侯爵様と家庭教師

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番外編1 トラヴィス・ハワードの話

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 わたしの名前はトラヴィス・ハワード。
 カートランド侯爵家の本邸にて、家令ステュワードを任されております。
 随分若く見えるが、とよく言われますが、まあ、家令職に就いている者の中では若年であることは否めません。この職務を先代の祖父から引き継いだとき、わたしはまだ二十三の若造でございました。

 今日は少し、こんなわたしの思い出話にお付き合いくださいませ。



 わたしが十二のとき、父が亡くなりました。
 父は造船所に勤める技師で、腕はなかなかいい方だったようです。
 それでも、人生にはなにがあるかわからないと申しますか、いつも気を配っている父も、なにかの拍子で足場を踏み外し、下へと落ちてしまうという不運に見舞われました。
 頭や背中などを強かに打った父はすぐに病院に運ばれましたが、四日苦しんだ後、息を引き取りました。

 葬儀を終えてひと月程した頃、母はわたしに言いました。

「ねえ、トラヴィス。お母さんね、再婚しようと思うの」

 頭を鉄鎚で殴られたような衝撃――というのは、ああいうときのことを言うのでしょうね。わたしは言葉もなく母を見つめ返すことしか出来ませんでした。
 わたしは学校を辞めて来たところでした。母一人子一人、無駄遣いを控えれば当分食い繋げるくらいの遺産と見舞金は頂いていましたが、わたしは一人息子として、母を支える為に働こうと思っていた矢先のことです。
 相手はロンドンに屋敷を構える羽振りのいい男でした。

 今となって考えますと、母は父が生きている頃から、この男と不貞の関係にあったのだと思えました。当時のわたしは思い至りもしませんでしたが。
 わたしは母を祝福しました。そうするしか出来ませんでしたので。

 母は男と暮らす為に引っ越すことになりました。
 しかし、母はわたしに荷物を渡し、こう言ったのです。

「ごめんね、トラヴィス。あなたは今日からお祖父さんのところでお世話になりなさい」

 男の家には前妻との間にわたしと同じ年の娘がいたそうです。
 いくら子供同士、義理の兄妹になるとはいえ、思春期に差しかかった男女です。なにか間違いが起こってはいけない、と男が心配したそうです。
 そして、母は迷わず、わたしを捨てる選択をしたのです。
 死んだ男との間の子供より、新しい男との子供を優先したのです。

 母の決断はショックではありましたが、不思議と悲しくはありませんでした。
 わたしは男からもらった少し多めの小遣いと、母が少しだけ分けてくれた父の遺産を手に、ひとりで列車を乗り継ぎ、ほとんど会ったことのない父方の祖父を訪ねて、カートランド侯爵家の門を叩きました。

 祖父のジェームズ・ハワードは、記憶の中の顔より気難しそうに見えました。
 わたしは歓迎されていないのだろうと感じました。なにせ祖父は、父の葬儀にも顔を出さなかったくらいなので、わたし達家族を快く思っていないのではないかと思っていました。

 祖父はしばらくわたしの顔を見たあと、苦しげに表情を歪めました。泣くのを我慢しているかのようなその表情に、わたしは居た堪れない気持ちになりました。

「……旦那様にお前を引き取る許可は頂いている。来なさい」

 祖父は溜め息を零すようにそう言うと、使用人用の裏口に回るように告げ、皆に挨拶するように告げました。
 丁度休憩の時間だったらしく、何人もの従僕やメイド達が部屋の中に集まっていて、わたしは緊張しながらも自己紹介をしました。皆さんとてもいい方達で、右も左もわからず、祖父に言われるがままに名乗った間抜けな子供を歓迎してくれました。

