侯爵様と家庭教師

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番外編3 侯爵様と婚約者

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 リュネットは怒っている。それは誰の目から見ても明らかだった。
 ミーガンはかけるべき言葉を探してみるが、上手い言葉が見つからない。

「――…出来た」

 端の始末を終えて糸を切り、リュネットは満足気に頷く。
 雑貨屋のサイラスとリリーに生まれた双子の為に、魔除けの刺繍をしていた枕カバーが仕上がったのだ。途中にいろいろとあって中断したりして、予定よりも随分と時間がかかってしまったが、綺麗に出来たので安心した。
 作業を終えたらしいリュネットの様子に、ミーガンもアンナもホッとした。

 冤罪でリュネットが逮捕され、なんとか釈放されて戻ってから既に半月以上――リュネットは静かに怒っている。それ故に、あちらこちらに移動して刺繍を続けていて、今日はアンナの作業場である洗濯室に籠もっていたのだ。ミーガンも付き合って一緒に自分の繕い物をしていた。
 リュネットが変な場所に移動を続けている原因はわかっている。この屋敷の当主であるマシューと喧嘩しているからだ。
 何故そんなことになっているのだろう、とミーガンは不思議でしょうがなかった。
 リュネットがマシューと結婚するらしいという話は、二人が戻って来てすぐに聞かされた。使用人一同、主人と彼女の関係には薄々感づいていて、どうなることかとやきもきしていた面もあるので、納まるべきところに納まったらしいことに一安心だった。
 しかし、その話を聞いてから僅か一週間程すると、リュネットが怒り始めたのだ。それは誰の目にも明らかだったのだが、誰一人として事情を問い質すことは出来ないでいた。

「なにか綺麗な包み紙とかないかしら?」

 アンナからアイロンを借りて枕カバーの皺を伸ばしながら、リュネットはミーガンに尋ねた。

「えっ、あー……モンゴメリさんなら持ってると思う……ます」

 語尾を不自然に敬語に直すと、リュネットは笑った。

「なぁに? 普通にしてよ」

 変なの、とリュネットは笑っているが、ミーガンは困ってしまう。
 今までは同僚というか、同じような立場として親しく接してきたが、彼女はそのうち侯爵夫人となり、ミーガンの主人となるのだ。今までと同じようにしようとして出来るものではない。アンナも複雑そうな顔をしている。

「あ、いたいた。ジェシカさんがお茶淹れてくれたよ。アンナもおいでよ」

 裁縫道具を片付けているとアニーがやって来る。午後の課業はすっかり落ち着いた時間だったので、休憩を取るのだろう。
 揃って休憩室に向かっていると、バーネットがやって来た。

「あの、レディ・リュネッ……いいえ、ミス・ホワイト」

 呼びかける言葉を遮って睨みつけると、彼は呼び方を変える。リュネットは「なにかご用ですか?」と応じているが、その様子にミーガンはハラハラとした。

「先程から旦那様がお捜しになっていますが」

 バーネットは言いにくそうに用件を告げている。彼のこういう姿は珍しいな、とメイド達は思った。バーネットは控えめで物静かだがはっきりものを言う性質で、こういう風に言葉を濁したり言い淀んだりすることはあまり見かけない。
 ふうん、とリュネットは頷いた。

「あの、来て頂けたりは……」

 リュネットの反応が悪いので窺うように目を向けるが、それに対する彼女の態度も珍しく冷たいものだった。

「参りません。リュネットは少々怒っておりますの」

「では」

「エレノアも参りません。侯爵様は家庭教師がお嫌いなようですから、お会いする理由もないと思いますわ」

 どうやらリュネットは最近『レディ・リュネット』と『ミス・ホワイト』の顔を使い分けている。どういう基準なのかはミーガンにはわからないが、その二つの顔でマシューに対する態度を分けているようだ。
 そして今回は、リュネットもエレノアも、マシューに会うつもりはないとしている。なんともややこしいことをしているものだ。

