侯爵様と家庭教師

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35 計画失敗

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「まったく……俺が出向している間に、そんなことになっていたとはな」

 チャールズの友人であるメイヤーズ警部に話を通すと、彼は呆れたように呟いた。
 彼はひと月程前からオックスフォードの方に出向していて、昨日帰って来たところだった。報告の為に久しぶりに職場へと顔を出したところに、丁度チャールズがやって来たわけだった。

「ハウスのことは、まあ、今までいろいろあってな……。こっちも以前から内偵を進めていたところだったんだ」

 マシューとチャールズからの届け出を処理しながら、そんなことを零す。あまり詳しいことは言えない、と肩を竦めるが、特に深く聞くつもりはなかった。

 チャールズの考えた作戦は『ハウスがリュネットを誘拐した』と訴えることだった。
 ヒースホールを訪れたときにハウスは自ら所属と階級も名乗っている。彼がやって来てリュネットを連れ去ったということは、屋敷の使用人達全員が目撃者であり証人だ。村人の何人かも連行される様子は目撃している。

 ここで重要なのは、連れて行かれたのがリュネット・スターウェルであることだ。

 ハウスが掲げた逮捕状にはエレノア・ホワイトの名前が書かれていたので、エレノアが逮捕されたのは仕方がないことだろう。けれど、リュネットはなにもしていないのにも関わらず、ハウスに連れて行かれたのだ。そして何日も帰宅していない――これはどう考えても誘拐だ。
 二人は同一人物だが、使用人達は「警官がリュネットを連れ去った」と証言する。嘘は言っていない。
 このことはメイヤーズにも説明した。彼は少し複雑そうな表情をしたが、なにも詐称しているわけではない。多少揉めることになるかも知れないが、ハウスを捕まえておけることには違いがないので、乗ってくれることになった。

「相談に来てもらって助かったよ。取り敢えずこの件でハウスを拘束して、ついでにこっちの捜査も進められるから」

「ああ。出来るだけ緊急に頼むよ」

「任せとけよ。――おい、ハウス警部は出勤しているか?」

 メイヤーズは部屋の中を行き交う仲間達に声をかけると、何人かから「今朝は見かけた」と答えが返ってくる。出勤はしているらしい。
 そうか、と頷きつつ、署内にいるならそのうちこの部屋に戻って来るだろう、とチャールズとマシューに説明すると、

「ハウス警部なら、今、留置所の方にいますよ」

 と、コーヒーのカップを片手に部屋に入って来た事務方の青年が告げた。

「留置所? 酔って暴れて、とうとうブチ込んだのか?」

 ハウスはあまり酒を飲まない方なのだが、たまに飲むと暴れることがある。元々暴力的なところがある男なので、酔うと加減が出来なくなるらしく、喧嘩沙汰を起こすことが時折あった。警官であるので留置所送りにすることはなかったが、次に問題を起こしたらそうなるぞ、と上役から釘を刺されているのは周知のことだ。
 いいえ、と青年は首を振る。

「先週くらいに訴えられていた盗難事件の被害が取り消されて、その被害者が今回は不問にしてやってくれってんで、犯人を釈放することになったんです。その手続きが終わったんで、報せに行って来たんですよ」

 ハウスはその犯人と面談中だったという。

「手続き? なんの?」

 特にそういったものは必要なかったかと思うが、とメイヤーズは首を傾げた。

「ええ。奇特にも、ノースフィールド伯爵が犯人の身元引受人になるって言うんで、それ関係の手続きですよ」

 お優しい方だ、と青年は感心したように笑う。

「ノースフィールド伯爵ってあんまりいい噂聞きませんでしたけど、慈善家でいらっしゃるんですね。若い女だから更生させてやりたいんだって仰ってました」

 その言葉にマシューとチャールズは青褪め、顔を見合わせる。

「リュネットが連れ出される……!」

 思わず叫び、驚くメイヤーズを置いて署の外を目指して二人は走り出した。




 ドナルドは自分の目の前の光景が信じられなかった。
 黒いドレスを纏った女は、嘗て見た若々しい姿のまま、そこに立っている。
 それは、こんなところにいる筈ではない女だった。

「お前――まさか、ジュヌヴィエーヴ……生きていたのかっ!?」

 驚愕の次に襲いかかって来たのは、恐怖だった。その所為で声が情けなく上擦る。リュネットは自分の腕を掴む従兄弟伯父の手から緊張を感じ取り、彼が目の前の女性に怯えていることに気づいた。
 まさか、そんな筈はない、と喘ぐように呟いていると、喪服の女性――ジュヌヴィエーヴ・モンクレーヌは冷ややかな目線をドナルドに送った。