 次に祖父は、わたしを連れて当主ご一家の寛がれている部屋に向かいました。
 当時の旦那様はマシュー様のお父君、エリファレット・カートランド卿でした。

「やあ、きみがトラヴィスだね?」

 旦那様はとても優しい微笑みと声で出迎えてくださいました。
 座るように促され、ソファに腰を下ろしましたが、初めて座るような心地よい座面にとても驚きましたことを今でもよく覚えています。
 旦那様はお菓子を食べるように薦めてくださり、当時三歳になられたばかりマシュー様をご紹介くださいました。

「息子のマシューだよ。きみは屋敷の中で一番年が近いから、この子のお兄さんとして気にかけてやって欲しい」

 挨拶しなさい、と促されたマシュー様はまずわたしの顔を見て、にっこりと微笑まれました。それにつられるように、一緒にいたカトレア様もにっこりと。
 その笑顔があまりにも可愛らしくて、天使のような子供達というのは、こういう子達のことを言うのだろうな、とわたしは感動致しました。

 まさか十数年後、あのような女性問題にだらしのない方に成長されるとは、このときの微笑みからは想像もつきませんでしたが。

 奥様のミリアム様――皮肉なことに、わたしを捨てた母と同じ名前の奥様は、あまりお身体の丈夫ではない方でして、当時はご懐妊中ということで、とても具合が悪そうにしておられましたのが印象に残っています。
 このときのお子様は、残念ながら、いくらもしないうちに流れてしまわれました。

 こうして、わたしのカートランド侯爵家での暮らしが始まりました。


 十二歳のわたしに任されたことは、まずはマシュー様の遊び相手でした。
 マシュー様はやんちゃというよりは大人しい気性のお子様で、ひとつ違いの妹君カトレア様の相手もされるような穏やかな方でした。お陰で遊び相手のわたしは野山を駆けずり回されたりというようなこともなく、部屋の中で本を読み聞かせたり、三歳にしてはとても利発な方だったので、一緒に書き取りや算数の勉強をしたりするような関係だったことは、今になって考えると大変ありがたいことでした。

 マシュー様のお相手をする傍ら、わたしは従僕の仕事も覚えていきました。
 ご子息は代々五歳からは家庭教師テューターをつけて勉強を本格化させるらしく、二年後には遊び相手の任を解かれることになっていましたので、少しずつでも他の仕事を覚えていく必要がありました。
 仕事を覚えるのはとても楽しかったです。
 勉強をするのが好きだったので学校を辞めたのは寂しくもあったのですが、従僕の仕事は存外わたしの性格に合っていたらしく、すぐに見習いから昇格することを許されました。祖父の身贔屓ではないと思いたいです。
 それでも年齢的に、まだ従僕となるには格好がつきませんでしたし、基本的にはマシュー様の遊び相手でしたので、専ら裏方の仕事を任されていました。

「ハワードさん、トラヴィスにワイン台帳の管理をさせてみたら?」

 祖父にそう提案したのは、家政婦ハウスキーパーのミセス・モンゴメリでした。

「あなた最近目がよく見えなくなってきたって仰っていたじゃない? この子随分賢いもの、きっと上手くやるわよ」

 台帳を含むワインの管理は、家令にとっても大事な仕事です。旦那様からお預かりしたワイン蔵の鍵を持つことに誇りを持っている祖父に、その提案はかなり失礼なことと思えました。
 祖父はしばらく考えたあと、旦那様にご相談に行ったようでした。

「さすがに十六にもなっていないのに、ワインの味を覚えさせるのもなぁ」

 旦那様はそう笑っておられました。旦那様がお酒の味を覚えられたのは十五のときのことだそうで、それよりも若いわたしのことをご心配くださったようです。

「でも、在庫の把握くらいは出来るんじゃないかな。お前ももういい年だし、無理せず少し仕事を減らしてもいいんだぞ?」

 祖父は旦那様がまだ幼かった時分より従僕として仕え、後に従者、そして家令を任されたそうです。わたしは祖父と親しい付き合いがあったわけでもなく育っていたので、いくつだったのかも知りませんでしたが、このときで六十にはなっていたようです。そろそろ引退を考えてもいい頃合いでした。

