来ない、とカトレアもチャールズも渋ったものだが、一年も経つと案外慣れてきてしまうものだった。

 まあ、とマリゴールドは声を上げ、きょとんとしている兄嫁の肩を掴んだ。

「あなたが質素で控えめなことは存じ上げてますけどね、リュネットさ……いいえ、お義姉様。一応は侯爵夫人レディ・カートランドである自覚を持ってくださいな」

 この声には店内にいた他の客と店員がぎょっとする。まだ十代の少女のような容貌だが、質素で地味な出で立ちの娘が侯爵夫人と聞き、自分の目と耳を疑ったのだろう。

「マリゴールドお姉様。リュヌの肩を離して、ご自分のご用事を済まされたら?」

 姉達がいろいろと話している間に自分の用件を店員に伝え終えたメグは、呆れたように次姉を窘めた。あらそうね、と頷いたマリゴールドはすぐにリュネットから離れ、メグからの注文の処理をしていた店員に声をかけた。

「なにを買ったの?」

 久しぶりに会った親友にメグは笑みを向ける。

「インク。使っていたものがなくなりそうだったから」

 リュネットも微笑んだ。

「リュヌは昔から筆記具にはお金を惜しまないわよね」

「そんなことないわよ。あまり高価なものは買っていないし」

 確かに衣類や菓子などに比べればあまり迷いもせずによく買っているが、使いやすさと値段を最優先にしているので、金に糸目をかけずに買い漁っているわけでもない。
 今回のこのインクは、今まで使っていたものがなくなりそうだという理由はもちろんだが、先日の誕生日のときに、離れて暮らしている夫から真新しい万年筆をもらったのだ。軸はリュネットの瞳を思わせるような濃紺で、特別に作らせたものだと言っていた。それ故に使うのが勿体なくて、箱を開けて眺めるだけの日々をひと月程過ごしていたのだが、とうとう使う決意を固め、新鮮な気分になろう、と新しいインクを購入したのだ。
 この初めて使う色のインクで、夫に手紙を書こう、とリュネットはそっと微笑んだ。

「お兄様に手紙を書くの?」

 リュネットの心の内を読んだように、メグが尋ねた。ちょっと驚きながらも頷くと、メグはにっこりと笑う。

「マメね」

「そうでもないわ。週に一度だし」

「やっぱりマメじゃない。私達の遣り取りも、そんなに頻繁じゃなかったでしょう?」

 確かにそうだ。女学校を卒業してからしばらくメグとは文通で交流を続けていたが、月に二往復がいいところだった。
 でもね、と呟いてから声を落とし、リュネットは親友の耳許に口を寄せた。

「書かないとうるさいの。すぐに領地から飛んで来るし」

 その言葉にはメグも思わず吹き出す。兄は相変わらずらしい。

「なぁに? 楽しいお話?」

 二人で小さく笑い合っていると、こちらもすっかり用事を済ませたカトレアが小首を傾げた。

「うん、お兄様のことよ。詳しくはお茶をしながら話しましょう」

 姉達の手を取ってメグが店外へ出るので、リュネットもヴァイオレットと手を繋いで後に続いた。
 リッツまではそう距離もないということで、乗って来た馬車には買い物を終えた荷物を載せて先に帰らせることにして、五人は漫ろ歩いた。今日は天気も悪くないし気温も高く、散策にはいい日和だった。

「そういえば、ランディは大きくなった?」

 リュネットが気後れするホテルの喫茶室に入って注文をしてから、メグはカトレアに去年生まれた男の子について尋ねる。リュネットとマシューの所為で何度か流産の危機を迎えかけていたが無事に産まれた次男は、もうすぐ九ヶ月になるところだ。

「ランディはおデブよ」

 母の代わりに答えたのは幼い姉だった。ぷうっと膨れて唇を尖らせる。
 よく乳母の乳を飲むランドルフは、最近かなり丸々としている。赤子としては標準的なむっちり感なのだが、ヴァイオレットはお気に召さないようだ。