わたくしの実家はたいした家柄ではありませんけれど、婚家に訃報も報せぬような不義理は致しませんわよ。あなたと違って」

「なん……っ」

 ジュヌヴィエーヴの声音は氷の棘を含んだかのようだ。真冬の早朝を思わせるような冷え冷えとした声はまっすぐにドナルドを貫き、言い返そうとしたその口を凍りつかせて塞ぎ、彼を震え上がらせる。
 なんてことだ、とドナルドは戦慄く唇を噛み締める。嘗てドナルドの人生設計を狂わせた忌まわしい女が、今また目の前に立ちはだかっているだなんて、これはなんという悪夢なのだろうか。
 雪の女王のような彼女の薄青い瞳は嘗ての義甥おいを冷ややかに睨み据えたあと、その手が捕まえているリュネットへと向けられた。

「リュネット――そうでしょう? 私の可愛い小さなお月様プティ・リュヌ。大きくなったわね」

 先程までと打って変わって優しげな笑みを浮かべ、柔らかくリュネットの名を呼ぶ。
 木漏れ日の美しい森の中で囀る小鳥のような、歌うように軽やかなその声音を、リュネットはおぼろげな記憶の中で覚えていた。遠い昔、その声は愛しげに何度もリュネットを呼んでくれていたのだ。

「お……お祖母、様……なの、ですか?」

 信じられない気持ちで尋ねる。
 いつの日からか姿の見えなくなった祖母は、もう亡くなったのだと思っていた。それなのに、ドナルドは目の前の女性を祖母の名で呼び、彼女もまたドナルドに対してそういう立場の人間であるように対峙している。

 リュネットの疑問に、そうよ、と目の前の黒衣の女性は微笑んだ。
 頷かれてもまだ信じられない。彼女はどう見てもリュネットより少し年上くらいにしか見えなくて、とても自分の祖母だとは思えなかった。
 服装が若作りで、無理をした外見をしているわけでもない。皺を隠す為の化粧が派手なわけでもない。それなのに、本来六十も間際である筈の祖母は、三十そこそこくらいにしか見えなかった。

 リュネットの困惑に気づいたのか、ジュヌヴィエーヴは少し悲しそうに微笑んだ。

「警戒しなくてもいい。化け物じみた若々しさで驚いたと思うけど、この方は本当にきみのお祖母様だよ」

 見慣れない金髪の男性がジュヌヴィエーヴの隣に立ち、そう言って寄越す。
 その彼のこともリュネットはわからなかった。再び困惑して見つめ返すと、彼は苦笑する。

「初めまして、リュネット。わたしはアリスティド・モンクレーヌ。きみのお祖母様とわたしの祖父が兄妹なんだ」

 きみの親戚だよ、と微笑むその顔に、リュネットは涙が込み上げそうになる。
 初めて彼を目にしたとき、一度も見た覚えのない顔なのに、なにかよくわからないが懐かしさのようなものを感じた。その感情の正体が、彼の声を聞いてはっきりとわかる。
 アリスティドは亡くなった父に似ているのだ。
 祖母と自分の姿のように瓜二つというわけではなく、何処となく面影が重なるような、そんな淡さだったが、記憶の中におぼろげになっていたフェリクスの姿が、彼の中に重なって見えた。

「お客さん」

 リュネットが涙ぐんでアリスティドを見つめ返したとき、辻馬車の御者が少し苛ついたように声をかけてきた。

「乗るの? 乗らないの?」

 往来のそれなりにある場所で長時間留まっていると迷惑になる。しかもここはロンドン警視庁スコットランド・ヤードの目の前なので、警察から注意を受けたりしたら面倒だし、今後の営業にも支障を来す。
 不満げな声で問いかけられ、ドナルドがハッとする。

「来い!」

 意識が祖母達の方に向いていたリュネットは腕を強く引かれ、驚く間もなく辻馬車の中に連れ込まれそうになる。それを手伝うようにハウスも扉を開け、リュネットのことを押し上げようとした。
 リュネットは辛うじて悲鳴を上げた。その声に往来の人々は振り返り、不機嫌そうにしていた御者もギョッとしたような顔になった。