 この頃、祖父の後釜を狙っていたスタンという先輩がいたのですが、若さ故の粋がりと申しましょうか、少々問題を起こしまして――まあ、曖昧にしてもおわかりになるかと思いますが、ワインの在庫管理を任されたわたしに嫌がらせをしたわけです。

「酒の味も知らないような子供が、ワインの管理など出来るわけがない」

 奥様の再びのご懐妊が知らされ、祝いにと旦那様から許可された宴会の席で、スタンさんはわたしにそう言って酒を勧めてきました。
 わたしは十三歳でした。まだ酒には口をつけたこともなく、祖父の目もありましたし、もちろん遠慮しました。
 それが気に食わなかったのでしょう。とてもしつこく絡まれ、無理矢理スコッチを飲まされたところで喉に焼けるような痛みと強烈な眩暈を感じ、わたしは意識を手放しました。

 幸いにも、一時間も経たずに意識を取り戻し、なんとか無事でした。厳しい祖父にも随分と心配をかけたようです。

 わたしが目を覚ました代わりに、スタンさんは床に倒れていました。
 モンゴメリさんとの飲み比べに敗北したそうです。
 これが今もお屋敷に伝わる『酒豪アリス・モンゴメリが潰した生意気な若者』の逸話です。

 この日を境に、わたしはワインの勉強をすることにしました。年代や産地を知識として把握するだけでなく、きちんと味の方も。
 わたしは負けず嫌いなのでしょう。スタンさんにやられたことが悔しくて堪りませんでした。だから、ワインの管理を完璧にしてみせる、と意気込んでいたのです。

 マシュー様はそんなわたしを応援してくださいました。

「なんかよくわからないけど、トラヴなら上手く出来ると思うよ。頑張って」

 そう言って微笑みかけてくださるマシュー様は、天使のようでした。

「がんばー」

 いつもご一緒のカトレア様もそう言って笑い、まさに天使でした。
 わたしは、昼間はこの天使達の遊び相手を務め、夜は祖父についてワインの勉強に集中致しました。ワインのことは存外に覚えることが多く、他に従僕の仕事もしていましたので、多少疲れはしましたが、とても充実した日々でございました。


 程なくして無事にマリゴールド様がお生まれになり、お屋敷中が祝福ムードに包まれる中、わたしも祖父から台帳管理を完全に任せてもらえるようになりました。
 ワイン蔵の鍵をわたしに渡しながら、祖父は少し複雑そうな顔をしていました。


 マシュー様が五歳になられ、勉学に使われる時間が長くなると、遊び相手としてのわたしは然して必要となくなりました。十四歳になっていたわたしは、そのまま従僕としてお屋敷にお仕えすることになりました。

 復活祭イースターも終えて五月、父の命日でもありましたので、祖父と二人、三日ほどの休暇を頂いて墓参りへと向かいました。
 前年は慣れない環境と仕事でいろいろと忙しく、命日の墓参が叶いませんでしたので、わたしが生まれたときから過ごしたポーツマスの街へ戻るのは二年振りでした。

 墓地に入り、まず驚いたのは――墓が荒れていたことでした。
 母は墓参りをしていないのだと気づき、わたしは愕然と致しました。
 いくら再婚したとはいえ、父が亡くなってまだ二年です。月に一度と言わずとも、もう少し頻繁に墓参しているのかと思えば、全然していないのです。
 そして、命日だというのに、この日も来ていませんでした。

 二年も帰郷出来なかったわたしが文句を言うのもおかしなものだとは思いますが、母はここから少し先のロンドンに住んでいるのです。わたしと違って日帰りが出来る距離です。それでも来ていないのです。
 祖父と二人、会話もなく墓を掃除しました。

