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番外編2 雪の妖精への恩讐
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童話や御伽話を信じる性格ではなかったが、彼女を見たとき、ドナルドは思った。
雪の妖精だ――と。
色の白い肌と白に近い淡い金髪、そして、髪と同じ色の重たげな睫毛の下には、澄んだ空よりも淡く透明な薄青い瞳が隠れている。
纏うドレスも白地に水色のピンストライプの爽やかな柄で、彼女はなにもかもが淡い色彩で作られていた。
「こんにちは、初めまして」
彼女はドナルドを見つめ、薄紅色の唇でやわらかく微笑んで挨拶してきた。小鳥が囀るような軽やかな彼女の声音に、ドナルドはへどもどと会釈を返した。
そこで気がついた。彼女がそっと優しく触れている腹部が大きく膨らんでいることに。
「どういうことだ、兄さん……!」
怒りに震える父の声にハッとする。
父は伯父であるギャレットを睨み据えていて、その伯父は、雪の妖精のような彼女の細い肩をあの大きな手で抱いていた。
「この娘はジュヌヴィエーヴ・モンクレーヌ」
ギャレットの言葉にジュヌヴィエーヴという名の娘はにっこりと微笑み、父にも会釈した。
娘の名を知れたドナルドは、ぽーっとしながら彼女の微笑みを見つめ返していた。ジュヌヴィエーヴ――英国風に発音すればグィネヴィアか。古風な響きの名だが、彼女には不思議と似合っている。
「わたしの妻だ。腹に息子もいる」
ぼんやりとジュヌヴィエーヴを見つめていたドナルドに、ギャレットの言葉はまさに衝撃だった。
「なっ……! どういうことだよ、兄さん!」
「代理人を立てて婚姻も成立している。彼女は正式にわたしの妻だ」
青褪めた父に伯父は淡々とした口調で諭すように続けていた。
(妻? 息子?)
伯父の言葉を反芻しながら、彼女の腹が大きく膨らんでいる理由に思い至る。
あの雪の妖精のような儚げな娘の腹の中には、伯父の子が宿っているのだ。そう気づかされたとき、急に吐き気が込み上げてきた。
「ふざけないでくれよ、兄さん。家督はうちの息子が継ぐ筈だっただろう? 急にそんな何処の馬の骨とも知れない外国女を連れて来て、妻……? どうかしているんじゃないか」
込み上げる吐き気を抑えようと胃のあたりを抑えていると、父が声を震わせながら伯父に掴みかかって行った。伯父は娘を庇い、父を押し留める。
「それは子供がいなかった場合の話だ。今はこうして、彼女の腹に息子がいる」
ドナルドは伯父の言葉に、自分が彼の後継者でなくなったことを悟った。
何故、と絶望すると同時に、再び込み上げてきた吐き気を堪えた。
ドナルドは伯父の跡を継ぐ為、幼い頃より努力してきた。自分が大切な本家を継がねばならないと意識して、その為には品行方正であらねばならないから生活態度に気を配り、成績も優秀でなければならないとあまり好きではない勉強も頑張ってきた。今も首席とはいかないが、学校の成績は上位陣に属している。ボート部でも試合の出場メンバーに選ばれている。
そんな努力はすべて無駄になり、ドナルドが目指して来たものは、彼女の腹の中にいる子供に奪われるというのか。
憎らしい娘に見惚れていた自分に吐き気がする。幸せそうに微笑んでいるジュヌヴィエーヴを睨みつけた。
「その子供が息子かどうかなんてわからないじゃないですか」
ドナルドは父を押し退けて伯父に反論した。
「だいいち、無事に育つかどうかもわかりゃしない」
生まれたばかりの赤ん坊が病気になりやすく、呆気なく命を落としやすいことくらいは、まだ十五のドナルドでも知っている。
ジュヌヴィエーヴを睨みつけながら鼻で笑うと、彼女はとても悲しそうな表情になった。その様子に一瞬だけ胸が痛んだが、それよりも強く腹立たしさが増してくる。