「ちょっ、お客さん! まさか人攫……」

「わたしの娘だ!」

 犯罪に加担するのはごめんだ、と御者は眉を吊り上げる。しかしドナルドは血走った目つきで否定し、リュネットを強引に辻馬車の座席へと押し込んだ。

「お止め! ドナルド・スターウェル!」

 ドナルドと御者とのやり取りの合間にジュヌヴィエーヴの怒りに満ちた声が響く。その声に呼応して、バーネットとアリスティドがリュネットを助け出そうと走り出した。
 渾身の力を振り絞って逃げ出そうとするリュネットをハウスが脇から抑えつけ、ドナルドがバタつく脚を持ち上げて押し込む。その様子は人攫い以外の何物にも見えず、往来の人々は足を止めてざわめきながら集まって来た。

「いや! 離して!」

 面白いことに、人間というのは追い詰められれば思わぬ力が出るようで、先程まではドナルドの力にまったく敵わなかったリュネットだったが、今回ばかりは抵抗がその効果を発揮した。
 弱っている筈のリュネットが暴れ続けるのでなかなか扉を閉めるまでに至らず、四苦八苦しているところにバーネット達が駆けつけ、二人を辻馬車から引き離すことに成功した。

「クソッ! 離せ! 離さんか、無礼者!」

 自分を羽交い絞めにしたバーネットを怒鳴りつけ、ドナルドは拳を振り上げる。すかさずそれを避けて腕に力を込めて拘束する力を強めると、身動きの取れなくなったドナルドは悔しげに吠えた。
 ハウスも同じように拳を振り、アリスティドが怯んだところを素早く手首を掴んで投げ飛ばす。さすが現役警察官だけあって、ドナルドより身のこなしが軽い。

「そこまでだ、ジョン・ハウス!」

 天下のロンドン警視庁の目の前だというのに乱闘へと発展しかけたそこへ、入口のところで市民からの通報を受けたメイヤーズ警部の声が響いた。
 メイヤーズの後ろには制服を着た警官達も従っていて、彼等は野次馬の人垣を掻き分け、辻馬車の許へと駆け寄る。

「なんだ、メイヤーズ……」

 舌打ちをしてハウスは同僚の姿を睨みつけるが、相手はなにも感じなかったようで、溜め息交じりに睨み返された。

「ハウス……あんたに、とある貴族の令嬢の誘拐疑惑がかかっている。話を聞かせてもらえるよな?」

 その言葉にハウスは瞠目する。

「なに? ふざけたことをぬかすな!」

「ふざけてなんかねぇよ。あと、もちろんこの騒ぎのことも」

 歯を剥くハウスに向かって吐き捨てるように告げると、部下に指示し、しっかりと彼を拘束させる。

「メイヤーズ! 貴様、こんなことして、なに考えてやがる!」

 後ろ手に腕を掴まれて動きを封じられたハウスだが、必死に身を捩って振りほどこうとする。こんな仕打ちをしでかした同僚を怒鳴りつけるが、彼は不愉快そうな顔で呆れたような目を向けた。

「俺ぁ悲しいよ、ハウス警部……まさか同僚をしょっ引かなきゃならん日が来るなんてな」

 溜め息交じりに零しながら、同じく拘束されたドナルドへ目を向ける。

「ノースフィールド伯爵ですね? あなたにもお聞きしたいことが山ほどありますんで、ちょっくらご一緒して頂きましょうか」

 ドナルドは怒りに顔を真っ赤にして、目の前の警部を睨みつける。

「この無礼者! わたしを誰だと思っている!? 伯爵位を戴く者と知っての狼藉だろうな!」

 そんな怒鳴り声に、はいはい、とメイヤーズは頷いた。

「伯爵様でも公爵様でもね、法を犯しちまった者は、法で罰せられるもんなんですよ。ま、悪いようにはしませんから、ちょっと取調室までご同行ください」

 尚も怒鳴り続けるドナルドの様子を、バーネットに助け起こされたリュネットは茫然と見つめた。

「レディ・リュネット、大丈夫ですか?」

 暴れた所為で息が上がり、真っ青になっているリュネットに声をかける。彼女はゆっくりと振り向き、バーネットの心配そうな顔を見た。

「……バーネットさん?」

「はい、そうです。お怪我はありませんか?」

 ぼんやりしたリュネットの声にバーネットは頷く。
 一気にいろいろあったことへの困惑と、力づくで連れ込まれそうになった恐怖と、そこから解放された安堵に放心しているのだろう。見知ったバーネットの姿を見つめて混乱を治めようとしている様子が見えた。

「遅くなって申し訳ありませんでした。さぞおつらかったことでしょう」

 バーネットはもう一度頭を下げる。
 ええ、とリュネットは頷いた。それから、ぼんやりと視線を彷徨わせた。
 なにかを捜しているかのようなその仕種に、バーネットはハッとなる。慌ててあたりを見回し、野次馬達を掻き分けて進んで来る主人の姿を見つけた。