「お前の母を悪く言ってすまんと思うが」

 花を手向けて手を合わせたあと、墓石に刻まれた父の名前を眺めていた私に、祖父がぽつりと呟きました。

「あの娘は、ケイレヴが死んだことを報せもせんかった。ケイレヴの死を知ったのは、お前を引き取って欲しいと連絡を寄越したときだ」

 苦しげに吐き出される祖父の言葉に、わたしはとても驚きました。
 どうりで葬儀に顔を出さなかった筈です。祖父は父が亡くなったことを知らなかったのですから。
 だから祖父は、わたしが訪ねて行ったとき、泣くのを堪えるような苦しげな表情でわたしを見つめていたのでしょう。

「お祖父さん」

 わたしは久しぶりに祖父をそう呼びました。

「母がごめんなさい」

「……お前が謝ることではないよ、トラヴ。あの娘とは昔から溝があったんだ」

 祖父の声は震えていました。怒っているのか、泣くのを堪えているのか、それはわかりませんでした。


 この日以降も、わたしは母と会うことは一度としてありませんでした。
 けれど、祖父とはようやく打ち解けられたように思います。


 忙しく過ごすうちに更に三年ほど経ち、お屋敷には再び明るい話題が訪れました。
 マーガレット様がお生まれになったのです。
 しかし、このときの妊娠と出産が要因となり、元々お身体が丈夫でなかった奥様は体調を崩され、療養を余儀なくされました。
 空気が馴染みやすいだろうということで、生まれ育ったヨークシャーにあるお屋敷へと移られました。生まれたばかりのマーガレット様と、まだ幼いマリゴールド様もご一緒に移られてしまい、こちらのお屋敷にはご嫡男のマシュー様とカトレア様だけが残られました。

 やはりご家族が離れられたことはお寂しかったのか、この頃のカトレア様はよく塞ぎ込んでおられましたし、マシュー様もふらりと何処かへ行ってしまわれることが増えました。
 わたしは旦那様からのご指示で、再びマシュー様のお付きとなることになりました。

「僕のことなんか放っておいていいんだよ、トラヴ」

 敷地内の森の隅で魚釣りの餌用に蚯蚓ミミズを掘り返しながら、マシュー様は唇を尖らせます。

「一人じゃ釣りも満足に出来ないようなちびすけが、よく言いますね」

 マシュー様がわたしを愛称で呼ばれるときは、ご自分と対等な友人として接して欲しい、と言われていたこともあり、わたしは多少砕けた口調で応じました。

「蚯蚓採れましたか?」

「うん」

「じゃ、行きましょう」

 釣竿を担ぎ、マシュー様と川へ行くのは、この夏の日課でした。
 お守りで大変ねえ、などとメイド達からは言われていましたが、堂々と仕事をサボって釣りが出来るわたしはなんとも思っていませんでした。寧ろ歓迎していたとも言えます。――おっと。この話は亡き旦那様にも祖父にも内密に願います。

「僕、メグのこと、まだ一度も抱っこしてないんだ」

 水面に垂らした糸を見つめながら、マシュー様は愚痴られます。
 七月の半ばにお生まれになったマーガレット様は、八月に入る頃には奥様と一緒にヨークへと行ってしまわれた為、マシュー様はほとんどお顔も見れていない状況でした。

「奥様がお元気になられたら、すぐ戻っていらっしゃるでしょう」

「そりゃそうだけど。カティもずっと元気がないしさぁ」

「引いてますよ」

「あっ、あっ……あー!」

「下手くそ」

「うぅ、うるさいな! ちょっと失敗しただけじゃないか」

 この頃のわたしとマシュー様はこのような関係でした。
 秋になる頃には旦那様もロンドンから戻られ、お兄様とお姉様に会えなくて寂しくなられたのか、マリゴールド様もこちらに戻られ、また少し賑やかさを取り戻されました。


 この二年後、長いご療養の甲斐なく、奥様はヨークのお屋敷で静かに息を引き取られました。
 時を同じくして、ご存命だった大奥様もお亡くなりになり、お屋敷に長い喪の期間が訪れました。
 最愛の奥様と母君を亡くされた旦那様はすっかり気落ちされてしまい、奥様が最期を過ごされたヨークのお屋敷で過ごされることが増えていきました。



