侯爵様と家庭教師

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36 ジュヌヴィエーヴ

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 ギャレットは目の前の少女を困惑気に見つめ、はしばみ色の瞳を揺らめかせた。
 そんな彼を見上げるジュヌヴィエーヴは、薄青い瞳を爛々と輝かせている。夏の陽射しを反射する水面のようだ。
 二人の姿はなにもかもが対照的だった。ギャレットはもう中年というより老年に差しかかるような年齢の大柄な男だが、ジュヌヴィエーヴは社交界に入ったばかりの幼く儚げな容姿の美少女だ。二人に接点など見当たりそうにもない。
 それなのに、そんな二人は人気のない庭園の隅で見つめ合っている。

「きみは、本当に変わった娘だな……」

 しばらくしてギャレットが零した溜め息交じりの声は、呆れているような響きを含んでいる。ジュヌヴィエーヴはその響きにちょっとだけムッとしながら、ほんのりと唇を尖らせて「そう?」と小首を傾げた。そんな仕種にギャレットは苦笑する。

「こんなおじさんの何処がいいんだ?」

 まっすぐに見つめてくる瞳から目を逸らしながら呟く。そんな彼に向かってジュヌヴィエーヴは満面の笑みを浮かべた。

「全部よ、ムッシュウ・スターウェル。あなたの全部が好き」

 あまりにもはっきりとした口調だった。
 面食らっているギャレットの手を掴み、両手でしっかりと握り締める。

「私の大切な帽子を拾ってくださったこの大きな手が好き。威厳ある立派な口髭も素敵だし、綺麗な榛色の瞳も好き。お話しする低い声も好き。静かな喋り方も好き。背が高くていらっしゃるのも男らしくて素敵だわ」

「……大人を揶揄うものじゃないよ、お嬢さんマドモアゼル

「あら。私、本気よ?」

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳を潤ませながら、懸命にギャレットに訴えかける。
 ギャレットはその視線から逃げるように首を振り、心底困り果てたように眉尻を下げた。

「しかし、わたしは……」

英国イングランド人でしょう? 知っているわ。すごく年上なことも知っているわよ」

 見ればわかることよ、ともう一度唇を尖らせる。
 今からほんの数年前まで、二人の祖国はお互いに戦争をしていた。田舎暮らしをしていたジュヌヴィエーヴには関係のないことだと思っていたし、まったく意味のない愚かしくもくだらないことだと思っていた。
 だから、彼が敵国の人間だったからって、そんなことはどうだっていい。ジュヌヴィエーヴはギャレットが好きになってしまったのだから、生まれた国が違うことくらい些細なことだ。

 出会ってからまだひと月ほどしか経たない彼のことを、いつから好きだったのかなんて知らない。初めて会ったときからだろうか。
 とにかくギャレットと会いたくて堪らなかったし、彼のことを考えると胸が高鳴った。
 この気持ちを『恋』と呼ばずに、なにをそう呼ぶというのだろうか――ジュヌヴィエーヴには大きな確信があった。

 ねえ、とジュヌヴィエーヴはギャレットの胸許に手をかけ、伸び上って彼の顔を真正面から見つめる。

「私を、あなたの国に連れて行って」



     ***


 ジュヌヴィエーヴはふっと目を開ける。どうやら少し転寝うたたねしていたらしい。
 年には勝てないわね、と思わず苦笑いが浮かぶ。見た目は随分と若く見えても、中身はもうすぐ六十に手が届こうかという頃だ。馬車を乗り継ぎ、船に乗ってドーバー海峡を越えるような旅は、なかなかに堪える。
 傍らのベッドを見ると、疲れ切った顔で眠る孫娘はまだ目覚めていないようだ。少し乱れた毛布を肩まで引き上げてやり、十五年ぶりに見るその寝顔に見入る。

「本当に、大きくなったわ……」

 当たり前だ。彼女はもうすぐ十九歳になる。ジュヌヴィエーヴの記憶にある四歳の幼児など、とうの昔の姿だった。
 まるで鏡を見ているかのようによく似た容姿の孫を見つめていると、たっぷりとした長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと持ち上がる。重たげな瞼の下から現れたのは、素直で可愛らしかった義娘と同じ夜天の瞳だった。
 リュネットは何度か瞬き、自分が何処にいるのか考えているようだ。視線がゆっくりとあたりを見回し、ここが見慣れたメグの部屋だと思い至る。