 失礼、とバーネットに断りを入れると、リュネットは休憩室を目指して歩き出してしまう。ミーガンも慌ててあとを追おうとしたが、バーネットが溜め息を零した姿がつい気にかかってしまった。

「ねえ、エレノアさん……」

「なぁに?」

「旦那様と、今度はなにがあったの?」

 恐る恐るとだが、思い切って尋ねてみる。ここ何日もずっと気にかかってモヤモヤしていたのだ。
 あっ、とアンナとアニーは表情を強張らせるが、こちらもミーガンと同じ疑問を抱いてはいたので、リュネットの答えが気になる。

「なにもないわよ?」

 リュネットは微笑んで答えた。その様子は嘘をついているようには見えないが、本当のことを言っているようにも見えない。要は、余計なことに口出しをするな、ということなのだろう。そういう態度を取られたら、ミーガンもなにも言えなかった。

「そういえば、またその引っつめ髪に戻ったんだね」

 休憩室でお茶をもらっていると、ジェシカがリュネットの髪を見て笑う。
 言われてみればそうだな、とミーガンも思ったが、指摘を受けたリュネットは少しムッとした表情になっているので、これは触れてはいけない話題だったのだろう。
 そんな雰囲気にジェシカもなにかを感じ取ったのか、そそくさと休憩室を出て行った。
 少し不機嫌そうな様子のままお茶を飲み終えたリュネットは、日暮れまでまだ時間があるということで、出来上がった枕カバーを届けに行って来ると言い出した。

「いつもの焼き菓子買って来る?」

 届け先はメイド達がお気に入りの焼き菓子が置いてある雑貨屋だ。ミーガンもアニーも頷き、財布を取りに部屋に戻った。
 小銭を数えながら休憩室に戻る途中で、廊下の陰で話し込んでいるハワードとバーネットの姿を見かける。

「ちょっと、ミーガン」

 足を止めた同僚の姿に、アニーは咎めるように声をかける。若いくせに世話焼きなミーガンは、絶対に余計なことをしようとしている。
 そんなアニーの声を振り切り、ミーガンは二人の傍へ近づいた。

「どうかしましたか、ミーガン?」

 ハワードがすぐに気づいて顔を上げたので、ミーガンは大きく頷いた。

「エレノアさんが出かけるって言ってます」

「何処へ?」

「オズボーンに届け物です。でも、陽が暮れるから一人は危ないと思うんですよ」

 ちらりとバーネットに視線を向けてみると、彼はすぐにミーガンの意図に気づいたらしく、頷いて踵を返した。

「ハワードさんはご存知なんですか?」

「なにをです?」

「エレノアさんが怒っている理由です」

 ああ、とハワードは苦笑した。

「やはりあれは、お腹立ちの様子でしたか」

 ここ何日か変な態度を取っていることには気づいていたが、リュネットがマシューを無視することは以前から何度か見たことがあったので、今回はどういうつもりなのか計りかねていたのだ。

「まあ、旦那様がなにかしてしまったのだろうということは、想像に難くないですね。真面目に謝罪すれば許してくださると思うのですが、旦那様はあのご性格ですからねぇ」

 ロンドンから戻って何日かは仲睦まじくしていたと思ったのに、ここ数日急にまた仲が悪くなってしまった。いったいあの二人の仲はどうなっているのやら。
 やれやれ、とハワードが苦笑するので、ミーガンも同意するしかなかった。
 待たせていたアニーと共に休憩室に戻り、リュネットに焼き菓子の代金を前払いしておく。他のメイド達からも買って来るものを確認したリュネットは、待っている間に包装を済ませた枕カバーを抱えて立ち上がった。