 マシュー様が十三歳になられ、寄宿学校パブリックスクールへ入学された年、わたしは旦那様から祖父の補佐をするように申し付けられました。
 大変なことです。わたしは当時まだ二十二になったばかりの若造で、わたしよりも年嵩の先輩従僕は大勢いました。そんな中で、わたしが家令の祖父の補佐になるなどとは烏滸おこがましいと思われました。

「モンゴメリがきみのことを推しているんだよ」

 お断りしようと旦那様にお会いすると、そう仰られました。

「ワインの管理はもう何年もやっているだろう? それに他の細々していることにもきみはよく気がつくと聞いているよ。ハワード……お祖父さんはまだ現役だけれど、やはりもう高齢でもあるし、少し助けてやってくれ」

 この年、祖父は七十になっていました。
 呆けもなくしっかりとしていたので旦那様は問題ないと感じておられ、祖父のことを大変に信頼してくださっていたようでしたが、やはり少しずつ気力体力は低下していましたし、なにより視力がかなり悪くなっていました。

「家令という職務は家にとってかなり重要なんだ。わたしがタウンハウスに行っている間や、他の領地を見て回っている間も、変わりなく屋敷の内外を運営しなければならない。謂わば、当主の代わりを務めているようなものなんだ。だから、信頼出来る人間に頼まなければね」

 わたしと祖父のことは信頼しているのだ、という大変ありがたいお言葉を頂き、わたしは感無量でございました。
 旦那様のお気持ちに応えられるよう、わたしは今まで以上に誠心誠意お仕えすることを決めました。


 この翌年、祖父は胸に痛みを訴えて倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
 わたしは母に、礼儀として嘗ての舅の訃報を報せましたが、葬儀への参列はなく、たったひとことのお悔やみの連絡もありませんでした。
 これで本当に縁が切れた、とわたしは思いました。母の中で、わたしも亡き父も、既に存在しない者となっていたのでしょう。


 家令が亡くなった為、後任を決めなければなりません。
 旦那様はタウンハウスを取り仕切っておられるサンダースさんを呼び寄せ、家令職の引き継ぎをさせるおつもりだったようですが、そこへマシュー様が待ったをかけられました。

「トラヴィスにやらせればいいと思います。まだ若いけれど、サンダースよりこちらの屋敷のことは熟知しているし」

 旦那様は悩まれているようでした。

「お前の言うことには一理あるが、相応の年齢と経験がな……」

「年齢は仕方がないと思いますけど、経験なら十分だと思います。それにね、お父様の跡は僕が継ぐことになりますよね? そのとき、トラヴィスが家令をしていてくれたら、僕は心強いと思うんです」

 旦那様はマシュー様のご進言に耳を傾けられました。

「確かに、そうか……お前がわたしの跡を継ぐ頃には、トラヴィスも家令として十分な経験を積めているだろうし」

「そうでしょう? 僕の為にも、トラヴィスを家令にしてください」

 このマシュー様のお言葉で、旦那様はわたしを次の家令にすることになさったようです。
 わたしはお二方のご期待に沿えるよう、今まで以上に精進しようと心に決めました。

 他の使用人達はこの決定を快く思わないのではないか、と思いもしましたが、意外にも歓迎してくれて――あのスタンさんも好意的で、わたしは本当にホッと致しました。

 こうしてわたしは、カートランド侯爵家の家令となりました。

 幸いにも祖父の補佐をしてきた為、今までと大きく仕事内容が変わったわけでもありませんでした。
 領地内の収支に関しては、専任の会計士であるゴードン・キング氏が帳簿管理から税の申告調整まで、なにもかもしてくださっていたので。
 今まで祖父からの指示で動いていた采配に関して、わたし一人の判断で行わなければならなかったのが、なかなかに大変ではありました。