「そうしたら結局、この僕が継ぐことになるんですよね?」
子供が女だった場合もそうだ。余程の事情がない限り、家督は男系に継がれていく。
ギャレットは静かに甥を見つめ返した。
「お前の言う通りだな。娘だった場合もそうだ」
ふん、とドナルドは鼻を鳴らした。
「娘だったら、僕が嫁にもらって差し上げます。それで僕が家督を継げば、なんの問題もないでしょう?」
これなら親類からも文句は出ない筈だ。
不安そうにするジュヌヴィエーヴを抱き寄せながら、ギャレットは一瞬苦々しげな表情をしたが、ドナルドの言葉に頷く。
息子が言い返す内容を聞いていた父はそれで満足したようで、まだ少しなにか言いたげにギャレットを睨みつけていたが、留飲を下げて押し黙った。
「あなた、随分と酷いこと言うのね」
帰り際になってジュヌヴィエーヴはドナルドに言った。
静かに睨みつけてくる少女の視線を受け流し、口の端を持ち上げる。
「だって、本当のことだろう? 赤ん坊が弱いのは本当のことだし、ちゃんと大きく育つ保証はないんだ」
「あなたが成人する保証もないわよ」
にやにや笑っていたドナルドだったが、思わず双眸を瞠った。そういう風に反論されるとは思っていなかったのだ。
「……そうだな。僕だって、いつ大きな病気になったり、事故に遭ったりするかわからないからな」
彼女の指摘は尤もだ。齢十五を迎えて頗る健康体ではあるが、いつなにがあるかわからないのは事実だ。例えば、いきなり現れた外国人の女に自分の人生設計を狂わされそうになったりとか、そういう不測の事態というものはいつでも待ち構えている。
「でも、それはお前も同じだろう?」
ドナルドは大股で一歩詰め、ジュヌヴィエーヴを見下ろした。
「お産で命を落とす母親も多いらしいからなぁ。無事に産めるといいな」
顎先で大きなお腹を示し、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。
ジュヌヴィエーヴは一瞬青褪めて表情を強張らせたが、すぐに平静の表情となり、薄っすらと笑みを浮かべた。
「心配してくださるのね、ありがとう。嬉しいわ」
その笑みに威圧感を覚え、ドナルドは無意識のうちに身震いした。
「産み月は再来月なの。生まれたらご連絡差し上げますから、是非会いにいらしてね」
ジュヌヴィエーヴは優しく腹を撫でる。はち切れそうなほどに大きいというのに、まだあと二ヶ月もああしているらしい。
ぞくり、と肌が粟立つのを感じながら、ドナルドも笑みを浮かべた。
「是非伺わせて頂くよ。……そうだ。祝いにきみの好きな花でも贈ろうか?」
「まあ、嬉しいわ。白い薔薇が好きなの。でも、時季が悪いかしら」
「咲いていなくても探し出して贈るよ。お祝いだからね」
「うふふ。楽しみだわ」
ジュヌヴィエーヴは嬉しそうに声を弾ませて微笑むが、薄青い瞳はちっとも笑っておらず、氷のように冷え切った視線をドナルドに投げかけていた。ドナルドも同じく目だけが笑っていない笑顔で応じる。
二ヶ月後、ジュヌヴィエーヴはひとりの男の子を産み落とした。
腹の中で順調によく育った赤ん坊は大きく、一昼夜苦しむほどの難産だったが、母子共に産後の経過も良好だった。
約束通り連絡をもらったドナルドは、これまた約束通り白い薔薇の花束を抱えて伯父の家を訪ねた。
「まあ、嬉しいわ。本当に来てくれたのね」
ジュヌヴィエーヴはあの氷のような目つきではなく、心から幸せそうに笑っていた。
薔薇の花も嬉しそうに受け取り、匂いを嗅いでうっとりとするその表情は、初めて会ったときの妖精のような印象に近い。
胸の奥にチクリと棘が刺さったかのような痛みを感じ、ドナルドはその痛みに不快を覚えた。