 部屋からコートを持って来て羽織りながら裏口を出ると、そこにはマシューが待ち構えていた。思わずムッと表情を歪める。

「出かけるんだって?」

 そう尋ねるマシューもコートを羽織ってステッキも持ち、外出する様相だ。

「ちょっと村まで行って来ます」

 素っ気なく答えて脇をすり抜けて歩き出すが、そのあとをマシューがついて来る。そんな気はしていたので、数歩進んでみてから立ち止まった。

「ねえ、リュネット」

 振り返って文句を言ってやろうとしたところに、先に声をかけられる。リュネットは開きかけた口を閉じ、マシューを見つめ返した。

「僕等は少し話をするべきだと思うんだ」

「……私は、そうは思いません」

 リュネットは頑なだった。ツンと顔を背けてしまう。
 そもそも彼女が怒っている原因というのは、マシューが大人気なくも小さなヴァイオレットを泣かしたという話を聞いたからだ。いい年をした男がいったいなにをやっているのか、と呆れたと同時に、子供相手にそんなことをするマシューに腹が立ったのだ。
 それ以上の言葉はなく睨み合っていると、珍しくマシューが根負けした。

「いいよ、わかった。きみとこれ以上険悪になるつもりはない」

 あっさり引き下がるのも珍しい。そんなマシューの態度を訝しむ。

「取り敢えず、村には一緒に行くよ。女性の一人歩きはよくないからね」

 今度はリュネットが折れることにした。リュネットの脚で歩いても片道二十分ほどの距離だ、それくらいなら我慢してやろうではないか。
 二人並んで歩いて行く姿を休憩室の窓から見送っていたミーガンとアニーは、心底ホッとした。睨み合っている状態からだと、また喧嘩に発展しそうだったからだ。

 茜空が濃くなってきた頃に戻って来たときも、二人は普通だった。なんとなく距離はあるようだったが、険悪な様子はなく、道中で更に喧嘩したようなことはなさそうでミーガンは安心する。

 しかし、夕食の支度に厨房が慌ただしくなってきた頃、リュネットの機嫌を損ねるような情報がモンゴメリの口から齎された。
 ミーガンはポリーと一緒にリュネットの部屋がある西塔に上って行き、モンゴメリからの話を伝えた。案の定、リュネットの表情は途端に険しくなる。

「お断りします。ドレスがありませんので」

「そう仰られるだろうと、こちらをお預かりして来ました」

 取りつく島もない態度をものともせず、ポリーは抱えて来た箱を差し出した。

「またあの方は……」

 リュネットは更に表情を険しくしたが、大きく溜め息を零し、諦観した表情になった。

「折角のお料理も無駄になりますし、ご同席くださいますね?」

 ポリーが駄目押しのように言葉を加え、とうとうリュネットを頷かせた。
 ミーガンにはリュネットがなにをそんなに嫌がるのかがわからない。ジェシカが腕に選りをかけた豪華なご馳走を食べるだけではないか。
 確かに、いちいちドレスを着替えたり、たくさんの食器を使ったりするのは面倒で大変かも知れないが、美味しい料理を食べれるのだから羨ましいと思う。
 それともやはり、喧嘩中のマシューと食事をするのが嫌なのだろうか。早く仲直りすればいいのに。

 以前からリュネットがなにを考えているのかわからないと思うときがあったが、やはりよくわからない。なんで顔を見るのも嫌なくらいの気分になる相手と結婚する気になったのだろう――そんなことを考えながらドレスの着付けを手伝っていると、ぴったりの筈の身幅が少し余っていることに気がついた。少し痩せたとは思っていたが、気の所為ではなかったのだ。
 チョコレート色のドレスの具合を見ていたリュネットは、限りなく憂鬱そうだ。嫌そうに溜め息まで零しているが、それでも状況を受け入れているようだった。

「行って来ます」

 もう一度溜め息を零しながら呟き、部屋を出て行く。その後ろ姿がなんとなく可哀想に思えたが、ミーガンにはかけるべき言葉がなかった。これ以上二人の仲が拗れませんように、とただ祈るしかない。
 暗い表情のまま食堂へ向かうと、ドアの前でマシューが待っていた。