「リュネット」

 目が覚めていることを確認するように呼ぶと、リュネットは傍らにいた祖母に目を向けた。

「お祖母様……?」

 呼んで確かめながら、やはりあれは夢ではなかったのだな、と思い直す。
 そうよ、と頷きながら、毛布から出て来た孫の手を握り締める。一時間ほど前に握ったときは氷のように冷え切っていたが、今は温かくなっていることにホッとした。

「お水、飲むかしら?」

 まだ少しぼんやりしているリュネットに尋ねると、彼女は小さく頷いた。ジュヌヴィエーヴはすぐに水差しからグラスに水を注ぎ、億劫そうに起き上がった孫へと差し出す。
 冷たい水にはほんのり檸檬の味がする。その酸っぱさが寝起きの頭に心地いい。

「――…私、お祖母様は亡くなったのだと思っていました」

 空になったグラスを見つめながら、リュネットはぽつりと零す。あら、とジュヌヴィエーヴは苦笑した。

「仕方がないわね。お別れしたとき、あなたはまだ四つになったばかりで、わたくしがいなくなることもわかっていなかったみたいだから」

「ごめんなさい」

「いいのよ。お手紙のやり取りもまだ出来る年齢ではなかったし、仕方がないことだわ。……お水もう一杯いる?」

「頂きます」

 グラスを受け取って新しく注ぎながら、ジュヌヴィエーヴは英国を離れた日のことを思い浮かべる。息子夫婦は泣き腫らして目を赤くしていたが、ちょこまかと歩き回ってる小さなリュネットはなにもわかっていないようだった。さようなら、と頭を撫でても、にこにこしながら手を振っていたくらいだ。

「あの頃、ギャレット様が――あなたのお祖父様が亡くなって、私はとても悲しかったの。あなたのお父様とお母様や、可愛いあなたもいたけれど、ギャレット様を失った悲しみは、どうしても埋められなかった」

 財産狙いだなんだと散々陰口を叩かれてきたが、ジュヌヴィエーヴは年の離れた夫のことを心から愛していた。彼を病気で失ってからは、自分自身が真っ二つに引き裂かれてしまったような痛みと喪失感に襲われ、泣いて、泣いて、朝から晩まで泣き続けてひと月が過ぎ、涙が枯れてくると抜け殻のようにぼんやりと過ごしていた。
 最愛の夫を失った嘆きに暮れている間に季節は変わり、雪は解け、草花の芽吹きを感じられる時期になっていた。
 そうすると、急に故国の田園風景が懐かしくなった。
 何故かはわからない。離れてから二十年以上が過ぎていたというのに、幼い頃に過ごしたあの景色の中へ帰りたい、と感じるようになった。

 息子達に相談すると、彼等は当然反対した。泣き暮らして抜け殻のようになっていたジュヌヴィエーヴのことを案じてだということはわかったが、どうしても、遠い記憶の故国へ帰りたくなったのだ。
 実家は元から仲が悪かった年の離れた長兄が継いでいた。持ち上がっていた結婚話を蹴って夫と一緒になり、喧嘩別れのように出て来てしまっていたので、帰ることは反対されるかと思ったのだが、夫の訃報と共に連絡を取った為か、あっさりと帰国を許してくれた。実際に帰ってみると、想像以上に歓迎もしてくれた。

 二十数年ぶりに帰った故郷は、なにも変わっていなかった。そのことにまた涙が溢れた。

「フェリクスとは、ひと月に一度くらいは手紙を出していたの。エレノアも時折連絡をくれていたし、私はギャレット様を失った悲しみを癒すことに専念していたわ」

 ジュヌヴィエーヴが帰国してから六年ほどの月日が流れ、フェリクス達が会いに来てくれることになった。幼い頃に喘息を患っていたリュネットも大きくなり、症状もほとんど出なくなったので、一緒に来ることになっていた。久しぶりに会えるたった一人の孫の成長が楽しみで心待ちにしていたが、体調を崩してしまったので再会はまたの機会となった。
 その旅の帰途で、息子達が亡くなってしまったことを、ジュヌヴィエーヴは何年も知らずにいた。家督を相続したドナルドが自分の暴挙を悟らせない為、送られてきた手紙に対して小細工をしていたようだと気づくのに、四年もかかったことが悔やまれる。

 ジュヌヴィエーヴは涙を浮かべながらリュネットを見つめ、ごめんなさいね、と頭を下げた。

「あなたが眠っている間に、カートランド卿が今までのことを話してくださいました。可愛いあなたがつらい目に遭っているときに、なにも出来なかった不甲斐ないお祖母様を、どうか、どうか許して……」