彼は気づいていなかった。ジュヌヴィエーヴに初めて会ったときに恋に落ち、その直後に失恋していた己の気持ちに。
「あなた、ドナルドにフェリクスを見せてあげてくださいな」
侍女に薔薇を活けてくれるように頼みながら、生まれてまだ半月の息子をあやしているギャレットに声をかけた。
「ほぉら、フェリクス。お前の従兄弟のドナルドだよ」
ギャレットはうとうとしている息子を連れて来て、ドナルドの目の前に見せてやった。
伯父のこんな顔は初めて見た、とドナルドはそちらの方に驚く。ドナルドの知る伯父はいつも暗い表情で、何処か世捨て人のような風情で、周囲に流されるようにして生きていた印象が強い。その彼が目尻を下げ、髭の下の口許を緩ませている。
ドナルドは形式的に「初めましてフェリクス」と赤ん坊に話しかけ、祝いに来た親戚としての義務を果たした。
子供は間違えようがなく伯父夫婦の子供だった。濃い鳶色の髪も少し鷲鼻のような鼻梁も伯父にそっくりだし、薄青い瞳はジュヌヴィエーヴの瞳そのものだ。
年の離れた伯父夫婦は、可愛い息子が生まれてとても幸せそうだった。それがドナルドには腹立たしかった。
だから、頑健だった伯父が高齢で弱り、病気で他界したときは胸がスッとした。嘆き悲しむジュヌヴィエーヴの姿を見て、長年の苦々しさも飲み下した。
これであとはフェリクスが死んでくれれば、ドナルドの積年の鬱憤は清算される。年下の従兄弟には娘しか生まれておらず、彼が死ねば、本来の予定通りにドナルドへ家督が回ってくるのだから。
「気を落とすなよ、フェリクス」
伯父の葬儀の席で、ドナルドは喪主を務める従兄弟に声をかけた。
「ドナルド従兄さん……」
「伯父さんが亡くなってわたしも悲しい。惜しい人を亡くしたよ」
フェリクスがドナルドを信頼しているのはわかっている。小さい頃から顔を出しては面倒を見てやっていたし、兄弟のいない彼は、ドナルドを兄のように慕っていた。
「ジュヌヴィエーヴも可哀想にな。評判の鴛鴦夫婦だったから」
棺に縋りついて泣いているジュヌヴィエーヴを見つめ、ドナルドは同情して見せる。はい、とフェリクスも目を潤ませて頷いた。
散々泣いて泣いて、すっかり泣き疲れたのか、ジュヌヴィエーヴはぼんやりしたまま棺に寄りかかって動かなくなった。そんな彼女を心配したのか、小さなリュネットがうろうろしてはジュヌヴィエーヴの腕を握ったり、頭を撫でたりしている。
ドナルドはそんな彼女へ近づき、隣に膝を突いた。
「お悔やみ申し上げるよ、ジュヌヴィエーヴ」
声をかけるとリュネットは怯えたように祖母の後ろに隠れ、警戒した目つきをドナルドに向けた。
ジュヌヴィエーヴは真っ赤に泣き濡れた瞳をドナルドへと向け、茫洋とした視線で声の主を確かめようとしているようだった。
「――…何故、笑っているの?」
義甥の姿を見止めたジュヌヴィエーヴは、掠れた声で呟いた。
なにを言っているんだ、葬儀で笑うなど不謹慎ではないか、と思いつつ、彼女の薄青い瞳の中に映り込んだ自分の姿を見つけ、ドナルドは自分が笑みを浮かべていたことに気づいた。
そこからはもう止められなかった。大きな声を出さなかったことだけは幸いだ。
「伯父さんの病気も、人に伝染るものだったらよかったのに」
囁く声が歓喜に打ち震える。
「お前も、フェリクスも、そのガキも、みんなみんな一緒にくたばればよかったんだ」
ジュヌヴィエーヴの表情が見る見るうちに変わっていく。初めはぼんやりとしていた美貌は、次第に驚愕に震え、怒りに強張った。
「ほら。大好きなギャレット様の後を追えよ」
強張ったジュヌヴィエーヴの薄青い瞳を見つめながら、ドナルドは残酷な言葉を続ける。
「今は薔薇の時季だ。お前の棺には大好きな白薔薇で埋め尽くして、手向けてやるさ」
「なんてことを……!」
怒りに震える声で呟いたあと絶句し、ジュヌヴィエーヴは怯えた表情になっている孫娘を抱き寄せた。