「やっぱりきみは明るい色合いよりも、落ち着いたものの方が似合うんだね」

 今まで贈ってきた寒色系以外のドレスを着たリュネットの様子に、マシューは一人納得したように頷いた。そうだろう、とリュネットも思う。瞳の色が濃い所為か、昔から薄紅色とかはあまり似合わなかったのだ。

「あまり、次から次へと新しいドレスを作るのはやめてください」

 慣れていない所為もあって、リュネットは着飾ることが苦手だ。どんなに素敵なものを用意されても、否定的な感情が先立ってしまって、素直に礼を述べることが出来なくて申し訳なくなる。
 ふっ、とマシューは微笑み、リュネットの手を取った。

「きみを僕好みに仕立て上げるのが楽しみなんだよ。心底嫌でないのなら、少し付き合って欲しい」

 その言葉に、メグも着せ替えさせるのが好きだったな、と思い出す。
 やはり兄妹なのだ。こういうところも似ている。
 リュネットは仕方なく頷いた。用意されたものを着替えるだけならたいしたことではないし、泣いて嫌がるほどのことではない。誰かに手伝ってもらわないと着替えられないのが難点で申し訳ないが。

 二人きりの食事中は静かだった。特に会話もなく、広い食堂の中にはカトラリーが皿を擦る音だけが響いていた。
 話し合いが必要だとかなんとか言っていたので、対話の為に食事を共にしたのだと思っていたリュネットは、なにも言わないマシューに少し拍子抜けした気分だった。けれど、面倒なことにならずにジェシカの料理を堪能出来たので、大満足だ。

 しかし、話し合いの場は食後に待ち構えていた。
 食事中に少しだけ口をつけたワインの影響でぼんやりしていると、慣れた仕種で居間までエスコートされ、暖炉の前に座らされた。それが話し合い開始の合図だった。

「僕はね、リュネット。きみが思っているよりずっと狭量な人間なんだよ」

 食後のお茶を受け取って少し眠気を感じながら暖炉の火を見つめていると、マシューがそんなことを言い出した。

「きみがここのところ腹を立てている原因は、僕がヴィオラを泣かせたことだろう?」

 確かにその通りだ。数日前にカトレアからそんな内容の手紙が届き、先週いったいなにをする為にマシューがロンドンへ行っていたのかを知り、呆れると同時に腹が立ったのだ。
 リュネットが怒っている原因など気づいていないと思っていたが、自覚はあったらしい。少し意外な思いを抱きながら紅茶に口をつける。

「ヴィオラは僕の恋敵ライバルなんだ」

 溜め息交じりに零された言葉に、驚いて紅茶が変なところに入り込み、思わず噎せる。
 なにを言うのだ、とマシューを見るが、彼は真剣そのものの目つきでリュネットを見ていた。今の言葉は本音らしい。
 八歳の女の子に対抗心を燃やしているのか、と心底呆れてしまう。

「……私、侯爵からの求婚を受けましたよね? それでも不安なのですか?」

「不安だよ」

 マシューはきっぱりと断言した。そのあまりにもはっきりした物言いに面食らう。

「きみが本心から僕の求婚を受けたわけじゃないことはわかっているんだ。危険な目に遭ったときにタイミングよく助け出した僕に対して、感謝と恋を勘違いしてると思っているだろう?」

 その指摘にはドキリとした。
 いずれ結婚することになるという話をしたときに、アニーとアンナが言ったのだ。危険な目に遭って恐ろしさで感じていた動悸と、恋に落ちてときめいているときの動悸を混同し、恐怖から救い出してくれた相手が非常に格好よく見え、自分は恋をしてしまったのだと勘違いすることがあるのだ、と。
 アニー曰く、彼女も過去に同様の経験があり、その男性と交際していた時期があるらしいのだが、何日かするとそんな気持ちは綺麗さっぱり消え去り、何処がよかったのかまったくわからなくなってしまい、結局半月程で別れたのだという。