 家令としての仕事にもやっと慣れてきた二十五歳の年の瀬、わたしを訪ねて一人の少年がやって来ました。

「シンクレア・バーネットと言います」

 別れた母と同じ黒髪ブルネットと灰がかった水色の瞳の少年は、そう名乗りました。
 父違いの弟だと気づきました。
 わたしは彼が生まれたことも知りませんでした。それなのに、いきなり訪ねて来てなんの用だろう、と困惑しました。
 シンクレアは言いました。

「両親とはずっと不仲で……家にいることが堪えられなくて、働こうと思ったんです。それで、母が昔あなたのことを一度だけ話していたのを覚えていて、なにか力になってくれないだろうかと」

 ひと息に言ってから頬を染め、俯いて「図々しくてごめんなさい」と謝りました。
 わたしのことをどうして知ったのかと問えば、何年か前にシンクレアの成績表を見た母が「トラヴィスは優秀だったのに、どうしてこうも出来が違うのかしら」と呟いたので、それは誰かと尋ね、自分に兄がいることを知ったのだと言いました。
 このお屋敷に勤めていることは、一昨年に出した祖父の訃報の手紙を屑籠で偶然見つけ、文面から自分の兄であることに気づいて持っていたそうです。

 わたしは、会ったこともない父違いの兄を訪ねる弟の度胸のよさに驚きつつ、母の薄情さに呆れていました。
 同情したわけではありませんが、まだ幼い弟の力になってやりたいとは思いました。

 このときの彼は、父を亡くして祖父の許を訪れたときのわたしと、そう変わらない年齢でしたので、わたしには祖父がいたように、兄のわたしが彼の力になってやるべきだと思ったのです。

 けれど、わたしの一存で彼を雇うわけにはいきません。

「雇えば?」

 丁度冬の休暇で帰省されていたマシュー様がそう言われました。

「メッセージボーイが欲しいって言ってただろ? お前の弟なら悪さもしないだろうし、お父様には僕から言っておくよ」

「マシュー様……人を雇うということは、そう簡単な話ではないんですよ」

「いいじゃないか。どうせ面談をするのはお前だし、心配ならモンゴメリさんにも訊いてみれば?」

 それでもわたしが渋ると、今度は悪戯を思いついた子供のように笑みで「じゃあ、未来の従者として育ててよ」と仰られました。
 なにを言い出すのかと思いました。旦那様の従者は現在スタンさんが務めておられます。

「違う違う。お父様の従者じゃなくて、僕の従者として。ウィルバーはきっと僕とは合わないから」

 十六歳になられていたマシュー様は、ご家族から遠く離れた寄宿学校での生活の中で、なかなか派手な交友関係を築いておられるようでした。
 スタンさんは真面目で、悪く言えば頭の固いところがあったので、昔からマシュー様には小言を言われることもありました。それがお嫌だったのでしょう。

 旦那様からはあっさりと許可が下りました。

「ということで、あとは任せたよ、ハワード。よろしくね、シンクレア」

 マシュー様はそう言って微笑まれました。


 そうと決まれば、わたしは手を抜きません。
 十三歳――礼儀作法を一から仕込むには丁度いい年頃だったかも知れません。
 わたしの教えることに音を上げるのならばそれまでのことですし、これくらいは身につけてもらわないと、何処のお屋敷にも勤められないでしょう。

 シンクレアは思ったよりも出来は悪くありませんでした。物静かで真面目だし、言われたことをすぐに覚えますし、間違いも次には引き摺りません。
 マシュー様が寄宿学校を卒業なさる頃には、何処に出しても恥ずかしくないマナーを身につけ、目の肥えたモンゴメリさんからもお墨付きをもらえたくらいです。


 この頃、カトレア様のご婚約が調われ、ギリンガム伯爵家との縁組が纏まりました。
 ギリンガム家のご嫡男チャールズ様はこの当時二十四歳で、貧しい人々の弁護も積極的に行う庶民派の弁護士として有名なお方だったようです。