「私、妹がよかった」

 運ばれて来たスコーンにクロテッドクリームを乗せながら、とても大きな溜め息。どうやら彼女が気に入らないのは、弟がむちむち丸々と肥えていることよりも、その性別自体のことだったようだ。
 あらまあ、とメグとマリゴールドは苦笑し、毎日愚痴愚痴と聞かされているリュネットとカトレアも苦笑いだ。

「だって、サミーはすぐにテオと遊びに行っちゃうし、私ばっかり一人でつまらない」

 なにかの折に親戚で集まると、同じ年の弟と従兄弟はすぐに二人で遊びに行ってしまうのだ。一人女の子のヴァイオレットは除け者にされるので、まったく以て面白くない。他の親類はもう少し年齢が離れている人ばかりなので、とてもではないが遊び相手にはなってくれないのだ。
 いつもはお姉さんぶったおませさんだが、今日は母と叔母達しかいないという環境に甘えているのか、珍しく子供らしい言葉を口にした。
 暴れ回って悪戯ばかりして、泥だらけで帰って来る息子達に頭を悩ませている母達としては、大人しく部屋の中にいてくれるヴァイオレットの方が何倍も有難い存在に感じているのだが、まだようやく十歳になるところの少女にとって、遊び相手がいない環境は確かにつまらないことだろう。お陰で最近は家庭教師のリュネットにべったりだ。
 ふうん、と頷いていたメグだが、ヴァイオレットに向かって声を潜める。

「ねえ、ヴィオラ。もしかするとその悩みは、来年には解決するかも知れないわよ」

「なんで?」

 ヴァイオレットは叔母の言葉の意味がわからず、首を傾げる。しかし、姉達は違った。

「もしかして、メグちゃん……」

「そうなの?」

 目の色をきらりと変えた姉達は、末妹の方へ向かって身を乗り出した。
 メグはそんな姉達をちらりと一瞥してからほんのりと頬を染め、こくりと小さく頷いた。

「あらあらまあまあ! そうなの。よかったわねぇ」

「予定はいつ頃?」

「一応、年末頃なの」

 その遣り取りはリュネットにもよくわからないでいたが、メグの受け答えでなんとなく事情を察した。
 理解してからじわじわと込み上げてきた温かいものが胸の中を満たし、リュネットは嬉しくて堪らなくなり、なんだか泣き出したい気持ちになった。

「メグ、おめでとう」

 祝福の言葉に礼を言いながら、親友は嬉しそうにはにかんだ。
 幼いヴァイオレットはまだ事情がわからないようだったが、メグに子供が生まれることを説明すると、パッと表情を明るくした。

「女の子!?」

「それはまだわからないわ。ごめんなさいね」

「ううん。生まれてくるのを楽しみにしているから、いいの。ね、先生」

「そうね」

 ヴァイオレットはにこにこと嬉しそうに笑いながら、砂糖をたっぷりと入れたミルクティを飲み干した。

「……女の子だといいなぁ」

 それでもやっぱり希望は自分よりも年下の女の子の存在のようで、夢見る瞳で溜め息を零した。気持ちがわからなくはないカトレアとマリゴールドも頷き、ようやく安定期に入ったらしい末妹の体調を気遣った。

「それじゃあ、今度はリュネットさんの番ね」

 涙ぐんだ目尻を拭っていると、カトレアから急に矛先を向けられた。そうね、と妹達も同意して頷く。

「え、でも……」

 リュネットは戸惑った。何故なら、ヴァイオレットの家庭教師としての契約は二年間であり、あと一年は継続させる予定だからだ。
 確かに、リュネットももう二十歳になった。結婚してからはもうすぐ一年が経つところで、子供を産むには早すぎるということもないが、遅すぎるわけでもない。そろそろ一人目は欲しい頃だろう。
 それでも、リュネットは途中で仕事を放り出すつもりは毛頭ない。

「でも、あの……あの方は欲しがっていませんし」

 月に一度の帰省の折、求められるのは事実だ。元の原因はマシューであるとはいえ、リュネットの我儘で離れ離れで暮らしているし、限りある短い逢瀬であることはよくわかっているので、嫌でも求められれば応じている。それが妻としての務めであることくらいはわかっているつもりだ。
 けれど、マシューが子供を望んで行為に及んでいるかというと、そういうわけではないと思う。なんとなくそれはリュネットにもわかる。
 そんなリュネットの答えに、三姉妹は「まあ!」と声を揃えた。