泣き濡れた瞳を怒りに血走らせ、睨みつけてくるその表情も美しい――そう感じてしまった自分の心に、ドナルドは少しだけ意外な気持ちを抱いた。
初めて出会った二十五年ほど前から、ジュヌヴィエーヴはまったく変わらない。それがまたドナルドを腹立たしい気持ちにさせている。ドナルドはこの二十五年の間に伯父夫婦に怨み辛みを募らせて老けていったというのに、彼女だけは幸せに煌いていた頃に時間を留めていたようにも見えるのだから。
だからこそ、ジュヌヴィエーヴを傷つけたくて仕方がない。
ドナルドの感情は歪んでいた。
それは恐らく、ジュヌヴィエーヴと出会ったあの日からのことだったのだろう。
妖精のような美しい娘に出会ったあの日から、降り積もる雪の如く、ドナルドはその歪んだ憎しみと苛立ちと、打ち破られた憧憬に対する鬱屈とした気持ちを蓄積させ、すべてを滅茶苦茶にしてやりたい衝動を胸の内に募らせていた。
立ち上がり、怒りに震えるジュヌヴィエーヴを見下ろした。
「お前の亡骸はさぞ美しいだろうな」
それは本心からの言葉だった。
四十を超えた筈の彼女は未だに若々しく少女のようで、それが人形のように静かに永久の眠りに就く姿は、絵画のように美しいことだろう。
早く死んでしまえ。そうして、二度と自分の前に姿を現すな――ドナルドは本気でそう願っていた。
その願いが通じたのか、ジュヌヴィエーヴはそれからしばらくして姿を消した。故郷に帰ったのだとフェリクスは言っていたが、それならばそれで二度と会うことはないだろう。
それから数年後にフェリクスも不慮の事故で死に、ドナルドにはようやく平穏が訪れた。
これが本来あるべきドナルドの人生だったのだ。
なにもかもが元通りだ。ドナルドは伯父の家督を継ぎ、爵位も領地も財産も手に入れた。これでなにも問題はなくなった。
あとは、少々経営が傾いた工場の運営資金調達の為に、憎らしい小娘を成金の男に売りつけてやるだけだ。腹立たしい存在だったが、見目麗しい女というのはこういうときに役に立つ。
「その手をお離しなさい、ドナルド・スターウェル」
それなのに、その声はドナルドの歩みを留めさせた。
懐かしくも憎らしい雪の妖精が、出会った頃と変わらぬ姿でそこに立っていた。
雪の妖精だ――と。
色の白い肌と白に近い淡い金髪、そして、髪と同じ色の重たげな睫毛の下には、澄んだ空よりも淡く透明な薄青い瞳が隠れている。
纏うドレスも白地に水色のピンストライプの爽やかな柄で、彼女はなにもかもが淡い色彩で作られていた。
「こんにちは、初めまして」
彼女はドナルドを見つめ、薄紅色の唇でやわらかく微笑んで挨拶してきた。小鳥が囀るような軽やかな彼女の声音に、ドナルドはへどもどと会釈を返した。
そこで気がついた。彼女がそっと優しく触れている腹部が大きく膨らんでいることに。
「どういうことだ、兄さん……!」
怒りに震える父の声にハッとする。
父は伯父であるギャレットを睨み据えていて、その伯父は、雪の妖精のような彼女の細い肩をあの大きな手で抱いていた。
「この娘はジュヌヴィエーヴ・モンクレーヌ」
ギャレットの言葉にジュヌヴィエーヴという名の娘はにっこりと微笑み、父にも会釈した。
娘の名を知れたドナルドは、ぽーっとしながら彼女の微笑みを見つめ返していた。ジュヌヴィエーヴ――英国風に発音すればグィネヴィアか。古風な響きの名だが、彼女には不思議と似合っている。
「わたしの妻だ。腹に息子もいる」
ぼんやりとジュヌヴィエーヴを見つめていたドナルドに、ギャレットの言葉はまさに衝撃だった。
「なっ……! どういうことだよ、兄さん!」
「代理人を立てて婚姻も成立している。彼女は正式にわたしの妻だ」
青褪めた父に伯父は淡々とした口調で諭すように続けていた。
(妻? 息子?)