 リュネットがマシューへの気持ちを自覚したと思ったのは、投獄されているときであり、まさに危機的状況で追い詰められた精神状態だった。
 黙り込んだリュネットの様子に、マシューは静かに双眸を眇める。

「それと、きみは本当は家庭教師ガヴァネスの仕事を続けたくて、本心では家庭に入りたくないと思っている」

 この指摘も否定しきれなかった。確かにリュネットは、家庭教師という仕事に僅かながら未練がある。
 答えられずに黙っていると、飲み終わっていたカップを取り上げられ、代わりにその手を握り締められる。

「僕の言葉、なにか否定してくれる?」

「なにか、って……」

 それ以上はなにも言葉が見つからない。リュネットは唇を閉ざして視線を彷徨わせた。

「僕はきみのことを愛しているよ、リュヌ」

 握り締めた手に口づけながらマシューは囁く。リュネットは頬を染め、はい、と小さく頷いた。

「きみは? きみも僕を愛してくれている?」

 なにを馬鹿なことを、と言いたくなったが、マシューの目つきは真剣だった。

「あ……愛していなければ……あ、あんな、こと……出来ません……」

 リュネットは頬を真っ赤に染めて視線を逸らし、俯いた。
 恥じ入るリュネットの様子に、マシューはふっと表情を和らげた。

 何故あんなことをしてしまったのか、リュネットは自分の行動が未だに理解出来なくて困惑している。愚かなことをしてしまった、と後悔したのはほんのひと月ほど前のことだったというのに、リュネットはマシューの誕生日の夜、彼に身体を許してしまったのだ。
 酔っていたわけではない。それでも、キスをされたあとに身体に触れられたところを拒まなかったし、抱き上げられて寝室へ連れて行かれても抵抗はしなかった。

 そんなことがあったあとにアニー達からあの話を聞かされ、動揺していたところにカトレアからの手紙が届き、マシューの大人気なさに呆れて腹が立って無視をし始めたら引っ込みがつかなくなったのだ。それが今日まで続いている状態だった。

 リュネットはマシューを無視することへの止め時を捜していた。だから、本当はもうたいして怒ってもいなかったので、こうして触れられていても振り払ったりはしない。

「キスをしてもいい?」

 手に口づけていたマシューだったが、探るような目で見上げてくる。
 許可など必要としない強引さがあるくせに、最近はいつもこうして許可を求める。これは絶対に、恥じらいながらも「どうぞ」と言うリュネットの様子を見て愉しんでいるに決まっている、とリュネットは確信していた。
 それでもリュネットは、視線を逸らしながら「どうぞ」と答えるのだ。
 マシューの相変わらずひんやりとした掌が頬に触れ、僅かに上向かせる。リュネットが恥ずかしげに視線を彷徨わせると、逃がしはしない、と言わんばかりの態度で唇を重ねてきた。何度も経験していてすっかり慣れた筈のその行為なのに、リュネットは緊張から僅かに身を震わせる。
 頬に触れていた手が耳朶に触れ、首筋を撫でて後ろ側に回り込み、リュネットが逃げられないようにしっかりと抑え込んでくる。だからリュネットは微かに喘ぎ、苦しげに眉根を寄せるのだ。

(あ――これ、駄目……)

 マシューの左手が背筋を撫でたことに気づき、身を震わせる。
 このままではいけない。ここで止めさせなければ、また彼に身体を許してしまう。
 けれど、リュネットが出来た抵抗といえば、マシューの上着を握る手に力を込めることくらいだった。

「……駄目」

 キスの合間に僅かに囁く。吐息交じりのそれはすぐに塞がれ、返事の代わりにマシューはドレスの釦を外した。
 背骨の上をマシューの掌が撫でたことにギクリとし、リュネットは双眸を瞠った。
 誰が来るかもわからないようなこんな場所で、淫らな行為に耽るわけにはいかない。いや、そもそも結婚前にこんなことをするのはよくない。リュネットは焦ってマシューの胸を叩くが、抗議の声はキスに塞がれてくぐもったものとしかならなかった。
 それでもマシューはリュネットがなにを訴えようとしているのか気づいたらしく、ドレスを脱がすのを中断し、体勢を入れ替えてリュネットを抱き上げた。