「あんまりこういうことをガミガミ言うのも小姑じみてて嫌だけれど、言わせて頂くわね。跡継ぎは絶対に必要なのよ。兄様より下にカートランドは男子がいないし、そうなると、ランディが養子に行くしかなくなるわね」

「えぇ? 私、嫌よ……でも、最悪そうするしかないわね」

「だからリュヌ。早く子供を作ってよ。それで私の子供と性別が違ったら、結婚させましょう」

 三人の義妹達から一気に言われ、リュネットは思わず仰け反った。
 彼女達の言い分は嫌と言うほどわかっている。一人娘だった故に跡継ぎとして認められず、家督を奪われたリュネットが身を持って体験して苦労したからだ。
 ただでさえマシューは、母方の親戚からもいくつか所領を受け継いだりしているので、それをすべて失うのもどうかと思う。きちんと次代へと引き継がせるのは、当主としての彼の義務だろう。そして、その為の跡取りを設けるのは、リュネットにも責任と義務が発生していると言える。

「――…あ、

 それでも寄って集って子作りを勧められるということに羞恥して赤面していると、スコーンに今度はジャムを乗せていたヴァイオレットが声を上げた。
 三姉妹もその声に顔を上げ、示された方向に目を向けた。

「あら。確かにお兄様ね」

「そうよ、兄様だわ」

「間違えようもなくお兄様ね」

 給仕係ウェイターに案内されて入って来た男性は、確かにマシューだった。さすがにリュネットも自分の夫の顔を見間違えたりはしない。

 しかし、彼は女性を連れていた。

 その様子に三姉妹は思わず顔を見合わせ、揃って兄嫁の方を振り向いた。
 リュネットに表情はなかった。なんの感情も籠もらない目つきで夫の姿を眺め、彼が連れの女性と案内された席に腰を下ろす姿を見ていた。

「――…リュヌ……?」

 その表情は、彼女の祖母であるジュヌヴィエーヴが怒っているときのものにそっくりだった。氷のように冷え切ったその表情に身震いしながら、メグは恐々と声をかける。

「……ああ、ごめんなさい。ちょっとボーっとしてしまったみたい」

 リュネットはすぐに笑みを浮かべ、優雅に紅茶に口をつけた。

「なんのお話をしていたかしら? ……そうそう。子供の話だったわね」

 微笑みながらそう口にする兄嫁の様子に、義妹達は揃って身震いする。過ごしやすい室温であるというのに、急に寒気を感じた。

「こういうことは授かりものだと言うから、ゆっくり待つしかないと思いますの。まあ、だとは思いますけれど」

 にっこりと微笑んでカップをテーブルに戻したリュネットだが、目線はまっすぐに夫と親しげな様子の連れの女性へと向かっている。
 三姉妹はハラハラとした様子で、冷たい笑みを浮かべる兄嫁と、その妻の視線に気づいていないらしい兄へと交互に目を向けた。彼は連れの女性と楽しげになにか話しているようだった。

「……ちょっと早いけれど、公園をお散歩でもして帰らない?」

 カトレアは一刻も早くこの場を立ち去ろうと考えたらしい。賛成、と妹達は同意し、満腹になったヴァイオレットも嬉しそうに微笑み、リュネットも頷いた。

 しかし、出入り口の方にはマシューが座っている。この喫茶室を出る為には、どうしてもあの席の傍を通らなければならないのだ。給仕係を呼んで会計を済ませたはいいが、そのことに気づき、カトレアは表情を硬くした。
 けれどリュネットは気にしていないのか、ヴァイオレットの手を引いてさっさと歩き出す。ああ、と三姉妹は心配そうな声を上げかけるが、どうすることも出来ないのは事実なので、仕方なく兄嫁のあとをついて歩き出した。