「レディ・リュネット、お気を確かに! 旦那様は――マシュー様は、あちらにおいでです!」

 冷え切ったリュネットの手を掴んで呼びかける。その声にリュネットは瞬いた。
 バーネットの示した先に視線を向けようとしていると、それよりも早く、会いたくて堪らなかった人の姿が現れた。

「リュネット!」

 駆け寄って来たマシューはしゃがみ込んでいるリュネットの目の前に辿り着くと、服が汚れるのも構わずにその場に膝を突いた。

「リュネット」

 マシューの両手がリュネットの頬へと伸びる。彼の手は相変わらずひんやりとしていたが、触れられても不快な気分にはならず、逆に歓喜に身体を震えさせた。
 マシューは確かめるようにリュネットの頬を撫で、そのすっかりと窶れてしまった顔を痛ましげに見つめ、両目を潤ませた。

「遅くなって、ごめん。きみをこんなにも酷い目に遭わせてしまった」

 リュネットは謝るマシューを静かに見つめ返す。
 マシューの深緑色の瞳は、感情が昂ると金色の虹彩を帯びるのに、今の彼の瞳は暗く沈み込んでいる。その色が残念だ、と感じたとき、リュネットの両目から涙が零れ落ちた。

「――…マシュー……?」

 悲鳴を上げた所為で痛む喉から、僅かに掠れた声が零れる。
 うん、とマシューは頷いた。

「僕だよ、リュヌ」

 震える指先がゆっくりと持ち上がってマシューの頬に触れ、その存在を確かめるように輪郭を辿る。その手をマシューは強く掴んで頬を擦り寄せ、唇を寄せた。

「マシュー……!」

 それ以上は言葉にならなかった。
 リュネットはマシューの首筋に腕を伸ばし、倒れ込むように彼の胸に縋った。マシューはそんなリュネットの背中をしっかりと抱き寄せ、骨の硬さを感じられるほどに痩せ細った身体に驚愕する。

 連れ込まれそうになっていたリュネットの姿を見ていた野次馬達は、彼女が無事に救出され、愛しい者の手に戻れたのだと気づき、そんな二人の姿に祝福の意味を込めて誰からともなく拍手を送った。
 その拍手の音があたりに伝わって段々と大きくなってきた頃、マシューは腕の中でリュネットの力が抜けるのを感じた。驚いて様子を窺うと、積み重なった疲労からなのか、安堵からなのか、リュネットは意識を手放してしまっているようだった。
 早く屋敷に連れ帰ってやらねば、と立ち上がろうとしたところで、辻馬車の御者と目が合った。彼は驚いたように身を竦め、自分はドナルド達とは無関係である、と早口の下町訛りコックニーで捲し立てる。
 そんなことはわかっている。マシューは溜め息を零し、リュネットを抱えて立ち上がった。

「ケンジントンのカートランド邸までやってくれるか?」

「は、はい! もちろんです!」

 御者は背筋を正して扉を開け直した。
 乗り込みしな、数日振りに帰国した従者を振り返る。

「ご苦労だったな、バーネット。よくやってくれた」

「いいえ。予定よりも時間がかかり、申し訳ございませんでした」

「なにを言っている。詳しくは屋敷で聞くから、お前はギリンガム卿と合流して戻って来い」

 言いながら視線を後ろに向ける。チャールズは捕り物を終えたメイヤーズと話しているようだった。
 バーネットが頷くのを見届けてから、座り込んだアリスティドと、怪我をした彼の様子を見ているジュヌヴィエーヴへと目を向ける。

「レディ・ノースフィールド」

 マシューが呼ぶとジュヌヴィエーヴは顔を上げ、それから微かに笑みを浮かべた。

「懐かしい呼び名ですこと……。あなたがカートランド侯爵でいらっしゃいますね?」

 腕の中で眠る少女とそっくりな顔の女性に頷きを返し、

「不都合がなければ、このまま我が家へお越しください。積もる話もありましょう」

 同行するように要請した。ジュヌヴィエーヴは一瞬困ったようにアリスティドを見つめたが、彼は切れた唇をハンカチで押さえながら首を振った。

「わたしには構わず、リュネットについていてあげてください」

「でも……」

「大丈夫ですよ、大叔母様。これから警察で事情を聞かれるでしょうし、医者も呼んでもらいます」

 安心させるようににっこりと笑うが、切れた唇が痛んだらしく、すぐに顔を顰めた。

「わたしがお付きしております」

 心配そうにしているジュヌヴィエーヴに向かい、バーネットが礼儀正しく膝を突いた。
 数日間の旅路を共に過ごして信頼関係が築けているのか、ジュヌヴィエーヴはバーネットの言葉にすぐに頷き、さっきの騒ぎの折に路面に放り捨てられていた自分の日傘を拾って立ち上がった。