 そのチャールズ様に感化されたのか、イートン卒業後はお屋敷に戻って来る予定だったマシュー様は、突然「医者になる」と大学への進学を決められました。
 旦那様はお怒りになりましたが、世の為人の為になる仕事をしたい、というマシュー様の熱意を認められ、進学をお許しになりました。


 この翌年には、マシュー様と大学でご一緒になられたプレストン子爵のご子息と、マリゴールド様のご婚約が調われました。
 マリゴールド様の挙式の日取りが決まった頃、カトレア様がご懐妊され、元気なお嬢様がお生まれになりました。初孫だと旦那様は目尻を下げていらっしゃいました。
 カートランド侯爵家は喜ばしい話題が続き、誰もが笑顔になっていた幸せな時期でございました。

 旦那様が、お倒れになりました。

 議会の時期でタウンハウスに移られた矢先のことでした。
 性質の悪い風邪をひいて寝込まれ、しばらくタウンハウスで療養なさっておられましたが一向に回復せず、都会の空気がよくないのだろう、と領地に戻られることになったところ、呆気なく奥様のいらっしゃる彼の地へと旅立たれてしまいました。
 夏の盛りの頃でした。
 まだ五十の手前だった方です。まさか風邪を拗らせて肺炎になり、そのまま亡くなるとは誰も思っておりませんでした。

 マシュー様はすぐに大学を休学してタウンハウスに向かわれ、葬儀や相続の手配を自らなさいました。
 わたし共もすぐにタウンハウスへと向かい、ご葬儀に参列させて頂きました。
 とてもお優しく気さくで、皆に慕われた旦那様でございました。
 ご葬儀の間、マシュー様は涙ひとつ見せられませんでした。


「思ったより早かったなぁ」

 領地に戻り、代々の墓所への埋葬が終わったあと、真新しい墓石の前でぽつりと呟かれました。
 その口調がまるでまだお父君の死を受け入れられていないような、そんな響きを含んでいて、わたしはマシュー様の横顔に、十二歳の頃のわたしを重ねてしまいました。


 マシュー様は大学を中退して家督を継がれ、十一代目のご当主となられました。
 先代様から領地運営について習う前に亡くなられてしまいましたので、わたしとモンゴメリさんでマシュー様をお支えしました。
 弟のシンクレアもこの頃にはすっかりと礼儀作法と気配りを身につけ、まだ十八という若年ながらも、マシュー様の従者として上手くやっているようでした。

 わたし達は旦那様の死を悲しむ時間もなく、新しい環境に慣れる必要がありました。
 それ故に、失念していたのです。
 十三歳になったばかりのマーガレット様が、ほとんど暮らしたことのない本邸に連れて来られ、どのようなお気持ちになっていらっしゃるかを。


 泣いてばかりいるマーガレット様の様子に、マシュー様は苛立っておいででした。
 二歳の頃にお母君を亡くされているマーガレット様にとって、お父君はとても大切な方だったのです。それ故に、酷いお嘆きようでございました。

 ご葬儀からふた月あまり経った頃、マシュー様はマーガレット様を寄宿学校に入れられることをお決めになりました。
 わたしとモンゴメリさんは反対致しました。貴族のお嬢様方は十六歳頃に社交界入りされてご結婚が決まられるまで、お屋敷の中で作法や教養を身につけながら、大切に育てられることが普通だったからです。カトレア様もマリゴールド様もそう育てられてきました。

「僕にメグを育てろって? 冗談じゃない。自分のことだけでも手一杯なのに、ほとんど一緒に暮らしたことのない妹の世話なんか焼けるわけないだろう」

 その言葉で、何事も卆なく熟すマシュー様も、いろいろと不安を感じられているのだと、わたし共は気づかされました。
 マーガレット様は寄宿学校に入られることを嫌がられましたが、屋敷の中にいてもお兄様は冷たく、離れて暮らしていても変わりないと感じられたのでしょう。涙ながらに入学されることをご決意なさっていました。