 刻々と近づいて来る兄と連れの女性の席を見つめながら、三人の間に緊張が走る。

「――…まあ、カートランド侯爵様。偶然ですわね」

 席の傍まで来たとき、リュネットはまるで他人のように夫へ声をかけた。

「リュヌ?」

 マシューはぽかんと妻の顔を見上げた。

「こちらにいらしているなんて存じ上げませんでしたわ。好いご滞在を」

 口許は微笑んでいるのに瞳は氷のようだ。徹頭徹尾ただの知人のような口調で会釈し、驚いた様子のマシューの横をすり抜けて行った。ヴァイオレットは少し不思議そうな顔をしてリュネットのことを見上げていたが、子供故にあまり深く悩まず、首を傾げるだけに留め、そのまま一緒に立ち去った。
 三姉妹も同じように兄に冷めた目を向け、小声で「お兄様、最低」と異口同音に呟くと、礼儀程度の会釈を残して兄嫁のあとを追う。

「お知り合いでしたか?」

 連れの女性はぽかんとしたままのマシューにそっと尋ねる。

「ええ。妹と、妻だったのですが……」

 彼女達にいったいどのような状況だと思われていたのか見当もついていないマシューは、すみません、と女性に謝って話に戻った。
 それでもさすがにあの妻の態度が引っかかったマシューは、女性と別れたあと、すぐにカトレアの屋敷へと赴いた。

「いませんよ」

 やって来た兄に対し、カトレアは素っ気なく答えた。しかもヴァイオレットにレース編みを教えている片手間での返事だ。
 あんまりな妹の態度に少しムッとしつつも、マシューは怪訝そうな顔をした。

「いないって、どういうことだ?」

 もうすぐ夕食の支度も始まる時刻だろう。ヒース館にいたときと同じように過ごしているのなら、リュネットはメイド達の手伝いをしているのではないかと思われる。

「存じ上げませんよ。ちょっと出かけて来ますって出て行かれたのだから。……ああ、そこはこう、よ」

 どうでもいいことのように答えるので、マシューはますますムッとした。

「カティ。僕の妻のことだし、お前のところの雇い人のことだろう。そんな投げ遣りな答え方があるか」

 苛立ちを口調に滲ませる兄に、カトレアは大袈裟なくらいの溜め息を零し、呼び鈴を振るった。すぐに一人のメイドが現れたので、彼女に向かって「スターウェル先生はお戻りになった?」と尋ねる。

「いいえ。まだお見かけしていません」

「そうよね、ありがとう。確認したかっただけなの。もういいわ」

 用を終えたメイドはすぐに下がった。
 ほらね、と兄に目を向けると、彼はそれでも眉間に皺を刻んでいる。呆れたようにもう一度溜め息をついた。

「さっきの女性は、どなた?」

「え?」

「リッツで一緒にいらした方よ」

「ああ……ミセス・ペンブロークのことか」

 耳馴染みのない名前だ。ふうん、と胡乱気な表情で頷いていると、さすがにマシューも察した。

「お前……なにを勘違いしたのか知らないが、彼女はハワードの妻の兄嫁だぞ?」

 ミスではなくミセスだ、と念を押すように言われるが、独身時代の彼には、人妻だろうと未亡人だろうと、とても親しくしている女性はいくらでもいた。それがどうしたと言うのだ、くらいにしか思えない。
 そのことにはマシューもすぐに気づいたらしく、小さく咳払いをする。

「彼女の息子が大学に行くことになったから、その相談に乗っていただけだ。なにも疾しいことなどしていないし、そういう考えはミセス・ペンブロークに対して失礼だ」

 確かに失礼なこととは思うが、自分の今までの素行を棚上げして咎めてくる兄に、カトレアはじっとりとした視線を投げかけた。マシューは引かない。

「先生はたぶんテムズ河だと思う」

 兄妹が膠着状態に入りかけていると、難しいモチーフのひとつをようやく完成させたヴァイオレットが、嬉しそうに微笑みながら告げた。

「午前中はハイド公園パークだけど、夕方は大時計台ビッグ・ベンの傍なの」

 先生のお散歩コースよ、と笑みを向けると、マシューはホッとしたように頷き、姪に「ありがとう」と答えて頭を撫で、そのまま踵を返した。

「駄目じゃない、ヴァイオレット……」

 簡単に居場所を教えてしまっては面白くない。もう少し悩ませるつもりだったのに、と母に窘められるが、編み上げたレースの出来栄えを見つめていたヴァイオレットはにっこりと微笑む。