伯父の言葉を反芻しながら、彼女の腹が大きく膨らんでいる理由に思い至る。
あの雪の妖精のような儚げな娘の腹の中には、伯父の子が宿っているのだ。そう気づかされたとき、急に吐き気が込み上げてきた。
「ふざけないでくれよ、兄さん。家督はうちの息子が継ぐ筈だっただろう? 急にそんな何処の馬の骨とも知れない外国女を連れて来て、妻……? どうかしているんじゃないか」
込み上げる吐き気を抑えようと胃のあたりを抑えていると、父が声を震わせながら伯父に掴みかかって行った。伯父は娘を庇い、父を押し留める。
「それは子供がいなかった場合の話だ。今はこうして、彼女の腹に息子がいる」
ドナルドは伯父の言葉に、自分が彼の後継者でなくなったことを悟った。
何故、と絶望すると同時に、再び込み上げてきた吐き気を堪えた。
ドナルドは伯父の跡を継ぐ為、幼い頃より努力してきた。自分が大切な本家を継がねばならないと意識して、その為には品行方正であらねばならないから生活態度に気を配り、成績も優秀でなければならないとあまり好きではない勉強も頑張ってきた。今も首席とはいかないが、学校の成績は上位陣に属している。ボート部でも試合の出場メンバーに選ばれている。
そんな努力はすべて無駄になり、ドナルドが目指して来たものは、彼女の腹の中にいる子供に奪われるというのか。
憎らしい娘に見惚れていた自分に吐き気がする。幸せそうに微笑んでいるジュヌヴィエーヴを睨みつけた。
「その子供が息子かどうかなんてわからないじゃないですか」
ドナルドは父を押し退けて伯父に反論した。
「だいいち、無事に育つかどうかもわかりゃしない」
生まれたばかりの赤ん坊が病気になりやすく、呆気なく命を落としやすいことくらいは、まだ十五のドナルドでも知っている。
ジュヌヴィエーヴを睨みつけながら鼻で笑うと、彼女はとても悲しそうな表情になった。その様子に一瞬だけ胸が痛んだが、それよりも強く腹立たしさが増してくる。
「そうしたら結局、この僕が継ぐことになるんですよね?」
子供が女だった場合もそうだ。余程の事情がない限り、家督は男系に継がれていく。
ギャレットは静かに甥を見つめ返した。
「お前の言う通りだな。娘だった場合もそうだ」
ふん、とドナルドは鼻を鳴らした。
「娘だったら、僕が嫁にもらって差し上げます。それで僕が家督を継げば、なんの問題もないでしょう?」
これなら親類からも文句は出ない筈だ。
不安そうにするジュヌヴィエーヴを抱き寄せながら、ギャレットは一瞬苦々しげな表情をしたが、ドナルドの言葉に頷く。
息子が言い返す内容を聞いていた父はそれで満足したようで、まだ少しなにか言いたげにギャレットを睨みつけていたが、留飲を下げて押し黙った。
「あなた、随分と酷いこと言うのね」
帰り際になってジュヌヴィエーヴはドナルドに言った。
静かに睨みつけてくる少女の視線を受け流し、口の端を持ち上げる。
「だって、本当のことだろう? 赤ん坊が弱いのは本当のことだし、ちゃんと大きく育つ保証はないんだ」
「あなたが成人する保証もないわよ」
にやにや笑っていたドナルドだったが、思わず双眸を瞠った。そういう風に反論されるとは思っていなかったのだ。
「……そうだな。僕だって、いつ大きな病気になったり、事故に遭ったりするかわからないからな」
彼女の指摘は尤もだ。齢十五を迎えて頗る健康体ではあるが、いつなにがあるかわからないのは事実だ。例えば、いきなり現れた外国人の女に自分の人生設計を狂わされそうになったりとか、そういう不測の事態というものはいつでも待ち構えている。
「でも、それはお前も同じだろう?」
ドナルドは大股で一歩詰め、ジュヌヴィエーヴを見下ろした。
「お産で命を落とす母親も多いらしいからなぁ。無事に産めるといいな」
顎先で大きなお腹を示し、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。