 時期が少し遅れ、中途での入学となってしまいましたが、無事に受け入れられ、マーガレット様は旅立って行かれました。


 この頃からマシュー様は朝帰りをすることが続くようになりました。
 夜会や晩餐会に招待されればすべてを受けてお伺いするような状況で、身体が休まる暇もないほどでした。まるでご自身を虐めているかのようでした。
 同時に、あまりよくない話題も聞かれるようになりました。
 イートン時代は先輩方と派手な交友関係を広げていたようでしたが、大学の頃は勉学に打ち込まれて大人しくなさっていたのに、ここにきて再びのことです。
 お身体を壊されそうで心配だったこともあり、わたし共は遠回しにお諫め致しました。

「遊びだと割り切れる人としか関わってない。僕のことに口出しするな」

 確かに、危険な薬物や賭博などの害になるものではなく、女性絡みの話題でしたので、ご本人が割り切っておられるのならば口出しすべきではないことでしょう。しかし、マシュー様はカートランド侯爵家のご当主であり、そういったことにも配慮をしなければならないのは確かなことです。

 どうしたものか、とモンゴメリさんと頭を悩ませていた頃、マシュー様は十二夜の明けるタウンハウスで運命的な出会いを果たされておりました。
 その女性は、マシュー様と出会って早々、こう仰られたそうです。

「あなたはとても酷い人です」

 当時十一歳のリュネット・アメリア・スターウェル様――のちにマシュー様の奥様となられる方でした。



 今から思えば、マシュー様は相当な間抜けだったのです。
 幼い頃はなんでもご相談くださいましたし、わたし相手に愚痴ることもよくありました。
 それがいつの頃からか――恐らく母君が亡くなられた頃からだと思いますが、なんでも一人で抱え込まれるようになり、あまりお心の内を語られることがなくなりました。そういったご性分が、ご自身を追い詰められていたのでしょう。
 リュネット様のお言葉は、そんなマシュー様の目を覚まさせるいいきっかけになったのだと、後々仰られておりました。
 この抱え込む性分がなければ、マーガレット様を傷つけることはなかったと言えますが、リュネット様と出会うこともなかったのだと思えます。世の中上手く出来ているものです。




「ハワード!」

 おっと。旦那様がお呼びですね。
 わたしなどの身の上話を随分と長く話し込んでしまい、申し訳ありません。
 それでは、この辺で……。



「ハワード、何処だ?」

「こちらですよ、旦那様。どうかなさいましたか?」

「ああ。リュネットは何時の汽車で帰って来るって言っていた? 電報が来ていただろう」

「明後日の十五時頃お着きの予定ですよ」

「十五時か……」

「僭越ながら申し上げますと、ご到着が待ちきれないからと、お迎えに行かれるのはやめた方がよろしいと思いますよ」

「なんで?」

「リュネット様を怒らせるのが目に見えているからです」

「どうしてリュネットが怒るんだ?」

「怒らせるようなことをなさるからです。今までの経験上、それは確実です。――そう思いますよね、バーネット?」

「ハワードさんの言う通りだと思います」

「なんでお前まで……」

「リュネット様をお好きなのはわかっておりますが、少し自重なさるのがよろしいかと」

「わたしもそう思います」

「狭い車内で怒らせたら気不味くなると思いますよ?」

「このことに関しては前科が一度や二度ではないのですから、おわかりでしょうに」

「あー! もー! なんなんだよ、お前達は! いつもはお互い知らん顔しているくせに、こういうときは呼吸ぴったりで責めてきて!」

「一応兄弟ですから」

「はい」

「もう黙れ。腹が立つ」

「はい」

「返事を揃えるなよ、余計に腹が立つ。……もういい。視察に出て来るから用意を」

「畏まりました」

「お気をつけて、旦那様」




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