「参りましょう、侯爵閣下」

 美しい貴婦人は背筋を正して見つめ返した。その姿に大きく頷き返す。
 御者は慌てて下に降り、リュネットを抱えて両手が塞がっているマシューの代わりに、ジュヌヴィエーヴに手を差し出す。明らかに慣れていないその仕種にふっと双眸を細め、そっと手を乗せながら「ありがとう」と囁いた。
 マシューも乗り込んだことを確認した御者は手早くドアを閉め、御者台に飛び乗って使い込んだ鞭を手にした。馬車が走り出すことに気づいた野次馬達はどよどよとざわめきながら進行方向を開け、見送るように再び拍手を巻き起こす。

 ゆっくりと走り出した車内で、ジュヌヴィエーヴはマシューに抱かれたまま眠っているリュネットを見つめ、双眸を潤ませた。

「こんなに青い顔をして……可哀想に……」

 その囁きにマシューもリュネットの顔を見下ろす。静かに瞼を下ろしている顔は見慣れた愛らしいものと違い、血の気が引いて紙のように白く、ふっくらと薔薇色の唇も色を失っている。
 元々細く痩せていたが、ここまで骨っぽくはなかった。すっかり細くなった手首に触れながら、マシューは僅かに唇を噛む。

 この十日ほどの間に、リュネットはいったいどんな目に遭って来たのだろう。そのことを思うと悲しく悔しい気持ちでいっぱいになり、リュネットに対して申し訳なくなる。
 リュネットが逮捕された日、あの場に自分がいれば、今とは少しは違う結果になっていただろうか――そんなことばかりが去来する日々だった。
 結果は変わっていたとは思えない。けれど、もう少し違うものだったかも知れない。

 ジョセフに利用され、マシューを呼び出したヘンリーのことを、恨む気持ちはないと言ったら嘘になるかも知れないが、仕方がないことだと言い聞かせてきた。彼は学友の相談に乗り、親切心から協力しただけなのだから。
 けれど、マシューにはどうしても、リュネットがこうなってしまったことの一端は、ヘンリーにあるように思えて仕方がない。だからメグも腹を立てて、何度も頭を下げに来ている夫を無視し、タウンハウスに留まっている。

「カートランド侯爵」

 思いつめた表情で孫娘のことを見つめている青年に、ジュヌヴィエーヴはそっと声をかける。マシューはハッとして顔を上げた。

「あ……すみません。考え込んでしまって」

「構いませんのよ。それより、お礼をさせてくださいませ」

 そう告げるとジュヌヴィエーヴは、マシューが恐縮してしまうほど深々と頭を下げた。

「私の大切な孫娘を助けてくださって、ありがとうございます。そして、遠く異国の地まで、孫の不遇をわざわざ報せに来てくださり、本当にありがとうございました」

 ジュヌヴィエーヴはずっと最愛の息子が亡くなったことを知らなかった。家督や屋敷を相続したドナルドが上手く誤魔化していた為だったが、それでも、その違和感に気づけなかった自分に腹が立った。

 異変に気づいたのは、三年ほど前のことだ。

 最後に会った頃から連絡の頻度が減ってきていることには気づいていたが、三年前、とうとう手紙の返事が来なくなった。
 息子の身になにかあったのかも知れない――そう気づいたジュヌヴィエーヴはすぐにも英国イングランドに渡りたいところだったが、その頃運悪く大病をしていて、快癒するまでに半年を要した。
 それからしばらくは安静にして用心しなければならず、仕方なく人を使っていろいろ調べてもらった結果、最愛の夫との思い出が詰まった屋敷が売りに出され、そこには見知らぬ他人が住んでいるという事実を知らされた。
 そのとき、愛する息子とその妻が何年も前に亡くなったことを知り、可愛い孫娘の行方もよくわからなくなっていることを知った。ジュヌヴィエーヴは絶望した。

 リュネットの青白い寝顔を見つめながら、悲しげに微笑む。

「情けないお祖母様でごめんなさいね、リュネット……」

 その悔恨に満ちた声音にかける言葉が思い浮かばず、マシューは押し黙った。



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