「お祖母様、お顔を上げてください」

 リュネットは困ってしまって祖母の肩を掴むが、彼女は首を振った。

「謝って許されることではないことは、もちろんわかっているの。でも、今は、謝ることしか出来ない」

「だから、謝らないでください。お祖母様はなにも悪くありませんから」

 リュネットが今まで苦労をして来たのは、扶養を拒んだドナルドが強欲だった所為だし、リュネット自身にいろいろとつけ込まれる隙があったからだ。亡くなったと思っていた祖母に非があるわけがない。
 何度も何度も言い聞かせ、ジュヌヴィエーヴはようやく顔を上げてくれた。リュネットはホッとする。

「そういえば、マシュー……侯爵はどちらでしょう?」

 目が覚めてから随分と時間が経つが、マシューの気配がないことに気づいた。意識を失う前、確かに彼の腕の中にいたと思ったのに。

「少し前までここにいらしたのですよ。でも、警察ヤードの方に呼ばれたみたいで、お出かけになったの」

 そう、とリュネットは頷く。
 溜め息と共に表情を曇らせ、落胆した気持ちを隠そうともしない。そんな様子に気づいたジュヌヴィエーヴは、孫娘の表情の中に恋をしている娘のそれを読み取る。

「ずっと心配そうについていてくださったのよ。あなたの目が覚めたとき、一番に会いたいから、って」

 けれど、警察に呼ばれたのなら仕方がないことだ。今回のことの後始末などがあるのかも知れない。

「ねえ、リュネット」

 残念だが仕方がないのだ、と自分に言い聞かせているリュネットの頬へ、ジュヌヴィエーヴはそっと手を伸ばした。少し丸みの乏しいその頬を撫でると、リュネットは意外そうな顔をした。僅かに目を見開くその表情の中に、嘗ての自分と同じものを確かに見つけ、ジュヌヴィエーヴは淡く微笑む。

「カートランド卿のことを、お慕いしているのね?」

 一瞬の間を置いて、血色の悪かったリュネットの頬にパッと赤味が差す。
 慌てて否定しようとする様子を微笑んで見つめていると、孫娘は観念したのか、ほんの少しだけ瞳を潤ませながら、小さく頷いた。
 そう、とジュヌヴィエーヴは頷く。
 両親が亡くなってからずっとつらい目に遭って来たそうだが、人を愛する心を失ってはいなかったらしい。恋を知った孫娘の成長を喜びながら、恥ずかしそうにしている彼女の頬へ口づける。
 不幸続きだったけれど、この娘はこれからいくらでも幸せになれる。マシューがきっとそうしてくれる――眠るリュネットを見つめていた青年の横顔を思い返しながら、ジュヌヴィエーヴはそう信じた。
 そこへノックの音が響いた。

「失礼致します。マーガレットお嬢様がいらしていますが、お通ししてもよろしいでしょうか?」

 メイドが告げた言葉にリュネットは大きく頷く。

「あ、でも、私……何日もお風呂に入っていないし……」

 メグを不快にさせてしまう、と自分の身体を見下ろし、寝間着を着ていることに今更ながらに気づいた。

「こちらに戻って来たときに、お湯は使わせて頂きましたよ。あなたもちゃんと起きてたじゃない」

 不思議そうにしているリュネットの様子に、ジュヌヴィエーヴは苦笑する。けれど、リュネットは覚えていなかった。
 確かにべたついていた髪もサラサラしているし、いい匂いもする。入浴を済ませたという話は嘘ではないようだが、まったく記憶になかった。
 意識を失っていたリュネットは、屋敷に運び込まれるところで目を覚まし、汚れているから湯を使わせて欲しい、と訴え、メイド達の手を借りながら身を清めたのだという。途中、何度か起こそうとメイド達が大きな声を出していたが、なんとか清潔な寝間着に着替えて浴室を出たところで、再び意識を手放したのだ――と説明されたが、リュネットはやはり記憶になかった。
 疲れていたのだし、半分寝ているような状態だったのだから仕方がない、とジュヌヴィエーヴがフォローを入れていると、メグが足早にやって来た。

「リュヌ!」

 久しぶりに会う親友は既に泣いていて、鼻の頭が真っ赤だ。
 三ヶ月前に再会したときもこうだったな、と思いつつ、ベッドの上で両腕を広げて微笑んだ。メグはすぐに駆け寄って来て、ベッドに飛び乗ってリュネットを体当たりで抱き締める。