「でもね、お母様。先生が言ってたの。きちんと話し合いをするのはとても大切なことだから、なにか悩みがあったり、困ったことがあれば、一人で悩まず、すぐに先生に相談しなさいって」




 リュネットは茜色に染まる水面を見つめながら、橋の欄干に寄りかかっていた。
 白い手がなんの気なしに弄ぶのは、勿体なくて使えずにいた万年筆だ。キャップを外しては戻し、掌で転がしては握り締める。

 なんだか胸焼けのようにムカムカする。胃も僅かに痛んだ。

 リュネットの知っているマシュー・カートランドという男は、いろいろな女性と遊び回っているような人だった。初めて出会ったときも朝帰りの眠たげな表情で、アルコールと白粉の匂いを身に纏っていたことを思い出す。
 そんな彼が、結婚したからといって変わるわけがなかったのだ。
 結婚してからもうすぐ一年が経つが、一緒に暮らしていた日数など微々たるもので、離れている間に彼がいったいどのような行動を取っているかなど、リュネットには知る由もなかった。変わらずに女性と遊んでいても気づくわけがない。
 たとえ売り言葉に買い言葉で始まった別居生活だったとはいえ、その間の夫の不貞行為を許容出来るほど、リュネットは器が大きくはない。

(やっぱり結婚なんかしなければよかった……)

 親族との間にいろいろとあったリュネットは、元々結婚願望は希薄だった。知らない間に又従兄弟との結婚話が持ち上がっていたり、あとから聞けば別の男性との縁組も決まりかけていたという話だったし、親族や男性達の都合に振り回される結婚というものにいい感情はなかった。
 メグはヘンリーと結婚して幸せそうだし、これから子供も生まれることだし、もっと幸せになって欲しいと思っている。そんな親友のことを羨ましく思ってもいるが、自分には無理だとも思っていた。
 結婚に向いていなかったのだろう。リュネットも、マシューも。
 そんな二人が縁付いたのだから、すれ違いが生じても仕方がない。こうなることは結婚したときからわかりきっていたことなのだ。
 一瞬でも彼からの愛を本物だと受け入れ、そんな彼に好意を寄せた自分が馬鹿だった。

 離婚しよう、とリュネットは思った。自分も夫もカトリックではない。

「リュネット!」

 手続きにはなにが必要だろうか、と考えを巡らせていると、聞きたくもない声が聞こえて来た。リュネットは思わず眉間に皺を寄せ、声がした方向へ背中を向けて歩き出した。

「そこを動くな、リュネット!」

 あまりにも大きな声だったので、道行く人々が何事かと振り返り、足を留める。リュネットは恥ずかしくなった。

「命令しないでください」

 自分でも驚くほど冷たく言い放ち、リュネットは無視して歩き始める。
 すぐにマシューが駆け寄って来て乱暴に腕を掴み、立ち去ろうとする妻を振り返らせた。

「動くなと言っている!」

「命令しないでと言いました」

 無言で睨み合う。緊迫した二人の様子に、通行人達はチラチラと視線を投げかけながらも、自分達には関わりのないことだ、と過ぎ去って行った。
 胸焼けの吐き気のようなものを感じながら夫を睨んでいると、手になにも握っていないことに気づいた。腕を掴まれたときに万年筆を落としてしまったらしい。
 視線を彷徨わせると、マシューの足許に転がっているのを見つけた。ああ、と思ったが、拾う為には腕を振り払って屈まなければならず、そうすると彼をますます怒らせるような気がして一瞬躊躇した。
 リュネットの視線に気づいたマシューは自分の足許を見遣り、彼女の視線の理由に気づいた。腕を掴んだまま逆の手を伸ばし、落ちていた万年筆を拾い上げる。