「僕の部屋に行こう」

 急にそんなことをされたので驚いて首筋に縋りつくと、耳許に低く囁かれる。ぞわりと全身が震え、抵抗する気力を削がれた。
 リュネットの返事を聞かずにマシューが歩き出す。

「侯爵……」

 階段を昇り、だんだんとマシューの部屋が近づいて来るのを感じ、リュネットは不安になって呼び止める。
 こんなことはいけないことなのに、それを受け入れてしまおうとしている自分がとても恐い。それなのに、マシューに抱かれることを期待している自分もいた。
 マシューは泣き出しそうな表情をしているリュネットに微笑みかけ、キスをした。

「いつも言っているけど、本当に嫌なら、僕を蹴り飛ばしてくれていいんだよ?」

 忠告に気がつくとベッドの上に降ろされていて、リュネットは胸許に施された優しい愛撫に思わず吐息を漏らす。
 リュネットがこれ以上抵抗しないようだと見受けると、マシューはキスをしたままスカートの裾をたくし上げ、ペチコートの重なりを掻き分けて細い脚を探り当てる。触れられてそこをあられもなく開かされると、リュネットは先夜のことを思い起こして羞恥から震えた。

「それ、だめ……いや……っ」

 震える声で拒絶しながらマシューの腕を掴み、全身を薔薇色に染めて首を振る。

「どうして?」

 押し留める声をものともせず、マシューは軽く唇を舐め、ドロワーズの留め紐を解きにかかった。リュネットはますます真っ赤になり、涙目になりながら精一杯首を振る。

「恥ずかしいし、恐い……」

 だからやめて欲しい、と震える声が訴えるが、なにを今更、とマシューは笑った。リュネットの身体でマシューが知らないところはないというのに。
 両脚を必死に閉じようとするが、間にマシューがいるので叶わない。どうしよう、と困り果てながらもなんとか膝を閉じ合わせるが、簡単に開かれてしまう。

「侯爵……」

 リュネットは首を振り、それだけはやめてくれ、と懇願した。
 身体を重ねるのは――本当はまだかなり抵抗はあるが、望まれているのに拒絶する気持ちは、以前に比べればだいぶ薄い。けれど、マシューに因って拓かされたそこを、先夜のように口で愛撫されることには抵抗があった。
 いやいやと首を振って無力な哀願を試みるが、マシューは薄っすらと笑みを浮かべるだけだ。

「ねえ、リュネット。お強請ねだりの仕方は、前に教えただろう? どうするんだっけ?」

 意地の悪い声音で囁きながら、ドロワーズをするすると脱がせていく。
 リュネットは必死に膝を閉じ合わせながら、加虐心に火がついているらしい不埒な侯爵様を見上げた。

「――…お願い、マシュー……恐いことしないで」

 マシューは吐息を漏らし、リュネットへと覆い被さった。
 今のところ、リュネットがマシューの名前を呼ぶのは、ほとんどが情事の最中だけだ。だからこそ、名前を呼ばれるとなんだか特別なことのように思えるし、潤んだ瞳の彼女に名前を呼ばれると歯止めが利かなくなる。
 それなのに、その言い方はなんだ。これではマシューに虐めてくれと言っているようではないか。
 リュネットの可愛らしい声と恥じ入る泣き顔が見たくて、マシューは腿の内側の柔らかい部分に歯を立てた。


 リュネットの必死に押し殺そうとしている甘い嬌声を聞きながら、まだ娘らしさの戻りきらない細い肢体に所有の証を刻みつけていたマシューは、数時間後に涙目の彼女から罵られる覚悟は出来ていたが、数日後に結婚の話自体を白紙に戻されそうになる危機に見舞われるとは、想像すら出来ていなかった。




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