「ああ、リュヌ! リュヌ! こんなに痩せて……つらかったわよね。ごめんなさい」

「どうしたの、メグ? なにを謝るの?」

 たくさん心配をかけてしまって、謝るべきはこちらの方だ、とリュネットは困惑する。
 兄からなにも話を聞いていないのか、とメグは鼻を啜りながら思った。

「ヘンリーがね、ジョセフ・スターウェルに協力していたの。こんなことになるなんて知らなかったって言ってたけど、原因の一端になったのは曲げられない事実だし、許さなくていいわ」

 怒りの滲むメグの言葉を聞いたリュネットは驚くが、そう、と小さく頷き、憤然としている親友の背中を優しく撫でた。

「ヘンリーさんとあの人はお友達だったのでしょう? お友達からの頼み事なら断れないと思うわ。だから、私の所為でヘンリーさんと喧嘩はしないで。新婚なんだから」

「でも……」

 不満げな声を漏らしたところで、メグは部屋の中にもう一人いたことに気づいた。入って来るときはリュネットの姿しか目に入らなかったので、他に人がいることなどまったく意識していなかった。

「リュヌ……こちらは?」

 付き添うようにベッド横の椅子に腰かけていた女性を見つめ、メグは双眸を瞠った。

「私のお祖母様。フランスから来てくださったの」

 親友からの答えに、メグは目の端が裂けてしまうのではないかと思えるくらいに更に瞠目する。

「お、おばあ、さ、ま……?」

 その反応にはもう慣れっこだ。ジュヌヴィエーヴはそっと微笑む。

「初めまして。ジュヌヴィエーヴ・モンクレーヌですわ。どうぞ、ジジと呼んで」

 メグは驚いたままカクカクと首を縦に振り、しどろもどろになりながら名乗った。ジュヌヴィエーヴはにっこりと笑みを向けた。

「ごめんなさい。失礼をしてしまって……」

 いくら驚いたとはいえ、相当に失礼な態度だった。メグは頬を染めて頭を下げる。それに対してジュヌヴィエーヴは柔らかな笑みで首を振った。

「いいのよ。慣れていますから」

 四十代の頃は、お若く見えますね、と微笑まれるだけで済んでいたのだが、五十代になってからは実年齢を言って驚かれなかったことはない。
 特別になにかしているわけでもないのだが、ジュヌヴィエーヴは若い頃からあまり老け込まなかった。目尻などにはさすがに小皺もあるが、遠目だとわからない程度であるだろうし、甥の息子であるアリスティドと並んでいて姉弟に間違われることもしばしばだ。

「お若いことも驚いたのですけど、その……リュヌとあまりにも似ているもので……」

 失礼だろうということはわかっているが、メグはジュヌヴィエーヴの顔をまじまじと見つめた。彼女の姿はまるで数年後のリュネットだ。
 リュネットもメグに同意する。

「私、なんとなく母似だと思っていたのですけど、お祖母様に似ていたのですね」

 以前にジョセフがそんなことを言っていた。ノースフィールド伯爵家に残された両親の肖像画に、リュネットの面影があると。
 ジュヌヴィエーヴは父の母親だ。父と似ていることはあっても、他家から嫁いできた母と似ていることはないだろう。

「あなた、小さい頃はもっとエレノア似だったのよ。今も瞳の色と口許はエレノアに似ているわ。でも、全体的に見ると、私に似ているのでしょうね」

 目許と鼻の形が同じ所為よ、と微笑み、頬に手を伸ばす。

「どんな娘に育っているのかと楽しみにしていたのだけれど、まさかこんなに自分の姿に似ているとは思わなかったわ。バーネットさんも驚く筈ね」

 ようやく詳しい居場所が掴めたところだった祖母一家の情報を頼りに、バーネットはジュヌヴィエーヴを迎えに行ったのだった。リュネットの冤罪を証明することが出来たあとに、二度とドナルド達の手が届かないよう、国外に連れ出してもらう為にだ。直系の血縁がいればドナルドが縁戚を理由に抵抗は出来まいと思ったからだという。
 そんなバーネットは、南部地方の荘園を切り盛りしていたジュヌヴィエーヴ達の許を訪ね、出会い頭に目を大きく見開いて「レディ・リュネット?」と叫んだらしい。そのお陰で、突然現れた見知らぬ異国人の青年が、何年も会っていない孫娘と知り合いであることに気づけたという。
 だからすぐにバーネットの話を信用出来たし、何年も消息すら知れなかったリュネットの危機を報せに来てくれたことにも感謝した。
 ここ十年ほどは奇異の目で見られることの多かった容姿だが、初めて役に立ったような気がする。
 リュネットの存在を確かめるように頬を撫で、髪を撫で、ジュヌヴィエーヴは双眸を潤ませた。