「陽が落ちるからもう冷えるよ。帰ろう、リュヌ。それからゆっくり話そう」

 拾い上げた万年筆を持ち主に返しながら、マシューは静かに告げる。リュネットは顔を顰め、首を振った。
 どうして、と尋ねられるのへ、更に首を振った。

「離婚してください」

 この言葉にはマシューが双眸を瞠る。両手でしっかりと肩を掴まれ、揺さ振られた。

「どうしてそんなことを……!」

「もう嫌なのです」

 夫から視線を背けたまま小さく呟いた。

「あなたの言葉を信じる自分も、裏切られたと思って悲しくなる自分も……人の行動に振り回されるのはもうたくさん」

 マシューは反論しようとしたが、黙って妻の言葉を聞いた。

「どうして私を心穏やかに暮らさせてくれないのですか。こんな気持ちになるくらいだったら、あなたと結婚などしなければよかった、と後悔していたところです」

 こんなことを言っていて、なんだか泣きたくなってきた。胸はまだムカつくし、胃も痛むのが腹立たしい。
 マシューはリュネットの頬に手を伸ばし、そっぽを向いていた顔を自分の方へ向けさせた。

「――…なにをにやにやなさっているのです?」

 嫌々ながらも夫の顔を見たリュネットは、呆れたように呟いた。
 リュネットはこんなにも嫌な気分になって腹立たしくも感じているというのに、マシューは笑っている。その様子にまた腹が立った。

「きみが嫉妬してくれるのは珍しいと思って」

 マシューは嬉しそうにそう言った。なにを言っているのだ、とリュネットはますます眉間の皺を濃くする。

「僕が女性といるところを見て、腹が立ったんだろう?」

 なにを馬鹿なことを、とリュネットは夫を睨んだ。

「仮にも自分の夫が、見知らぬ女性と親密な様子でいたら、腹が立つものではないでしょうか」

「そういうのを嫉妬と言うんだよ」

 マシューはにっこりと笑ってリュネットを抱き締めた。

「ちょっと! なにするんですか、やめてください。私は怒っているのですよ!」

 こんな往来のあるところで恥ずかしくないのか、とリュネットが顔を真っ赤にして身を捩ると、丁度大きな音で鐘が鳴り響き始めた。午後六時を報せる時報だった。
 その大きな音に負けないくらいに大きな声で、マシューは叫んだ。

「きみを世界で一番愛しているよ!」

 リュネットがびくりと固まるのと同時に、すぐ傍を通りかかった見知らぬ老人も驚いたように足を止めた。橋の向こう側を歩いていた何組かのカップルも同様に足を止め、二人の方を振り返った。
 真っ赤になったリュネットを抱え上げ、マシューはその場でくるりと回った。

「やっ、降ろしてくださ……っ」

 急に幼い子供のようなことをし始めた夫の態度に困惑したが、リュネットはそれ以上なにも言えず、不安定な姿勢に恐くなってしがみついた。
 余韻を残して鐘が鳴り終わると、マシューはリュネットを元のように降ろしてくれたが、恥ずかしさと驚きから早まった鼓動はなかなか治まらない。胸のムカつきがまた強くなったようにさえ感じる。

「今日一緒にいた女性はね、ミセス・ペンブロークといって、ハワードの妻の兄嫁だよ」

 薄っすらと感じる吐き気に口許を押さえていると、マシューはそんなことを言い出した。
 ハワードの妻の兄はロンドンに住んでいて、そこの息子が今度奨学生として大学に通うことになったので、そのことで相談を受けていたのだという。

「信じられない?」

 驚いた表情に固まっているリュネットに、マシューは首を傾げる。

「ええ、まぁ……それより、ハワードさんに奥様がいらっしゃること自体が初耳です」

「村にいるよ。ゴードンの家の二軒向こうに住んでいる筈だけど」

 会ったことないかな、と尋ねられ、見かけたような覚えはあるが、会釈したことがある程度なのであまり記憶になかった。
 家令や執事という役職にある使用人は、妻帯しないのが普通だ。ほとんどが住み込みの仕事であるし、家族よりも主人一家を優先しなければならないこともあり、家庭生活があまり上手くいかないのだろう。
 カートランド家はそういったことには寛容で、使用人の結婚は基本的に自由だ。さすがに妊娠したメイドを働かせるわけにもいかないので、そういった場合はいずれ辞めてもらうことにはなるが、仕事に支障がなければ問題ないとしている。
 ハワードの妻という女性は、夫の仕事のすべてを理解し受け入れているので、生まれ故郷を離れて夫の職場に近い村に移り住み、子育てもなにもかも一人で頑張っているらしい。もちろんハワードも休暇の度に帰宅している。
 子供までいるということを聞き、リュネットは素直に驚いた。
 だからマシューは、結婚後に別居をすることにも意外とすんなり頷いたのだ。そういう生活をしていて上手くいっている夫婦がすぐ傍にいるのだから、自分達も問題ないと思ったのだろう。