ジュヌヴィエーヴは一瞬青褪めて表情を強張らせたが、すぐに平静の表情となり、薄っすらと笑みを浮かべた。
「心配してくださるのね、ありがとう。嬉しいわ」
その笑みに威圧感を覚え、ドナルドは無意識のうちに身震いした。
「産み月は再来月なの。生まれたらご連絡差し上げますから、是非会いにいらしてね」
ジュヌヴィエーヴは優しく腹を撫でる。はち切れそうなほどに大きいというのに、まだあと二ヶ月もああしているらしい。
ぞくり、と肌が粟立つのを感じながら、ドナルドも笑みを浮かべた。
「是非伺わせて頂くよ。……そうだ。祝いにきみの好きな花でも贈ろうか?」
「まあ、嬉しいわ。白い薔薇が好きなの。でも、時季が悪いかしら」
「咲いていなくても探し出して贈るよ。お祝いだからね」
「うふふ。楽しみだわ」
ジュヌヴィエーヴは嬉しそうに声を弾ませて微笑むが、薄青い瞳はちっとも笑っておらず、氷のように冷え切った視線をドナルドに投げかけていた。ドナルドも同じく目だけが笑っていない笑顔で応じる。
二ヶ月後、ジュヌヴィエーヴはひとりの男の子を産み落とした。
腹の中で順調によく育った赤ん坊は大きく、一昼夜苦しむほどの難産だったが、母子共に産後の経過も良好だった。
約束通り連絡をもらったドナルドは、これまた約束通り白い薔薇の花束を抱えて伯父の家を訪ねた。
「まあ、嬉しいわ。本当に来てくれたのね」
ジュヌヴィエーヴはあの氷のような目つきではなく、心から幸せそうに笑っていた。
薔薇の花も嬉しそうに受け取り、匂いを嗅いでうっとりとするその表情は、初めて会ったときの妖精のような印象に近い。
胸の奥にチクリと棘が刺さったかのような痛みを感じ、ドナルドはその痛みに不快を覚えた。
彼は気づいていなかった。ジュヌヴィエーヴに初めて会ったときに恋に落ち、その直後に失恋していた己の気持ちに。
「あなた、ドナルドにフェリクスを見せてあげてくださいな」
侍女に薔薇を活けてくれるように頼みながら、生まれてまだ半月の息子をあやしているギャレットに声をかけた。
「ほぉら、フェリクス。お前の従兄弟のドナルドだよ」
ギャレットはうとうとしている息子を連れて来て、ドナルドの目の前に見せてやった。
伯父のこんな顔は初めて見た、とドナルドはそちらの方に驚く。ドナルドの知る伯父はいつも暗い表情で、何処か世捨て人のような風情で、周囲に流されるようにして生きていた印象が強い。その彼が目尻を下げ、髭の下の口許を緩ませている。
ドナルドは形式的に「初めましてフェリクス」と赤ん坊に話しかけ、祝いに来た親戚としての義務を果たした。
子供は間違えようがなく伯父夫婦の子供だった。濃い鳶色の髪も少し鷲鼻のような鼻梁も伯父にそっくりだし、薄青い瞳はジュヌヴィエーヴの瞳そのものだ。
年の離れた伯父夫婦は、可愛い息子が生まれてとても幸せそうだった。それがドナルドには腹立たしかった。
だから、頑健だった伯父が高齢で弱り、病気で他界したときは胸がスッとした。嘆き悲しむジュヌヴィエーヴの姿を見て、長年の苦々しさも飲み下した。
これであとはフェリクスが死んでくれれば、ドナルドの積年の鬱憤は清算される。年下の従兄弟には娘しか生まれておらず、彼が死ねば、本来の予定通りにドナルドへ家督が回ってくるのだから。
「気を落とすなよ、フェリクス」
伯父の葬儀の席で、ドナルドは喪主を務める従兄弟に声をかけた。
「ドナルド従兄さん……」
「伯父さんが亡くなってわたしも悲しい。惜しい人を亡くしたよ」
フェリクスがドナルドを信頼しているのはわかっている。小さい頃から顔を出しては面倒を見てやっていたし、兄弟のいない彼は、ドナルドを兄のように慕っていた。
「ジュヌヴィエーヴも可哀想にな。評判の鴛鴦夫婦だったから」
棺に縋りついて泣いているジュヌヴィエーヴを見つめ、ドナルドは同情して見せる。はい、とフェリクスも目を潤ませて頷いた。
散々泣いて泣いて、すっかり泣き疲れたのか、ジュヌヴィエーヴはぼんやりしたまま棺に寄りかかって動かなくなった。そんな彼女を心配したのか、小さなリュネットがうろうろしてはジュヌヴィエーヴの腕を握ったり、頭を撫でたりしている。