「お祖母様……」

「ごめんなさいね。年寄りは涙脆くていけないわ」

 零れ落ちそうになる涙を指先で押さえ、なんとか落ち着けてからメグに向き直った。

「レディ・マーガレット。いろいろとありがとうございました」

 突然の礼にメグは驚く。

「お兄様からお話を伺いました。あなたはリュネットがつらいとき、いつも傍にいてくださったのですね」

「えっ、そんな……それはリュヌの方です。私が父を亡くして悲しんでいるときも、学校に馴染めずに塞ぎ込んでいるときも、ずっと傍にいて助けてくれたのです」

 感謝することはあっても、感謝される謂われはない、とメグは首を振る。
 以前マシューが「きみはメグの恩人だ」と言っていたことがあったが、もしやこのことだろうか、とリュネットは気づく。
 恩人呼ばわりされるような覚えのないリュネットは、どういう意味なのかと何度かマシューに聞こうとしていたのだが、いつもはぐらかされたり、はっきり教えてくれなかったりして聞けていなかった。
 そんなことを思っていたのか、とリュネットは胸が熱くなった。恩人と呼ばれるほどのことではないのに、何年もそう思って接してくれていたのだ。
 リュネットこそメグには感謝してもしきれない恩がたくさんある。いつか返していきたいと思っていたが、これは早急に行動した方がよさそうだ、と考える。ぐずぐずしていたら、逆にメグからの恩返しが始まりそうではないか。
 謙虚な姿勢の親友の心意気に、リュネットは口許を綻ばせた。
 その笑顔に気づいたジュヌヴィエーヴは、心から安心する。ようやく孫娘の笑顔を見ることが出来た。

「なんだか疲れてしまったわ」

 ホッとして微笑みながら、細い声で呟く。

「お友達同士、積もる話もあるでしょう。老人は退散するわ」

 肩を竦めてながらそう言ってさっさと立ち上がると、リュネットの額にキスをする。

「私とはまた明日お話しして頂戴ね、可愛いお月様リュヌ

「ええ、お祖母様」

「メイドを呼びます。お部屋に案内させるので、お待ちください」

 すぐに出て行こうとするジュヌヴィエーヴを呼び止め、メグは慌てて呼び鈴を振った。

「ジジ小母様をお部屋にご案内して」

 程なくして現れたメイドにそう告げると、客間の用意は既に整っているらしく、こちらにどうぞ、と慇懃に告げてきた。
 礼を言って立ち去る後ろ姿は、背筋もまっすぐ伸びていて、無駄な脂肪も見当たらず、本当に五十代半ばを過ぎているようには見えなかった。そんな後ろ姿を見送り、リュネットとメグは細く嘆息した。

「後ろ姿もリュヌにそっくりね」

「そうなの?」

「ええ。身長もあまり変わらないみたいだし、後ろからだと見分けがつかなさそう」

 世の中にはそっくり同じ容姿の人間が三人はいるという話を聞いたことがあるが、いくら血縁者とはいえ、あそこまで似ている人間が実在するとなると、そういう話も信じられるような気がする。
 そんな話をして少し笑ったあと、ふたりは最後に会った結婚式以降のことをぽつぽつと報告し合った。
 今は喧嘩中だが、新婚生活はなかなかに楽しいもので、数日前までは幸せいっぱいだったという話を聞き、リュネットは表情を曇らせる。

「本当に、私のことはいいから、早くヘンリーさんと仲直りしてあげて。彼だって被害者なのだから、メグがそんなに怒っているなんて可哀想だわ」

 事情を知って協力していた様子のハウス警部と違い、ヘンリーは友人の頼みを断れなかっただけだろう。それに、ジョセフがリュネットの婚約者だという話を信じているようだったし、仕方のないことだ。

「…………リュヌがそう言うなら」

 メグは不承不承頷いた。
 本当は、振り上げた拳の下ろしどころがわからなくなっていて、どのタイミングで許すべきか考え始めていたところなのだ。リュネットの言葉に背中を押され、いつもは追い返していたが、今夜訪ねて来たときには許してやろうと思う。

 ふたりの話は静かに続いていき、気がつけばすっかりと夜も更け、夕食の時間になっていた。
 メグは食事をしたあと、名残惜しそうに自分の屋敷に帰って行った。また明日も顔を出すそうなので、それを楽しみにして別れる。

 祖母と少し話をしてから寝支度を整える頃には二十三時を回っていたが、警察に呼ばれたマシューはまだ帰らなかった。



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