 はあ、と溜め息をついた。つまりリュネットは、勝手に勘違いをしていたというのに、マシューに対して一方的に腹を立てていたのだ。邪険にしたことをほんの少しだけ申し訳なくなる。
 納得してくれたらしい妻の様子に、マシューも一安心だった。

「まあ、勘違いされたのは仕方がないと思う。僕の過去はそれほど綺麗なものではなかったし」

 そうですよ、と言いたかったが、取り敢えず黙っておく。今回のことはリュネットにも多少は非があったし、一方的に責めるわけにはいかない。

「仲直りのキスをしようよ」

「こんなところで?」

 リュネットはあたりを見回すが、先程より夕闇の濃くなってきた橋の上には、人通りが希薄になってきている。
 頬に手が伸びてきたので、仕方がない、と目を閉じた。

 マシューとキスをするのは何日ぶりだろうか。先月の帰省から半月以上が経っているので、それくらいだ――そんなことを考えながら唇に触れる温もりに意識を奪われるが、不意に込み上げてきた吐き気が堪えられなくなり、思わず夫を突き飛ばして屈み込んだ。

「リュネット……?」

 突き飛ばされたマシューはショックを受けていた。蹲る妻の姿を茫然と見下ろした。

「――…ごめんなさい。気持ち悪くて……」

 その言葉に更にショックを受ける。

「あ、いえ。あなたのことが気持ち悪いというわけではなくて……たぶん、あなたの香水が……」

 青褪めた夫に慌てて言い繕うが、先程までと風向きが変わったのか、ふわりと甘い匂いが鼻につき、また気分が悪くなってくる。

「ごめんなさい。いつもこんなことなかったのに」

 リュネットが弱っているとき、マシューは慰めるようによく抱き締めてくれた。そのときに彼から仄かに香る香水の匂いは、彼の温もりと共に、リュネットを安心させるものだと思っていた。
 それなのに、いったいどうしたことだろう。今日は不快でしょうがないし、匂いがやたら鼻について仕方がない。
 つけ過ぎではないか、と口許を押さえながら尋ねると、マシューは首を振る。

「いつもと変わらないつもりだけれど……」

 気にし過ぎではないか、と思いもするが、真っ青になっているリュネットの様子にそうだとは思えなかった。
 しかし、マシューはこういうときにかなり勘が働く。男性ではあるが、医学生であったこともあり、経験の少ないリュネットよりは知識が豊富だった。
 風向きを確認しながらリュネットの傍に膝を突き、青褪めた顔を覗き込む。

「つかぬことを伺うけれど、レディ・カートランド。最後に月の障りがあったのはいつ?」

 リュネットは涙に潤んだ瞳をギロリと向け、手に持っていた万年筆を振り翳す。

「いい加減に弁えないと、流石に刺しますよ?」

「キャップを外さないと痣が出来る程度だよ。真面目な話だから答えて」

 リュネットは仕方なく記憶を辿ってみるが、元々不順であるので、よくわからなかった。しばらくなかったことだけは確かだが。

「最近やたら眠いとか、食べ物の好みが変わったとかは?」

 しゃがんでいると冷える、と立ち上がらせながら更に尋ねる。いったいなんなのだ、と怪訝に思いながら首を振った。

「取り敢えず医者に行こう」

 スカートの汚れを払ってやり、肩掛けをしっかりと巻きつけてやる。

「いったいなんなのですか?」

 馬車を拾って来る、と立ち去ろうとする夫を引き留め、リュネットは不安げな目を向けた。

「まだはっきりとわからないよ。ただ、嬉しいことが待ち受けているかも知れない」

 マシューはそう言って微笑み、通りの方へ走って行った。
 その足取りがとても軽やかなことに、リュネットは首を傾げるばかりだった。


 


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