ドナルドはそんな彼女へ近づき、隣に膝を突いた。
「お悔やみ申し上げるよ、ジュヌヴィエーヴ」
声をかけるとリュネットは怯えたように祖母の後ろに隠れ、警戒した目つきをドナルドに向けた。
ジュヌヴィエーヴは真っ赤に泣き濡れた瞳をドナルドへと向け、茫洋とした視線で声の主を確かめようとしているようだった。
「――…何故、笑っているの?」
義甥の姿を見止めたジュヌヴィエーヴは、掠れた声で呟いた。
なにを言っているんだ、葬儀で笑うなど不謹慎ではないか、と思いつつ、彼女の薄青い瞳の中に映り込んだ自分の姿を見つけ、ドナルドは自分が笑みを浮かべていたことに気づいた。
そこからはもう止められなかった。大きな声を出さなかったことだけは幸いだ。
「伯父さんの病気も、人に伝染るものだったらよかったのに」
囁く声が歓喜に打ち震える。
「お前も、フェリクスも、そのガキも、みんなみんな一緒にくたばればよかったんだ」
ジュヌヴィエーヴの表情が見る見るうちに変わっていく。初めはぼんやりとしていた美貌は、次第に驚愕に震え、怒りに強張った。
「ほら。大好きなギャレット様の後を追えよ」
強張ったジュヌヴィエーヴの薄青い瞳を見つめながら、ドナルドは残酷な言葉を続ける。
「今は薔薇の時季だ。お前の棺には大好きな白薔薇で埋め尽くして、手向けてやるさ」
「なんてことを……!」
怒りに震える声で呟いたあと絶句し、ジュヌヴィエーヴは怯えた表情になっている孫娘を抱き寄せた。
泣き濡れた瞳を怒りに血走らせ、睨みつけてくるその表情も美しい――そう感じてしまった自分の心に、ドナルドは少しだけ意外な気持ちを抱いた。
初めて出会った二十五年ほど前から、ジュヌヴィエーヴはまったく変わらない。それがまたドナルドを腹立たしい気持ちにさせている。ドナルドはこの二十五年の間に伯父夫婦に怨み辛みを募らせて老けていったというのに、彼女だけは幸せに煌いていた頃に時間を留めていたようにも見えるのだから。
だからこそ、ジュヌヴィエーヴを傷つけたくて仕方がない。
ドナルドの感情は歪んでいた。
それは恐らく、ジュヌヴィエーヴと出会ったあの日からのことだったのだろう。
妖精のような美しい娘に出会ったあの日から、降り積もる雪の如く、ドナルドはその歪んだ憎しみと苛立ちと、打ち破られた憧憬に対する鬱屈とした気持ちを蓄積させ、すべてを滅茶苦茶にしてやりたい衝動を胸の内に募らせていた。
立ち上がり、怒りに震えるジュヌヴィエーヴを見下ろした。
「お前の亡骸はさぞ美しいだろうな」
それは本心からの言葉だった。
四十を超えた筈の彼女は未だに若々しく少女のようで、それが人形のように静かに永久の眠りに就く姿は、絵画のように美しいことだろう。
早く死んでしまえ。そうして、二度と自分の前に姿を現すな――ドナルドは本気でそう願っていた。
その願いが通じたのか、ジュヌヴィエーヴはそれからしばらくして姿を消した。故郷に帰ったのだとフェリクスは言っていたが、それならばそれで二度と会うことはないだろう。
それから数年後にフェリクスも不慮の事故で死に、ドナルドにはようやく平穏が訪れた。
これが本来あるべきドナルドの人生だったのだ。
なにもかもが元通りだ。ドナルドは伯父の家督を継ぎ、爵位も領地も財産も手に入れた。これでなにも問題はなくなった。
あとは、少々経営が傾いた工場の運営資金調達の為に、憎らしい小娘を成金の男に売りつけてやるだけだ。腹立たしい存在だったが、見目麗しい女というのはこういうときに役に立つ。
「その手をお離しなさい、ドナルド・スターウェル」
それなのに、その声はドナルドの歩みを留めさせた。
懐かしくも憎らしい雪の妖精が、出会った頃と変わらぬ姿でそこに立っていた。
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